2019/4/2 15:26 《現在地》
今回こういう目的で来ていなければ、間違いなく目的地として私の前に現われただろう“重い”隧道だ。
鳩打隧道にはそれだけの格式がある。格式とは第一に歴史が生み出すものである。
伊那史学会主幹原田島村氏の著作『島村文集「伊那の山河」』の記述によると、
隧道の着工は昭和19(1944)年で、同22年には完成したというから、戦時中の突貫工事である。
林道全体の開通は(記念碑にもあったとおり)34年だが、隧道を突破口として奥地へ延伸されたのだ。
当時の突貫工事の例に漏れず、工夫の多くは半島の人々で、工費10万円で全長305mを掘り抜いたという。
305mという長さは大したことがないと思われるかも知れないが、戦前の道路トンネルとしては相当長い部類である。
前出書も、「林道としてはおそらく日本一のもので
」というふうに稀な長さを誇っている。
坑口へ近づいていくと、真っ先に目に飛び込んできたのは、見慣れない赤い鉄扉だ。
坑口全体を完全に塞ぐ大きさがあり、今は解放されているが、封鎖されれば完全に通行不能だ。
通行止め用のゲートとしては過剰に厳重とも思える、この鉄扉の正体が気になるところだが、
「冬期は漏水が氷柱になり交通難になるところから北側の入口へ鉄扉を設け、冬期間は一々閉めることにしている。
」
というふうに、「伊那の山河」が納得のいく理由を教えてくれた。冷たい外気で漏水が冷やされることで、
氷柱が発生するのを防いでいるのだという。だから、通行する度に一々開け閉めするルールであったと。
道路法の外の林道ということで、一般道路とは違った構造物も稀にあるが、これもその一つといえるだろう。
この林道の特殊構造物といえる、坑口を塞ぐ鉄扉の近景。
その目的を表わすように、風を完全に防ぐ密閉構造であり、封鎖時でも施錠されている形跡はなく、閂で閉じているだけらしい。
また、巨大な扉の中に小さな通用扉が別にあり、歩行者は通用扉を出入りする構造になっていた。大扉の方はさすがに重く、洞風に逆らって開け閉めすることは、一人では難しいだろう。
「伊那の山河」には、北口に扉が設置されたとあったが、今いるここは南口である。北口へは、これからの“探索”が終われば辿り着くことになると思う。
鳩打隧道、伊賀良側坑口。
いかにも林業用トラックの形に合わせたような縦長断面の一車線トンネルで、サイズについては高さ3.0mと幅2.3mの二つの規制標識で伺えるだろう。
絶対に対向車とのすれ違いが出来ないサイズなので進入には本来気を遣うべきだろうが、完全に直線のトンネルなので300m先の小さな出口までよく見通せる。
坑門には後述する扁額の他に、意匠的な要素は見られない。
とても分厚いアーチ環が白く目立っていて目を引くものの、意匠というよりは、内壁の構造そのものだろう。
ここから見る限り、洞内も素掘りではなくちゃんと巻き立てられているようだし、砂地の山で地質の良くないことが想定されるだけに、この巻き立ての分厚さも必要に応じたものだと思う。
さらによく見ると、この坑口には最近の大規模改修の痕跡がしっかり残っていることに気付いた。
半アーチ形のプレキャストコンクリートを左右に組み合わせて、本来のアーチ環の内側に厚さ10cm程度の巻き増しが行なわれていた。
これが、数年前に私がどこかで耳にした、「鳩打隧道が老朽化のため通行止めになった」というニュースの対策工事の痕跡だろう。簡単な補修ではなく、かなり手が込んでいる。
国道でも県道でもない、飯田市が管理する一林道のトンネルだが、後生に残されるべきものという政策的コンセンサスが得られた結果なのだろう。
廃隧道は愉しいけど、この老体の頼もしく復活した姿は、喜ばしい。
レポート公開後、読者さまコメントによるご指摘により、恐ろしい事実が発覚した。
私が、完成当時のアーチ環だと思っていた“白い分厚いアーチ環”は、完成当時のものではなく、ここも後年の巻き増しによるものだった。
戦前のトンネルということで、この奇妙なほど分厚いアーチ環も、不良地盤に対する当初からの備えと考えていたが、昭和50年代に撮影された右写真だと明らかに今より断面が大きく、白いアーチ環が存在しない! 「ホームページ★峠と旅★」の平成15年のレポートでも同様で、プレキャスト部分だけでなく、この分厚いアーチ環も、数年前の補修工事によるものだと判断できるのである。
しかし、これほど分厚い巻き増しを要するというのは、尋常ではない!
補修というよりも改築というべきレベルの大改造工事であり、この改修のために平成15年当時にはなかった高さと幅のダブル規制が加わることになったようだ。
まさに道路としての身を削り、狭い隧道に落ちぶれることを受け入れながら、どうにか廃止という最悪の事態は回避したという、過酷な不良地盤に穿たれた老隧道の必死さを感じる。
しかし、なぜプレキャストコンクリートとコンクリートアーチの二層構造のような補修になっているのだろう。
調べていくと、このようにプレキャストコンクリートを用いたトンネル補強をPCL(プレキャストコンクリートライニング)工法というらしく、これを推進するPCL協会のサイトを見つけた。
さらに、同サイトの施工事例紹介に鳩打トンネルが掲載されていることを発見した。
記事によると、従来の内壁の内側にプレキャストを構築し、内壁とプレキャストの間隙を気泡コンクリートで充填し巻き厚を拡大する補強工事が行なわれたことが分かった。
最近のトンネルの工法については私も大いに知識不足だが、古いトンネルの補強を主目的としたこうした工法が研究される時代が来ており、既に多くのトンネルで採用されているのだ。
ついでに、このような補修工事のきっかけとなった、鳩打隧道が一時期通行止めになっていた原因についても改めて調べてみた。
私の記憶では、単に老朽化のために通行止めになっていた訳だが、地元紙「南信州新聞」の平成21(2009)年10月16日発信のネット記事「政権交代 改良工事見合わせの鳩打トンネル崩落」に、より深刻な内容がレポートされていた。
鳩打隧道は、この年の10月14日の朝、通行人によって、「トンネルが崩れていて通れない」と通報されたという。
崩壊の現場は、南口から220mの地点で、コンクリートで補強した天井(おそらく素掘りコンクリート吹付け)が破れて、おおよそ10mにわたってトンネル内を埋めていたという。幸い人的被害はなかった。
この隧道の崩落は初めてではなく、平成20年度にも南口から50mほど入ったところで小規模な崩落があり、20mほどを改良したばかりであったとのことで、残りの未改良部分もこの21年度中に国庫補助を受けた改良工事に着工する予定だったという。
平成23(2011)年2月16日のネット記事「鳩打トンネルが1年4カ月ぶりに開通」が、前記した大規模な改修工事の完了と再開通を伝えている。
曰く、「鳩打トンネルの崩落から1年4カ月ぶりに開通した。16日の渓流釣り解禁を目前に控え、安心安全なトンネルによみがえった
」とのことで、一回り小さくなったが安全を手に入れた鳩打隧道の復活を歓迎していた。
無骨な坑門に文化を掲げる点睛の役割を果たしているのが、扁額だ。
隧道名を予め知っていなければ自信を持って読めるとはとても言えない、おそらくは流麗な、素人目の私には難解と見える四の題字は、右書きで、「鳩打隧道」である。
そしてよく目をこらすと、左の不自然な空きスペースに署名が刻まれていることに気付く。
この部分の解読は現地ではお手上げで、おそらく3文字、「●●書」とあるものとしか分からなかったが、「伊那の山河」によれば、これを揮毫したのは岐阜県出身の作家・翻訳家の森田草平であるという。したがって、この文字は「草平書」であるようだ。
彼がなぜこの山奥の隧道に揮毫を振ったのかという疑問の答えは、『笠松大平山四区山誌』という書物に出ていた。
曰く、森田草平は「当時伊賀良村に疎開していた
」とのことで納得に至ったが、これはこの隧道が戦時中に建設されていたことの証明ともいえる貴重な扁額であった。
(当時の人心に扁額を鑑賞する余力はなかったかも知れないが……)
いまは潜り抜けるつもりはないが、ちょっとだけ入ってみた。
雪を降らせている凍てつく冷気が、私を追い越して吹き込んでく。
ビュウビュウという音が聞こえてきそうだ。
照明は見当たらないが、実は内部にはあるらしい。しかし、電源を太陽光発電に頼っているために、夜間や天候によって点灯しないということが、外の東屋の近くの案内板に書いてあった。
真っ暗な洞内は、300mという距離以上に長く見えた。
天井に目を向けると、内壁はまだ新しいトンネルの色合いだ。
左右のプレキャストが咬合したギザギザ模様が妙にSFチックで、隙間から漏れ出したセメントミルクは、隠された旧壁面の苦しい吐息の現れか。
あらゆる壁は零度以下に冷やされているようで、僅かな漏水がガチガチに凍り付いていた。
冬は扉を閉めないと、この氷柱が成長して通行難に至らしめるらしい。
ここまで見届けて、南口へ引き返した。
15:30 《現在地》
これから私は、鳩打峠を目指す。
鳩打隧道の直上約60〜70mの高さにある鞍部が峠だ。
その峠の近くに短命に終わった先代の隧道があったらしいので、それを探しに行く。
捜索範囲はそれほど広くないと思うが、闇雲に探すのはさすがに無謀と思う。
目指す隧道に通じていた道があるはずなので、それを手繰るのが良いだろう。
どこかに、登り口は……。
あった。 話が早くて助かる。
「高鳥屋山登山口 信濃路自然歩道 梨野峠方面入口」 と書かれた登り口があった。
見るからに登山道の入口だし、「鳩打峠」ではなく「梨野峠」という見慣れない行き先だったが、地図を見ると、
書かれた地名からおおよそこの登山道のやりたいことが分かったので、身を委ねることにした。
この登山道(信濃路自然歩道)、地形図に描かれていないものの、《地図》のように
稜線を縦走して清内路に至るようで、まずは鳩打峠を極めてから縦走へ転じると推測された。
この鳩打峠への登路が本来の峠道と重なっているかは不明だが、
他に手掛かりがないので、ここから登ってみることにしよう!
15:31 《現在地》
信濃路自然歩道の標識に従って、東屋の前から入山する。
自転車は役に立たなそうなので、置いていくことにした。
果たして、初代隧道は鳩打峠のどこにあるのか。
現トンネルの隣やすぐ上といった見つかりやすい場所でないことは予想できる。もしそうであれば、誰かが見つけて報告しているだろうから。
初代隧道の位置に関して与えられた情報は、「大正の初め頃、峠より50mほど下ったところにトンネルをあけた事があった
「伊那 昭和59年10月号」より」の一文だけだ。
この「50m」という数字は、峠の高低差のことではないと思う。なぜなら、上記文の直前で現トンネルの位置を「峠から200mほど下ったところ
」としているのである。現トンネルと峠の比高はせいぜい6〜70mだから、初代隧道の位置を示す「50m」も峠との比高ではなく、峠との道のりの距離だと思う。厳密には、峠のどちら側に50m離れたところなのかも重要だが、それに関する情報はないので、両側を探す必要があるだろう。
急坂だ。
登山道らしい道だ。
……なんか、嫌な予感がしている……。
道が荒れているというわけではなく、多少残雪があっても不安なく歩けるくらい鮮明なのだが、このような勾配で峠を目指す道に、隧道を掘る意思と意味があるだろうか?――ということを考えると、この道で峠を目指すことが隧道発見に結びつくのか、早速にして不安な気持ちが膨らんできた。
というか、この登山道もそこまでマイナーというわけではないだろうから、脇にぽっかり廃隧道が口を開けていたら、やはり誰かが見つけて報告しそうでもある。
悩ましいぞ。
勾配はキツいが、昔からよく踏まれてきた道っぽい。
最近切り開かれた単なる登山道ではなさそう。
道は峠直下の茂都計川源頭斜面、谷左岸の小尾根に絡みながら上手く登っていく。
少し前まで左手下方には現トンネルへ通じる切り通しが見下ろされたが、地中へ見送って独りになった。
前方に電光形の切り返しが見えてきた。
この辺りの道は浅い掘り割りになっていて、踏まれ続けた長い年月を伺わせた。
おそらくこの登山道は、《旧地形図》に描かれてきた鳩打峠の古道なのだろう。
であるならば、この道を一次的に改良したのが“初代隧道”だろうというわけで、どこかでは繋がっていたはずだと思える。
悪くはない兆候だ。
午後の淡い日差しに照らされた信州の峠道。
いまは峠下の僅かな部分だけがこうして登山道として生き残っているが、かつてはこんな道が
麓の集落を外れたところから伸びていたのだろうと思われる。背負子たちの通った道だ。
隧道探しの緊張感を一瞬だけ忘れられるような穏やかな景色に、少し立ち止まった。
しかし、次の切り返しのカーブ(★印)でも、
また立ち止まることになるとは、
この時は思っていなかった。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
15:42
登山道入口から150mほど進んだこの地点で、
斜面を横断する別の道と交差しているのではないかと感じた。
こうして線を書き加えないと画像から見分けるのは難しいと思われるくらい目立たないが、
私の目は、ここに別の道形を見て取った。
(画像をグリグリして、私の後方にも続いているのを見て欲しい)
GPSに表示されていた現在地はここだ。
入口から150mで40mほど高度を上げていて、峠の頂上まで残りの高さ30mを切っていると思う。
この高さで、いままで上ってきた道よりも幅のありそうな、そして勾配も緩やかそうな、
“車道っぽい”道形に出会った。
あれ…? こ れ、 もしかして……
やったか?!
若い植林地をトラバースする、峠直下の地図にはない道形。そこに私が期待したのは紛れもなく、初代隧道だ。
ここまでの急登路には、峠を切り下げる隧道の存在は、どう考えても似合わないと思っていた。
そこに来て、緩やかなること軌道のごとき道形との遭遇……。期待するなというのが無理な話。
だが待て、本当にこれは道形か。 道を求める私の幻想ではないか? ファクトチェックが必要だ。
背にした側を見ている。
この先に道形があれば、本物だと思う。
峠の隧道を目指すならばおそらく逆方向だが、正体を確かめるために、進んでみた。
後方に15mほど進むと、行く手の様子が変ってきた。
植林地が終わって、その向こうはかなりの急斜面のようだ。
しかし、ここまで15mを平坦に進めたことだけでも、ただの地形ではない気もするが…。
間違いないだろ! 道だ!
がしかし、笹藪が減って道形がはっきりしたと思ったその瞬間には、同時に行き止まりを見ていた。
何を言っているか分からないこともないと思うが、地図にするといういうこと。
何なのこの道。 いや、道だよね……?!
道だとしたら、まさか…… 未成道?
本当にここで行き止まりなのかを確かめるために、その先にも少し入ってみたが、手応えなし。
ここが規模の大きな崩壊跡地だとしたら、横断した先に平然と道形が再登場する可能性はゼロではないが、
直前の終わり方が、いかにもここまでしか作っていないと言わんばかりに見えたので、深入りは止めた。
それに、ここに未成道を疑うことは、決して突飛ではないと思う。
全ては、初代隧道の「3年ほどで崩壊
「伊那 昭和59年10月号」より」と、繋がっているとしたら……。
古道からアプローチして峠部分の隧道を先に完成させ、それから伊賀良へと緩やかに下る新道を建設しようと考えていたが、
その工事を始めた矢先に肝心の隧道が崩落してしまい、新道計画自体が中止された……というストーリーを想定することは可能だ。
であるならば!
この先には初代隧道が?!
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