道路レポート 塩原新道 桃の木峠越 第二次踏査 第2回

所在地 栃木県那須塩原市
探索日 2008.07.31
公開日 2024.11.16
このレポートは、『日本の廃道 2009年2月号』『3月号』に執筆した同名レポートのリライトです。
現在多忙のため執筆時間を十分に取れないので、神路駅の続きなど従来レポートを一旦休止してリライトをお送りすることをご了承下さい。

 始まった廃道、善知鳥沢の横断を目指して進むが……


2008/7/31 5:46 3.0km 《現在地》 

廃道の始まりを告げる第一の崩壊現場を振り返った。
最初の崩壊なのに、いきなりかなりの本格派だ。
道はガリー状に抉れた茶色い小谷によって、完全に寸断されていたのである。

しかしまあ、最新の地形図は、こんな明治由来の正体もよく知られていない道に対し、正しい仕事をしていたことになる。地形図から徒歩道の表記が消えた途端のこの有様だった。
一応、このタイミングでの廃道化は覚悟の上だったが……、本当にここから全部廃道なんだとなると、越えるべき桃の木峠の頂上までまだ推定14km近くある。時速3kmキープでも5時間弱。2kmだったら7時間。歩きっぱなしでも、峠に着くのは昼過ぎになる計算。これは、ノロノロしてはいられないぞ…。



ごらん、この有様を。

たった一発の崩壊地で、全ての轍が消去された。
これはもう文句のない廃道。 完全廃道 というやつだ。
本当に、踏み跡ひとつ、伐り枝ひとつ、見当らない。

地元のオブローダーは、どうしたんだよ。何をしてる?
こんな大ネタなのに、何で誰も来てないんだ?
それも、あの“三島”の道だぞ。
三島は、“塩原三恩人”の筆頭じゃないのかよ……。

そんな不満のようなことを言ったり書いたりしているのは、もちろんポーズに過ぎないがな…。むしろ、ここでの踏み跡の無さに、私の戦意は最高潮に。
やってやろうじゃないか! この俺が、三島の完全踏破というやつを!!



うわーお、こいつは、ぶっとい!
道のど真ん中に、ニョッキリニョキニョキと巨木が居座っていた。なんだか、ねじりの入った模様をしている。ぶくぶくとして何やら不気味だ。
ここが道でなくなってから、どれだけの時間が経過しているのか、計り知れない感じの木の太さである……。

史実的には、120年も昔の明治18(1885)年辺りが廃止時期とみられる道であったが、それでもまだこの辺りは全然序盤だから結構な後年まで林道として使われていた……なんて可能性さえ、否定しかねない木の太さだった。
脇、失礼しますよ…。



これは本格的に、ひどい有様だな。
荒れているといえば、荒れているのだが、その荒れ方が、独特だった。
感じられるのは、前の巨木の場面と同じ、廃止されてから放置されてきた時の長さだ。

道が斜面と自然に一体化していて、前後のつながりを無視して写真単体を見せられても、どこが道の跡か分からないと思う。
そして、斜面化した地表は湿った土と浅い草に覆われていて、なんだか妙に滑りやすかった。
まがりなりにも、三島道の復活を目指す人々の手が入っていた前回探索の北側区間とは、根本的に状況が違っている。
これがずっと続くのだとしたら、時速2kmだって難しいかも。

まだ、廃道としては本当に最序盤なのだが、ちょっとこれは、先が思いやられ過ぎる “悪さ” だ。



実はこの探索当時(2008年)、私はまだGPSというものを持っていなかった。
そのために、廃道上で感じる、いまどこを歩いているのか正確には分からないという不安の大きさは、複数のGPSを同時に使用して常に現在地を把握して歩いている現在とは比較にならないものがあった。
特にこういう目印のない場面を歩き続けているときは不安が大きく、それだけに、周囲の風景への観察は今以上に真剣であったと思う。

斜面のトラバースを続けるにつれて、眼下に善知鳥沢の白っぽく見える谷底が近づいてきた。
ただ、あまりにも道の痕跡が乏しいために、この段階で既に道を正確に辿れているか、自信がなくなっていた。



それでも何とか斜面に道を見いだそうと、実りを感じぬトラバースを続ける私を、一転して諦めの気持ちへ転ばせたのは、進路上の斜面におびただしく連なる無表情なコンクリートの壁であった。
それは、古びた治山工事の跡だった。

かつてここまで人が入り、山を守った証しではあったが、これではこの斜面に本来の道が残っている期待はますます薄いと思った。
それに、このような壁を越えたり、へつったりしながら先へ進むのは、単純に大変だとも思った。

いま、正確な現在地は分からないものの、今回の探索にもコピーを所持していた“虎の巻”であるところの「三島街道(通称)位置図」を見る限り、この先あと200〜300mで道は善知鳥沢を渡って対岸へ回り込むことになっていた。
そしてこれが正確であるなら、今いる場所の対岸に、川を渡った先の道が来ているはずだった……。



6:05 《現在地不明》

一決し、樹木を頼りに急斜面を下降。あっという間に、薄暗い善知鳥沢の底に降り立った。

早くも道の完璧なトレースを放棄したのは不本意であったが、単独・単日での完抜という大事の前で、これ以上実りの薄そうな大序盤で躓いている訳にはいかないと考えたうえでの離脱だった。
意識される残りの行程が遠すぎて、少しでも進んでいる実感がないと不安で仕方がないという心境も大きかった。

この谷底から対岸を見上げて道を見つけることが出来たら、そこへ復帰することで、左岸の残りをショートカットする算段だった。



人との交際をほとんど知らない善知鳥沢の流れは、驚くべき清澄さを持っていた。
この写真、どこに水面があるかが分かるだろうか?
あまりに透き通っていて、ほんの少しだけ青みを帯びた空気のようだった。
仮に塩原新道が現代を生きていたら、こうはいかなかったかもしれない。

ちなみに、この沢を約6km遡行し続ければ、そこが桃の木峠の頂上であるようだ。
が、明治の、三島の車道は、その高低差約550mを埋めるのに、6km(平均勾配9%)ではなく、14km(平均勾配4.2%)を要求した。この高低差に対する極端の迂遠こそ、明治車道の恐ろしさだった。



谷に下ったら、もうもとの左岸の道へは、地形的に復帰できなくなった。
左岸の道も、私の後を追って次第に下ってきているはずなのに、見失ったまま全然見えない。
イメージとしては、チェンジ後の画像に示した破線の辺りにあったと思うのだが、全く見えない。
はっきり言って、地形も悪すぎる。林鉄もかくやと思うような険しさだ。太政大臣三条実美を歩かせて良い道じゃない。

やはり、左岸の道はダメだ。
右岸に折り返してくるはずの道に、希望を繋ぎたい!
ってか、それも見つけられないと、いよいよ大ピンチだぞ。(こんな序盤で?!)



6:15  《現在地不明》

あ!

右岸、上の方に平場がある感じがする。
まだはっきりしないが、きっとあれは平場だ。
やっぱり、道はこの上流で川を渡って、右岸へ折り返しているようだ。
さっそく、攀じ登ってみるぞ!




6:17 《現在地》

よし! 捕捉!

これで、前進できるぞ!
良かった……!
最初の善知鳥沢が越せないで終わるなんて、そんな悪夢のような失敗は許されない。
(敗退して塩原へ戻っても、待っている人はいない。自分で公共交通機関を使って帰宅するしかない寂しさよ)

だけど、せっかくなら、善知鳥沢を渡る橋の跡は確かめておきたいよな。
現在地ははっきりしないままだが、橋はそう遠くないはず。
架かっているとは思っていないが、三島の時代の橋の痕跡ならば、ぜひ見てみたい。
それにこの橋には、逸話や記録が極端に少ない本道では珍しく語りたくなる“記録”(後述)があるので、ぜひ現地を確認しておきたかった。

発見したこの右岸の平場を少し戻る方向へ移動して、橋跡を探してみることにした。



歩き出した地点から僅か50mほど上流へ進むと、古い落石に道が埋れて木の生えた斜面になっている奥に、四畳くらいの小さな平場がポツンとあった。
その平場は少し谷に出っ張るように見えていて、よく観察すると、その谷側の二辺は妙に角張って見えた。

これは、もしかして…!



!!!

これは明らかに人工的な平場である。

ずばり、橋台の跡だと思う。

この場所こそ、塩原新道が善知鳥沢に架した「大旗高橋」の跡地であろう。

なおこの橋名は、開通式典翌日の記念通行に参列した三条実美の『東北御巡行記』に登場する。



6:19 3.7km 《現在地》

橋台と見られる平場の突端に立って、深い善知鳥沢の谷を覗き込む。

橋桁や、橋脚は残っていないが、状況的には、ここが架橋地点だと思う。
ここにあったのは、「大旗橋」と呼ばれた橋であったらしい。
わざわざ高橋を名乗っているくらいだから、高さには自負のある橋だったのだろう。
いや、確かに高い。橋の規模だけなら、前回探索の「男鹿川橋」に軍配が上がるだろうが、高さは負けてなさそう。

木々に覆われた対岸の様子を枝葉の隙間に見る限り、そこは瓦礫の斜面であり、此岸のような平場の存在は認められない。
辿り着くことが不可能とは言わないが、ここから向かうには時間と体力を費やしすぎる。
対岸の観察を終え、今度は今いる橋台とみられる平場の隅を、よく観察してみると……。



石垣だ!!!

たかが石垣で、何を大げさにと思われたかも知れないが、この驚きと感激は、前作に引き続いての読者さんなら分かってくれるのではないだろうか。
前回も、12km以上塩原新道の廃道を歩いたが、ただのひとかけらも、道中で石垣を見ることはなかった。擁壁としても、橋台としても。
それがいま、初めて出てきたのだ。

これは、塩原新道で初めて見つけた、間違いなく明治の……三島通庸の石垣だ。

……悲しいかな、彼が県令を離れてから即座に廃道にされた道だから、これはもう年代的にズレようがない。
塩原新道由来、混じりけ無しの、純粋石垣!
そして、ここで谷に向かって途切れている石垣は、この場所が記録ある「大旗高橋」の跡地であることの、確かな証しでもあった!
橋そのものは、何もないけれど、それでも……、 私は嬉しい!



 完成間際の「大旗高橋」を撮影した写真が存在する!

塩原新道の最大の橋だった「男鹿川橋」については、日本洋画家の祖・高橋由一の代表作の一つとされる『鑿道八景』の中に「第七景 男鹿川橋」として、たいへん精緻な写生画が存在しているので、道と共に失われたその荘厳な姿を絵画の中でのみ知ることが出来る。

一方、第二の規模を持つ「大旗高橋」を、なぜか由一は描いていない。
三島の新道を200点近くも描いた草稿的なスケッチ集にすら見当らないのだが、その理由は明らかではない。
だが、「男鹿川橋」には存在しない写真という記録が、この橋には存在している。
撮影したのは、山形市で新鋭の写真館を経営していた菊地新学という写真家で、彼もまた由一同様、三島から委嘱されて、山形・福島・栃木三県の三島新道や新建築を数多く記録撮影している。

その極めて貴重な写真をご覧いただく。

これが、完成間近の建設中に撮影されたとみられる、本橋唯一の写真だ!(↓)




菊地新学撮影『栃木県新道写真』中「善知鳥沢橋築造中ノ景」

正確な撮影日は判明していないが、足場が組まれた橋の様子や、存在しない手摺り、敷き揃っていない橋板、鳶とみられる袢纏姿の人々が大勢写っている状況などから、完成間近の撮影とみられる。
対岸に石垣が見えるが、おそらく私が現地で見つけたのは、【この部分】の石垣の残骸である。
すなわち、左岸から撮影している。

橋は典型的な方杖形式の木橋だ。
方杖は、木橋という建築文化が終息するまで、深い谷を跨ぐ場面で最も多用された型式であり、近年まで現存していた定義森林鉄道の大倉川橋梁も同式だった。
高さは、写真では谷底が見切れているのでわからないが、現地を見る限り20m以上で、長さは30mくらいである。

なお、三島の大型橋というと、彼が故郷の九州地方から招聘した石大工集団の手による石アーチ橋が多く用いられたが、塩原新道に石橋が架けられた記録はない。理由は定かではないが、栃木県会の協力が得られなかったことや、県令としての任期自体が短かったことに起因する、節費と時短の影響かも知れない。
だが、本橋がもし石橋であったなら、明治10年代から残り続けている綱取橋のように、その姿を留めていたかと思うと残念だ。どのみち木橋では、県会が廃道を選択しなくても今日まで残されていた可能性は皆無だから…。

また本橋については、建造当時の珍しいエピソードが伝わっているので、合わせて紹介したい。
塩原町文化協会が発行した塩原地区の郷土史『塩原の里物語』に、こんなことが書かれていた。

善知鳥沢の大橋架材には、塩原八幡宮、箒根神社、中山太田権現の御神木を切り倒して橋材として使用した。

『塩原の里物語』より

大旗高橋の建設用材として、塩原地区の3つの神社の御神木を切り倒したというのだ。

!!!なんて罰当たりな!! いかにも傍若無人な三島らしい所行と思われ、一瞬絶句したが、当時の常識としてはこれはどうだったんだろう。実際の彼は、とても信心深かったという話も伝わっているが…。
また、明治初頭当時は、近世由来の街道上の並木を伐採して橋材にしたり、売却して新道の工費とすることは、各地で頻繁に行われていた記録がある。
御神木を利用したのは珍しいとは思うが、やはり橋材を安価に入手するための便法として、白羽の矢が立ったものと想像する。

これで、御神木は橋材となって村の繁栄に長らく寄与したというのなら美談となり得るが、開通後に県会の理解が得られず、直後に廃道というのでは浮かばれない……。


 【新稿】 「大旗高橋」用材の出所とされる神社を調査した!
2024/11/23追記

大旗高橋の用材を、「塩原八幡宮」「箒根神社」「中山太田権現」の3ヶ所にあった御神木を伐り倒して確保したという話には衝撃を受けた。それと同時に、もしかしたらこれらの神社には、いまも伐採された御神木の痕跡が残っているのではないかと考えた。
伐採は明治17(1884)年であろうから、探索当時から見ても120年以上過去の出来事であるが、神社というおそらく人間界では最も変化が緩やかそうな土地であればこそ、例えば境内に不自然な空地があるとか、あるべき御神木が見当らないとか、歯抜けとなった並木などといった形で、この伐採の痕跡があるかも知れないと考えたのである。


インターネットを駆使して調べると、名前が挙がっていた3ヶ所のうち、塩原八幡宮と箒根神社はすぐに場所を特定出来た。しかし、中山太田権現は見つけられなかった。名前からして上塩原の中山地区にあると考え、明治42(1909)年の地形図には実際に神社記号が見つかったが、現在同じ場所に太田権現という神社は残っていないようだ。
なので、場所を特定出来た2ヶ所について、本探索から4ヶ月半ほど経過した平成21(2009)年2月13日に、訪れてみた。

上の地図は、これらの神社と塩原新道および大旗高橋の位置関係を示している。
橋の現場から最も近い太田権現(推定地)が約1.5km、遠い八幡宮は約3km、それぞれ直線距離で離れており、主に【こういう部分】に利用されたであろう長重材をどうやって現場まで輸送したものか、当時の人海戦術による難工事ぶりが思いやられるようである。

それでは、塩原八幡宮より、実際の境内捜索の模様をご覧いただく。



2009/2/13 15:28 《現在地》

戻ってきました。本探索の記念すべきスタート地点となった中塩原のココストア(2024年現在はファミリーマート)。
店前を通る国道400号の旧道が元は明治の塩原新道であるが、現在の国道は山手に移動して塩原バイパスとなっており、店の背後には同バイパスと旧道を結ぶ県道266号の高架橋が聳えている。
で、その高架橋のさらに後にこんもりと杉の樹冠が盛り上がって見えるところが、大同2(807)年創建と伝わる塩原きっての古社・塩原八幡宮である。



塩原バイパスに面して鎮座する塩原八幡宮。
参道に石鳥居、社務所、社殿などが建ち並ぶ境内の広い範囲を鬱蒼とした社叢が覆っており、これが古くからの様相であったとしたら、こうした大樹のうち数本が橋に供出されたこともあり得そうに思える。とりあえず、丸裸にされていたりは無さそうで、ちょっと安心。

チェンジ後の画像は、境内から中塩原の街越しに遠望した北の山並み。
正面の山肌に不思議な横縞が見えると思うが、塩那道路の九十九折りである。



“山行が”としては珍しい神社探索、“神行が”のお時間である。
まずは、「境内案内」と題された案内板をチェック。

三島や塩原新道に関する逸話は…………  なさそうだ。
が、一つ関係する表記を見つけた。

一、有綱神社
祭神源有綱は源氏政権樹立功績者源三位頼政の嫡孫、終焉の地当温泉郷で明神として崇められ、本境内に遷座
塩原八幡宮境内案内板より

この有綱神社について、『塩原の里物語』には、かつて松ノ木平にあったが塩原新道の通路となったため、移転したことが書かれているのである。
これもまた広くは知られざる、塩原新道の影響を受けている存在ということに。



これが遷座して境内社となった有綱神社。
隣に見えるのが本殿である。
周囲には大小の杉の木が生えているが、今のところ伐採されたような痕跡はなさそうか…?



そしてこれが、社叢中の最大の樹木である名勝・逆杉。
現地設置の案内板によると推定樹齢1500年、雄杉と雌杉の2本からなり、昭和12年から国の天然記念物に指定されているという。
三島に伐られなくて本当に良かったね!!

境内には他にも伝説を有する湧き水の池や、塩原七不思議の一夜竹、「気」之大杉、樹齢250年の大栃などの“見どころ”があるのだが、くまなく歩いていると、こんなものを見つけた。



あれ?

これって、杉の古い切り株の跡だよね?

…………

……

……いや、確かに杉の伐根のようではあるが、由来は判断できないな。
ただ、同じ太さの隣り合う2本が、同じ様な経年を感じさせる伐根となっていた。
事実として言えるのは、それだけである。

……

…………

…………正直、これが怪しいと思うが。


次は、ここよりもマイナーな箒根神社へ行ってみよう。



16:00 《現在地》

冒頭のコンビニから1.3kmほど国道400号旧道を箒川沿いに西へ進み、大字が中塩原から上塩原に変わるとまもなく、前方にこんもりとした社叢が目立ってくる。やはり杉の叢が目印となる神社であった。

なお、背後に聳える山並みは国道400号が尾頭トンネルで抜いている尾頭峠。中央の鉄塔が見えている鞍部が、トンネル以前の峠頂上である。三島の塩原新道桃の木峠区間をオミットした栃木県会は、地元の要望を受け、明治26(1893)年に改めてこの尾頭峠を越える車道の整備を行っている。以前、『廃道をゆく』にレポートを書いている。



駐車場が完備されている八幡宮とは異なり、いかにもローカルな感じの箒根神社入口の様子。
短い石段を登って境内に入ると、大小の杉の木が周囲の視界を遮り、地面は杉の葉でフカフカ、まさに森閑とした空間であった。
昔は(いまも?)村の盆踊りなんかが、この広場を賑わわせたんだろうか。



石垣の上に設えられた古びた本殿。
案内板が設置されていたので読んでみたが、特に三島や新道との関わりについての言及はない。

八幡宮よりは広くない境内を、歩き回ってみる。
主に、杉の伐根を探しながら……。



あっ! ある!

あっちにも、こっちにも、少なくとも4本はある!

どれも、本殿を取り囲むような、それでいて正面側からはあまり目立たない位置…。
そして、どれも伐られた時点ではおそらく同じくらいの太さである。
専門家ではないので、これらが本当に120年も昔の切り株なのかは、判断できないが……。

というかそもそも、御神木が枯れた跡はどうするのが普通なんだろう。
いままで意識を向けたことがなかったからなんとも言えないが、こんなに伐根が残っているものなのか?
識者の見解を伺いたいところ。


以上のように、塩原八幡宮と箒根神社の両方で、直径1m前後の太い杉の古い伐根が複数見られた。
私としては、これらが大旗高橋の部材となった切り株ではないかと思っているが、もしそうだとしたら、これはたいへん珍しい種類の“廃道遺構”ということが言えるだろう。

なお、最後になるが、塩原の街に残された塩原新道関連の記念物としては、もう少しポジティブなものがちゃんとある。
いずれも前掲の地図に場所を掲載しているが、開通式典に臨んだ三条実美が手植えたという実美桜や、塩原新道の開通記念碑ともいうべき三島通庸記恩碑などである。(右写真)

塩原新道に屈強で劣悪な廃道のイメージを持っているのは、むしろ私など一部のオブローダーだけであって、普通は那須野ヶ原と塩原温泉郷を結ぶ現在の国道400号の元となった道路を指すはずだ。この塩原新道の第一期区間は、三島去りし後も栃木県がしっかりと引き継いで管理を続け、現在まで塩原の繁栄を支えてきた実績がある。





桃の木峠まで あと13.0km





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