道路レポート 鳩打峠の初代隧道捜索作戦 第3回

所在地 長野県飯田市
探索日 2019.04.02
公開日 2020.07.07

謎の道形は峠直下へ近づいていく気配を見せ


2019/4/2 15:47 《現在地》

『伊那』のバックナンバーに見つけた、たった数行の記述に始まった今回の探索だが、
今の地形図にも旧地形図にもない謎の平坦な道形と遭遇した瞬間から、
重大な成果を得られる期待度が、私の中で一気に高まった。

謎の道形の一方、峠から離れる方向は、おそらく行き止まりになっていたと判断し、
反対の峠へ向かう方向へ進むことにした。写真はその分岐地点……と思われる地点。
謎の道形は、ここからまっすぐ正面の笹藪へ入っていっていると考えた。

突入!




勇ましく突入したそこは腰丈の笹藪で、踏み跡はなかったが、周囲の地形と見較べれば、
幅2mほどの線状の平坦な土地が私の前後に続いていて、自然地形とは考えにくいと感じた。

実はもう、直前の分岐の時点で、峠頂上までの直線距離は100〜150mまで接近しており、
高低差も30mほどでしかなくなっていた。初代隧道がどのくらいの長さであったのかは分からないが、
分岐以降はいつ隧道が現われたとしても不思議ではない、ターゲットニアリーな領域だった。

それだけに、周囲の地形の機微に対しては、いかなる失われたものの
痕跡をも見失わないように、細心の意識を向けながらの歩行となった。



キツいな、これ。

植林地を出外れて、峠直下の谷筋に出ると、そこから先は猛烈な笹藪&ツタージャの巣だった。

道も、まだ伸びているのかどうか、正直、自信が持てない。
もしかしたら、植林地の範囲内だけで、終わってしまったのか?
だが、歯を食いしばれば進めないことはないので、進んでみよう。

ちなみに、この谷は鳩打隧道の坑口真上から峠に達するもので、茂都計川の源頭だ。
したがって、もし旧来の鳩打峠の直下に初代隧道があったなら、この谷が擬定地だ。
しかし……、この地面の状況で捜し物を地面に探すのは、ちょっとキツそう……。



ぐ〜ぬ〜!

マジかー。

なんでこうなるのよ〜。

いまは谷の奥、すなわち峠鞍部の直下へ接近していて、

この谷の突き当たりこそ、最大の隧道擬定地なのだが、

地表が騒がしくて、道どころではない状況だ!




15:52 《現在地》

ここは微妙に、凹んでいるな……。

位置的には、鞍部の直下にはまだ達しておらず、、その20mほど手前だ。
また、この20mほど上方を、先ほど分かれた登山道が横断しているはずだが、見えない。

ただ凹んだ地形というだけで坑口跡だと判断するのは、さすがに無理がある。
ましてここは谷の源頭部だから、地すべりや雨裂による凹地形があっても不思議はない。

一応、ここを“第1擬定地”と称することにしたが、“弱性”だ。
もし、他に疑わしい場所が見つからなければ再考すべき場所という程度だろう。
(ここに戻ってこなくて済むといいなぁ…)



Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

とにかく藪が鬱陶しくて、普通の写真では広く地形を捉えることが困難なので、全天球画像を使う。
この画像をグリグリすれば、ある程度は峠と道の位置関係などが伝わると思うが、それだけでなく、
私がここで、どれほど無力さを思い知らされながら藪を掻き分けていたかも、伝わって欲しいと思っている。

簡単に成果が得られることはないと達観していたつもりだが、直前に妙に盛り上がっただけに、
この峠直下の核心部で、強烈な藪により、道をほとんど見失ってしまった現状には、落胆が大きかった。
全て刈り払って裸にすることができるならば、などというのは無理な相談だろうしなぁ。

結局、今探している場所がどのくらい正解に近いのかも分からないし、
探すべき場所に辿り着いたとしても何かの痕跡がある保証もない。
何も見つけられず、ただ藪に敗北することは、覚悟しなければならない。
それでも、レポートの点数が低くなろうとも、この探索には価値があると信じて。



いつの間にか背丈を上回るほどになってきた屈強の笹藪の奥に、“第2擬定地”を見る。

背後の白い部分は稜線の空で、凹んだところが鳩打峠の頂上だと思う。
おそらく先に分かれた登山道は、あそこへ行っているはずだ。
私も、このまま藪を掻き分けて、峠へ立つことになろうと思う。

その行程が、この伊賀良側における最後の隧道捜索行為となろう。
見つからなくても、こちら側に拘りすぎるのは時間的に良くない。
隧道発見のチャンスは、2度あるはずだ。



あれ?



本当?

期待していいのかな?


後で落胆しない?





うわー!




足元に開口部!!!


大発見!! 初代鳩打隧道


15:54 《現在地》

やりおった!

これは本当に嬉しくて、下手したら国道153号沿いまで聞こえるのではないかと思うくらいの絶叫を上げてしまった。
マジ嬉しいんですけど!!

これは少し嫌みな言い方を許して欲しいが、ここ(鳩打峠)を訪れれば当然誰でも見つけられそうなものではなかったことも、喜びに拍車を掛けた。
峠に初代隧道があったということを知らなくて、それを探そうという意識が働いていなければ、【手前の分岐】に気付けなかった可能性があり、まして激藪と化したその先を徹底的に峠の下まで詰めようとは思わなかった可能性が高い。

根本としては情報の勝利であり、同時に、私の胆力と眼力の勝利であった。
峠に隧道があるという状況を数千箇所眺めてきた私の経験が活きた、いぶし銀の勝利だったと、布袋顔の自己評価に自惚れてしまった。

喜びの中で、成果物の収穫を開始する。
なんといっても発見の要は足元の開口部で、コンクリートで巻き立てられているだけに、隧道と即座に確信した。

だが、その直上5mほどの斜面上に一つの顕著な凹みがあるのはなんだろう。
実はこの斜面を最初に望見した時点では、あの凹みこそ開口部ではないかと期待した部分で、近づく過程で足元に突如開口部を見つけて驚いた次第。

この開口部上部にある顕著な凹みは、隧道の落盤によって生じた陥没地形と考えられる。
「地盤が軟弱だったことから、3年ほどで崩壊」してしまったという(唯一の)記録からも、洞内が無事の状態で残っている可能性は極めて低いと思っていたが、地表に陥没孔を作るほどとなると、ますます絶望的となった。




発見された“初代”鳩打隧道の伊賀良側坑口の位置はここ!

峠の鞍部のほぼ真下で、土被りは20m程度に過ぎないだろうが、それでも切り通しにするには深い。
現トンネルの長さは約300mだが、そこから60m高い位置に掘られた初代隧道の長さは、反対側の坑口の位置がまだ分からない時点での地図上の推測であるが、50〜100mの範囲だ。

当然と言えば当然だが、この隧道へ通じる道が古来の峠道(緑線)と別に存在していた形跡があり(赤線)、その道幅は約2mで、相当な緩勾配だった。
軌道跡だったと言われても信じられそうな勾配で、明らかに車道を指向しているだろう。
大正はじめごろに隧道が完成したといわれているので、道もその時期のものだろうし、だとすると自動車ではなく荷車を想定したか。

この道について気になるのは、峠道と交差したところの麓側で切れていたことだ。
この程度の勾配を維持したまま下りようとすると、現在の林道に辿り着くまででも相当の距離が必要になりそうだが、どこを通るつもりだったのか。
ただ、切れた末端部を見る限り、麓側は未成だった可能性が高いと考えている。



開口部より、来た道を振り返る。


……来た道なんてものは、見えない……。

だが、道はここになければならず、あったはず。 3年間だけ生きていた道が。




改めて、発見された坑口に目を向ける。

第一印象、

「よく見つけられたな。」

もともとかなり小さな断面の隧道だったようだが、現状で地表に露出しているのは、おそらく全高の4分の1程度のアーチ上部だけ。
それが周囲の笹藪に紛れ、本当に目立たない。3mも離れると全く見えなかった。

開口部の上部後方にある地形の凹みが、遠目に良い目印になってくれたのは幸運で、下からそこを真っ正面に目指して登ろうとした場合に、この開口部を見つけることが出来る。

幸運といえば、直前に降った僅かな雪も味方となった可能性がある。そのために笹の葉が少しだけ倒伏し視界が利きやすかったことや、積雪の差で斜面の勾配の変化が見えやすくなっていた。天の要素まで味方に付けて廃道探索を成功させるとか、さすがはオブ神に愛されし信者(自称)。



そして隧道は、コンクリート製の坑門工を有していた。

大正時代頃の小規模隧道といえば、坑口を含めて一切の覆工を用わない完全な素掘り隧道も珍しくはなかったが、地形図に一度も描かれたことがなく、県道以上の格を有したこともないという非常に地味なこの隧道が、コンクリートの坑門を有していた。

もっとも、場所打ちされたコンクリートの坑道の断面が、ただ地表に現われて断ち切られているだけという、少しも装飾的な要素を持たない本当に最小限度の構造と思える坑門だ。
そのため、坑門工には付き物である扁額も、それを設置するスペース自体が見当たらない。

坑門には、地域の入口となる隧道に箔を付けたいという設置需要も確実にあったが、この坑門は純粋に、崩壊から坑道を守りたいという意図だけがくみ取れた。
ようするに、建設にあたった人たちは、この土地の地質の良くないことを重々承知していたと思う。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

坑口前の全天球画像。

開口部に覆い被さる笹原に潜り込んで、苔生す無言の坑口と歓喜の対面を果たした。

コンクリートの巻き立てに質実な必死さを見て取れたことは好ましく感じたが、

残念ながら、外観から得られる情報は多くない。

内部探索を始めるとしよう。



15:58 ヘッドライトを点灯させると、尻セードで足から開口部をくぐった。

例によって、開口部が堆積土砂で最も狭く、中はいくらか広い様子が見て取れた。

なお、入洞の時点で風は感じなかった。





やはり、落盤していた…。

だが、間違いなく初代隧道の中にいる。

たった1号の『伊那』に “だけ” 数行の記述があった、幻の隧道内部に!

無事な隧道でないことは分かっていたので、あっただけでも感無量だ。




隧道は、内部もほとんど上半断面だけの姿であった。
高いところでも1.5mくらいしかないので立ち上がれず、洞床が柔らかな土に覆われていることからも、本来の洞床は深さ1mほど埋没していると考えられた。
幅は2.5mくらいであり、人道サイズよりは大きいが、牛馬や軽車両向けの小型隧道だ。

この小さな空間に、人が入り込んだのはいつ以来のことだろう。静かでフカフカで、獣の冬眠場所には良さそうだが、人や獣の遺物はなかった。
『伊那』昭和59(1984)年10月号に隧道のことが書かれた後に、少なくとも何人かは探しに来て見つけた人もあったと思うが、何かを残していくことはしなかった模様。

さらに目を引くのは壁の綺麗さだ。
唯一の記述が正しいならば、隧道は大正はじめ頃(大正1(1912)年〜7(1918)年?)に完成し、たった3年ほどで廃止されたとのことだから、既に廃止から100年ちかく経過しているわけだが、内壁はとても綺麗だった。
ひび一つない白さは100年を経過したものとは思えないほどだったが、経験上、条件さえ整えば、コンクリートはほとんど劣化せずこのくらいの時間を耐え得ることを知っている。

その条件の第一は、もともとのコンクリートが上等であることで、もし偶然の産物でないとすれば、熟練した技術によって造られたコンクリート隧道に見えた。
特に、あらゆる物資と技術者が欠乏した戦時中の隧道に見られるような、骨材の砂利が無様に露出した低質なコンクリートとは明らかに違っていた。(骨材が多すぎたり、攪拌が不十分だと、表面に骨材が露出したコンクリートが出来てしまう)



そもそもの話になるが、この隧道の天井アーチはコンクリートの場所打ち施工によっている。

隧道の巻き立てに石材や煉瓦やコンクリートブロックでなく、コンクリートの場所打ちが行なわれるようになったのは明治中頃からであり、さらに部位によって普及の時期に差があった。側壁よりもアーチ部分の場所打ちが遅く、大正期や遅い例では昭和戦前でもコンクリートブロックが用いられるケースがあった。
だが、大正初期の建造といわれるこの隧道の巻き立が、アーチも側壁も全て場所打ちなのである。

しかも、なぜかこの壁面には、実(さね)板と呼ばれるコンクリートを固める際の型枠の板を当てていた痕もない。
全然凹凸がない極めて精密な型枠を使わなければ、このようなつるつるの壁面は生まれないと思うのだが、どうやって作り出したか不思議である。

……と、このようなオーパーツ的なモノを目にしたときに疑うべきは、実はもっと新しいのではないかということだろう。

確かに、この隧道についても疑う余地はある。
なにせ、大正初期に完成し、それから3年ほどで廃止されたという、これらの数字を唱えているソースは一つしかない。。
もしこれが誤りならば、途端に情報皆無となるのだ。
実はもっと建設時期が遅かった可能性や、完成後に存続した期間がもう少し長くて、そこでコンクリートの巻き立てが追加された可能性を疑うことはできる。

しかし、昭和19(1944)年に2代目の鳩打隧道が着工しているという事実がある以上、初代隧道はどんなに新しくてもそれ以前の存在だ。
しかも、初代が2代目隧道の着工直前に中止になっていたなら、もう少し初代にも(話として)光が当たる機会があったと思えるし、やはり2代目よりはだいぶ古いモノ……、大正時代の隧道である可能性は高いものと思っている。



15:59 《現在地》

入洞1分後。早くも進むべき空洞は尽きた。
入洞の時点で見えていた閉塞壁の位置は、坑口から約5mにあり、これを地上に当てはめると、陥没地形の直下にこの落盤があると判断できた。

閉塞壁に露出した岩石は湿り気を帯びて密度を増した砂混じりの瓦礫で、とうてい人力で掘り返せるものではなかった。
先に林道上で目にした崩れやすそうな法面や、実際に2代目の隧道を閉塞させる落盤事故を引き起こしたのも、同じ岩質だと思われるが、本当に隧道には不向きなのだろう。
気になるのは、この隧道が廃止となった原因も落盤にあったと思われるが、その致命的な落盤はここなのかということ。
残念ながら、疑問の答えは不明である。

コンクリートの内壁は、無傷のようだった。
崩土に埋れる末端まで歪みやひびは見られず、おそらく綺麗に途切れている。
すなわち落盤は、覆工が途切れて素掘りになった位置で起きたのだと推測した。
最初から隧道全体を覆工していればこの閉塞を防げたかも知れないが、当時は全体を巻き立てた隧道は少数派で、崩れやすい坑口付近だけを巻き立てることは珍しくなかった。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

これが、伊賀良側に残されていた隧道内部の全てだ!!

全長を考えれば、この土砂の壁の向こう側にも相当量の空間が存在するとは思うが、

ここからは行けないので、峠の裏側で再び開口部を見つける可能性に懸けたい。

地上へ戻るぞ!