交通量の多い幹線道路がジャンクションする小室IC内に顕然と存在している、現在使われていないランプウェイ。
果たしてこの施設はいつから存在し、なぜ現在使われていないのか。そして将来の見通しはどうなっているのか。
調べてみた。
第1節. 歴代航空写真を見る
まずは歴代の航空写真によって、目に見える姿の変化を確かめてみよう。
次に掲載したのは、2008年から1966年までの6枚の航空写真である。
首都圏の一翼を担う巨大なニュータウンが、素朴な田園風景にあった北総の大地に忽然と現われた、大いなる変化の一隅を見て欲しい。
なお、全ての図の「赤矢印」は、今回探索した「未成ランプウェイ」の位置に付している。
@ 平成20(2008)年 | |
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A 平成1(1989)年 | |
B 昭和59(1984)年 | |
C 昭和54(1979)年 | |
D 昭和50(1975)年 | |
E 昭和41(1966)年 |
@平成20(2008)年版の姿は、探索した時点とほぼ変わりないように見える。
だが、A平成1(1989)年版まで20年さかのぼると、ランプウェイは全く同じ位置に存在していて、使われていない状況も変わりはないものの、小室IC全体では大きな変化が見られた。
当時、国道16号外回りから北千葉道路一般部下りへ入るランプウェイも未完成だったらしく、そのため未成ランプウェイへ繋がる国道16号上の緑地が今よりも北まで長く続いている。
なぜ、外回りから一般部下りへのランプの開通が遅れたかについては、机上調査の中で後に判明したのだが、今は航空写真のタイムトラベルを進めよう。
B昭和59(1984)年版では、小室ICは建設中で、未成ラインプウェイを含む、現存する全てのランプウェイが工事中である。当時の北千葉道路は、現在上り線に使われている南側の道路のみが解放されているように見える。
C昭和54(1979)年版までさかのぼると、また状況が変わる。北千葉道路は、現在下り線に使われている北側の道路の小室IC以東のみ完成していて供用されているようだ。南側の道路はまだない。そして、この時点で既に今回探索した未成ランプウェイは存在していて、一般部を跨いでいる。
D昭和50(1975)年版では、千葉ニュータウンの造成が始まったばかりのようで、分譲以前のため、広大な造成地に1軒の住宅もみられない。北千葉道路も鉄道も用地造成中で、当然、未成ランプウェイもない。
E昭和41(1966)年版までさかのぼると、なんと国道16号すら消えてしまう。この頃の船橋市小室の一帯は、戦前から続く農業地であり、北総台地の原風景を維持していた。そんな景色を割いていち早く出現した国道16号の予定地は、この後の半世紀における激変の先触れであったのだろう。
以上のような目まぐるしい変化を、未成ランプウェイについてざっくりとまとめると、このランプウェイは昭和50年から54年の間に建設されたもので、小室ICにおける最古参の構造物の一つであるが、歴代航空写真の中に供用されている様子を撮したものは見当たらない。 つまり、“生粋の未成道”である線が濃くなったといえるのだが、航空写真は5年おきぐらいにしか撮影されていないため、その間に短期間のみ使用された状況があった可能性は否定できない。
事実、この後に行った歴代地形図の調査では、未成ランプウェイに供用されていた時期があるのではないかという疑惑が再燃することになった。
本編では触れるのを忘れたが、未成ランプウェイ橋にはなんと銘板が付いている!
私の撮影機材の問題から、書かれている内容が確認できなかったために投げやりになって忘れていたが、この銘板の存在に気付いていて双眼鏡で確認して下さった読者さんがいた。ありがとうござますm(_ _)m
“1977年4月” と、そう刻まれているとのことであった。
つまり、昭和52(1977)年4月竣功と判断して間違いないだろう。航空写真の調査とも矛盾しない。
……私と、同い年だったんだなー。
なお、銘板には他にも施工者名などが書かれていると思われるが、そちらの内容は不明だ。(誰か望遠レンズで撮影できたら教えて欲しいのだ!)
第2節. 歴代地形図を見る
続いては、これもいつもの通り、歴代地形図の調査である。
地形図は航空写真とは異なり、道路や鉄道については形が在るかということよりも、供用されているか否かを重視して描く点に特徴がある。そのため、最新の地理院地図を見ても、現地にはあからさまに存在している未成ランプウェイが影も形も描かれていないわけである。
T 地理院地図(現在) | |
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U 平成9(1997)年 | |
V 昭和62(1987)年 | |
W 昭和53(1978)年 | |
X 昭和42(1967)年 | |
Y 大正10(1921)年 |
地形図も時間をさかのぼりながら順に比較していくと、T→U→Vまでは、撮影の時期が近い航空写真@→A→Bと矛盾もないし、特に違和感はないと思う。いずれも未成ランプウェイは描かれていないが、これは上記したとおり、供用の有無を重視する地形図の特徴から来るものである。
しかし、W昭和53(1978)年版を見ると、なぜか今回探索した未成ランプウェイと思われる高架橋が、はっきり描き出されているではないか!
ランプウェイは北千葉道路の下り線へ北側から合流するような表現になっており、これはまさしく、私がこのランプウェイの完成形として現地探索で想定した、北千葉道路専用部の姿に見える。この地図では、北千葉道路の専用部が上下線とも実在のように描かれている点が衝撃的だ。
が、これは懸命な諸君であれば、容易に信じるわけにはいかない記述である。
なにせ、ほとんど時期が違わないC昭和54(1979)年版航空写真では、このランプウェイの前後は明らかに他の道路と繋がっていない状況に見えるし、なによりも北千葉道路の専用部なるものは、平成31年現在でも完成していない“幻の道”なのだから。
この地形図は単なる誤表記なのか、それとも当時の最新の計画をフライング気味に描いてしまったミスなのか、真相は不明である。
しかしこの地図の存在は、後ほど別のラインからまた現われる、「未成ランプウェイを使ったことがある」という証言に、不気味な信憑性を与えるものになっている。
……これ以降のVとYについては、本筋と関係がないので説明は省略する。同じ場所ということを地図上から判断することが難しいくらいの変化を感じる、そんな一興のためにセットしたに過ぎない。
第3節. 千葉ニュータウン建設の背景と目的
次は文献調査だ。
未成ランプウェイや小室ICの景色だけを見ていても窺い知れない、この一帯の“現代史”を広く支配している大きな背景、それが千葉ニュータウン(千葉NT)である。
そして、北千葉道路は千葉NTと不可分の関係にあり、どちらが主であり先であるとは断じがたい関係にあることが、調査によって明らかとなった。
この節では、いくつかの文献を用いて、千葉NTが計画された背景とその目的、および建設初期の状況を紹介したい。
前記した航空写真や地形図を適宜見ながら読んでもらうと、より分かりやすいだろう。
千葉NTは、昭和41(1966)年5月に千葉県が建設構想を発表し、昭和44(1969)年5月に新住事業(新住宅市街地開発事業=ニュータウン事業)としての認可を受けた。その翌年である昭和45(1970)年3月から工事に着手している。着工8年目の昭和53(1978)年からは宅地開発公団(現:都市再生機構)が事業に加わり、名実ともに国家的な一大事業として進められた。最初の入居は昭和54(1979)年3月に白井、西白井、小室の各地区で始まり、その後も順次分譲が進められていった。
「千葉ニュータウン計画図」(千葉県企業庁 1976.9)より転載。
千葉NTの着工当初の計画緒元は、概ね右図のようなものであった。
2912ha(約29平方km)という計画面積はピンとこないかもしれないが、新宿区と千代田区の合計にほぼ匹敵する(あるいは山手線内側の約半分の広さ)。
これだけの土地に約34万人が暮らす新都市を18年間で建設しようとする計画であった。
ちなみにこの計画規模は、東京都の多摩NT(昭和40年計画発表、46年入居開始、当初計画面積約28平方km、当初計画人口30万人)を僅かに上回り、わが国最大のニュータウン計画といえるものであった。
昭和40年代初頭という同時期に、東京都心から30〜40km圏の東西両位置に30万人規模の巨大ニュータウン計画が誕生した背景は、高度経済成長によって都心とその周辺への破壊的な人口集中が進んでいたことである。大都市の郊外に良好な住環境を大規模かつ計画的に配置しようとするニュータウン開発は、昭和50(1975)年に国が宅地開発公団を設立して事業の推進を図ったことからも分かるとおり、国家の要請でもあった。
そんなわけで、多摩・千葉とも人口の受け皿として大いに期待されたニュータウンであったが、千葉には別の大きな需要もあったようだ。『Mobility. (57) 1984年10月号』(運輸経済研究センター)は、前述した内容に次ぐ「第2の背景」を次のように明かしている。
目から、うろこ〜!!
北総台地はかつて、江戸・東京の食糧供給庫として重要な農村地域であったが、昭和40年代になるとその安穏の旧位置を脱却し、首都機能の新たな一部を担う時代が来たらしかった。
新東京国際空港(現:成田国際空港、昭和41(1966)年に成田市への開設が閣議決定、昭和53(1978)年開港)の建設こそが、北総台地に千葉NTの誕生を必然化し、さらにそのメインストリートを他のニュータウンに際だって壮大な計画(道路8車線+鉄道複々線)へせしめたらしい!
【あれ】や【これ】には、ただの誇大妄想狂でも過剰なハコモノづくりでもない、真っ当な事情があったのだ! (だから、こうした事情がなかった多摩NTには、ここまで大規模なメインストリートは計画されなかったのだ)
しかし、少しでも検証すると、ヤバい実態も見えてくる。
今日でこそ千葉NTを通る鉄道は、成田スカイアクセス線(京成成田空港線)として都心と空港を結ぶ最短ルートたり得ているが、この開通までには大変な紆余曲折があったことは有名だ。成田新幹線とか。道路に特化したい本稿にとっては伏魔殿であるからこれ以上は触れないが、鉄道の空港までの開業は平成22(2010)年と極めて最近なのである。千葉NTの開発目的に、都心と成田空港を結ぶ最短の交通ルートを効率的に開発することが当初から含まれていたのだとすれば、あまりに遅かったと言わざる得まい。
しかし、これでも鉄道はいい方で、道路(北千葉道路)に至っては未だいつ全通するのか分からないのだから、千葉NT開発の「第2の背景」に対する解決は、ニュータウンの開発期限内では成功しなかったと判断すべきだろう。(千葉NTの新住事業は平成26(2014年)で終了している)
なお、同書はさらに「第3の背景」も挙げている。それは、当時大規模な埋め立てによって千葉県の東京湾岸で進められていた京葉工業地帯のベッドタウン需要を、比較的に近い北総台地で満たすことであった。おそらくこの目的で、東西に長いニュータウンを南北に貫く幹線道路である県道船橋印西線のバイパス(あの【多々羅田IC】で北千葉道路と交差する)が計画されと思われるが、こちらも実際の整備は北千葉道路以上に遅れていて、全線開通はまるで見えない。
また、国道16号も南北方向の幹線であるから、その接点である小室ICの開発も無関係ではないと思う。
「千葉ニュータウン事業のあゆみ総論」(千葉県企業庁 1976.9)より転載。
右図は、千葉県企業庁が発行した『千葉ニュータウン事業のあゆみ総論』に掲載されていた、「千葉ニュータウン完成予想図」と題された鳥瞰図の一部だ。
作成された時期は不明だが、内容からして昭和40年代の初期の計画に関わるものであろう。
見渡す限りの平らな大地に、中高層住宅を主体とする大らかな住居群と、整然と整備された農地がモザイク状に配置されており、所々に池を持った大きな公園がある。なんとも目に鮮やかな夢の実現景だが、長大なニュータウンの中央を貫くメインストリートの姿は、ひときわ目を惹く鮮やかさを持っていた。
私が現地探索(机上調査前に行った)で想定した、一般部と専用部からなる計8車線の北千葉道路、さらに中央には複々線の鉄道をサンドイッチした、まさしく壮大なメインストリートが、はっきり描かれていたのである!
この景色の実現へ向かって、かれこれ40年近くも前に作られたまま、未だに出番を待っているのが、あの未成ランプウェイなのだろう。
それでも道路については一部(約10km)で8車線化は完了しており、夢の実現した姿を見ることが出来るが、鉄道の複々線化はもう無理だろうから、イラストとはいえ感慨深い。
「千葉ニュータウン事業のあゆみ総論」(千葉県企業庁 1976.9)より転載。
同書には「交通体系図」と題された左図が掲載されており、おそらく昭和50年頃の道路計画の概要(初期計画と違いがあるかは不明)を知ることが出来た。
図を東西に貫く太い線は北千葉道路に他ならないが、凡例には「広域幹線道路」と書かれている。
南北方向の太い道は2本あって、国道16号と県道船橋印西線だが、「広域(地域)幹線道路」と書かれている。
点線で描かれている道は、「地区幹線道路」と表現されている。現在の地図に照らしてみると、千葉ニュータウン北環状線と千葉ニュータウン南環状線という2本の県道が部分的に開通していることが分かった。
さらに密に存在する細い実線は、「住区幹線道路」であるという。
キター! 待ってました! 外連味のあるネーミング! “通称100M道路”!
いろいろな資料を今回見たが、この「100M道路」という表現は、古い資料ほど誇らしげによく現われた。
通称とあるとおり、正式な名前ではないのだが、通りが良くて愛用されたのだろう。
わが国で(防火帯や緑地帯を含む)道路幅が100mある「100メートル道路」(wiki)として知られている道は、名古屋市の若宮大通や広島市の平和大通りなどわずか3本しかなく(マジか)、いずれも戦災復興の都市計画に基づいて建設された都市計画道路である。
千葉NTのメインストリートは、戦災復興ではないが、やはり都市計画道路である。
詳細な地図上で、北千葉道路のうち8車線供用が完了している部分の全幅(上下線の端から端まで)を測定してみたところ、駅が上下線の間に挟まれているところなどでは部分的に150mくらいあるし、100mを越える場所は実に多い。
最新の印西市の都市計画図では、北千葉道路に該当する「都市計画道路3・1・2千葉ニュータウン中央線2号」の計画幅員は75mと記載されている。8車線分だけあってこれでも一般的な道路から見れば破格に広いが、間に挟まれている鉄道敷きを除外しているようで、数字のうえでは100mに届いていない。
しかし、千葉NTのメインストリートが“通称100M道路”と呼ぶに足りる超広幅員の道路であることは、【外見的】にも明らかだろう。
誇らしき“100M道路”が登場する文献をもう一つ引用してみよう。
全国建設研修センターが発行した『国づくりと研修. (23)』(昭和58(1983)年3月号)収録の記事「森と湖の田園都市千葉ニュータウンをみる」に、こんな記述を見つけた。
ここの最大の自慢は幅百メートルの中央幹線道路である。これがトカゲの形のニュータウンの頭からシッポまで、背骨のように東西に貫く。将来は成田空港までつながる構想である。百メートル道路のまん中を高速鉄道が走る。その鉄道の両側を高速自動車道が走る。さらに一般道路も走る。これは他のニュータウンにはみられない珍しい設計である。この百メートル道路はいま建設のまっ最中で、森や畑を切り開いた荒削りの道路が延々と伸びている。
この記事は、北千葉道路の専用部を「高速自動車道」と書いている。
おそらく自動車専用道路のことを、分かりやすく表現したのだと思う。
道路を指して、「ここの最大の自慢」だと書いているのは、道路好きの私にとっては本当にすがすがしい。
ところで、これまで引用した比較的に古いどの資料にも、「北千葉道路」という名前は全く出てこなかった。
この名前を持つ道路は、どのような変遷を経て生まれてきたのだろうか。
次節では、北千葉道路の由来を採り上げよう。
第4節. 北千葉道路の由来
千葉県県土整備部が2007年に発行した『千葉県土木史』は、北千葉道路の由緒を次のように簡潔に述べている。
『千葉県土木史』より転載。
千葉NTの計画発表が昭和41年であったから、昭和44年の県総合計画に北千葉道路が始めて登場したことは、時期的にぴたりと符合する。一つ前の総合計画である昭和37年の千葉県長期計画には、北千葉道路に該当する計画がないことを確認している。
右図は、北千葉道路が初登場した「千葉県新長期計画」の幹線道路整備計画図だ。
これを見ると、確かに市川市の県道1号市川松戸線から成田市の国道295号までを結ぶ計画路線が描かれていて、「北千葉道路線」という名前が書かれている。
なお、この段階では東京外かく環状道路(外環道)の都市計画決定はなされておらず(この計画の発表2ヶ月後に千葉県内区間の都市計画決定が行われた)、起点は外環道より僅かに都心寄りを通る県道1号になっている。
また、終点の成田側では、そのまま国道295号を突っ切って、40kmも離れた銚子まで東総台地を突っ切る計画線へ繋がっていることも注目される。こちらの路線名は「東総有料道路」と書かれており、県内でも特に地味な有料道路であった東総有料道路(千葉県道70号、1988年開通、2018年無料開放、全長11.4km)との壮大なコラボレーションが当初の構想であったことが伺えて興味深い。
さらに同書は北千葉道路の全体計画概要を次の通りにまとめている。
路線名: 一般国道464号
全体区間: 市川市(東京外かく環状道路) 〜 成田市(一般国道295号)
延長: L=約45km
都市計画決定状況
・市川市国府台〜印旛村吉高(約30km) 昭和44年5月20日決定(W=40〜100m)
・印旛村若荻〜成田市大山(約13.5km) 平成17年12月27日決定
北千葉道路の都市計画決定は2区間に分かれていて、起点から千葉ニュータウンの東端までは昭和44(1969)年に早々と行われているが、そこから終点の成田までは、平成17(2005)年になってようやく行われていたことを知った。
この36年という時差は、改めて当初構想(空港との最短連絡路の建設)との乖離の大きさが伺える数字だ。
雑な表現にはなるが、結局のところ(北千葉道路の事業主体だった)千葉県が真に急を要すると考えていたのは、都心とニュータウン内を結ぶ区間だったということだろう。成田空港との連絡は、鉄道もそうだったが、都心との連絡が叶った後で進めれば良かろうという考えがあったと思われる。
幅100mの大道路というスペックも、それがある北総台地という位置も、都心と空港を最短で結ぶメインストリートに相応しかった。だからこそ、この地の利を活かしたニュータウンの建設が決定されたのだった。
しかし、その整備を長らく担ってきたのは国ではなく県であった。
これは、実際に成田空港へのアクセスルートとして開港当初に整備された新空港自動車道や東関東自動車道が、高速自動車国道という名実とも国の事業で進められたこととは大きな差がある。
千葉県にとっては、県外の住人が県土を高速で通過して成田空港に移動することよりも、多くの県民が住まうニュータウンの整備(と彼らの通勤ルートの確保)に優先順位を置くのは必然であったろう。昭和53年からは宅地開発公団が事業に加わり国家事業的な色彩を強めたとは思われるが、初期の事業の担い手の力は大きかったはずである。
北千葉道路はその誕生以来の長きにわたって、高速道路並みに高規格な箱に入れられた、実にローカルな道路であったのだった。
第5節. 千葉ニュータウンと北千葉道路の整備の経過
小室IC内の小さなランプウェイから話を始めたのに、気付けば千葉県全土に広がる道路網の話になってしまっていた。
最後にまた戻ってくるので、もう少しだけ全体史の話に付き合って欲しい。
千葉ニュータウンと北千葉道路は、鶏と卵の如き関係で生を享けたことを解説した。生まれたら、次は成長である。
2912haの広大な敷地に34万人が暮らす本邦最大規模のニュータウン計画と、そのメインストリートである100M道路は、どのような歩みで今日の姿へ至ったのか。
平成28(2016)年に作成された『千葉ニュータウンオフィシャルガイド』(pdf)には、“Rurban 田園と都市の融合”を合言葉に整備が進められている、現在のニュータウンの姿が凝縮されている。
「千葉ニュータウンオフィシャルガイド」(2016)より転載。
右図は、同書に掲載されていた、ニュータウンの計画人口と計画範囲が分かる図だ。
現在は、北千葉道路と並走する北総線・成田スカイアクセス線の6駅圏内に計24の住区が計画されていて、計画面積1930ha、計画人口143300人となっている。
昭和44年当初の計画では2912haに340000人であったから、いずれも6割以上削減した計画へ変化していることが分かる。
変化後の図は、『千葉ニュータウン事業のあゆみ総論』に掲載されていた34万人計画時代の計画範囲を重ねて描いたものだ。
比較してみるとその変化の大きさは凄まじく、東西の広がりこそ変わらないものの、とても痩せ細っていることが分かる。当初はニュータウン内に8ないし9駅を設置する計画があったというが、いくつかオミットされてしまったのも頷ける痩せ方である。
また、実際のニュータウン内の人口は2016年現在で約9.5万人であるというから、2018年現在で22万人以上が暮らす多摩NTとは大きな差が生じている。
とにかく、事業開始直後から順調ではなかったようだ。
当初の事業完了年度とされていた昭和58(1983)年末における居住人口は、(計画34万人に対して)僅か2.2万人ほどに過ぎず、これ以降計画の延長が繰り返された。事業主体である千葉県及び住宅・都市整備公団(宅地開発公団から引き継ぎ)は、昭和61(1986)年に早くも当初規模の実現可能性が低くなったことを認め、計画面積を現在とほぼ同じ1933ha、計画人口を17.6万人へ大幅に減らす計画の変更を行っている(その後も何度も計画は変更された)。
このように、千葉NTが当初計画を大幅に縮小しなければならないほどに人口を定着させられなかった原因については、今日まで様々な分析が行われている。
昭和40年代末からのオイルショックによる物価高が引き起こした事業推進力の低下や、バブル景気による土地買収価格の高騰、次第に東京都市圏の人口増加が鈍化してきたことなど、様々な要因が絡み合っていたとされる。さらには、東京都心の住人は千葉県ではなく都内にある多摩NTをより好んだとか、都心から北東の鬼門に当たる位置にある千葉NTが敬遠されたとか、そんな説もあるようだ。
こうして、ニュータウン計画が開始から早い時期で行き詰まりを見せた結果、メインストリートの建設が順調に進むはずもなかった。
居住人口20万人に対して1路線がペイするとされる鉄道は、当初の2路線整備(だから複々線用地だったわけだが)は現実的でなくなり、千葉県営鉄道北千葉線は早々にオミットされた。
都心と成田空港まで全線が整備されれば新たな需要が喚起されるだろうが、ただ通過されるだけの千葉県にとっては旨味がそこまで大きくないうえ、道路も鉄道も延伸のための障害はニュータウンの外に山積していた。
都心からニュータウンまでと、ニュータウンから成田までがニュータウン外の計画区間だが、前者は既に都市化が進んでいるために土地の買収に問題が大きく、後者は印旛沼を横断するために環境問題がネックになったのである。
そのような状況であったから、先行したニュータウン内における北千葉道路の整備も、当初計画にあった一般部と専用部からなる8車線を一挙に整備することは当然現実的ではなく、生活道路としても利用可能な一般部の整備が優先された…と私は判断しているが、このことを明示した資料はみあたらない。
具体的にどの区間がいつどれだけ開通したかについては、初期の記録が見当たらないので詳細には分からない。
航空写真で調べた限り、白井と小室地区で最初の入居が始まった昭和54(1979)年には、ニュータウンの西端である白井市の西白井駅付近から白井駅付近まで約3kmの一般部南側車線(対面通行)と、船橋市小室の国道16号から小室駅までの約500mの一般部北側車道(下り一方通行)が開通していたようである。これら2区間が北千葉道路の最初の開通区間であったと考えられる。
なお、この初期開通区間のうち、小室は冒頭に見ていただいた航空写真の範囲である。そしてこの段階で既に未成ランプウェイは存在していたことが分かっている。(昭和52年竣功)
あれは一般部ではなく専用部の入口であるから、未成ランプウェイこそは、北千葉道路の“専用部で最初に建設された構造物”といえる。
@ 昭和54(1979)年 | A 昭和60(1985)年 | B 平成1(1989)年 | C 平成20(2008)年 | D 平成24(2012)年 | E 平成26(2014)年 |
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その後の変遷も、航空写真やネットの上の記述から追いかけてみたところ、おおむね右図のようになった。
先行した一般部の整備は、平成1(1989)年頃までに片側がほぼ終わり、平成20(2008)年までには上下線両側が完成した。
次いで専用部の整備も開始され、平成24年に白井市谷田付近から印西市の印西牧の原駅付近までの6.5kmが専用部として始めて開通したのを皮切りに、平成26年には印旛側に3.5kmほど延伸し、ニュータウン内の東半分については、当初構想された通りの8車線整備が完了している。
前述したとおり、ニュータウンの計画は当初から順調とはいえず、計画規模の下方修正が繰返し行われるような状況だった。
にもかかわらず、北千葉道路の整備は(当初計画よりはだいぶ遅れているとはいえ)着実に進められ、ニュータウン内の生活道路としては過剰とも思える専用部の整備が最近になって加速しているのは、なぜだろう。
この背景にあるのも、成田国際空港の存在であるらしい。
『千葉県土木史』によると、平成13(2001)年8月に政府の都市再生プロジェクト(第2次決定)において、首都圏北部と成田空港間のアクセス時間を大幅に短縮する新たなアクセスルートとして、北千葉道路の計画の早期具体化を推進することが決定された
という。
またこれより先の平成6年には、東京外かく環状道路や首都圏中央連絡自動車道等の高規格幹線道路と一体となって広域的な道路ネットワークを形成し、広域的な地域・都市構造の形成や地域間相互の交流促進、空港の広域交通拠点との連絡に寄与する
として、国土交通省が定めた地域高規格道路の候補路線に採択もされている。
この国の動きは、長らくニュータウン内で完結していた北千葉道路を、ついに域外へと延伸させることとなった。
前述したとおり、平成17(2005)年にはじめてニュータウンの東端から成田市大山までの都市計画(13.5km、完成4車線)が決定され、この区間は千葉県と国が分担して整備を進めている。
その工事は順調に進んでおり、2車線の暫定開通も含めれば、平成31(2019)年3月3日以降も残る未開通区間は終点側の3.7kmを残すのみとなる。(参考:pdf)
昭和40年代に計画された、北総台地を直線的に貫いて都心と空港を結ぶという北千葉道路の地の利は、外環道や圏央道など都心外縁の道路網整備が進んだ今日ようやく、高速交通ネットワークへ組み込むことで活躍の場が生まれると判断されたのだろう。北千葉道路には、真価を発揮できるチャンスがやっと巡ってきている。
私の年齢と同じだけ眠り続けてきた未成ランプウェイの復活は、過去のどの時期より期待できる状況になってきている。
『ミリオンデラックス関東200km圏道路地図帳』(1987.9)より転載。
余談だが、これまでさんざん登場した「北千葉道路」という名前は、道路法上における道路名ではない。
この道路は平成6(1994)年になって、地域高規格道路の候補路線になったが、地域高規格道路というのも道路法上の道路の種類ではない。
北千葉道路の道路法上の路線名は、一般国道464号である。ただし同国道は北千葉道路内で完結しているわけではなく、その一部(大部分ではあるが)に過ぎない。また、国道464号の指定は平成5(1993)年のことで、それ以前は県道12号鎌ケ谷本埜線に認定されていた。(県道12号の認定は今も解除されていないので、北千葉道路の起点から印西市内までは国道と県道の重複区間である)
この地図は、昭和62(1987)年に出版された道路地図だが、北千葉道路が県道として描かれていることが分かるだろう。
ちなみに、「北千葉道路」という記載はどこにもない。
第6節. 北千葉道路の未来図
長い微睡みから目覚めた北千葉道路を巡る動きは近年特に慌ただしく、昭和44年の都市計画決定以来ほとんど動きがなかった起点側、すなわち市川市から鎌ヶ谷市までの区間(約9km)でも整備へ向けた活発な議論が進められている。
『一般国道464号北千葉道路(市川市〜船橋市)環境影響評価方法書のあらまし』(2018.8)より転載。
平成30(2018)年8月に千葉県が公表した『一般国道464号北千葉道路(市川市〜船橋市)環境影響評価方法書のあらまし』(pdf)によると、整備計画樹立の前提となる都市計画決定(変更)の手続きが現在進められているのは、市川市の外環道とのジャンクション(仮称:北千葉JCT)から、船橋市小室の国道16号交差点(本編で取り上げた小室ICだ!)までの約15kmである。
車線構成は、市川から鎌ヶ谷までの未事業区間は専用部4車線と一般部4車線の計8車線、鎌ヶ谷から小室までは(一般部は既設であるため新たに整備する)専用部4車線である。
ようするにこれが実現すれば、外環道から千葉NTの東端まで約30kmにわたって、堂々たる8車線道路が完成することになるわけだ。
さらに新聞報道などによると、千葉県は国に対して起点から小室までの専用部を有料道路として整備することを提案しているという。その目的はもちろん、膨大になる建設費を通行料金によって償還することで、早期整備の実現を計ることにある。
もしこの通りに整備されれば、北千葉道路の西側区間は外環道とジャンクションで結ばれた、外見的にも実態的にも極めて高速道路的な道路となることだろう。
このように、ようやく活発にはなってきたが、まだ開通時期の見通しまでは明らかでない。
既に最初の都市計画決定から半世紀を経ており、用地買収などはある程度進んでいると思われるが、都市に10km近い8車線道路を整備することにどのくらいの時間を要するのか、見当が付かない。
右図は、現在の計画の通りに晴れて全線開通した北千葉道路の姿を想像で描いた。
国道16号以西の専用部は有料道路になる可能性が高そうなので、それを採用した。
この状況でも、専用部の建設さえ行われれば、国道16号から専用部へ進入する未成ランプウェイが活躍できる必然性は揺るがないと思われる。
あいつが活躍する日は、きっとくる!
クロスケ氏撮影提供(2枚とも)
北千葉道路の起点にあたる外環道の北千葉JCTは、市川市中国分付近に設置される計画である。(地図)
そしてこの区間の外環道は、平成30(2018)年6月に開通したばかりである……のだが、この開通したばかりの外環道には、既に北千葉JCTの分岐施設が準備されているという。
千葉県在住の友人であるクロスケ氏(Twitter:@96_suke)が、車載カメラで撮影した分岐部の画像を送って下さったので公開しよう。
内回りと外回りの両側に分岐の準備施設と思われるものがあり、内回りの分岐は開口したトンネルになっているようだ。奥行きは分からないが、すげードキドキする。間違って入ったら駄目だぞ。
外回りの分岐は塞がれた坑口のような壁で、ここから掘削を行うことになるのだろう。突撃したら死ぬぞ。
これらの準備施設が、北千葉道路“第2の未成遺構”とならないことを願ってやまない。
……さらに余談だが、このジャンクションからさらに都心側へ延伸し、首都高速中央環状線の四ツ木付近へと結ぶ、「11号線」という地域高規格道路の候補路線が存在している。別名「高速北千葉線」と呼ばれている構想路線で、もし実現したら北千葉道路の都心アクセスはさらに便利になるだろう。
北千葉道路が、東名高速や中央道と肩を並べるためには、この開通が必要かもしれないが、なかなか果てしない…。
終節. 残された謎と、未成ランプウェイの証言者たち
基本的な知識武装は終わった。最後はまた、未成ランプウェイをコアに追求したい!
構造物の正体は(北千葉道路専用部へのランプウェイ)、分かった。
作られた時期(昭和52(1977)年)も、分かった。
将来の見通しについて(現在は工事に向けた環境アセスメント中)も、分かった。
分からないのは、なぜあのランプウェイだけが、専用部の中で真っ先に建設されて、40年あまりも風雨にさらされることになったのか。
ランプウェイが建設された当時(つまりニュータウンの工事が開始された初期の昭和50年頃)は、一般部と同時かそう遅くない時期に専用部も開通する見通しがあったのだろうか。そうだとすれば、一般部の供用開始後にそれを跨ぐランプウェイを建設することは施工上の困難が大きいから、先に作ったというのは納得できる。まさか40年以上も専用部が開通しないことは想定外だったというのは、十分ありそうに思える説だ。
しかし、今のところそのようなことを書いている文献には遭遇できていないので、これは一つの(有力そうな)説に過ぎない。
そしてまた、未成ランプウェイがある小室ICの構造は、現在の姿と当初の計画の間で違いがあるという話が出てきた。
これは、二人の読者さんから教えていただいた。
一人目はふ〜さん氏である。
彼は、この未成ランプウェイに関連する記述がある文献を知っているとのことで、記憶しているその内容を教えて下さった。
ちなみに文献のタイトルも判明したので、現在入手を手配中である。(しばらく時間が掛かるので先にレポートを公開したが、後日有意義な追記ができることを期待している)
書籍のタイトルは、『絵に描いた街 追跡:千葉ニュータウン パートV』(小田髑「著)です。
この本には、
- 現在供用されている国道16号外回りから北千葉道路下り線一般部へ通じるランプウェイは、当初計画にはなかった道路である。また、建設工事が完了しているにもかかわらず、歩道橋工事のため供用が開始されてない。(この点がメインの記載だったと思います)
- 当初白井市桜台地区や千葉ニュータウン中央地区方面へは、国道16号線白井市根のインターから県道189号線千葉ニュータウン北環状線を経由するルートでアクセスさせる予定であったが、白井市清戸地区までの建設が遅れ開通の見込みが立たないことから、小室に一般部へのランプウェイを新たに設置することになった。
当時の白井市清戸地区には、用地買収に応じない地主が多数いたと聞いてます。
私の記憶にあるのは以上です。
1番目の情報は、未成ランプウェイのことではなく、国道16号外回りから北千葉道路下り線一般部へ入るランプウェイが、当初の計画にはなかったという話しである。
なるほど、冒頭の歴代航空写真の比較も、この話を裏付けているようだ。
小室の北千葉道路下り線一般部は、昭和54年頃には早々と開通した(その後またしばらくは工事のため封鎖されていたようだが)にもかかわらず、平成1(1989)年版でも上記ランプウェイは開通しておらず、平成20(2008)年版でようやく現われている。それを跨ぐ歩道橋と一緒に。
現在、国道16号外回りから北千葉道路下り線へのランプウェイは、途中で一般部用と専用部用に【分岐する】ようになっている(専用部側は未成)が、当初の計画では一般部用のランプウェイはなかったという。
なぜそのような計画だったかは、2番目の情報が明かしている。
当初の計画では、国道16号外回りから千葉NT中央付近へのアクセスルートは、「北千葉道路」ではなく、「北環状線」をメインとする想定だったという。
これは少しばかり不案内かつ不便に思えるが、見るからにメインストリートである北千葉道路への一極集中を回避するために、このような計画が練られていたのだと思われる。渋滞は沿道環境を確実に悪化させるが、沿道は優良な住環境を謳うニュータウンの住宅地であるから、無策な交通集中は必ず避ける必要があったのだろう。
しかし、北環状線の整備も、当初目論見のようにはうまくいかなかったらしい。
原因は白井市清戸地区の用地問題であったというが、平成31(2019)年現在でもこの区間(地図)だけは開通していないので、真実味がある。
北環状線の開通の見通しがなかなか立たなかったために、小室ICの計画を変更して現在の姿になったのだと読み取れる。
このように、小室ICの設計が途中で変更されたという事実は、直ちに未成ランプウェイが未成のまま長時間放置された原因ではないかもしれないが、原因の一つではあるかも知れない。
また、北環状線の整備に対して強硬な反対運動があったという事実は、メンストリートである北千葉道路の規模拡大・交通量増大となる専用部の整備に対しても、反対運動が行われた可能性を疑わせるものだ。多摩NTでも、尾根幹線というメインストリートには当初、一般部と専用部の計画があったが、流血事件を含む強力な反対運動のために、専用部の整備がオミットされた事実がある。千葉NTの場合がどうだったのか、さらに調べる必要があるだろう。
さて、小室ICの設計変更を教えてくれたもう一人の読者さんは、北総線研究のエキスパートである赤電氏(Twitter:@akaden3150)だ。
彼は、彼自身の調査によって入手した設計変更の決定的な証拠を当サイトへ提供して下さった。 刮目せよ!
私自身が一時期小室町に住んでいたこともあり、北総線研究の一環として調査した際の内容をぜひ情報提供いたしたくご連絡差し上げました。
まず、未成になっている16号から降りてくるランプですが、照明こそ設置されているものの現在は夜間も消灯したままになっております。
ただし,舗装していない箇所に雑草が伸びてしまいますので、定期的に草刈りなど行っており、つい先年には耐震補強工事と低木の除去など大掛かりな作業が行われており、完全に放置されているという状況ではありません。
ランプ自体は千葉ニュータウン小室地区の街開きと前後して整備されていますが、過去に供用されていたという実績はないようです。ただ、古くからの小室住民には通ったことがあるという声も聞きます。少なくともここ30年はバリケードがありますので、街開きまもない頃かと思われます。
赤電氏提供
添付の写真は開業2日後の小室駅ですが、車両の左側に降りてくるランプウェイが見えます。
また、件の高架橋は元々の小室ICの計画になかったものです。
添付の図面(下に掲載する)をご覧頂きたいのですが、これは県営鉄道北千葉線(未成線)の許認可申請に用いた線路平面図になります。当時千葉ニュータウンならびに県営鉄道を計画していた県が昭和50(1975)年に作成したものですが、図面には小室ICを含む計画道路の線形が記されております。
(つづく)
湯水のように濃い情報がもたらされているが、下線を付した部分が特に気になる。
まず、メンテナンスの件について。
私が探索した平成27(2015)年1月の時点では、未成ランプウェイの前後には草や木が茂っており、高架橋の耐震補強も行われていなかった。そういう状況を本編で紹介した。だが、探索からこのレポートを執筆するまでの3年の間に、草刈りや耐震補強工事などのメンテナンスが行われたことが判明した。別の複数の読者さんからも、2017年に作業が行われているのを見たという情報をいただいている。これも“活躍の日”が近づいてきた前兆かも知れない。
かつて小室の住人の一人として、未成ランプウェイがある風景を長く見てきた赤電氏の証言には高い信憑性があると思うが、実際に供用されている状況は見たことはないとしつつも、「古くからの小室住人には通ったことがあるという声も聞く」というのは、気になる証言だ。
実はこの件(未成ランプウェイは使われたことがあるか?)については、他の読者さんの証言も二つに割れている。
「此の橋、よく祖父と国道464号線で千葉NTへ向かう際、何時も気になっていたので、此処で紹介されて嬉しく思います。祖父曰く、使っているのは見たこと無いそうです。
」というコメントがある一方、「昔この使われていないランプを使用していた記憶がある、と会社の同僚から聞きました。期間は一年間あるかないかと言っていた気がします。
」というコメントもあった。
私には、どちらが正しいかを断定することはできない。
そもそも、「使っていた」というのが、北千葉道路としての供用ではないことも考えられる。
例えば、工事用車両の出入りであるとか、鉄道の保線関係の車両の出入りであるとか、駅への知る人ぞ知る近道になっていたことがあるとか、考えられる説はいくつかある。
しかし、どのような使われ方であったとしても、使用の有無はとても気になるところである。
証言の後半はいよいよ、小室IC設計変更の決定的証拠の開示である。
いただいた図面の画像に、描かれている道が分かりやすくなるように加工したもの(多少私の解釈で補足した部分もある。原図(4MB)はこちら)を掲載するので、それを眺めながら、その下にある氏の分析を読んで欲しい。
赤電氏提供画像(著者による加工あり)
この計画時点での小室ICは、駅の南側を通る北千葉道路上り線と16号を結ぶランプがあるほか、16号から北千葉道路下り線に至るランプ(←未成ランプウェイのこと)は途中一般部との交差でランプ側を破線にしており、高架で一般部をまたぐ現在のかたちと異なっているようです。
一般部のみ当面供用するという方針が影響したかは分かりませんが、途中で計画が変更されるなかで現在の高架橋となったものと思われます。
なお,北総線小室駅の駅舎や駅前広場との間に架かる自由通路橋の高さは、もともとの計画では同時開業の西白井・白井の両駅と同じ高さとする予定だったそうで、県との協議のなかで位置や高さを変更した経緯がある… と、開業当時を知る古株の北総社員の方から伺ったことがあります。まさしくそれが、ランプの設計変更によって、ランプ橋にあわせて自由通路橋の高さも変えざるをえなくなった過去のことを指しているのではないか、と私なりに考えておりました。
ついに図面が出て来たことで、行き着くところまで行き着いた感が……!
全ては赤電氏の好意であるが、このレポートを執筆した自分を褒めてあげたい気分になる、とても嬉しい出来事だった。
そんな私の他愛ない感想はさておき、この精密な図面が描き出している昭和50年当時の“計画風景”は、期待に違わぬ小室ICの壮大な完成形を想像するのに十分なものだった。
右図は現在の小室ICの地図風景である。
上の図面と見較べると、いくつもの違いを見出すことが出来る。
氏も指摘しているとおり、当初は南側を通る北千葉道路一般部下りと国道16号を結ぶランプが2本計画されていて、現在のように市道を経由しなくてもアクセス出来る計画だったし(最新の都市計画図でも、これらのランプを想定しているような交差点の隅切りが行われているので、計画自体は今も死んでおらず、単に建設されていないだけかもしれない)、専用部上り線から16号内回りにアクセスする長大なランプウェイ(上図中で青く着色)も計画されていたらしい。
ふ〜さん氏に教えられた「計画変更」も、この図面ではっきり確かめられた。
確かにこの図面には、いまある国道16号外回りから北千葉道路一般部下り線へのランプがなく、専用部下り線への未成ランプウェイだけがある。
そしてまたこの図面では、道が平面ないし立体に交差する部分を、実線、破線、線のない部分という3種類の書き方で書き分けているようなのだが、ここに大きな疑問の種が生じている。
現在は国道16号の下をトンネルで潜っている北千葉道路下り線一般部から16号外回りへのランプウェイは、同じ位置にあるものの、16号を跨ぐように実線で描かれている。かと思えば、件の未成ランプウェイは、北千葉道路一般部下りを跨ぐのではなく、潜るように破線で交差しているのだ。
しかし、個人的な印象として、これらの線の書き分けによる上下関係は、誤謬を含んでいる気がしてならない。
というのも、掘り割り構造の底を通る北千葉道路(一般部も専用部も)が国道16号を潜るという全体構造は変わらないのに、上記したようなランプウェイの上下関係だけが現在と逆さというのは道理が合わない。これは図面の過ちか、もともと書き分ける意図がないものを深読みしてしまったか、どちらかではないかと思うのだ。
……それにしても、この図面の小室ICが現実に現われたら、複雑さで利用者を惑わせる“魔物”になりそうだ。
複雑というのはなにも多数のランプウェイが絡み合うものだけをいうのではない、この図面のように行ける方向が極端に限られているものも、土地鑑のない利用者には非常に厳しい。
一見、北千葉道路と国道16号という2本の道路のジャンクションに見えながら、北千葉道路は一般部と専用部に分離されているから、実際には3本の4車線道路が一点でジャンクションしている。よって全方向への全てのランプウェイを実装できないのはやむを得ないだろうが、進める方向が少なすぎて混乱を呼びそうだ。専用部からは行けるのに、一般部からは行けない方向(その逆も)があるのは、本当にややこしいと思う。
実際には、この図面の外にも一般部と専用部を行き来するランプがあるだろうし、うまく案内されれば問題はないかも知れないが…。
いずれ遠くない将来には、現代の道路のプロたちの知恵を凝らしたICがここに誕生することだろう。そのお手並みを拝見したい。
(ふ〜さんさん、赤電さん、その他の情報を下さった皆さん、ありがとうございました!)
いかがでしたでしょうか。
最後は図面の迫力に少し気圧されてしまい、まとまりのない締めになってしまった気もするが、
未成ランプウェイについて現時点で私が語れることは大体語り尽くしたはずだ。
そもそも、未成ランプウェイがなぜ未成のまま放置されていたかという問題は、
図面から分かるはずもないことだ。それでも何かを読み取りたくなる魔力があった。
なぜ、このランプウェイ1本だけが先行して作られたのか。
最後までこの謎は残ったが、たった一つのランプウェイからここまで調べが広がるとは、やはり道路の調べ甲斐は半端ない。
こうして調べて楽しんだ時間は、私と同い年の橋がくれた宝物だ。