道路レポート 青函トンネル袰内工事用道路 後編

所在地 青森県中泊町〜外ヶ浜町
探索日 2014.11.11
公開日 2017.05.24

関係性の途絶した、どこか遠い場所にある橋。


2014/11/11 15:29 《現在地》

ショートカットルートを用いることで、目指す工事用道路橋へ下から接近する今回の作戦は、うまく実を結びそうだ。
そして地形図でも確かにそのように描かれているが、橋は連続して2本あった。
一つの沢を渡るのに2本の橋を架けた理由だが、ちょうどこの沢が二又になっているそのすぐ上で渡っているためだった。
それも直線の橋の組み合わせではなく、カーブゆるやか二した2本の橋で、工事用道路の無骨なイメージとは違っていた。

連続する2本の橋へ迫ろうとする私が採るべきルートは、三択だ。
右か中央か左かいずれかの斜面を登って、橋の袂へ辿り着きたい。
どれにするか悩んだが、地形的には右側から攻めるのが一番楽そうだったので、この写真の位置から向かって右の斜面に取り付いた。




斜面はかなり急だったが、手がかりとなる樹木が多く茂っているために、全身を使ってガシガシとよじ登るパワープレイが可能だった。
このような冬枯れの季節に訪れたことは、大正解だったと思う。
視線の高さに小枝が多く、盛夏期だったらジャングルだったかもしれない。
ただ、芯に生命を宿した小枝の反発により、何度も顔をバシバシと叩かれたのには、うんざりした。
これでもさっきの激藪廃道を素直に辿るよりは、だいぶマシだろうが……、トゲがないだけでも。

それにしても、なんだか木々の姿が異様だ。
どの木も枝張りがうねうねと踊るような姿をしている。そして、どの木もある程度より大きくなることはできないようだった。
全てはこの土地の環境が生み出した景観なのだろうが、“魔女の森”なんていうワードを連想した。




おおっ!

これは、良いものだ! 廃橋として、とてもシンプルに格好いい眺め!
それにいま初めて知ったのだが、工事用道路とは思えないほどに本格的な構造をしている! これには思わずにっこり。

袰内斜坑を発見した時点で、この道の正体を工事用道路と確信した私だったが、同時にほんの少しだけ、橋の訪問に対する期待感の下落があった。
それはなぜかといえば、工事用道路の橋なんてどうせ仮設橋だろうと思ったからだった。

皆様も工事現場でしばしば見ているのではないだろうか、【このような姿】の仮設橋を。
仮設橋といえば大抵は鋼鉄製の橋材を組み立てたものであり、いくつかのパターンに沿った似たような姿をしている。
そして工事が終われば撤去され、次の現場へ運ばれていく。

本橋の場合は、工事完了後も撤去されていないことに大きな特徴があるが、なるほど、これはよく見るような仮設橋ではなかったのだ。
外見的にはいたって普通のコンクリート桁橋のようだった。
これは嬉しい誤算であった。



辿り着いた〜!と喜んだものの、実はまだ微妙に、着いていなかった。

この展開は、誤算である。
それも今度は嬉しくない方の誤算だ。
何が起きたかは、見ての通りである。

え? 絵面が地味すぎて、よく分からない?!
登れないの!!
この地味過ぎる障害物に、してやられてるんだよ!
せっかく激藪になっている廃道を歩く距離を短くするためショートカットしたのに、路肩の擁壁が邪魔になって、すぐそこにある路面に登れないという事態。

まあ、どこかには登れる場所があるだろうということで、橋と反対側の方向へ擁壁に沿って歩くこと…………50mほど。
幸い、悲しくなるほどの遠回りはせずに、這い上れる場所を見つけられた。

……よっこらせっと。



……なんだこれ。 思ったほどの藪じゃないじゃないか!(半怒)

【こんな激藪(トゲ多め)】に嫌気がさして引き返した地点から、ここはまだ200mくらいしか離れていないが、だいぶ和らいでいた。どうやらあんなに酷い藪は長く続いていなかったようである。
これならばわざわざ引き返してショートカットするなどという小手先の技を使わずとも、黙々と突き進んでいた方がよほど早く着けたような気もするが、後の祭りである。
まあ、普段とは違うアプローチをしたことで【廃橋の橋台】を一つ発見し、壮大な廃橋に下から迫るというワクワクが得られたのだから、良しとしよう。

これ以上引き返して激藪の確定している領域へ近寄ることはせず、速やかに、お楽しみの核心へ向かうことにした。




15:38 《現在地》

青函トンネルは誰もが知っているのに、
この橋を知っている人はほとんどいない。

それが究極なる利他と献身の道、工事用道路といふものに生まれてしまった橋の宿命なのかもしれないだ。
徹頭徹尾で日常を相手にしない孤高の道に、私が稀にたどり着けるのは、いつだって置き去られた後ばかり。
そんな人の子だったらグレてしまいそうな境遇にありながらも、しかしこいつはとても綺麗で素直に廃橋をしている。
壊されずに壊れずに、ただ人の来ない時間を過ごしている穏やかな表情のように見えた。

私は袰内斜坑前から廃道を歩き始めたとき、あまりにも藪が濃いので、
これは廃止直後に客土を伴う植生回復工事をしたのかもしれないと思ったが、
少なくともこの橋の前にそうした工作が施された様子はない。橋の袂と橋上の路面が同じ高さになっている。



橋の上は、コンクリートの路盤がそのまま路面になっていた。別に珍しい構造というわけではないが、そのおかげで植物の侵入が遅れており、何十年も前のものと思われるタイヤ痕が消えずに残っていた。

果たしてこの橋の上を日々どれくらいの車が行き交っていたのだろう。
それを正確に知る術はないが、航空写真から多少は推測できるかも知れない。前回紹介した昭和51(1976)年の航空写真を見ると、工事用道路の全長1.2kmの区間内に3台のダンプカーと思われる車影が確認できた。仮に、工事用道路を同時に走行するダンプの平均台数を3台、平均の走行速度を時速36kmと想定すると、工事用道路上の任意地点を1時間に通り過ぎる台数は90台で、これは40秒に1台の頻度である。その辺の山にある国道より交通量が多そうだ。とまあ、これは大雑把な試考に過ぎないが、青函トンネルの37年間にも及ぶ工期中に行われた尋常ではない工事量を考えれば、どんな数字であっても驚くには値しないのかも知れない。

海風のせいか、あるいはそれとは無関係にただ時間が経ちすぎたせいか、路面に比してガードレールの痛みはだいぶ進んでいる。自然に脱落したと思われる場所もあった。



1本目の橋は長さ30m程度で終わり、2本目の橋との間に設けられた短い地上区間へ。

しかしこの地上部も両側が高い法面と高い擁壁でガチガチに固められているので、実質的には橋の上と変わらないし、道幅も同じだ。
工事用道路としての運用当時は、車のすれ違いは無線連絡などが使われていただろうから、一般道路のように見通しの悪い区間に待避所を設けたりはしなかったと思われる。

なお、ここの路肩と擁壁の間には大きな隙間が生じていた。
これはやばそうである。
そう遠くない将来、支えを失った擁壁が崩壊して谷底へ落ちてしまうかもしれない。
いまさらそれを憂う人もないだろうが……。

そして、1本目よりも少し長い2本目の橋へ。




1本目の橋と全く同じ作りに見えるが、微妙に橋上のアールがきつい。
工事用道路だからかは分からないが、一般道の橋ではあまり見ないくらいきついカーブである。
ただでさえ橋の上は路面凍結の危険地帯なのに、曲線と勾配と道幅の猶予の無さとのトリプルパンチで、現役時代の冬は気の抜けない場所であったろうと思う。
重量のあるダンプカーがひとたび操作不能となれば、こんな華奢なガードレールなど容易く突き破ってしまいそう。

なお、1本目の橋も2本目の橋も銘板や親柱といった装飾要素は一切持っていない。
この辺りはさすがに工事用道路らしい。これより遙かに小さな橋でも、一般道ならばまず無名のままにはしない。
とはいえ、工事用道路だって人の作り出したものに違いはない。関係者に使われる名前くらいは当然あっただろう。




工事用道路だから、一般道のように心や血が通わなかったわけでも、無味乾燥な存在だというわけでも、ないと思う。
ただ、部外者でしかない私との間には大きな関係性の途絶があった。それだけのこと。
何年間もこの橋を走り続けた人はどこかにいて、その人の記憶には鮮明に残っているはず。そんな風に思えるくらいには印象的な橋である。

探索者と探索対象の関係性の途絶を埋めたいと思うならば、探索者の側から歩み寄るより他にない。
こうして物理的に近づくことはもちろん、現役時代を想像したり、当時の情報を探したりすることで、近づくことができるのではないか。
工事用道路とは確かに気むずかしい存在であり、人を選ぶものかも知れないが、私は大好きだ。
少なくとも、皆にちゃんと愛されている出来上がったものよりは、独占できる分だけ、もっと好き。



ああっ(悲)。

渡り終えてしまった。

橋の上には、空き缶であるとかパンの空袋であるとかといった日常の延長のようなものは、全く見られなかった。
何十年か前に工事が終わり、その次の日から誰も通らなくなった。そんな現実をただ過ごしてきただけのように見えた。

もとより外部からの訪問者も、住んでいる人も極端に少ない、行き止まりの中の行き止まりである袰内の山の中に残る廃道は、
最新の地形図にも明確に描かれているのに――あるいはそうであるからこそなのか――誰にも着目されずいたのかも知れない。

ここは単純に廃橋として規模が大きく、姿形も見栄えがする。
私はその立地や背景も含めて、一発で惚れてしまった。
今回は偶然にかなり近い形で、なかなか良いものに出会えた。



さて、どうしようかなぁ…。

道はまだ続いているけれど、時間的にも、道の状況的にも、悩ましいトコ……。




工事用道路探索の日暮れと、その顛末


15:42 《現在地》

地形図に描かれた工事用道路の長さは約1.2kmあるが、現在地はその中間地点である袰内斜坑口から600mの位置である。

最大の見所と目される“連続橋”の探索を終え、日没まであと15分くらいである。
あとは本日の探索の締めくくりとして、気の向くまま、引き返したいと思うまでだけ、終点方向へ道を辿ってみることにした。
また嫌になるような激藪が現れたら、躊躇わず撤収しようと思う。

そう決めて歩き出したが、やっぱり藪は深めだ。
でも、トゲトゲがないので我慢できる。
それに、私が一度撤収した序盤戦に較べると標高が高いうえ、海に近づいているせいもあって、道の外の眺めが良くなってきた。
それが今の私の一番の楽しみ。



なかなか良い眺めだろう?

眼下に見えるは、ここへ来る途中に通った道。
中央の橋は【これ】で、橋の右側の道路対岸にはうっすらと軌道跡のラインも見える。

反対に、あの橋から今いる場所を見ると、【こんな風に】見える。
規模は小さいが、イメージとしては“かの塩那道路”を彷彿とさせる、孤高感のある眺め。
しかし下から見た限りでは、ここが廃道だと気づけなかった。
理由は、コンクリート吹付工が施された法面がとても綺麗だったから。
崩れたりひび割れたりしている様子は、少なくとも、遠くからは全く見えなかったのである。

この辺りは道幅が広く、すれ違いのために拡幅されていたのだろう。
路肩はコンクリートの擁壁になっていて、大型車が端に寄っても大丈夫そうだが、転落防止の柵や駒止はなく、そこは工事用道路らしい(ガードレールが設置されている場所もある)。



ずっと袰内川の下流へ向かって進んできたことから予想はできたが、次に見えてきたものは海だった。

おそらく何十年もまともに使われていない、獣道さえ見当たらない枯草道の先に、淡色だけで描かれた海と空とが優雅に納まっていた。
工事用道路という喧噪のためだけに生まれた道が過ごす、とても長くて静かな時間。これは余生なのか、死後なのか。構造物としては前者だが、存在としては後者であろう。
この時間になって少し海風が出てきたようで、季節の割には温かだった今日の空気が、ひんやりと冷めてきたのを感じる。

いつも思うが、一日の最後に見る海はとてもいい! 
特に今日は後半の半日以上を海の見える場所で過ごしていたせいで、より感情がこもっていた。
この色の淡さは、決して派手ではなかった今日の探索の終焉にふさわしい、そんな幕切れだと思った。




…のであったが、

最後に思いがけないサプライズが待っていた。




サプライズが、橋やトンネルでなくてゴメンねみんな。

でも、こういうのだって探索者にとっては印象深いサプライズなのだ。

今日は雨こそ降らなかったが、昼前からほぼ雲に隠れたままであった太陽が、

西の水平線へ堕ちる最後の間際になって、突然この場所を照らし始めたことが、サプライズの原因。



この瞬間に起きた私の周りの景色の変化は、本当に驚くべきものだった。

一面の枯れ色だったススキの路盤が、能面のように白かったコンクリートの法面が、

私のいる周りだけが、この廃道だけが、

赤々と燃え盛った!



15:50 《現在地》

このタイミングでこの場所を訪れなければ、この眺めは体験できない。
当然ながら、それだけに尊い眺めであった。私は息を呑んで世界の変化を見た。

もしかしたら、これほどに夕日が鮮やかになる、何か通常ではない理由があったのかもしれないが、それは私には分からない。
ただただ、これまでの人生では見たことがないと思うくらいに、世界が一瞬で赤く染まったことだけを知っている。
たった30秒前の世界は、どこか別の次元に切り離されてしまった。そう思えるほどに劇的な変化だった。


この強烈な夕日の照射は、私の周りの限られた範囲で起きていた現象だった。

そしてその光の範囲に、眼下の袰内の河口や集落が含まれた時間があった。この写真はその短い間に撮影した。



この道が一番に美しく見える瞬間に、私は立ち会えたのではないかと思う。
そしてこの眺めは、今回一度限りで、過去になかったというような性質のものではない。
オブローダーである私は、そのことに無上の価値と喜びを感じた。

この道が現役であった時代にも、この季節、この時間、このような天候の日に、この道で働いた人たちが大勢いたはず。
そして、私と同じような夕日に出会い、私と同じように頬を緩めた人たちが、いたはずだ。
私はそんな誰かと、この道の秘めたる美点について共感したのである。語り合える経験を持ったのである。
身近さを感じさせないこの道の珍しい“生きた体験”に、少しだけ近づけたように思えた。

なお、ここに来て道の行く先に関わる新たな眺めが現れた。
前方の山の端に見え隠れするのは、巨大な風車の回転する羽根だった。
手元の地形図を確認すると、それはまさに当初の私が、この道を自転車同伴で突破し辿り着こうとしていた「ウィンドパーク」近くの山頂に立つ風車らしかった。
しかし現実の私は自転車を持ち込むことに失敗した。そのため、あそこまで行く理由はとうに失せている。



この場所への夕日の照射を、より赤々と燃えさせる原因の一つになっている、普段は白いスクリーンのようなコンクリート吹付けの法面。

遠目には確かに綺麗で故障はなさそうだったが、間近に見るとその限りではなかった。
でも、こうしたひび割れはまだまだ全体の中では僅かだ。
強烈な海風(とうぜん潮混じり)に晒される環境であることを思えば、ものすごい耐久性だと思う。
たぶん、とても丁寧な工事が行われたのであろう。


そう、丁寧である。

工事用道路として生まれ、そしてそのまま役目を終えたらしき道だが、えらく丁寧な作りだ。

仮設橋ではなく永久橋として施工された、立派な橋。
切り取りの法面全体を隙間なく覆う、潮風に耐えるコンクリートの吹き付け。
そして、ほぼ全ての路肩に施工された、しっかりしたコンクリートの擁壁などなど。
どれも、私がこれまで目にしてきた“工事用道路”より上等そうだ。
路面が舗装されていないことと、待避所やガードレールの少なさは欠点といえるが、これよりも駄目な県道なんていくらでもある。




宝石のような太陽ショーは見とれている間だけでも刻一刻と変化し続け、1日の間で最も寂しく、同時に最も慌ただしくもある数瞬を演出した。
もちろんこの変化の方向性は一定で、全体を赤黒い終焉の方向へと導いた。
そしてそれは半ば呆けていた私に、本来この状況なら感じているべき焦りを、思い出させた。
今の私には、自転車も確かな帰り道もない。道なき原や沢を強引に越えて、ここに辿り着いていることを忘れてはいけない。

我に返って再び前進を始めた私であったが、状況的にはもう既に、どこで引き返すかという決断をこそ迫られていた。
少しスタートが遅すぎたか、寄り道が過ぎたか。




あの山の端に見える風車の在処まで行ければ、その近くを通る国道までの“踏破”が成るが、あれは見た目ほど近くではない。
地形図に道が描かれていない領域込みで、最低1kmの距離がある。 そして、地形図に道が描かれているのは、その前半の約400mである。
地形図の道は、ちょうどここからよく見える鞍部(峠)が終点だった。

(余談だが、【風車の風切音】って凄いのな。この場所まで鈍く聞こえてきていた。)

今から小走りするくらいのハイペースで動けば、明るいうちに、あの峠までは行って戻ってこれそうだが…。
この先の道の状況は――?





うっ!

これは、今までにはなかった灌木の藪……。

風のぶつかりが弱い場所は、やはり工事終了から経過した30年近い月日に相応の藪化が進んでいる模様。
当然これでは、小走りのようなペースで進むということは難しいが…。

ガードレールもあることだし、まだ我慢して…、我慢して……。




16:00 《現在地》

ぐにゃー!


……うん、大人しくこれまでとします。時間も時間だしね。

この最終到達地点は、終点(鞍部)まであと200mの地点であった。

(帰宅後に昭和51(1976)年の航空写真も確認したが、特にこの先に目立つ道路構造物はなさそう)


ここからは復路。




16:05、さきほど夕日の照射が始まった地点にて、沈む日をはっきりこの目で見送った。

ここでカメラを構えていれば、この先もいわゆるマジックアワーの美しい景色が見られるだろうけど、
気づいたときには夜の世界に取り残されて、逃げ出せなくなっているというのはゴメンだ。帰る。


復路ならではのアングルで、この道の最大の見所である連続橋を撮影。
工事用道路として使われただけというのが勿体なく感じられる立派な橋だが、それはあくまでも道のある一面に対しての評価であり、例えば社会貢献度であるとか、あるいはここを通って運ばれた物資の総重量とかといった別の視点より考えれば、現役期間は長くてもさほど活用されているとはいえない一般道を上回っている可能性は十分ある。

なんといっても、この道なくしては世界第一位の存在であった青函トンネルが無事に完成しなかったかも知れないのだし、将来にわたって青函トンネルの活躍が続く限りは、この道の貢献も色褪せないのだという考えもできる。
工事用道路とは、本当に本当に、慎ましい存在。

ところで、往路では今見ている写真の右端辺りで沢からよじ登って路上に立ったが、復路はショートカットを試みたい。
それはまず、手前の橋の袂までこのまま進んでから――




16:13 《現在地》

――すぐに橋の下へと降りてしまうのである!
このルートで簡単に戻れそうだということを、一度渡ったときにめざとく見つけていたのだった。

こうして往路では入り込むことがなかった橋の直下へと進んだ私が見たものは、渡っただけでは気づかなかった老朽の姿であった。
橋脚は特に問題はなさそうなのだが、橋桁の裏側を見ると表面が剥がれ始めていて、中の鉄筋があばら骨のように露出していた。鉄筋は錆が進んで、腐食して膨らんでいるように見えた。

ここにもまた、放置された時間の長さが、色濃く滲んでいたのである。
もっとも、自然に落橋するまでには(大きな自然災害でもない限り)、数百年は保つのではないかと思う。老朽化してもなお、重量物の運搬に特化していたであろう橋は、とても頑丈そうだった。

そしてもう一つ、この橋に対する印象を改めるような眺めがあった。
その改められた印象とは、橋のカーブの優雅さについてだ。 次の写真を見て欲しい。




← ぜんっぜん!




優雅じゃない!! →

むしろ、ガキガキゴリゴリと直線をへし折る音が聞こえてきそうな、力業に頼った姿!

ここにある2本の橋は確かに“曲線橋”ではあるのだが、まったく“曲線桁”が使われていなかったのだ。
もっとも、曲線桁は設計も施工も高度であるから、カーブしている橋が実は直線桁の組み合わせであるというのは、全く珍しいことではない。
特に鉄道においては至って普通のことである。
だが、カーブの半径が小さければ小さいほど直線桁の組み合わせに無理が生じるのは事実であり、本橋の場合も一目見てぎょっとするくらいガキガキゴリゴリとした姿になっていた。
廃橋だからというわけでなく、単純に珍しい橋といえる。



最後にもう一度、視界いっぱいに広がる橋の偉容を目に納めてから、

急激に暗くなる谷を逃げ出した。




16:21

そして数分後、安全地帯である自転車の待つ道へと生還。
工事用道路での探索を、完全踏破とはいかなかったものの、満足して終了した。

それからすぐに袰内海岸へ戻ったときには、もうこんなに暗くなっていた。(→)
やはり秋の日はつるべ落としだ。どこかでまごついていたら、今頃は取り込まれていただろう。




16:52 《現在地》

さらに30分後、私は現役時代の「工事用道路」が辿り着いていたであろう地点へとやってきていた。
ここは、「ウィンドパーク」の近くにある発電用風車の袂である。この風車は先ほど工事用道路から撤収する前に山の向こう側に見たものたものとは別だが、そこから300mほどの距離にある。

そして右の写真は、かつて工事用道路が通じていた一帯の眺めだ。

いやはや、地形がまるっきり改変されていて、道の痕跡など皆無であった。
ここには地形図も平坦を描いているが、工事用道路があった時代の地面は、この平坦の下にあるらしい。青函トンネル工事で生じた莫大な残土によって、いくつもの沢が埋め立てられた。残土運搬用の工事用道路も一緒に埋め立てられたようだ。
地形としては無理矢理行っても突破はできるだろうが、結構な起伏があるし、一面のススキの原野である。自転車なんて持ち込んだら正気ではいられなくなりそうだ。
結果論ではあるが、当初の計画通りに進んでいなくて助かったと思った……(苦笑)。



これは、昭和51(1976)年の航空写真に見る、現在は埋め立てられた区域を含む工事用道路の姿だ。
埋め立てにより現在は平坦に近くなっている領域内を道が通っていたことが分かる。うめうめ。


工事用道路の冴えない顛末も見届けたので、思い残すことはなくなり、あとは急いで帰るのみだった。
真っ暗になった道をひた走り、18時を少しまわった頃には、三厩駅近くにデポしておいたマイカーへと辿り着いた。
津軽半島の最北を極めた探索は、終盤に最も強烈な印象を残しつつ、こうして終了したのだった。

ところで、私がこの帰路に用いたのは、県道281号三厩停車場竜飛崎線という往路で使わなかった道である。
そしてそこで私が出会ったのは、真っ白なガードレールとオレンジの反射材が暗闇の中でまぶしく光る、
どこかで見覚えのある橋を立派にしたような曲線橋たちであったのだが……。






探索後、青函トンネル関係の書籍や資料をいろいろと調べてみたが、花形であるトンネル工事については膨大な内容があるのに対して、工事用道路に関する記述は薄く、というかほとんど見られなかった。それでもいくらかの進展はあったので、以下に述べる。

昭和36年から昭和63年までを工期とする世紀の青函トンネル工事のうち、メインである本坑の工事は、右図で示したような9つの工区に分けて同時進行的に進められた。
このうち今回の工事用道路と関わりがあるとみられるのは、本州側から数えて4つめの工区、袰内工区(全長3500m)だ。



上の図は、『日本鉄道請負業史 昭和(後篇)』に掲載されている、よく目にする青函トンネルの断面図よりもいくらか詳細な断面図だ。
これを見ると、距離の長い工区はいずれも工区内に斜坑や立坑を有していたことが分かる。
それぞれの工区では、始めにこれらの斜坑や立坑を建設し、そこから本坑の掘進を両方向へと進めたのである。
そうすることで全長53.8kmの本坑を10を遙かに超える切羽から同時に掘進することが可能となった。

こうした斜坑は、工事中のズリ出しが主な仕事であり、地上には斜坑口からズリ捨て場までのズリ運搬路が必要である。
青函トンネル工事全体でいくつのズリ運搬路(工事用道路)が建設されたかは不明で、今回の袰内の工事用道路が袰内工区専用であったかどうかも明確に書いた資料がなく未解明だが、その可能性は高いと思う。

さて、この全長3.5kmの袰内工区を請け負ったのは、トンネル工事の名手として知られた佐藤工業(株)だ。
工事は昭和48年2月に着手され、58年3月に竣成している。
既に述べた各工区と斜坑と工事用道路の関係性に照らせば、おそらく袰内工事用道路が建設されて利用されたのは、上記の期間内だろう。
昭和44(1969)年の航空写真を見ると、袰内の地上部には全く工事の気配がないことも、この推測を支持する。(なお、佐藤工業の社史も確認したが、青函トンネル工事については特に触れていなかった。)


袰内工事用道路に残る謎として、工事用道路にしては作りがとても立派だということがある。

そこに、「工事用道路といえども道路としての万全に近い形にする」以外の、何か特別な事情があったのかどうかは気になる点だ。
例えば、将来的には一般道路として使うことも考えられていたのではないか…… とかね。

事実、私がこのレポートの最後に紹介した県道281号三厩停車場竜飛崎線、通称「あじさいロード」は、かつて青函トンネル工事の専用工事用道路だった。
工事用道路としての完成は昭和53(1978)年で、青函トンネル工事全体の後半戦に活躍した。その主要な任務は、この頃から本格化した本州側海底部での本坑工事(龍飛工区)によって生じたズリの搬出であったと思われるが、はっきりしない。
しかしいずれにせよ、この全長13kmにも及ぶ長大で壮大な工事用道路には、袰内の工事用道路で見たものを2車線にしたようなコンクリート曲線橋が、たくさんある。
そしてこの道は青函トンネル完成後に県道となり、一般に開放されて現在に至っている。(当初この道を国道339号に昇格させ、従来の“階段国道”を含む国道を降格させる計画であったが、既に“階段国道”が全国区の観光名所になっていたことから村が難色を示し、これをしなかったという説がある。)

「あじさいロード」と袰内工事用道路それぞれの端は、国道339号龍泊ラインを介して100mほどしか離れていない。
果たして両者には、「青函トンネルの工事用道路である」こと以外に、「将来の一般道転用の目論見」という共通点があったのかどうか。
例えば、昭和57年に完成した龍泊ラインの代わりに、小泊側へ結ぶ新道として使うというような……。

こうして夢を見たくなる要素はあるが、個人的にはやはり、袰内工事用道路は最後まで少し立派なだけの工事用道路であったと思っている。
終点があまりにも先へ延ばすには発展性の薄い袰内川の奥であることと、道そのものがズリ捨てよって分断されたこと、龍泊ラインに関する資料を見ても関わりを示唆するものがないことなどが、その理由だ。

ただでさえ世俗から遠い龍飛の奥の奥、そこに最後まで世間と関わりを持たなかった一本気の工事用道路があったというのも、美しい姿だと思う。