明治馬車道の名残を留める仏ノ山峠の旧道。
探索は以上で終了だが、帰宅後に『笠間市史 下巻』(笠間市/平成10年発行)を取り寄せてみたところ、少ないながら関係する記述を見つけた。
“宇都宮街道は、北山内村片庭から仏の山峠越えの路は、山間を幾重にも曲がりくねり、昼でも追剥が出ると言われ、人馬の往来に難儀していた。明治十六年に片庭地区、小貫地区の有志が道路改修を協議し、同十九年十二月から工事に着工した。(以下略)”
だがその内容は、現地にある「佛山修路記」碑文の粋を出るものではなかった。
代わりに有意義だったのは、明治期の笠間町の交通事情について述べた部分だ。
“明治から大正にかけて、地方の貨物輸送は荷馬車が中心だった。明治二十二年に水戸鉄道が開通すると、笠間運送会社が資本金五〇〇〇円、株主五〇人で設立された。(中略)大池田、北山内、南山内、七会の山村から切り出された薪や木材が、荷馬車によって笠間町内の薪炭業者や木材工場から笠間駅に運搬された。(中略)明治四十一年笠間町の荷馬車は、四二台が登録されていた。(中略)
馬市場は、明治三十八年三月荒町に、翌年九月大町に設立され、春秋二回、それぞれ七日間馬の競売が行われた。福島県の三春や田村地方から馬が運ばれ、また近隣の農家で飼育された農耕馬も取引された。
笠間運送会社は、明治四十二年に解散し、新たに資本金一万円で笠間運送合名会社が設立された。
昭和になると貨物自動車が登場してきた。昭和七年には笠間町の貨物自動車は十二台登録されている。山間部が多い笠間地方では、ガソリン事情の悪化などもあって、戦時中から昭和二十年代にかけて荷馬車による貨物輸送がつづいていた。”
明治19年の宇都宮街道の改修完了と、明治22年の水戸鉄道開業。
これら“明治流”というべき交通インフラの整備が、地域の先達たちによって早期に実現されたことで、やがて笠間は茨城県央地域における(県庁所在地水戸に次ぐ)第二の都市に育ったのだと思う。
旧道を知る事が地域を知る(そして愛する)道であるといういささか大仰な持論も、こんな実例に根ざしている。
…にしても、気持ちいい旧道だった。
附記: 「佛山修路記」全文の意訳
大変な解読へのご協力、本当にありがとうございました!
※原文※ 佛山修路記 凡除害興利其事益於世者宜紀勒以傳焉若鏟險夷阻以便交通則 其一也常野之界山嶺重沓通路甚少我西茨城郡西北自片庭里達 野之小貫部者曰佛山阪路陂陀陟降亘數里稱山而實嶺也封建之 世恃為險要故雖官道不甚修治久委荒障車馬苦往来加之地勢深 阻刧盗出没有畏途之稱焉明治十六年片庭人民相議曰今也世運 日開古来無徑之地往往開通而興委其阻阨不獨行旅之患實吾邑 之恥也其可以不拓修乎小貫人民應之議以克諧遂各請於其縣而 得允乃界山分功不辭勞費勉強異常起功于明年一月告竣於十九 年十二月其所拓修延長四百八十餘間靡金一千二百餘圓役夫五 千餘人而屬小貫者不算焉於是險阻大夷略成沮途人馬往来絡繹 載路刧盗遠跡而行旅倍舊其益於常野兩州之交通也大矣今茲欲 建碑以刻關役者姓名郡長牧野君正倫賛之命文余余曰逸而忘勞 人之情也進而不息世之勢也今後自巡路者徒喜其逸而忘其勞耶 抑思其勞而益求完修耶寔見記示之不可已也遂書使以知碑背記 名之故焉 明治二十六年十月 三村邦功撰 西茨城郡長從七位牧野正倫篆額 龜井 直書 ※書き下し※ 凡そ害を除き利を興す、其事世に益すれば、宜しく紀勒して以て傳ふべし。 若し険を鏟(けづ)り阻を夷(たいら)げて、以て交通に便すれば、則ち其の一なり。 常野の界、山嶺重沓し、通路甚だ少し。 我が西茨城郡西北、片庭里より野(=下野)の小貫に達する部(さかい)は、 曰く仏ノ山、阪路陂陀陟降すること、数里に亘り、山と称して実は嶺なり。 封建の世、為に険要を恃(たの)み、故に官道と雖も修治を甚だにせず、 久しく荒障に委(まか)せ、車馬往来に苦む。 加ふるに、地勢深阻にして、刧盗出没し、畏途(いと)の称あり。 明治十六年、片庭の人民相ひ議(はか)りて、曰く、 「今や世、日を運(うつ)し、[今や世運、日に日に]古来無径之地を開き、往往開通して興る。 其の阻阨に委せて、独り行旅せざるの患、実に吾邑の恥なり。其れ以て拓修せざるべけんや」、と。 小貫の人民、之に応(こた)へ、議りて以て克(よ)く諧(ととの)へ、 遂に各〃其の県に請ひて、允(ゆるし)を得る。乃ち山を界(さかい)として功を分かち、 労費を辞さず、勉強すること常に異なり、明る年一月に起功し、十九年十二月に竣を告ぐ。 其の拓修する所、延長四百八十餘間、靡金一千二百餘圓、役夫五千餘人。而して、小貫に属する者は算(かぞ)へず。 是に險阻大に夷らげられ、沮途略成し、人馬の往来、載路に絡繹し、刧盗は跡を遠ざけて、 行旅旧に倍し、其れ常野両州之交通に益するや、大ならん。 今茲(ここ)に碑を建て、以て役に関る者の姓名を刻まんと欲し、郡長牧野正倫君、之を賛し文を命ず。 余余(われわれ)曰く、逸して[逸(たのし)みて]労を忘るるは、人の情なり。進みて息(やす)まざるは、世の勢なり。 今後自ら路を巡る者、徒らに其の逸を喜びて、其の勞を忘れむや。 抑〃(そもそも)其の勞を思ひて、益(ますます)完修を求めんや。 寔(まこと)に記を見(あらは)し之を示すこと、已むべからざるなり。 書を遂(すい)して、以て碑背の記名の故を知らしむなり。
※意訳※
およそ、害をとり除いて利をうむということ、世の利益となるならば、その経緯を碑に刻んで記録し、後世に伝えなければならない。
険阻なところを削り平らにして、交通の利便をはかるのは、そのなかでも第一[そのなかの一例]である。
常陸と下野との境は、けわしい山が幾重にも重なり、双方を通う道路が少なかった。
わが西茨城郡の西北にある、片庭村から下野の小貫村に達する国境のあたりは、仏ノ山といい、坂道を上り下りすること、数里にわたる難所で、仏ノ山とはいいながら、ほとんどけわしい峰である。
封建時代には、その時代ゆえに、険しい地形を要害として重視していたので、この道は官道といいながらも、画期的に改修を施すことができなかった。
そこで、長い間、〔民間の便利なように整備したくても〕道路の状態は荒れたままにされ、徒歩はさておき、車馬となると通行に苦しんでいた。
さらに加えて、この場所の地勢は山深くけわしいので、強盗が出没し、畏途(危ない・恐ろしい道)とも呼ばれていた。
時に明治十六年、片庭の村民はみなで議論して、次のような結論に至った。
「今や世のなかの動きは、封建時代から明治に移り変わり、昔から道がなかった土地でも切り開いて、道路が開通している。
それなのに、これまでのように、地形が険しいままにして、独りで通行することができないほどの憂いがあるのは、まさに我が村の恥である。
新道を切り開き整備しないでよいはずがない」。
下野の小貫の村民も、この片庭村の動議に応じて議論し、意見を一致させて、
なんとかそれぞれの県に申請して、新道整備の許可を得た。そこで、仏ノ山を境として工区を分け、労力や費用を惜しむことなく、さらに、経費をやりくりすること並大抵ではなく、翌十七年一月に起工し、十九年十二月に竣工を宣言した。
切り開いた新道の総延長は480間、費用は1200円、人工は延べ5000人である。ただし、この数字には、小貫村に属する分は算入していない。
こうして、けわしく長い旧道はとても平らにされ、遠い道のりは短絡され、車道の往来はさかんで、もちろん、強盗などは姿を消した。
交通量は嘗ての何倍ともなり、常陸と下野の両国の交通の利益となるところ、ますます大きくなるだろう。
さて、今ここに、記念碑を建てて、この新道整備の労役に関係した者の姓名を記録しようとして、西茨城郡長の牧野正倫君が賛し、私[三村佐山]に作文を命じた。
私がここで述べたいことは、次のとおりである。
便利を楽しんで、それを生み出す苦労を忘れるのは、人の心情である。そして、時が流れてやむことないのが、世の中である。
今後将来、この道を巡るひとは、ただこの道の便利で楽ですぐれているりをよろこぶだけで、工事にかかわる苦労を忘れてしまうのだろうか。
いや、その苦労を思うからこそ、道路の完成とさらなる整備を目指し、求めてゆくのではないだろうか。
だからこそ、私はこの「佛山修路記」を著して、みちゆくひとに示さねればならないのだ。
この碑の背面に関係者の氏名が刻まれてあることの意味を、この記を読む者に知らせて、ここで私は文を終える。
※私はこの碑文の末尾を現場で解読しなかった。
そのために、碑の裏面を習慣的に確認はしたし、そこに何らかの記名があることまで確認しながら、「名前だけなら」と思い撮影を怠るという、そんな「失礼」を犯してしまった。
次に通りかかった時にはちゃんと裏面も撮影しなおし、建碑者の礼に報いたい。