綺麗だ…。
出発地がある小鳥川の谷間を見事な雲海が覆っていた。
足元に発する「なぶし洞」のV字のシルエットもまた美し。
この景色に祝福されつつ、森茂峠は極まった。
8:05 《現在地》
林道の入口から3.3kmの地点で、本日行程の最高所である海抜1112mの「森茂峠」に到着した。
ちなみに、これまでフリガナをふってこなかったが、「森茂」の読みは「もりも」である。
あと、前に「六厩」の読みを「むまい」としたところ、「むまや」が正解ではないかというご意見を頂いた。
なるほど、いまは「むまや」が一般的なようです。訂正したい。(「むまい」は旧版地形図にある読み方)
峠はどこにでもありそうな掘り割りだったが、結構深く切り下げられている。
登ってきた東側は谷が大きく開けているのに対し、これから向かう西側にはちょっとした広場があるようだ。
また、一本の杉の木がぴょこんと正面で目立っている。
広場と思った場所は、別の林道との分岐地点であった。
本線は真っ直ぐで、左へ行くのは支線だろうか。
標識もなく路線名は分からないが、地形図では3km以上も尾根に近い所を縦走して行き止まりになっているようだ。
私はもちろん直進する。まだまだ轍の数は衰えていない。
そして、存在感のある杉の根元に小さな祠が祀られていた。
立ち寄っていこう。
この言葉は曖昧すぎると思いながらも、同じ日本人なら分かってくれるだろうと信じて使う。
これは“好ましい感じ”のする峠の祠だ。
祠自体というよりも、置かれた峠というシチュエーションが心に響く。
峠に神さまを祀るというのは古くから日本人に共通する美意識だったようだが、飛騨地方では今でも数多くの峠に地蔵堂が残る。
一般の交通網からは完全に隔離され、ともすれば忘れられてしまいそうな森茂の峠。
ここに祀られた地蔵には、どんな人々の祈りが込められているのだろうか。
さらに近付いてみよう。
祠には、深い愛情がこもっていた。
格子扉の向こうに、素朴な作りの石地蔵と木彫りの仏像とが、寄り添うように安置されていた。
クッキーの缶を改造した手作りの賽銭箱が置かれていたので、今日はいつもより大きな加護を祈願して100円を投入した。
扉の上に、年代の異なる3枚の額が掲げられていた。
1枚目は、賽銭箱に集まった浄財をもって平成元年に祠の屋根を掛け替えたこと。
2枚目は文字がかすれていて良く読めなかったが、数名の人の名前が列記された最後に「昭和四年建立」とあった。
そして真新しい3枚目の内容は、次の通りだった。
以下に全文を掲載する。
森茂集落は誕生以来白川郷森茂村であったが、明治の大改革により大野郡清見村に編入された
その後平成の大合併により平成十七年二月一日 高山市に合併した
合併を記念し地蔵堂の修理を行いここに記す
平成十七年六月吉日 高山市森茂会
ここで森茂峠の歴史を確認したい。
前夜訪問した「高山市立図書館荘川分室」に「きよみ風土記」という本があって、森茂峠を詳しく紹介していた。
それによると、中世から江戸元禄頃(1688-1703)までの森茂峠はいまとは異なり、その頃まで稼働していた森茂金山と片野金山を結ぶ位置であったようだ。
天正13年(1586)に、秀吉の飛騨侵攻の命を受けた金森長金率いる3千の軍勢が、秋町から筋川谷を遡ってこの「古森茂峠」を越えたという。
いまの峠にある地蔵堂の地蔵は、天明期(1781-1788)に木地屋の小椋(おぐら)常右エ門が勧請した記録があり、私が林道沿いで見た旧道跡もこの時代に作られたものだったようだ。
そして現在の森茂林道は、戦後間もなくに高山市の木材会社が切り開いた「私道」が起源であった。
この道の開通が、森茂に自動車の入った最初だったという。
大谷で見た「昭和54年」の標柱は、国有林道に編入された際に改めて立てられたのだろう。
「森茂集落は誕生以来白川郷森茂村であったが、明治の大改革により大野郡清見村に編入された」という地蔵堂にあった文言も検証してみよう。
右図で青色に着色した範囲は、約80平方キロの面積を持つ「大字森茂」である。
中央にはかつてただ一つ森茂集落があったが、廃村となった後は無人の大字になっている。
その状態のまま地名だけが時代とともに変遷し、いまは「高山市清見町大字森茂」となっている。
明治21年に町村制が公布され翌年施行された。
このときに、近世以来「白川郷」(現在の白川村を中心とする当時の行政区域名で、いまの郡に近い性格)に属していた「森茂村」は、どういう訳か、山を越えた大野郡清見村に合併されたのである。
地形的に見ると、高い峠をすり抜けるこの合併は不自然なもので、まるでそれから半世紀以上も後の御母衣ダム湛水と、それによる白川村との隔水の孤立を予言していたようでさえある。
もちろんそこまで用意周到なはずはなく、当時の森茂集落の交通を考えれば納得できるものだったのだろう。
つまり、森茂峠が近世以来森茂にとっての最大の「外界との通路」であって、庄川とその支流の深い渓谷を長距離歩まねばならない下流白川への道は従であった。
当時の住民もまた都邑「高山」に近い清見をより嗜好した可能性もある。
集落としてのムラではなく行政体としての村がまるまる廃止された森茂の稀例は、山と河によって外界から完璧に隔絶された地勢とともに極限的な廃村という事前印象を私に与えていた。(廃村をテーマにした観光地云々という妄想の起源なり)
そばにお馴染みの保安林案内板が立っていた。
それはちょうど旧森茂村全域が含まれる、広大な版図だった。
地図の左下隅が到達目的の「六厩川橋」だ!
あと11kmある。
なお、森茂の集落は既に地図から消えているが、その在処は林道名に付された「併用林道」という括弧書きが教えていた。
併用林道の注記があるのは本線の「森茂六厩川林道(=森茂林道?)」の他は、支線のひとつの「三の谷林道」だけである。
これらのルートが森茂への道だったのである。
併用林道とは専用林道の対義で、一般道路(都道府県道)を兼ねているものを言う。(現在どうかは知らない)
専用林道は原則的に一般人が立ち入れないのに対し、併用林道はそうではない。
8:11
峠では約5分滞在した。
色々と見どころがあったとはいえ、ややのんびりとしたアクション。
これから先は目的地まで全て下りだということと、「峠から先は廃道」という最悪の事態を免れそうなこと。
加えて本日晴天(出発時点からは考えられなかった)の確約を雲上に得たことで、私の気持ちはラージサイズキャットになっていた。
だって、普通に考えればこれって相当有利な状況。
これからの11kmは、ここに始まる森茂川を延々と下っていくだけだ。
地形図を見る限り途中に大きな橋もなければ、隧道も無い。
河床から離れて高いところを通る場面も最初のうちだけ。
確かに10km先からは林道の記号が破線に変わっているけれども、廃道はその1kmだけなんじゃないか?
…そんな気がしてきた。
ここまで道の状況はとても良いし、今のところ破綻しそうな要素も無い。
ネタ的(読者的)にはスンナリ行けてしまえばツマラナイのかも知れないが、私としては一昨日の敗北の件もあるし、六厩川橋までは確実に辿り着きたい。
余力があれば橋からさらに足を伸ばし、秋町隧道のまだ見ぬ北口も確かめたかった。
私は目的へ向けて再始動。
旧森茂村の無人の村域へと漕ぎ出した。
8:23
下り始めから12分を経過。
この間4つの切り返しがあり、写真も何枚か撮っていたが、特に代わり映えのしない景色だったので端折る。
少し前までは尾根上の鉄塔だけを照らしていた太陽が、ついに遠くの山の端から顔を出し、さらには森茂の鞍部を透かしてこの谷間にも光を届けはじめた。
峠を過ぎても道は良いままで、唯一変化があったとすれば道の端々に見える土留めに新しいものが目立ちはじめたことである。
最近になって改修が施された事を知る。
ますます好材料だった。
(峠を越えた今、仮にここで工事現場にぶつかっても、たぶん「引き返せ」とは言われない気もしていた)
道路状況は良いが、地形的な条件はかなり険悪。
路肩から覗き込めば、ご覧の通り。
数本の道が深い谷に渦巻いていた。
言うまでもなく、我が進路だ。
峠を出て最初の1.6kmで多く曲折して、一気に谷底へと入っていく。
荒れを覚悟していた区間だが、全くの杞憂に終わった。
いい線形!!
この路面状況の良さは本当に意外!
今すぐにでも材木を満載したトラックが現れそうに見えるが、
山は相変わらず静まりかえっている。
道の作りが古いというか、あまり後先を考えず作ったんじゃないかと感じられるのは、この道がもとは私道だった先入観のせいか。
でも、やっぱりちょっと変だよこの道。
九十九折りの途中に橋があったり(↑)、その橋が無理矢理繋げたように2連続していたり…(→)。
山腹を自由に削りすぎている気がする。
とにかくどこでも良いから道を撫で付けて高度を稼いだような感じ。
これをやると、山はとても荒れてしまう。
素人目にもかなり雑然とした線形。 (そこがイイんだが…)
前の写真の2連続の橋の山手、ヘアピンカーブの内側の僅かなスペースに、これがあった。
崩れた石の橋台である。
左岸側だけが形を保ったままずり落ちてきたようにあり、右岸側はなぜか見あたらない。
すぐ上にこの林道を造った際に埋められたのか。
おそらくはこの橋台を作ったのが、戦後間もなく森茂峠を越えたという私道である。
確かに今でもこの周辺の林野の大部分は私有林で、伐採のための道が必要とされたのも頷ける。
いったいこの道に何があった?
古い道に真新しい護岸工事が目立ち過ぎる。
まるで少し前まで凄まじい廃道だった道を、一斉に手入れしたような印象である。
ある沢止工の施工プレートには「平成21年」と打たれていた。今年である。
何か、改めてこの道を整備しなければならない理由が、この先に生じたのであろうか。
それは植林の伐採適期が来たと言うことか、それとも別の何かなのか?
このカーブを最後に、道は遂に沢底へ降り立つ。
別のいい方をすれば、今私が縦横して下ってきた斜面の水が集まって明確な一本の沢に変わる。
沢沿いの道になって真っ先に飛び込んできたのは、凄まじいばかりに荒廃した沢の有り様だった。
「やっぱりな。この道のせいだろ?」
これまでさんざん饗応されながら無責任にもそう思ったが、真相は不明。
幅の広い沢の中に「渓」は無く、あるのは土色の河原だけ。
水はどうにか澄んでいるが、蛇行する流れの両側に無数に立ち尽くす枯木が痛々しい。
まるでダムに湛水したような風景だが、まだまだダムは遠い。
上流からもたらされた瓦礫によって渓流が深く埋もれた光景である。
地形図だと「森茂川」と書かれているが、銘板には「森茂筋谷」と刻まれている。
そして、橋の名前は「筋谷橋」。
竣功年は「三十七年七月竣功」(なぜか「昭和」が省かれている…笑)。
この竣功年について私が思うのは、下流の御母衣ダム建設を契機にした昭和34年頃に林道は国有化されたのではないかということだ。
それから各橋が木橋から今の永久橋に架け替えられたのだと思う。そして、その工事は下流から順に進められたと思う。
8:36
橋を渡ってすぐに、大谷支線との分岐地点が現れた。
地図を見る限りは2km弱で行き止まりのようだ。
支線の方に行く轍も新しいものが少しあったが、やはり少数。
特に用事は無いのでスルーする。
…入口に架かっている橋だけをチェックして。
筋谷川と同じ形の本橋は、「昭和三十六年十月竣功」(今度は昭和あり…笑)の「大谷橋」である。
下を流れているのは先ほどと同じ森茂筋川だ。
8:38 《現在地》
うお…。
ちょっとこれは唐突で、予想外。
大谷支線分岐を過ぎて1分後、左から流れ込んでくる小沢を渡る無名の橋で、施錠されたチェーンゲートが行く手を阻んだ。
「併用林道」と思って走ってきたのに、突然、「私有地」だと裏切られた気分。
例によって、完全に無人なので突き進むが…。
起点から6.3km地点で唐突に現れた二度目の封鎖。
その意味を私が知ることはないだろう。
私が知れるのは、このゲートが道の状況にどう影響するかということだけだ。
8:44 《現在地》
林道は6.9km地点で、左から注ぎ込むこれまでで最も大きな支流を渡る。
この辺りは多くの枝沢が本流に注ぎ込んでおり、地形は小盆地状になっている。
支流の名前は筋川といい、橋の名前は「筋川橋」である。
300年以上も前、この川の上流に栄えた森茂金山があった。
この地域に最も多くの人が暮らしたのもその時代だった。
或いは昭和の時代まで存続した森茂の住民は、その最後の末裔であったのかも知れない。
崩れた親柱の中から、小さなレールが顔を出していた。
それが見慣れた林鉄のレールだと気付くのに時間はかからなかった。
高山から、峠を越えて森茂を目指した林道があった。
荘川から、河を遡って森茂を目指した林鉄があった。
かつて、森茂の山が宝の山と思われた時代があった。
いま
私の前と後ろに広がっているのは、
人のいない「上高地」だった。
あともう少しで、森茂集落跡だ。
明治まで小さいながら役場も学校もあった一つの村が、自然に全戸が離れて廃村になった。そう聞いていた。
そんな場所がどれほど山深く陰鬱で、どれほど救いのない僻地だったのかを知りたかった。
だが、彼らが見ていた山は、こんなにも穏やかだった。
野は、こんなにも富んでいた。
河は、こんなにも澄んでいた。
空は、こんなにも高く晴れやかだった。
森茂の悲劇は、余りに他の村が遠かったこと。
一村独立、自給自足では暮らせぬ時代こそが、致命的だったのかも知れない。
8:47
また分岐が現れた。
左が本線。 右は…
森茂への道。
林道らしからぬ重厚な欄干を持つ橋が迎えてくれた。
人の住んだ場所に続く橋。
次回は少しだけ寄り道してみよう。
目指す六厩川橋まで、あと6.5km。
日没まで、あと8時間。
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