と言う感じで、いつにも増して仰々しくタイトルを飾ってはみたが、この道路については既に別の媒体で発表している。
2012年11月に刊行された「廃道をゆく4」がそれである。
しかし誌面の都合上、どうしても短くまとめねばならなかったから、私としても生涯で十指に入るであろう愛すべき廃道「塩那道路」で再び過ごした時間について語り尽くせなかった部分があることや、何より塩那道路のレポート本編を2005年に公開してから現在に至るまで、皆さまから再訪についての要望が多く寄せられている。
その中でも特に多いのが、第7回に少しだけ登場する「工事用道路」を解明してほしいというものであった。
「廃道をゆく4」で紹介した後でもそのようなコメントは多かったので、2011年に行った塩那道路工事用道路の探索の模様を今回改めてレポートにまとめることにした。
あなたはこの編で、時を経た工事用道路というものの現実を痛いほど思い知るだろう。 デュフフフフ…
まずは塩那道路についての簡単な復習だ。
塩那道路は、昭和39(1964)年に栃木県が建設計画を発表した、塩原温泉と那須高原を結ぶ全長約51kmに及ぶ山岳観光道路である。
標高1700mを越す稜線を走る文字通りの「塩那スカイライン」だが、沿道集落は無論のこと、途中で接続する既存道路も皆無という、極めて困難な工事条件であったことから、栃木県は自衛隊に工事を委託し、昭和46(1971)年には全線にわたるパイロット道路(完成形のベースとなる道路)が完成した。
だがその後の本格的な整備は、有料道路としての採算への疑問や、県の財政悪化、環境問題などから停滞。
工事中を理由に大部分の区間を一般車通行止めとした状態のまま、県道266号に指定して最低限の維持補修を続けてきたが、平成16(2004)年に栃木県は遂に整備中止を決定し、廃止する大部分の区間の植生回復事業(廃道化工事)を今後20年程度かけて進める事が決まっている。
おそらく、実際に建設された単一の道としては日本最長の未成道である。
今回のレポートで取り上げる、“工事用道路ではないかと私が考えた道”は、右図の青線の位置にある。
この道をもし利用できれば、塩那道路の中でも標高の特に高い核心的なエリアに、塩那道路を利用するよりも遙かに短距離で近付く事が出来るはずだ。
そしてもし塩那道路がプロジェクトとして成功していた暁には、この道も支線として仲間に加わっていたのかも知れない。
とにかく、妄想がいろいろと捗る道だった。
前述した通り、塩那道路の途中に接続する既存道路は皆無だが(公的な登山道さえない)、私が初めて塩那道路の探索を仲間とともに行った平成17(2005)年頃の電子地形図(ウオッちず)には、“工事用道路ではないかと私が考えた道”が破線で描かれていた。
だが、その後の平成24年頃の更新によって破線の区間は削除されてしまい、さらに平成27年の現在では、塩那道路そのものがすっかり消されてしまっている。
これが、公式に廃道と決められた道の現実なのであろう。
道の消えた峠になぜか出現した「瓢箪(ひょうたん)峠」の注記が、なんとも痛々しい。
ところで、この探索が相当に困難なものになるだろうということは、地図を見た段階で予測出来ていた。
探索当時の最新の地形図からも既に消えている破線道に挑むのだから当たり前だが、それ以上に私を怖れさせたのは、その圧倒的な高低差であった。
スタート地点として設定した国道121号沿いの日光市横川の標高は約780mで、塩那道路(記念碑)は約1700mにある。標高差920m。
このうち“消えてしまった破線の道”が担うのは、標高1080m付近から上、つまり620mもの高低差を地図から完全抹消された道で上らねばならない。
この数字がどれほど大変なものであるかは、オブローダーのほかには、藪山登山をされる方にしか分からないかもしれない。
そして、そんな大変さを覚悟して挑んだ道の正体は、ぜひとも「塩那道路と関わりがある道」であってほしかった。
そう願うのは、オブローダーとしては当然のことだろう。
私は別に、道無き山河を跋渉して、何でも良いから塩那道路に立ちたいというわけではないのだ。
あくまでも、塩那道路と関わりがある廃道を辿って、塩那道路をもっと深く探りたいのである。
そして読者諸兄にとっても、この“工事用道路ではないかと私が考えた道”の正体は、大いに興味のあるところだと思う。
人によっては、その現状以上に興味があるのではないだろうか?
探索のレポートと順序が逆になってしまうが、先に私が知り得た正体を明かしてしまおうと思う。
私は説明可能な根拠を持っていなかった探索前の時点から、なぜかこれを工事用道路と信じて疑っていなかったが…。
“工事用道路ではないかと私が考えた道”の、 本当の正体
ずばり正体は、塩那道路の工事用道路でした。
はい。以上。(笑)
経緯は次の通り。
私は2011年9月に探索を終えてしばらく経った翌2012年の夏頃に、県道266号(塩那道路)を管轄する栃木県の大田原土木事務所にメールで問い合わせたのである。「以前の地形図に描かれていたこの破線の道は、塩那道路の工事用道路でしたか?」と、単刀直入に。もちろんワルニャとかそういうことは書いていない。
お返事を頂けることは必ずしも期待していなかったが、1年の間に栃木県立図書館を訪れて新聞記事を含む塩那道路建設当時のいろいろの資料を漁っても、この道の正体についての成果が得られなかったが故のほとんど最後の手段であった。
そしたら、メールを送ったことも忘れつつあった10月終わり頃になって、とても丁寧なお返事を頂戴したのである。
以下、その最も重要な部分を転載する。
大田原土木事務所から送られてきた回答文(一部)
お問い合わせから本日までの確認結果ですが、横川地区は旧藤原町で日光土木事務所が工事を担当しておりました。
また、お問い合わせにありました「工事用道路」は、まさしく中間部付近の工事を行うための「工事用道路」で間違いないようです。
昭和39年から自衛隊がパイロット道路建設に着手し昭和46年10月に貫通しておりますが、その際に工事用道路として建設し、保全工事の際に資材搬入路として利用したようです。
その後、昭和50年に起点塩原側と終点板室側の優先区間を除き、改良工事が一時休止となり維持工事のみとなりました。
そして、昭和50年前半に工事用道路は植栽が施され森林管理署に返還されたようです。
標高差600mを一気に駆け上る工事用道路は、確かに実在したのである。
↑「栃木県土木史」に掲載されていた、塩那道路の工事風景写真。昭和46年撮影。
それでは私の探索の模様をご覧頂こう。
あの日2011年9月28日、快晴が予感された、暁の出発を。