2014/3/12 11:00 《現在地》
今回の旧道は、自転車でうろうろしているときに偶々出会ったという、最近では珍しくなった“偶然の出会い系”探索であった。
そのため、「これはレポートしたいから記録しよう」と思うまでの序盤の写真撮影が散発的で、普段のように予めレポートの流れを意識して撮影していない事を予めお断りしたい。(写真が不出来であることの言い訳だ)
とりあえず、この最初の写真は、栃木側から見通した仏ノ山峠の頂上鞍部だ。
いきなり峠の頂上から始まっているが、このわずか1分前は田園風景を走っていた。栃木側からだと、それほど小さな峠なのである。
自転車の速力をほとんど緩める必要も無い上り坂の先に、曰くありげな名を持つ峠がある。
標高194m、常野国境の仏ノ山峠。
天然の鞍部を掘り下げたらしい見慣れた感じのする峠の切り通しだが、他の峠と少し違うのは、てっぺんの片側に平場があって、道を見下ろすようにお堂が建っていること。
同じ茨城県絡みだからかも知れないが、奥州街道の陸奥・常陸国境にあたる境ノ明神峠に似ていると思った。
この峠も同じく国境だから、同じように道中安全の「境の明神」を祀る神社かと思ったが、鳥居も見あたらないし、どうやらそうでもないらしい(正体不明)。
現地では(のんびりしていたから)、これ以上追求もせずに通りすぎたが、帰宅後に『茨城の峠』(岡村青著/昭和63年発行)を読んだところ、この峠には“峠の古えの記憶”というべき伝承がある事を知った。次のような話しである。
“車道が開通するよりも大昔の話。昼なお暗い林間の峠道には、物陰から火縄銃で旅人を撃ち殺す凶悪な追い剥ぎが出没した。追い剥ぎには、美しい一人娘がおり、娘は父親の凶行に心を痛めて、何度も止めるように懇願したのだが、遂に聞き入れられなかった。娘はある日、金持ちの娘に変装をして一人で峠を歩いた。父親は躊躇いなく娘を撃った。その死体を前に、父親は自らの行いを初めて悔いた。そしてその霊を弔うため、朝日に向かう山の西麓に「朝日堂」を、東の山裾に「夕日堂」を建立し、朝夕合掌してその冥福を祈った。”
“おせんころがし”を思い出させる悲話である。
ただし、私が見た峠のお堂は、この伝承に出てくる「朝日堂」でも「夕日堂」でもない、正体未確認のものである。
また、仏ノ山峠という曰わくありそうな名前の由来も、峠の南方にある仏頂山(標高430m)の古称「仏ノ山」に由来するという。
峠の北側にある鶏足山(以前紹介した廃隧道の在処)にも、弘法大師による開山伝説があるなど、この辺りは北関東有数の霊場地帯として数多くの謂われを秘めているようだ。
伝説の香りを味わった後は、現代の峠の風景に目を向けよう。
峠は、栃木県芳賀郡茂木町小貫と、茨城県笠間市片庭の境界である。
頂上切り通しの対向車線側には、ご覧の通り、関東屈指の観光県である栃木県の“接待部隊”が居並んでいた。
特に目立つのが「栃木県」と大書された背の高い広告塔(?)で、これは最近になって栃木県の各地県境に整備が進められているアイテムだ。
そして青看の行き先表示に、この県道の終点から遙かに先の「日光」を敢えて表示しているのも、観光客への配慮を感じさせる。
それに較べて、進行方向である茨城県側の案内は、とっても地味だった。
最低限度と思われる案内標識が1本立っているだけである。好きだよ、そんな茨城も。
そして、私はここに来て初めて、この峠に旧道があるらしいことを意識した。
峠から茨城県側へと下る県道は、誰が見ても分かるくらい分かり易く新旧を感じさせる、そんな2本の道に分かれていたのである。
11:01 《現在地》
新旧道の分岐としては、申し分のない分かりやすさだと思う。
ただし珍しいのは、これが麓の側の分岐であれば「普通」の光景だが、
峠側の分岐に、まるで集落のように家々が立ち並んでいるということだ。
大字片庭に属するこの“峠の集落”の地名は分からないが、
こうした立地に集落があること自体が、峠の長い繁栄を物語っているのだろう。
もちろん! 旧道へGOだぜ!
旧道の入口には、風景に似合わない少しだけ物々しい標識が立っていた。
それは笠間市が設置した「車両通行止め」の標識で…
道路法第46条の規定に基づき
一般車両の通行を禁止する。
と、この手の標識では珍しく法的根拠まで示しながら、許可車輌以外の車輌はこの道を通ってはいけない事を示していた。
特に「予告」とか「この先●m」みたいな文言もないので、この入口から既に許可車輌以外の車両は通行止めなのだろうが、集落内に用事がある部外者はどうしてるんだろう。宅配業者とか、いちいち許可を取ってるのか?
旧道に沿って、入口から5,6軒の民家や倉が立ち並んでいた。
多くは向かって右側にあるが、左の山側に建つ屋敷の倉に隣接して、周囲の景色に馴染んで目立たぬ一枚の石碑を見つけた。
石碑は道よりも一段高い場所にある。
碑の前に行くためには路傍の斜面をよじ登らねばならないが、階段などは用意されていない。
果たして何が書かれていたのか。
石碑は高さ2mくらいもある大きなもので、表面にはびっしりと漢字が刻まれていた。
いかにも時代を感じさせる漢文碑である。
古さと情報量の両方を期待できる大型漢文碑との遭遇に興奮したが、重要なのは書かれている内容だ。
この立地に相応しい道路関係の碑だと良いのだが…。
ともかく漢文碑ということで、現地での短時間に解読することは無理と承知していた。
ここではテーマを把握するに留め、細かい碑文は撮影して家に持ち帰ることにしよう。
碑のテーマを知るには、まずは題字を確認するのが手っ取り早い。
この碑の場合の題字は上部に刻まれている大きな文字で、篆書体という漢文碑では良く見られる独特の字体だ。篆書体で書かれた題字を“篆額”という。
篆書は右から左に向かって読み、この碑の場合は、「佛山修路記」と書かれているようだ。
つまり「仏山の道を修めた記」、まさに期待通りの道路関係碑であることが確実視された。
で、ここからは帰宅後に写真を睨めっこして、頑張って書き出した碑文である。
はっきり言って書き出すのだけで手一杯で、碑文の解読は重要そうな部分だけ。
以下に書き出した文章を掲載するが、原典の旧字体は全て新字体に改めた。太字の部分は個人的に重要と思われる部分で、右側に解説を試みた。
仏山修路記
凡除害興利其事益於世者■紀勤以伝焉若■険夷阻以便交通則
其一也常野之累山嶺重沓■路甚少我西茨城郡西北由片庭里達
野之小貫部者曰仏山阪路陂陀陟降亘数里(※1)称山而実嶺也封建之
世持為険要故雖官道不甚修治久委荒障■馬苦往来加之地勢深
阻刧盗出没有(※2)畏途之称焉明治十六年片庭人民相議(※3)曰今也世運
日開古来無径之地往往開通而興委其阻阨不独行旅之患実吾邑
之恥也其可以不拓修乎小貫人民応之議以克諧遂各請於其県而
得允乃累山兮功不■労費勉強畢常起功于明年一月告竣■十九
年十二月其■拓修延長四百八十余間■金一千二百余円役夫五
千余人(※4)而属小貫者不算焉■是険阻大夷略成沮途人馬往来絡繹
哉路刧盗■■而行旅倍旧其益於常野両州之交通也大■今茲欲
建碑以刻関役者姓名郡長牧野君正倫賛之命文余余日逸而志労
人之情也進而不息世之勢也今後由■路者徒喜其逸而■其労耶
■思其労而益求完修耶■見記乎之不可己也遂書使以知碑背記
名之故焉
明治二十六年十月 三村邦功撰
西茨城郡長従七位牧野正倫篆額
亀井 直書
【私なりの精一杯の解説】
- (※1)仏山阪路陂陀陟降亘数里
- 仏山の峠道が「陂陀陟降」(ひだちょくこう=平坦でなく上り下りがあること)が数里に及ぶ険しい道であった事が書かれているが、現地の地形を見る限り、いささかオーバーな表現に感じられる。
- (※2)馬苦往来加之地勢深阻刧盗出没有
- 地勢が険しく馬の通行が難しかったことや、追い剥ぎが出没するような道だったことが書かれているようだ。朝日堂・夕日堂の伝承を踏まえた内容か。
- (※3)明治十六年片庭人民相議
- 明治16年に茨城側片庭地区の住民が新道の建設を計画し、栃木側小貫地区の住民もこれに呼応して両県に工事の請願を行ったようだ。
- (※4)明年一月告竣■十九年十二月其■拓修延長四百八十余間■金一千二百余円役夫五千余人
- 実際の新道工事は明治17年1月に着工し、翌19年12月に竣功した。修路延長は485間(約882m)余り、費用は1200円余り、働いた人員は5000人余りであった。
私の解読は甚だ不完全です。協力者求む。
→→【碑文の原寸大画像(3.5MB)】
(書き出すので)目が疲れた〜。
1時間くらいかかって、このざまである。
なんとか重要そうな部分は、大雑把には解読出来たかとは思うが…。
それにしても“石碑様万々歳”で、おかげでこの旧道の正体が判明した。
こいつは思いのほかに古い時代の車道であった!
碑文によると、明治16年に新道の計画がおこり、明治17年から19年にかけて建設されたものであるという。
明治16年といえば、冒頭で紹介した年表の通り、この道が茨城県によって「県道三等」に認定された記念すべき年である。
この認定に触発される形で峠周辺の住民が新道の建設に立ち上がった可能性が高い。
さらに言えば――
しばらくこの名前を出す機会が無かったが、明治16年は、あの泣く子も黙る“鬼県令”こと、三島通庸(みしまみちつね―「万世大路」などを建設した明治初期の豪腕政治家)が栃木県令として赴任した年でもあり、明治18年に辞するまで同職にあった。
私が今まで目にした資料の中に、三島県令とこの道との関わりに触れたものは無かったが、同じ時代の同じ県に繋がる道路である。全くの無関係ではないだろう。膨大にあった工事の一つとして、語られる機会が無かっただけかもしれない。
棚からぼた餅ならぬ、笠の間から“ミッチー”がぽろんと転がってきた嬉しさ。
(残念ながら現場では石碑の解読がされていなかったので、ミッチーには思索が及ばず。ただ碑文末尾の「明治二十六年」は読み取れていたので、明治車道の認識はあった)
無論、比較的近年まで使われていたらしいこの旧道が“明治のまま”であるわけはないが、集落を抜けてすぐに現れた道路風景――現道より遙かに勾配が緩やか――は、典型的な馬車&荷車道の特徴を示しているように思われた。
気づけばもはや鋪装もされているのか、いないのか。
よく見れば鋪装はあるのだが、相当ボロボロになっているうえ、路肩と耕地の境も曖昧で、古き道の匂いが濃厚だ!
11:03 《現在地》
入口から100mほどで集落が終わり、さらに100mほど耕地と山の隙間を緩く下ると、急に右に大きな谷が開けてきて、道を窮屈な山腹へと押しやってしまった。
ここから先が、いよいよ本当の意味での“峠の旧道”か。
今のところは追い剥ぎなど考えられない明るく気持ちのよい山道だが、物に溢れた現代では、旅人から物を奪う犯罪よりも、旅人が物を棄てていく犯罪の方が遙かに脅威であるようで、「不法投棄 監視カメラ作動中」の見慣れた看板と一緒に、ごく簡単な造りの「車両通行止めバリケード」が作られていた。施錠有り。
その旁らには「この道路は、現在通行ができません」云々との注意書きも。
注意書きの内容を見る限り、この道は現在も笠間市の市道に認定されているようだ。
いつものワルニャン開始だな!
こいつは、なかなか好ましい雰囲気。
それに、早速石碑があるじゃないか。
実はこれが、個人的に仏ノ山峠の“MVP”に推したい代物だったりした。