《周辺地図(マピオン)》
あの激闘の続きを、始めよう。
三島通庸が県令として最後に手がけた塩原新道は、栃木県那須塩原市三島と福島県境山王峠を結ぶ総延長52kmの馬車道路で、このうち塩原古町から終点山王峠へ至る約32kmは、途中集落皆無の山岳区間であって、かつ、本邦屈指の規模を誇る廃道だ。
前回の第一次探索では、終点の山王峠から、塩原新道の最高地点である那須塩原市と日光市の境である桃の木峠まで、約12kmを踏破した。
今回は、その2ヶ月後に行った“第二次探索”である。
第二次探索の踏査目標は、塩原古町から桃の木峠までの約20km。これを1日で踏破することを目指す。
そのために行った事前準備についても、第一次探索に含まれているので、ぜひ先にご一読いただきたい。
塩原新道の歴史解説については、第一次探索レポートの初回で行っているので、ここでは復習の簡単な説明に留める。
明治16(1883)年10月に栃木県令へ就任した三島通庸は、前任地である福島県令時代に自らが建設した会津三方道路の終点山王峠(現在の国道121号)と、陸羽街道(現在の国道4号)上の三島村(那須塩原市三島)を結ぶ塩原新道(全長52km)の建設を計画、翌17年1月に早くも着工した。
彼は予算不足を理由に反対する県議会を無視して、わずか9ヶ月の間に延べ37万人の人力を投入し、一気呵成に建設を進めた。その結果、同年10月23日に開通式典を挙行し、翌24日に開通パレードを行っている。三島自身もこれに参加しているが、彼にはこの3日前に「内務省土木局長」の辞令が下っており、明治7年以来10年間に及ぶ波乱に満ちた県令生活にピリオドを打つ最後の晴舞台となった。
開通パレードは、80台の人力車を各4名の車夫が挽く、総勢400名の壮麗な大行列であったという。
貴賓として参列した太政大臣・三条実美は、その日記「東北御巡行記」に次のように書き残している。
翌十月二十四日、塩原出発六時、これより道中最大の難所、善知鳥沢流域の桃の木峠越え山王峠までの八里(32km)の行路。大畑の高橋、桃の木峠、男鹿橋、山王峠に至るころ天候急変寒波激し。糸沢、川島村を経、田島着八時に着く。
随想舎刊『塩原の里物語』より
短い内容だが、この時のパレードは塩原新道のうち塩原古町〜山王峠間における現役時代唯一の通行記録と呼べるもので、記された2つの地名「大畑の高橋」「桃の木峠」は貴重である。
なお、この記述の範囲である塩原から田島までは約50kmあるが、これを14時間で通行しているから、人力車は時速3〜4kmで通り抜けたことになる。しっかりとした道であったことが窺える速さだ。
三島が県を離れた後の塩原新道の処遇は悲惨だった。
近世以前からあった塩原街道の改良であった三島〜塩原古町間(約20km)は県の管理に引き継がれて現在の国道400号の元になったが、三島が独断専行で切り開いた塩原古町〜山王峠間(約32km)については、明治18(1885)年7月の臨時県議会で、廃止を決議している。
そのため、桃の木峠を含む山岳区間は開通から1年にも満たない短期間で放棄された。
三島通庸“最後の道”に対する“最終決戦”を、ここに布告する!
夜をやり過ごして明けに発つ
2008/7/30 20:45 《現在地》
私は2ヶ月前と同じ車によって運ばれ、ここに降ろされた。目の前には灯りを点すコンビニエンスストア。
ドライバーである恩人は、温かい激励の言葉を残してもとの道へ引き返していった。残されたのは私一人。
ここは「ココストア中塩原店」。
今回の探索における唯一の補給所であり、出発の地である。
今ここで買うべきものは、明日一日を歩き通すための食料・飲料の一切だ。
出発は明日の朝。
夜明けと同時に歩き始める予定だ。
気象台発表の明日夜明け時刻は、午前4時45分(東京)で、まだ8時間もある。
チェーンは違えど慣れ親しんだ前職の地であるコンビニは、とても居心地が良さそうだったが、さすがに立ち読みで朝まで過ごすわけにも行かない。早々に買い物を済ませ、後ろ髪を引かれる思いで、店を出た。
目の前の国道400号には街灯は見当らず、車通りもおそろしく少ない。
これから適当な野宿ポイントを見つけるまで、少しでも明日の予定ルートを前進することにした。
コンビニから200mほど歩いたところで、道路標識に従って右折し、栃木県道266号中塩原板室那須線へ入る。
すぐに箒川を渡ると、道の両側には民家が建ち並ぶ中塩原集落。ここには疎らに街灯が設置されている。
さらに200mほど進むと、右にホテルの駐車場があった。駐まっている車は疎らだが、敷地内にも街灯が灯っていた。
そして、その一角の木立の下に、小さなベンチがある石畳の休憩所を発見する。屋根はないが、天気がよいので問題はないだろう。
ここで生まれて初めてのテントも屋根もない、純粋な野宿することにした。
20:58 《現在地》
アルミ箔のような「エマージェンシーシュラフ」に入り、その状態でさらに一人用の簡易テントにくるまった。だが、軽量化のためポールは持ってこなかったのでテントらしい形にはならない。あくまでも寒さを凌ぐために包まるだけ。この組み合わせは、快適さを度外視して軽量化に特化した、今回のための特製野宿セットだ。合計重量は数百グラム。
それだけに寝心地は最悪だった。クッション性が皆無で背中が痛い。通気性がゼロなので暖かいが、汗が籠もって気持ち悪い。でも、前日の仕事の疲れもあってか、眠りに落ちることが出来た。夜中に数え切れないほど目を覚ましたが、とにかく夜をやり過ごせば良いと割り切った。
なお、コンビニでの購入品は以下の通り。1リットルペットボトルは大好物の「レモンウォーター」2本、粉末「ポカリスエット」2袋、おにぎり2個、菓子パン2個、総菜パン2個、「ピュレグミレモン」1個、カロリーメイト1箱。
おにぎりは明日の朝ご飯で、パン類は行動食。残りはおやつと非常食だ。夏場の探索で飲料は何リットルあっても不安なので、重量に有利な粉ジュースをメインに携行するようにした。しかし、いろいろ手探りだった。
2008/7/31 4:45 0km(←累計距離)
セットしておいた携帯電話のアラームで目覚める。
辺りはまだ薄暗いが、見上げた空は青いスクリーンのようで、夜明けが近くなっていた。
今日はこれから、約18km離れた桃の木峠へと向かう。
あんなに「遠い」と思った前回よりも、今回はさらに6km以上も遠くにある同じ峠を目指す。
高低差もより大きい640mである。
しかも、今回は前回のように有志が整備した道ではなく、状況不明な廃道が大半とみられる。これが最大の不安要素だった。
また、当然、旅は峠で終わるのではない。そのまま前回開発した“下山ルート”を使って横川集落へ越え、野岩鉄道「男鹿高原駅」まで歩き通さねば帰宅できない。
その部分も含めた本日の必要歩行距離は、推定27km前後に達する。
これを100%自分の足だけで歩ききらなければならない。協力者はいない。
1日の徒歩探索計画としては自己最長であり、明治の旅人に負けない健脚を発揮しなければならないだろう。
今回私が、「三島との最終決戦」の意気込みで臨んだのも、伊達ではなかった。
汗蒸した寝床をぐちゃぐちゃに畳みザックに詰めてから、「梅おにぎり」を食べた。
午前5時、出発。
5:02 0.1km 《現在地》
駐車場の前の県道266号を、昨日の続きで歩き始めると、すぐ二手に分かれた。
そこは一見、何の変哲もない交差点だが……
……という、オブローダーにとっては地獄(天国?)のような分岐である。
そしてこの両者には、県令(知事)の強力なリーダーシップのもとで生み出されたという共通点もある。
片方は明治の三島通庸で、他方は昭和の高度経済成長期に栃木県知事を歴任した横川信夫氏が、日光と那須を結ぶという大観光圏構想を実現するために夢見た全長60kmに及ぶ未完のスカイラインである。
左右合わせて90km近い廃道が接しているわけだが、もしいくつかの歴史が変わっていたら、ここには【こんな青看】が設置されていた可能性がある地点だ。
この分岐で右へ向かったオブローダーは、たぶん星の数ほどいると思うが、左へ向かった人は、きっと凄く少ない……。
塩原新道の後を継いだこの道は、市道である。
その進路に対して「日留賀岳登山道入口まで3km」という道標が設置されているが、これは塩原新道とは無関係の行先である。
すぐに上り坂が始まった。
上り坂は淡淡として緩やかで、明治の「塩原新道」の継承を感じさせた。
やがて道は箒川の広い谷間を見下ろすようになる。
この辺りの地名は、「戦場」という。血なまぐさすぎるからか、住居表示には使われていないが。
由来としては、中世に塩原氏と秋田氏が戦った戦場というもので、秋田氏は桃の木峠を越えて攻め入ったものらしい。
5:22 1.5km 《現在地》
だらだらとした坂を1.5km、約20分登ると、豁然として広い平地へ辿り着いた。一面の田んぼが青々として別天地の雰囲気だ。
ここは南を箒川、東と西をその支流、北側を比津羅山によって囲まれた細長い平地で、海抜620m内外である。数戸の民家があるのだが、塩原新道沿いには田んぼしか見当らない。
地の字は「要害」という。「戦場」から「要害」とは出来すぎた感じがするが、やはり中世の戦乱に由来する。
…あ。
やべ。
昨日買ったレモンウォーターを1本、寝床に置いてきたらしい…。
飲みかけだけど、まだ9割残っていた。
もう戻っている時間はない。諦めよう。
粉ポカリも有るから、途中でジュースが足りなくなることはないだろうが……、テンション下がる…。
ここで市道は右へ曲がっているが、本来の塩原新道は直進していたと思われる。
地形図を見て欲しい。三島の性格を考えれば、ここを直進していないわけがない……という決めつけはさすがに乱暴かも知れないが、大字の境がここを直進しているのが、決定的に怪しい。
私は確信に近いものを持って、直進する畦へ分け入った。
やっぱり、ここが古い道の跡なんだろう。
不自然なところに生えている松の木には、並木的な何かを感じる。
5:30 1.7km
道のない区間は100mほどで終わり、舗装された市道にぶつかった。そしてその向こうには、直線道路が延びていた。
「おはんなら、真っ直ぐに来ると思うとったばい。」
…フッ、あたぼうよ。
俺は、貴様の道を全て制覇するために成長したんだ。このくらいでは騙されんぞ…。
私の探索者としての真贋が確かめられた。
そんな気持ちになって見渡す前方の道には、もう舗装はなかった。
いよいよ、か…。
これは、平成21(2009)年2月に、ほぼ同じ地点から桃の木峠の方向を撮影した写真だ。
本編探索時は雲に隠されて見えなかったが、この時には遙か遠くに峠の鞍部附近が見えていた。
直線距離で約7km離れている。
これより先に、一切の人家はない。
2008/7/31 5:33
農家の朝は早かった。日とともに働き休む生活は、幻想として憧れるものがある。それはそうと、動く人はこれでしばし見納めとなりそう。
世の冒険家の中には、何日も山に籠もれる人がたくさんいるみたいだけど、私はダメだ。寂しいもの。
トラクターの唸りに向かって独りごつ。
ちょっくら横川まで行ってくるぜ、オヤジ。
短い緑のトンネルをくぐると、なんだか物々しい感じの場所に出た。有刺鉄線付きの高い石塀の前で、三島の道は不自然に曲がっている?
石塀の閉ざされた門には、くすんだプレートがはめ込まれており、「浄水場」とだけ書かれていた。これが塩原新道がいまを生きる最後の行き先なのか。それとも、まだ奥に現役の施設があるだろうか。
浄水場の脇をすり抜けると、再び緑のトンネルへ。今度は長そう。みるみる轍も減って、いよいよ廃道の入口を意識する。
ただ、妙に道幅の広い場所があった。
そこは待避所でも広場でもない、三島の時代の本来の道幅らしかった。
轍は風前の灯火になってきたが、1mでも長く続いてくれることを願っている。いまは少しでも奥までラクに進みたい。どうせ、先はとんでもなく長い廃道になるのだから…。
急に強烈な腐臭が漂い始めた。
原因は明らかで、道の両側の至るところに堆肥となるべき野菜滓が山積みになっているのだ。おいしい野菜の元となる肥料は、人知れず、部外者の通らぬ道で製造されていた。
静謐な森の中、道の両側に点々と堆肥の山が連なる光景は異様であり、塩原新道のおかれた道ならぬ現状を、思い知らされるようだった。
5:44 2.5km(←累計距離)
臭う森を進んでいくと、また柵に囲われた一角が現れた。
門柱にはめられたプレートには、消えかけた「接合弁」の文字。
これまた浄水場の関係施設であるようだが、もう使われていなさそう。柵の中は草ぼうぼうだ。
肥料道路は、まだ続く。
出発以来、常に上り坂であった道が、初めて下りに転じた。
道は善知鳥沢左岸の緩斜面を辿りきり、同沢の谷底へと下り始めたのである。
こうして地形図を片手に歩きの速度で景色を見ると、車なら意識しないくらいの地形の機微が感じられる。
塩原新道にとって、“大きな仕事”である善知鳥沢への下降とその先の横断という出来事も、始めは、いつでも取り戻せそうな小さな下り坂だった。
5:45 2.8km 《現在地》
下りに転じてまもなく、小さな広場が現れた。
やな予感がする。
多分これ、車両転回のためのスペース。
ということは……。
半ば観念の気持ちで地形図を確認すると、やはりこの辺りで最後の頼みの“徒歩道”が、終わっていた。
案の定、
広場の先に、轍は無かった。
道形自体はあるようだが、そこを照らすぼんやりとした明るさが、逆に不穏だ……。
廃道の法則。 明るい所は――
崩れている。
遂に始まった。塩原新道の廃道が。