2008/5/31 10:46
水上沢沿いの上の平林道まで辿り着いた。山王峠から約1.8kmの地点であり、この間は全体的に下り基調だったが、序盤の路盤状況が特に悪かったこともあって、通過に1時間40分を要した。これは時速1kmに及ばないペースであり、ちょっと遅すぎる。
急ぎ次の区間へ取り掛かる。
今度は、男鹿(おじか)川沿いの男鹿山林道まで、実測図による推定距離が1.9kmの区間である。地形図から読み取れる地形は、山岳区間というよりも、低い丘を回り込むようにして越えるに過ぎない。
まあ、どう考えても楽な区間だと思うし、時間的にもぜひそうあって欲しいのだが、実はいま最大のピンチを迎えている。
前回も書いたとおり、私は塩原新道を見失っている。
……早急に塩原新道の続きを発見しないと、この探索は失敗に終わる。
土地鑑が全くないし、教えを請える人影もない。集落は2km近く離れている。
いま私が頼れるものは、実測図だけだ。
実測図では、水上沢を渡った塩原新道は直ちに上の平林道と交差して、そのまま丘の際に迫ってから右へカーブし、そこから丘に沿ってしばらく西へ向かうように描かれている。
上の平林道の南側はご覧のような草原で、牧草地か萱場(茅葺き屋根に使う萱を刈るために村人共同で管理した草地)だったような印象だ。
地形が平らすぎて探している道は全く見えないが、水上沢にぶつかるところまでは間違いなく道を辿れていたはずだから、勇気を持って実測図を信じ、林道を外れて丘へ向かうことにした。
お… おおっ…?
もしや、これか?!
草原を横断した先に、匂わせの空間を見つけ出した。
ぼんやりとだが、右カーブの坂道が、奥へ延びている気がする…。
いや、話が出来すぎているか? 実測図の通りだが…………。本当に位置的には申し分がない。
ただ、ここで初めて笹の密生に出会ってしまった。
今まで藪はほとんどなかったので、ちょっと心の準備が不十分で、気が重くなる。試しに入ってミスだった時が、藪は恐ろしい……。
まあ、ここに見えているくらいの藪の丈なら、見通しが利いているのでまだいい方だが…。
よし、突入しよう!
よしよしよし! 間違いなさそうだ!
実測図の通りに道が展開している。
右カーブから始まって、そこから緩やかに丘の下を西へ向かっている。ごくごく緩やかな上り坂だ。
事前に正確(と今のところは信じられる)実測図を手にしていて、本当に良かった。これがなければ、もっと苦労したのは間違いない。
道は、山王峠からの下りと同じように、幅3mから広いところは5m近い余裕を持って、カラマツの森に伸びている。
カラマツはおそらく植林であろう。いつか伐採する時には、この道が役に立つかも知れない。
だが、腿の高さまである笹藪がうっとうしい。せっかく雨は止んできたが、こんなぐしょ濡れの藪を歩いていたら、気分は晴れない。
上の平林道を離れて12分、間もなく午前11時というタイミングで、道の左手にずっと続く丘の頂上に、そろそろ手が届きそうな状況となった。
このまま道を辿っても、あと数分で丘の頂上に達し、乗り越えられるだろう。
そう思った。
先が見えたところで、ちょっとだけイタズラ心が出た。
実測図を見る限り、尾根の裏側にこの続きの道があるはずだ。
尾根に遮られて全く見えないが、ちょっと確かめてみよう。
私は尾根に向き直り、笹を掴んでよじ登り、てっぺんへ上がってみた。
あはは…。緩いなぁ。
思わず笑ってしまった。
そこには期待したとおりの景色があった。
尾根に立って反対側を見下ろすと、そこにもこんなに鮮明な道が横たわっていたのだ。
もちろん、振り返ればいままでいた道も見えた。
ちょっとだけ道を支配したような、いい気になった。
こんな小さな尾根、少し頑張れば掘り割りで打ち抜けそうなものだが、敢えてそうしなかったのは、やはり予算の問題なのか。
11:00 《現在地》
一度は先を見た私だったが、そう易々とショートカットを犯すつもりはない。
安心だけを貰って、すぐに元の道へ戻った。
そして再び歩き始めると、すぐに峠が現われた。
90度の左カーブを前後に従えた、掘り割りとも呼べないほどに緩やかな凹みの峠。
ここが水上沢と男鹿川の間にある無名の峠(海抜850m)である。
藪が浅く居心地のいい森ではあったが、全く視界は利かないし、まだ疲れるほどは歩いてはいなかったので、立ち止まらずに進んだ。
由一もここでは筆を執らなかった模様。
ということで、速やかに尾根の男鹿川側へ、歩行継続。
少し前にイタズラで見下ろした所も過ぎて、左山右谷の道をほぼ水平に進む。
路上と外の区別なく、カラマツが植えられていた。形は鮮明でも、道としては扱われていない。
実測図によると、この先の1kmほど、男鹿川を渡る地点までは、全線中で最も平坦な地形を通過する。
そんな地形の変化を予期しながら進んでいくと、なるほど周囲の起伏がみるみる薄れていくではないか。
ああああ、あ、良くないぞ。
これは良くない。
また、道形を見失っていまう流れだ……!
うわーん(困)。
見渡す限り平坦な森に入ると、あっという間に道を見失った。
ここは森で見通しも利かないので、変に進行方向を弄ると、たちまち迷いそうだった。
当時はGPSを持っていなかったので、森の中で迷うのは普通に危険だし、時間のロスが怖かった。
一応、コンパスだけは装備していたので、とにかく東へ進むことを意識することにした。
実測図を見る限り、とにかく平坦地を東へ進んでさえいれば、いずれ男鹿川に突き当たることになる。
そして、もうこれ以上は平坦地で川を躱していけないとなったところが、男鹿川の渡河地点(架橋地点)であるように書かれている。
……黙って東へ向かう。
11:19 《現在地》
突然、視界が開けた。
谷が迫ってくるより先に、広い畑が目の前に広がった。
予期しなかったが、男鹿川右岸の平らな丘の上には畑が拓かれていた。
背後に聳えるお椀を伏せたように見える山は、海抜1109mの水上山だ。実質的な山の高さは250mほどである。
畑に人影は見えないが、間違いなく“生きた畑”だ。
黒土が露出した地面を見て、私はホッとしていた。
森の中を不安に彷徨うことは、これでなくなった。
ここには麓から(地形図にはない)道が来ているはずだ。
まっすぐ東へ向かおうとすれば、畑を横断しなければならなかった。
塩原新道は、耕されて消えているのだろう。
畑を迂回して、さらに東へ進む。
畑に出て周囲を見回した私は、愕然とした。
あの雲中に、桃の木峠が…!
目指す峠がある鞍部そのものは、雲に隠れて見えなかった。
だが、せり上がるような高さと、牙城のような奥行きは、心に見えた。
ここで私は3年越しの獲物、桃の木峠を初めて見た。雲に隠された未踏の峠を見た。
厚い雲のせいもあるのだろうが、峠でありながら、その向こう側を全く想像することが出来なかった。
塩原に通じているらしい。塩原はそれなりに慣れ親しんだ土地だった。だが、想像ができない。
この峠はまるで、山に雲が閂をする、重い扉のように思われた。
なぜ、峠の向こうが想像できないのか。
それは、私が今日、峠を越えるつもりが少しもないからだ。
だから、恐ろしいものがきっと多く待つ峠の向こうには、まだ無関心でいられた。
今日の峠は峠ではなく、まるで登山のゴール、頂のような存在に思われた。
探索を二度に分けようと思ったのは、大正解だったと思う。
もし、この重々たる山稜の裏側に、なお20kmもの廃道を歩まねばならぬ定めなら、
私の度量を超えた敵の姿に、戦意を保つことが難しかったかも知れない。
それほどに、桃の木峠は私に大きく見えた。明治の厳父、三島通庸のイメージそのものだった。
なお、もし快晴だったら、峠はこのように見えただろう。
塩那道路の間近に聳える日留賀岳から急激に高度を下げる那須連山の主稜線に峠はある。
峠として人に踏まれることを宿命付けられたかのような、山脈中の稀な低地となっている。
11:24 《現在地》
畑を迂回していくと、台地の谷側の縁を通る農道を見つけた!
味のある廃車体も一緒に!
実測図には、台地をまっすぐ東西方向へ貫く塩原新道が描かれているが、現実の道としては、男鹿川沿いの林道(男鹿山林道)から畑へ上がってくる、この轍の薄い農道しか存在しない。
おそらく農道と塩原新道は、画像に書き足した線のように鋭角に交差する位置関係にあると思われるが、後者は全く気配がない。
畑の一画に、国有林であることを示す標柱が立っていた。
一帯は男鹿山国有林と呼ばれているが、地形図には「官行」という小地名が描かれている。
これが三島の道路工事に関連した工事出張所のあった場所に由来していたりしたらムネアツなんだが、おそらくそうではなく、大正以降に国有林経営の代名詞的に使われた「官行造林」という用語と関係がありそうだ。
広い南向きの官行の台地。
ここは山中にありながら畑として使われていることからも分かるとおり、陽当たりに恵まれた好立地だ。
もし、塩原新道が期待通りの発展を遂げていたら、おそらく住みつく人も出て来て、会津西街道沿いの横川宿(現横川集落)のような、塩原新道沿いの横川新宿とでも呼ぶべきものが誕生したのではないだろうか。 ……妄想だけどな…。
さて、これから男鹿川を横断する必要がある。
ただ渡るだけなら、農道から林道に迂回して行けるが、塩原新道の橋が架かっていた位置をぜひ特定したい。しかし現状また道を見失っているので、架橋地点へ通じる“続き”を見つけ出す必要が。
廃車体、目印としてバリ優秀!
廃車体があった所から、農道を斜めに渡って、川側の森へ踏み出した先が――
道の続きだった!
この直後、私は男鹿川の架橋地点に辿り着く。
橋梁は、残っていなかった。
驚愕は、残っていた。
男鹿川右岸の陽当たりよい台地から、川べりの段丘崖斜面へと進んだ。
急傾斜地に入ったことで、台地上では痕跡を失っていた道が、再びあぶり出された。しかも、軽トラくらいなら今すぐ通れそうに見える、とてもしっかりとした路面だった。
年を経た廃道は、大量の落葉が土となって蓄えられるため、雨の度に泥濘むことが常だが、ここは小粒の砂利が突き固められたような路面が所々に露出していて、もしかしたら三島の時代の砂利舗装ではなかろうかとテンションが上がった。
この先については、実測図を見るまでもなく、展開を想像出来た。
桃の木峠へ向かうためには、どこかで男鹿川を越える必要があり、山王峠を出ておおよそ2時間、私はようやく川べりに迫りつつある。
明治の架橋技術が耐えられる程度にまで河床に近づいたところで、道は対岸へジャンプするだろう。
ただ、この橋が現存して架かっている期待は、残念ながら皆無である。
いくら私が楽観主義でも、そのくらいの常識はあるつもりだ。
そして、現状まだかなり水面との落差がありそうで(路肩から下を覗いても全く水面が見えない)、橋跡地まではまだ少しかかるだろう。
11:34
農道を外れて川べりの森へ入って5分後、川の音が急に大きく聞こえてきた。
川というよりも滝を思わせる轟々という音が、前方方向の谷底から突き上げるような威圧感をもって響いてきた。
地形図によると、すぐ上流の男鹿川には砂防ダムが描かれているので、その音だろう。
しかし、川との高度差は、まださほど埋まっていない感じだ。
道は緩やかに下っているが、そのペースが緩やか過ぎるのである。そのため、なかなか谷底が近づかない。依然として路肩から水面は全く見えない状況のままであり、かなりの高度を保っている。
こっからどうやって降りていくつもりなんだろう。
11:36 《現在地》
え?!
ええーっ!?
唐突な終点の出現にビビる。
読んでいる皆様はきっとピンとこないだろうけれども、私の中では「あり得ない」と思っていた早いタイミングでの“終点”の出現に、驚いた。
まあ、終点というか、正確には橋の袂ね。
男鹿川を渡る橋の袂。
ただ、橋はどうせ残っていないだろうという意味で、終点と表現した。
で、何が問題かっていうと、ここが橋の袂だとすると、川からあまりにも高すぎるのである。
……でも、まだ皆さんピンと来ていないよね? 高すぎるって、そんな驚くほど高いの? って思ってるよね。
はい、こんなに高いんです ↓↓↓
道の突端から、木々の隙間を狙って、男鹿川の対岸を撮影した。
対岸までの最短距離は目測で約100m。
さすがにこれを明治17年の木橋が一跨ぎにするとは、思えない。
畑から約300m、谷に沿って緩やかに下ってきた道は、橋に向かう時のように90度右へ折れて唐突な終点を迎えた。
写真はその終点から谷底を覗き込んで撮影したもので、橋台も何もない。
妙に存在感のある岩尾根が川の方へ突出していたが、それが道路の一部とも思われない。
高すぎて水面も見通せないし、ただ滝の落ちる激しい水音が上流方向から聞こえ続けている。
本当に何もない……、まるで道の終点だった。
だが、実測図に描かれている線は、ここから対岸の同一高度までまっすぐ100mほど伸びて、男鹿川の谷を一跨ぎにしている。
したがって実測図の筆者(日光森林管理署のOBであるという)は、ここが男鹿川を渡る橋の袂であるという判断を下しているようだが、“私の常識”は直ちにこれを否定しにかかった。
もちろん、ここに橋台でも残っていれば、疑り深い私とて素直に橋の存在を認めたであろう。
実際、明治10年代でも、この規模の渓谷に橋を架ける技術を、我が国は持っていたかも知れない。
たとえば、明治26年に官設鉄道(後の信越線)の横川軽井沢間が開業した際、この谷を渡るような規模の橋を煉瓦アーチ橋として架設し、現存している。
また、明治36年開業の奥羽線板谷峠にも、やはりこのような規模のトラス橋が架設された記録がある。
……しかし、それより少しだけ古い明治17年という時期に、煉瓦アーチや鋼鉄トラスよりも遙かに脆弱な「木」という素材(なぜこの橋を予め木橋と断定していたかは、後述する)で、この谷を一跨ぎにする橋を架設していたとは、証拠がなければ信じることが出来なかった。
そう。私はここで、推理ドラマの終盤で犯人がよく口にする「証拠を出せ」を、目の前の風景に向かって唱えることになった。
橋がここに架かっていた証拠を、私は見たい!
そうでなければ、橋なんて信じがたいッ!
終点は狭く、文字通りの行き止まりだったが、前進へ向けて私は動き始めた。
まずは、やや下方にある岩尾根へ向かい、そこから周囲の地形を観察しようと思った。
立ち木に掴まりながら慎重に斜面を下って、岩尾根の入口を目指す。
少し下ったところで、上流方向の視界が木々の隙間に開けた。
そこには先程来の大きな滝音の正体、二段になった大きな砂防ダムが見えた。
その落差に驚いた。砂防ダムのではなく、これから渡ろうとしている谷底までの落差にだ。
落差30mはありそうだった!
これもほぼ同じ位置から、少しカメラを上に向けて撮影した写真だ。
写っているのは、砂防ダムの左側にある此岸の大岩壁である。
まるで隧道みたいな形の巨大穴が見えるが、絶対に道はあそこへ行っていないので安心して欲しい。
(いわゆる、“神の穴”案件である)
景勝地としての知名度をほとんど持たない男鹿川渓谷の秀美を、三島の道は特等席で眺めていた。
もしここに橋が実在していたなら、橋上の眺め、かくにやあらん。
岩尾根の入口に辿り着いた。
見晴らしを得るにはまさに絶好の地形だったが、深入りするのは止めておこう。
人工物ならまだいいが、こんな濡れた自然の痩尾根を歩くのは自信がない。
というか、先端まで行ったから対岸にワープできるとかではないのである。
ここまで降りてきたことで、ようやく直下の谷底の様子が、見え始めた。
写真左の黒っぽい岩が、直前までいた岩尾根だ。
私はそこから下流方向へトラバースし、谷底が少しだけ見える位置を見つけた。
ピンクの枠の辺りに、谷底の対岸部分を通る林道が見えている。
次の写真は、枠内の望遠。
林道の分岐地点が見えた。
地形図にも分岐は描かれており、男鹿川沿いの男鹿山林道と、
ウドが沢の上流(桃の木峠方向)を目指す横川林道の分岐である。
それと、谷を横断する電線らしきケーブルも見えた。
電線を眼下に見下ろすような高さに、明治の橋が架かっていたということを、
今まさに私は(否定的に)疑っているわけだ。
それから私は、また斜面を移動して、
直前に見つけた“電線らしきケーブル”の渡り口を見つけ出した。
位置は、道の突端よりだいぶ低い、特に目印のない下流側の斜面の一角だ
ケーブルは驚くべきことに、電信柱ではなく立ち木の根元に固定されており、
通電しているか不明だが、絶縁で被覆された電線が対岸に向かってピンと張られていた。
なぜこんな場所に電線があるのか分からない。しかし、明治の道とは関係なさそうだし、
深く追求する余力もなかったので、ただ目印として使うだけで、正体の追求はスルーした。
11:56 《現在地》
想像より遙かに高い位置で道の終端に接し、咄嗟に橋の存在を疑った瞬間から20分後、私は谷底近くで男鹿川を渡る男鹿山林道の男鹿橋の袂に辿り着いた。
この間、どこをどう通ったかを詳しく図示することは出来ないが、とにかく足を濡らさず対岸へ渡るにはこの橋を使うしかないということで、適当な斜面を踏破して20分かけて辿り着いたのだった。
久々に目にする舗装路が頼もしく、心が穏やかになるのを感じた。
ただ、ここより少し下流のキャンプ場で一般車両の通行が規制されているため、誰かが通り掛かる可能性は低い。
男鹿橋は、銘板によると昭和39(1964)年竣工だそうだ。
塩原新道が男鹿川を渡る橋は明治17(1884)年竣功なので、80年もかけ離れている。
そしてこの両者は、時代だけでなく、その位置にも全く関係性を見いだせない。
川沿いの林道橋として常識的なスケールで存在している男鹿橋と、非常識な巨大橋を窺わせる唐突な末端だけを見せて、その姿を想像する手掛かりさえ与えてくれない夢幻のような明治の橋の対比だ。私は狐につままれてでもいるのだろうか?
だが、桃の木峠を目指す以上、塩原新道が対岸へ進むことだけは確定しているので、私は探索のステージを区切る男鹿川を渡った。
高さ約10mの林道橋のすぐ下流に、田の字形をした古いコンクリート橋脚が残っていた。
旧橋の残骸であろうが、明治時代の橋ではあり得ない。
この橋脚の正体については手掛かりが少なく、探索当時から長い間、単なる林道の旧橋だと推測するよりなかったのだが、最近になって林野庁が公開した国有林森林鉄道路線一覧表により、男鹿川林道(およびその支線であるウドガ沢支線)の存在が明らかになったため、林鉄用橋梁の遺構という可能性を生じることになった。
もっとも、これらの路線は開設年、廃止年、全長の全てのデータが不明であるため、やはり正体解明には至っていない。
とにかくはっきりしているのは、この旧橋も明治の塩原新道の橋ではないということだ。コンクリート橋脚の橋は、明治17年竣功ではあり得ないからだ。
12:05 《現在地》
男鹿橋を渡って200mほど進んだところが、先ほど右岸の岩尾根付近から見下ろした林道分岐地点である。
私はこのあと最終的には横川林道の方向へ進むことになるが、塩原新道が男鹿川を横断する橋の位置を特定すること、谷を渡る橋が存在した証拠を掴むという大事な仕事が、まだ終わっていない。
実測図では、ちょうど2本の林道に挟まれた斜面の上方に、塩原新道を示す赤いラインを描いている。
そりゃあ、さっきの右岸のあんな高い位置から渡ってくるというのなら、当然この左岸でも同じだけ高い位置から始まるという正論だが、それはあまりにも当時の橋の常識を無視した暴論ではないのだろうか?
あの高さに明治の木橋があると言われて、ああそうなんですねで済ませる奴、よほどの大物か無能かだ。私はこれを読むみんなに無能とは思われたくない。
ウソだろ?!
実測図が“予言”した位置に、斜面を横切る線が見える…。
桃の木峠まで あと8.4km
塩原古町まで あと28.4km
この状況では、認めざるを得ないかもしれない。
塩原新道は、男鹿川を、
推定全長100m
推定高さ30m
そのような信じがたいほど巨大な木橋で横断していたことを。
川を挟んだ両岸の概ね同一とみられる高さに、道形とみられるラインの存在を確認してしまった以上、実測図に描かれた通りの位置に、上記のような巨大橋が架かっていたことを、認めざる得ないということになる。
こんなに高い位置に、本当に明治の橋が架かっていたのか。
… … … …。
ジタバタしないで、いい加減認めたらどうだ。
見えない男達に、そう言われている気もしてきたが、
橋の直接的な遺構をまだ何も見つけていないことが、
簡単に私が納得できないことの主な理由であった。
何か重大な手掛かりを、見逃してはいないか?
ここで私が安易に納得してしまって、いつもの大きなフォントで、
「私がこれまで見たことがないほどの巨大な木橋がここにあった」
と結論づけてしまえば、もしも間違っていた時、恥ずかしいことになるぞ…。
ヨッキれんは明治時代の土木技術の常識というものをまるで知らないと疑われかねない。
悪あがきかもしれないが、橋の直接的な遺構を求める私は、林道の路肩を踏み越えて、渓声の轟く河床まで降りてみることにした。
草の茂る急斜面を15mばかり下ると、やや黄色がかった狭い河原を透き通った水がさらさらと流れていた。
川幅自体は10mほどで、足を濡らして良いのであれば、簡単に徒渉できそうだった。
そして、残念ながら、ここにも橋の存在に繋がるようないかなる遺構も見つけられなかった。
橋脚か、そしてそれを支えていた岩盤の穴、どちらもない。
砂防ダムのすぐ下だというのに砂利が多く、橋脚の基礎となるような岩盤がまるで見えなかった。
(→)
谷底から見上げた空は鬱蒼とした両岸の樹林に狭められ、林道さえ見えない。
したがって、さっきまでいた右岸の塩原新道突端部も当然見えないが、その位置や高さを推し量る目印として、例の“電線”が見えた。
(参考:【別アングルで見た電線】)
ここで間違いなく言えることは、あの電線よりさらに10mくらい高いところに、右岸の突端があった。
その位置は……
電線よりはもう少し上流で……
えーっと…… あっ!
(←)
たぶん、あそこに一箇所だけ見える岩場が、右岸突端のすぐ下にあった“岩尾根”の一部だと思うのだ。
“電線”との位置関係からも、まず間違いないと思う。
となると、
(←)橋の位置はこんなカンジだ。
長さ100m、高さ30m、型式は木橋。(木橋であることは最初から分かっていた、理由は後述)
……マジかよ。
結局、河床でもなんら遺構を目にすることはなく、林道へ戻った。
巨大な橋は、その巨体を支えるべき橋脚も含め、まるで霧のように忽然と消えてしまった。
そして次は林道の上へ斜面をよじ登った。
目的地は、先ほど分岐地点で目にした林道上部のラインだ。
おそらくそこに、塩原新道の続きの道が存在している。
獣道さえ見当たらないただの斜面だが、例の電線を目印にして登っていくと――
12:24 《現在地》
道だ!
下から見えたラインは、やはり目の錯覚ではなかった!
実測図に道が描かれている場所には、確かに道にしか見えない平場が。
それと、道の始まりの位置、つまり左岸橋頭部に、大きな広場があった!
これは、いよいよ…
完全に観念した。
橋はここに架かっていた。
結局最後まで、橋の直接的な遺構は見つけられなかった。
橋がなく、ただ両岸で道が途切れているというだけの状況だ。
橋の痕跡がないのに、なぜここに橋があったと断言する気になったかというと、
酷似し過ぎている ↓↓↓ 認めざるを得ない。
由一の絵にはっきりと描かれている橋の欄干だが、由一がこれを本当に目にしていたかについては、疑惑がある。
由一は明治17年の4ヶ月間に及ぶ写景旅行中に、この塩原新道を1往復半も歩いている。よって、橋も3度渡っていることになる。
なぜ同じ道を何度も歩いたのか。その理由は、彼のお目付役として写景旅行に同行していた三島の腹心・伊藤十郎平に対する、三島による次の指示から分かる。
「但シ塩谷郡ノ内関屋ヨリ山王峠ニ至ルノ間ハ工事半バニ付キ帰路再度巡回スヘキ旨命セラレ候」
由一と十郎平による一度目の塩原新道の通行は、8月11日である。これは開通式(10月23日)の2ヶ月も前であり、現場は工事のたけなわだったはずだ。
そして、福島と山形の写景を一通り終えた後の11月初旬に、二人は前述の三島の指示に従って、三島村から山王峠まで塩原新道全線を往復し、このときに初めて写景を行った。
この区間(塩原〜山王峠)の工事は5月30日に起工し、9月半ばに「一部橋梁を残して」完成したと記録されている。そして開通式は10月23日である。
11月に十郎平が三島に対して送った復命書にはこうある。
「但シ橋は架橋工事中ナリ其工ハ橋板ヲ張ル最中ニアリシナリ」
開通式を終えた後にも拘わらず、いずれかの橋は、まだ架橋工事中だったというのである。
これだけだけと、未完成の橋が男鹿川橋だとは判断できないが、翌年明治18年7月の臨時県会(塩原新道の廃道化が決定された県会)で行われた、雪解け後の塩原新道の現状を報告している次の証言に注目して欲しい。
「また塩原温泉より山王峠に達する道は既に落成せしも、男鹿川に架ける所の橋のみ未だ落成せざるなり。その橋の如きは欄干も有らざれば、単に柱木に板を乗せたる迄なり」
上記の報告が事実であるなら、由一が欄干や親柱を描いているのは、おかしいということになる。
さらにいえば、大勢の通行人たちが行き交っている姿も、誇張を孕んでいる可能性が高くなるだろう。
この橋は、壮大すぎたゆえか、県会が廃道化を決定する最後の時点まで、完全な形では落成しなかったのかもしれない。
にもかかわらず、由一は完成した姿を、完美の光景を、想像で描いた可能性が高い。
そこに三島の命令があったのか、由一の画家としての矜持がそうさせたのかは分からないが、最終的には由一の筆が、完成しなかった橋の完成した姿だけを残す結果になったのだろうか。
しかし、こうなると気になるのは、「欄干も有らざれば、単に柱木に板を乗せたる迄なり」
という状況(上図参照)のままで、10月の開通式典を迎え、そこで太政大臣三条実美を筆頭とした約400名の大パレードの車列を通していたということだ。
おいおい……、 相変わらず無茶が過ぎるぜ三島っチ!
高さ30m長さ100m18連ティンバートレッスル。
私の常識を超えた巨大木橋が、明治17年から18年までの僅かな期間、完成に近い形でここに存在した。
私が見知った巨大木橋との比較では、あの定義の木橋の1.5倍以上、旧落合橋の2倍を超える規模だ。
………非常識だ。
橋の規模が、という話ではない。このような峡谷に、多数の橋脚を浸す橋を架けることが、非常識だ。
森林鉄道のような、伐採終了までほんの数年使うだけの橋ならばよいと思うが、
国道級の重要路線の橋として、この場所に架けるべき型式ではなかったと思う。
三島のお家芸であった“薩摩の石工”を使い、綱取橋のような石造アーチを架ければ良かったと思うが…、
予算的にも、工期的にも、このティンバートレッスルは妥協の産物だったのではないかと私は思う。
これはあくまで私の印象だが、三島はこの橋を、塩原新道という道が開通して使われているという
既成事実作りのために、即席で仮に作ったのではないかと思うのだ。
橋は三島の手から、栃木県民に託され、そして即座に捨てられた。
さて、 次はいよいよ、
桃の木峠への登攀開始だ!
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