2008/5/31 9:06 《現在地》
ここから32kmの塩原新道第二工区の道のりが始まるが、今回歩こうとしているのは、12km先の桃の木峠(全線最高所、海抜1200m)までだ。
現在地の山王峠頂上の海抜は約900mなので、比高は300m。その辺の里山程度の比高に過ぎないが、すぐに登り始めるわけではない。
まずは横川集落の外れで水上沢を横断する必要があり、そこが日光市側の最低地点になっている。
これは塩原新道の偉大なる首魁・桃の木峠への挑戦権を得るための前哨戦である。
まずはここを勝ち上がって、力を見せる必要がある。
まあ、実際には避けようと思えば簡単に避けられる区間だが、完全踏破を狙うなら外せなかった。
「よし!」と一声噛みしめて、歩き出した。
第一目的地は、南東方向に山を下った先にある水上沢渡河地点。実測図から推定される距離は1800m。高低差マイナス60mとなる。
足元には、一人分の幅の踏み分けがあった。
だがこの小さな踏み跡は、その左に横たわる3mほどの平場の端に付いている。すなわちかつての路肩に付いている。
もちろん、放棄されて100年以上を経過した道が、完全に原形を保っている訳はなかったが、ここには確かに見慣れた明治道の雰囲気があった。
人から貰った実測図を頼りに歩き始めたが、ここからはちゃんと“自分の目”でも道を辿ることが出来そうだ。
夢にまで見た“幻の三島街道”が、足下にある。
しかも、復元の手が入っていない純粋な廃道のようだ。
その事に私は感謝した。
あ? れ?
入口から150mほどで、フワッというふうに道が消えた。
この先は、濡れて締まった砂礫質の斜面(山王峠は砂礫質の山である)が30度程度の傾斜で見渡す限り続いていた。樹木も普通に茂っている。
これは普段、山腹と呼ぶものだ。
廃道を廃道たらしめる、道の跡さえもなくなっている。
これが、100年以上を放置された道の実況なのである。
塩原新道を辿るという目的を持っていなければ、ここで終点と判断してもおかしくなかった場面だ。
引き返したと思う。
だが、私は塩原新道の直進を信じているから、そのまま斜面へ分け入った。
案の定、50mほど先からフワッと平場が再開した。
入山してすぐに分かったことがある。
この辺りは広葉樹の二次林で、林床に藪が少なく、見通しが利くということだ。
これは探索には非常に好都合だ。その気になれば、どこへでも歩いて行けそうな気がする。
私が名前を覚えている数少ない野草の一つ、ギンレイソウの群落が路上にあった。別名ユウレイソウという、植物のくせに葉緑素を持たない奇妙なやつだ。私の中の呼び名は「目玉オヤジ」。
9:36 《現在地》
峠を発って30分が経った。
この間、路盤の現存率は5〜6割程度で、平場は断続的に、ほぼ等高線をなぞるように点在していた。
平場以外の遺構、例えば石垣などは全く見られなかった。
ここで初めて水が流れている沢にぶつかった。山王峠から流れ出る峠沢の無名源頭谷の一つだ。
ここまでは県境の稜線に沿って東へ向かってトラバースしていたが、この先は進路がやや南に転じ、県境から離れて横川の方へ下り始める。
ここには小さな橋が架かっていたように思うが、橋台さえ見当たらなかった。
明治廃道の現実を、突きつけられていると思った。
三島通庸が作った道と言えば、万世大路をイメージする人が多いのだろうが、そこにある遺構のうち、明治時代のものはほとんどない。明治の遺構は、峠の初代栗子隧道ほかは一部の石垣くらいで、豊富にある橋や隧道や石垣の大半は、昭和のものだ。
明治廃道とは、基本的には、橋と隧道がない林鉄跡のようなものだ。
それが現実であり、私はそのことを十分理解した上で探索に挑んでいた。何も落胆はない。
辛さを感じていたのは、止む気配のない雨のことだ。
先ほどから風が少し強くなったせいで、頭上の枝葉に溜まっていた水滴が落とされて、大雨となって降り注いでいた。海抜900mに近い山中の気温は10℃以下で、立ち止まると底冷えが酷かった。
「カーブの外側に、馬車が交差できる程度の広場があります。」
私はデジカメのボイスレコーダーにそう吹き込んでいた。
この道には、後から写真を見ただけでは何を撮影したのかまるで分からなくなりそうな、微妙な凹凸だけで作られたものが多かった。
このカーブ外側の広場も、微妙だ。
道幅を拡張する要領で整形された平場なのは確かだが、ではそこに何があったかと言われると、記録がないので答えがたい。
道は、峠沢源頭部の襞のような出入りに忠実に従いながら、左山右谷を決して崩さず、極めて緩やかなペースで南へ下っている。
小さな尾根と沢が、交互に現われた。道形は総じて県境尾根沿いよりよく残っていて、かつて馬車が通ったという3m以上の道幅が感じられた。
ただし、何もかも角が落ちていた。なだらかだった。というか、なだらかな部分にだけ、道形が残る余地があったのだと思う。
それほど古い道だ。廃道としては放棄されてからの経過時間が重要で、仮に江戸時代の道でも、昭和まで使っていたのなら、これよりだいぶ新しい廃道だ。
明治20年代廃止というのは、私がこれまで挑んだ廃道の中では、最古級だ。
9:57 《現在地》
峠を出て50分が経った。
しばらく変化に乏しいグネグネをやっていたが、小さな尾根を越えたところで、景色に変化が現われた。
地形がこれまでになく緩やかになり、初めて杉の植林地が現われた。
ここ20分くらいよく聞こえていた峠沢の底にある現国道の走行音が遠くなり、聞こえなくなった。
峠沢と水上沢を分ける尾根を乗り越したのだった。
実測図に“推定現在地”(当時私はまだGPSという装備を持たなかった)を照らしてみると、ようやく山王峠から約1km地点にあり、水上沢まで残り800mと推定された。
50分で1km……、 遅いな…。
悲しい光景。
スギ林に入ると、道がそのまま林床になった。
これはちょっとショックな景色だった。
ごく低い築堤によって明確に周囲と区別されている路上が、周囲と区別なく単なる林床として扱われていた。
もうお前は道ではないと宣告されている光景だった。
三島憎しの感情論ばかりではなかったと信じるが、三島が県令を辞した直後に塩原新道を廃止した栃木県会の悪意が、このスギ林に根付いている……。そんな被害妄想的思考さえ頭をよぎった。
塩原新道が本当の意味での廃道だということを、強く実感させられる光景だった。
なんだお前、慰めてくれるのか。
かわいい草め。
残酷な串刺し刑のスギ林はすぐに終わり、また清楚な疎林が戻ってきた。
ここで道は意外なことに、緩やかな上りに転じている。
そんな短い上り坂の奥が、大きく左へカーブししているのが見えてきた。
ここで私の足が止まった。
カーブの先に、今回始まって以来の“大きな土工”を予感したからだ。
果たして、左カーブの先には――
10:04 《現在地》
大きな切り通しが待っていた!
たかだか切り通しと思われるかも知れないが、滅多に人目に付かない所に、しっかりとした存在感を保っている遺構を見つけるのは、なんというか、私を待っていてくれたようで、本当に嬉しい。
探索中は、非業の廃道へ過分の感情移入をしているせいもあって、無感動ではいられなかった。
経年を物語る、あらゆる角を落とした姿が、とても綺麗で好ましいものに思えた。
長さ約20m、深さは5〜10mほどのシンプルな形状の切り通しだ。地質が土山だけに、両側の法面は安息角(土砂など流体状のもが自然に崩れたときの最終的な傾斜角のこと)にまで崩れていて、本来あるべき道幅を大幅に狭めていたが、それでも切り通しとしての本分を喪ってはいなかった。
噛みしめるような気持ちで、ゆっくりと潜り抜けると、そこは広場になっていた。
何かしら物語や出会いがありそうな広場だったが、いかなる他者の気配もなく、完全な森閑が支配するところであった。
おそらくこの広場は、切り通しを削った残土で浅い谷を埋め立てた跡だと思う。
チェンジ後の画像は、切り通しを振り返って撮影した。
両側とも安息角に達しているから、これ以上はそうそう崩れそうにない。半永久的な構造物と化していそうだ。
ところで、山王峠から約1.1kmの位置にあるこの無名の切り通しには、ひとつの疑惑がある。
次の「ミニコーナー」をご覧いただきたい。
福島県南会津郡と栃木県下塩谷郡の境 南会津郡糸沢村新道の内山王峠切り割りの図 [栃木18] | |
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この画は一度見たぞ。 ……はたして本当にそうなんだろうか? 私は探索当時から、ずっとこの疑惑を持ち続けている。 この数字の正体については、由一自身が説明をしていないために、後世に推理を呼ぶことになったが、『東北の道路今昔』は、「 実際、収録された128枚の作品のうち、由一の行程と写景地点が共に確定しているものについては、確かにその通りだと感じられるのだが、塩原新道については、現状を最近まで誰も確認していなかったため、写景地点の確定には題名以外に根拠がなく、検証が難しかったと思われる。 もし現地調査の結果、[17]と[19]地点の間に、[18]に該当しうる風景がなければ、私の疑惑は無視されて良かったと思うが、風景が現われてしまった以上、疑惑は晴らせない。 |
はうーー。
思わず萌え息を漏らしてしまった。
掘り割りを抜け、次の左カーブを越えるとそこには、緩やかな地形が奏功したのであろう、完璧に形を保存された路盤が残っていた。
ここは明治17年に作られた道で、しかも利用期間がほとんどないまま廃れてしまった訳だから、これほど「明治時代の馬車道はこういうもの」と断言できる実物はないであろう。
これまでも三島の道を色々見てきたが、その多くは昭和まで修繕や改築を受けながら使われていた道だ。
これほど原形を留めているならば、地面を丁寧に掘り返せば、当時の路面がそのまま出てくるのではないか。
たぶん砕石舗装のような手の込んだものはなく、簡単に突き固めたただけの土路面だったとは思うが。
いやはや、三島好きにはタマラナイ。
彼に近づいている気がするもの。
いま私は、かつてなく、彼の近くにいる気がする(←ちょっと病気だ)。
そして、こんな無垢な出会いの悦びが、この塩原新道にはあといくつ残っているのかと思うと……、にやけた。
三島のサービスタイムが続いている。
道はすっかり林床となっていた。だが、道形の微妙な凹凸は消えていない。
驚くべきことに、水の流れていないごく小さな沢を巻くのに、こんな大きな迂回をしていた。
計算すると、塩原〜山王峠間の直線距離は約12kmだが、道の長さは32kmもあった。
これは、塩原新道を3歩進んでも、このうち2歩はまるで近づいていないということだ。
全ては車を通すために必要な迂遠であったが、歩行者が馬鹿らしくなったのは想像に難くない。
白い樹皮がひときわ存在感を放つシラカバの純林が一時現れたが、写真を撮ろうと思っているうちにすげなく消えて、またもとの森に戻った。
このころ私はボイスレコーダーに、「雨が止みました。少し空も明るくなってきています」と、天候回復への期待を吹き込んでいた。
道中最低地点である水上沢に、だいぶ近づいているようだ。
景色が、山腹から谷底へと変化している。
無名の支流が現れた。
道はふわっと切られ、ふわっと対岸に現われていた。
それから間もなく、「これが水上沢だろうな」と、なんとなく断言できる規模の沢が、右側に近づいてきた。
地図に名前があるくらいの沢なら、これまで跨いできた無名の小川とは一目見て違いが分かるだろうという、そんな緩い予想に照らした“断言”である。
きっと橋はないだろう。
どのタイミングで渡るのか、よく注意していないと見逃すかもな。
ここは意識を集中させて……。
10:37
100mほど川べりを進むと、川の蛇行によって唐突に道が消えた。
ここっぽいな。
対岸は上手く見通せなかったが、状況から架橋地点付近に来たと判断して、川へ降りた。
水上沢……この時点では正確には“水上沢であると疑われる沢”だったが……、前夜からの雨にも拘わらず、透き通った水がさらさらと流れていた。
水上といえば、群馬県にある同名の地名が、首都を潤す利根川の水源として著名だが、こちら栃木県にある利根川支流鬼怒川の支流の支流の小さな支流の水上沢もまた、関東北縁の豊かな森から沁みだしていた。
橋の跡がないか探したが、何も見付けることはなかった。
江戸時代に架けられた木橋がそのまま残っていたという話を私は聞いたことはないが、私が捜しているのもそれと大差ない。
本橋については一切の記録がなく、名前も型式も規模も全く分からない。
架橋地点が分からなかっただけでなく、困ったことに、道が分からなくなった。
水上沢によって、道を見失ってしまった。
橋の痕跡が全くなかったうえに、渡った先の地形が決定的に良くなかった。
水上沢を横断して辿り着く左岸は、ご覧のような平坦な土地だったのだ。
どこでも通れる平坦地で、道形は地形と同化してしまっていた。
実測図を見ると、道の線はここにも描かれているが、実際に目に見えるものはないようだ。実測者もおそらく半信半疑で描いたと思う。
数分、辺りをウロウロしたが、解体された小屋の残骸がひとまとめに置かれているのを見つけた。
道と関係がある……と考えるのは、さすがに都合が良すぎるだろう。
道探しを諦めて、とにかく水上沢から離れる方向へ平坦地を進んでいくと――
10:47 《現在地》
沢から50mほど離れたところで道に出た。
この道は横川集落から水上沢沿いに伸びる上の平林道だ。
実測図では、塩原新道と林道が直交するように描かれているが、塩原新道側の道形は全く見えず、ただ牧草地のような草原を突っ切っている林道があるだけだった。
……う〜ん。
困ったが、見えないものを探すことに固執していては、先へ進めない。
諦めて、とりあえず実測図に従って……即ち林道を無闇に突っ切って、南側の林へ進もうと思う。
(先ほども書いたが、当時はGPSを持っていなかったので、道が見えない不安は本当に大きかった)
今の自分が正しい位置にいる確証が全く持てず、行程のまとめをするような気分でもなかったが、とにかく水上沢の渡河地点は、塩原新道の日光市側区間で最も標高が低い。
標高900mの山王峠頂上から1.8km歩いて、標高820mの水上沢へ至った。所要時間は約100分。
この先は桃の木峠を目指して次第に登っていくが、すぐに本格的な登りが始まるわけではない。長い前哨戦は、まだ終わらない。
桃の木峠まで あと10.2km
塩原古町まで あと30.2km
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