道路レポート 岡山県道50号北房井倉哲西線 無明谷 第1回

所在地 岡山県新見市
探索日 2019.12.26
公開日 2020.03.16

2019年の12月末に初めて山陽地方を探索した。
全く土地鑑のない地方であり、事前に読者さんから募集した情報や、自分で新旧の地図を見較べるなどして見つけ出した多数の探索候補地の中から、時間が許す限り多く巡った。
初めての岡山県内での探索も、出発前にピックアップしたものの中からチョイスした。

探索したのは、岡山県の北西部、中国山地の中央部に位置する新見市(にいみ)市の南部、哲多(てった)町矢戸を通る、県道50号北房井倉哲西線である。

主要地方道に認定されているこの路線は、右図のような位置を通過しており、全長50kmを越える長大な県道だが、大半が新見市内に存在する。
このうち探索したのは、3kmに満たない短い区間だった。

なぜここに目を付けたか。
これは、私が初めて訪れるエリアでネタ探しをする時に必ずやる手法なのだが、各都道府県の土木部などが各管轄内の道路規制情報をまとめて公表しているページを見るのである。
岡山県の場合、岡山県道路規制情報というページがそれだ。



岡山県道路規制情報より抜粋

ここに公表されている沢山の規制情報の中から、規制開始時期が古いものをピックアップする。
これだけで、災害などにより長期間不通のままになっている、都道府県が管理する道路が、どこにあるかを知ることが出来る。

基本的に、災害などを原因に通行止めになった道路が、復旧工事によって回復するのに要する期間は、かなり大きな災害でも数年程度で、10年を超えるようなものは、工事が順調に進んでいないというよりも、災害をきっかけに維持管理を中断・断念された“廃道予備軍”ということが多い。これは私の経験則。

そして岡山県の場合、2019年12月現在で100件近い通行止めがあったが(右図は2020年3月時点のもので少し変わっている)、規制開始時期に着目すると、1箇所だけ10年以上を経過している道があった。
それがここだったのだ。


岡山県道路規制情報より抜粋


左図は、同サイトに掲載された詳細な規制情報だ。

県道50号主要地方道北条井倉哲西線のうち、新見市哲多町荻尾(おぎょお)〜新見市哲多町矢戸の区間が、全面通行禁止になっている。原因は、落石。そして規制開始日時は平成21(2009)年11月15日11:00だから、ほぼ10年が経過しており、規制解除時期は「未定」……すなわち、通行止めの看板でしばしば目にする「当分の間」という訳である。

さらに、一緒に掲載されている地図の方には、一度見たらなかなか忘れがたい印象的な地名が表示されていた。

― 無明谷 ―

読みは、「むみょうだに」でいいのだろうか。
昼なお日の光の届かぬ深い谷を印象づける名で、風流さも感じるが、通行止め道路が置かれている谷の名前としては、恐ろしさが先に立つ。
この地名が興味を引いたことも、ここを探索に選んだ理由の一つであった。
(まあ、峡谷の名前というのは過剰に恐ろしげで壮大なことも多いので、そこまで深く考えていたわけでもなかったが、興味を引いたのは確か)

ここまでの情報から私が思い描いた状況は、昼なお暗い谷底を通過する、落石を防ぐ術に乏しい根本的に脆弱な道路で、交通量が少ないために抜本的改良を放棄されてしまった、侘しい廃道予備軍の姿だった。この想像があたっているのかどうか、実景を確かめたいという欲求が私を駆り立てた。

そして、ここを選んだ理由の最後の一つが、読者様からの情報提供だった。
2014年5月にまっぷる氏情報提供フォームから送って下さったメールによると、ここは県に見限られてしまった県道で、通行止めになって久しいらしく、入口にあるバリケードが、訪れる度に本格的になっているというのである。
これが2014年当時の状況だとすれば、現在はさらに荒廃が進んでいる可能性が高いと思われた。

私の初・岡山県は、ここに決めた。




雨の中、強烈な道路愛の塊に出迎えられ…


2019/12/26 7:20 《周辺地図(マピオン)》《現在地》

この日は生憎の雨。
中国地方で過ごす5日目(最終日)だったが、雨にあたったのはこれで3日目だった。本来ならもっと晴天が続く日和を選んで遠征したかったが、大阪でのトークイベントを日程のコントロールポイントに置いていたために、変更は難しかったのだ。

正直、また雨かという重苦しい気分でのスタートになったが、結果的にこの探索に限っては、雨だからこその凄みが確実にあった。とはいえ、そのことをまだ知る由もない私は、本当に低いテンションで、近くの路肩から自転車を出発させたのだった。
初岡山県だったが、普段の見慣れた道路風景と何ら変わらないと、この時は思った。

改めて、ここは岡山県道33号主要地方道新見川上線の路上であり、この先150mほど北上したところに、目指す県道50号との分岐地点があるはずだった。
そしておそらく、分岐地点から即座に全面通行止め区間が始まるものと予期していた。

しかし、手元の最新の道路地図(スーパーマップルデジタルver20)には何ら規制のことは書かれていなかったし、この交差点を前に現われた青看にも特に規制を予告する表示はなかったうえ、支柱に県道50号を示す通常より大きな卒塔婆標識が設置されているのを見て、事前情報に誤りがあったのではないかという焦りを覚えた。



だがそれは杞憂だったと、一瞬で理解した。

交差点までは全くなんの予告もなかったのだが、その信号機のない丁字路を右折した途端、目の前にまああるわあるわ。赤いもの。赤もの。赤赤赤。警戒色の赤まみれ。後で近くで精査するが、とにかくこの県道が厳重に封鎖されているということは、一目瞭然だった。

しかし、こうやって通行止めを認めてホッとするなどというのは、通常の道路利用者の真逆を行った心理であり、正直言えば自分でもどうなんだと思っている。これが道路に対して真っ当でない接し方だという自覚はあり、道路を真っ当に整備して守ろうとしてきた人に対する裏切りのような申し訳なさを感じている、私は廃道になった道だけが好きなのではなく、道全般が好きだ。だが、世の自然の成り行きで廃道になった道のわびさびが特に好きで、その好きなものを沢山見たいという動機で旅をしている。決して廃道化を喜んでいるわけではない。廃道が既にそこにあるから、行くのである。

……さすがに県の道路情報ページで廃道を探し出すなんてことが真っ当な楽しみ方だとは思わないので、こんな言い訳をしたくなったが、この直後に私はますます、通行止めを喜んだことに申し訳なさを感じることになる。



すぐさまバリケードへ近づこうと思ったが、そのときに丁字路の角に建てられているいくつもの石碑と案内板が目に付いた。

その数4基。

3基は石碑(A・B・C)で、1基は案内板(D)だったが、石碑の前には2基のベンチが並べられていて、このベンチと石碑を守るように屋根がかけられていた。
ベンチと屋根を見てバス停があると思ったし、実際手元の道路地図はここに「万才泉」バス停を描いていたが、バス停はなく、実際はここから50mほど県道33号を南下した路傍にあった。(1枚目の写真の右に赤い幟が写っているが、そこが名水【万歳の泉】で、バス停もそこにあった)

入口で、こんな沢山の石碑と案内板に出迎えられた形になり、何が書かれているのか当然気になった。
県道の分岐地点の角地だけに、どちらかの県道の来歴に関わる碑が含まれていることも期待できた。
もっとも、おそらくは万歳の泉に関する碑だろうと予期していた。(この泉は、平安時代からの歴史を持ち、とても有名だった)

とりあえず、一番読みやすそうな「案内板D」に向き合うと、こんなことが書かれていたのだった。



 新見 癒しの名勝遺産 無明谷

50mもの切り立った石灰岩の壁が、両側から覆い被さるように迫る無明谷。周辺の樹木が鬱蒼と生い茂っているため、その名のとおり暗い渓谷で多くの陰生植物の宝庫と言われています。
 (中略……植生や生物相についての内容)
特に、陰生植物の開花時期、梅雨時分の岩肌を流れる水、シダからしたたる水滴、石灰石が浸食されて作り出した洞穴、そこに流れる渓流、やっと車が通ることの出来る狭隘な渓谷は、「昼なお暗き無明谷」と形容され、一人で居るのは淋しく、なんだか不気味な感じさえ覚えるところです。無明谷には四季折々に独特の風情と魅力があふれ、年中ハイカーや写真家が全国から訪れています。

2009年11月26日 阿哲商工会地域遺産認定委員会

読んでいる最中から、思わず「おおお」と期待感の高まるのを感じた。
地図上では特に観光地のような表示もされていなかった無明谷だが、なかなかに凄そうというか、わざわざ中国地方という新しいエリアに来た甲斐のある、新しい風景が見られそうな予感がした。
中でも、「石灰石が浸食されて作り出した洞穴」=鍾乳洞だよね? ということで、実は子供のころから鍾乳洞好きの私はとてもドキドキした。

馴染みのある東北地方や関東地方には見られない中国地方の風景的地域色が、瀬戸内海の多島海的風景と、石灰岩地帯の風景だと予想しており、今回訪れられなかったが、岡山県内の探索候補地に早い段階から、隣の高梁(たかはし)市にある天然の鍾乳洞を利用した県道道路トンネル(岡山観光WEBの情報)を挙げていたくらい、石灰岩地形の道路風景を見てみたかった。ゆえに期待感が一気に高まった。
また、説明文を読む限り、雨のしと降る冬場に訪れたことも、この地の景観を情感深く楽しむには悪くない偶然だったかなと思えてきたのだった。

しかし、よく見るとこの案内板の日付は2009年11月26日、一方で無明谷の県道が通行止めになったのは、2009年11月15日。
なんという因果か、「年中ハイカーや写真家が全国から訪れている」と誇ったこの案内板が書かれる10日ほど前から、県道は通行止めになっていたはずで、しかもそれがそのまま10年間解除されていないのである……。

ともかく、1枚目の案内板で欲しかった事前情報がタイミング良く得られたことに気を良くした私は、あまり期待せず、「碑A」にも目を通し始めたのだったが……



 道もなく昼なお暗き無明谷開きし人の徳をしのびて

坂道で遠回りの小道草付線の外に通れなかったのでここ無明谷の天然を生かし岩の切れ目と干の川を利用して自動車も通れる世にも珍らしい川と道兼用の近道を開くことに昭和16年4月着工同18年5月井原八幡宮前の道へ接続させた (つづく)

冒頭の題字にあたる文で明瞭だが、これはまさにこれから向かおうとしている無明谷の県道の沿革を記した、私にとって値千金の碑であった。

しかも、書かれている内容は最初から予想しない衝撃的なものだった。
なんと、深い峡谷の底を流れる涸れ川(干の川)を、自動車も通る道として整備したというのである!
これは、碑文も認めているとおり、世にも珍しいものだったはずだ。少なくとも私はそんな自動車道を、砂防工事や林業用の作業道(ブル道)を除けば、見たことがない。

碑の内容が本当だとしたら、単に川を横断するという話ではなく、川に沿って遡行する形で、それなりに長い距離にわたって川底を通行するということなのだろうが、率直に言って、峡谷の谷底を水位の少ない時期に人が通るまでならまだ分からなくもないが、そこを自動車が通るというのはちょっと想像できなかったのである。
それでは雨が降る度に通行不能になるだろうし、その度に路面が水流で滅茶苦茶に荒らされてしまって、とても日常的に維持できる車道になるとは思えなかった。

これは私が雪解け水などで水量が多い東北の河川風景を基準に考えているからで、中国地方では全く事情が違っているのかと単純に疑ったが、この無明谷の水位が特別に少ないことは、降雨や降雪の量とは違う理由があったことを後で理解した。

――かなり衝撃を受けたが、碑文はさらに続いているので、読み進める。
なお、地名がいくつか出てくるので、それらの位置を記した地図を一緒に掲載しておくので、参考にされたい。


この難工事を果たした先人の遺業は再び地元大字荻尾民の熱意を呼び井倉駅を目指して熊野に呼びかけ道路愛護会を結成 全線を改良し昭和23年10月県道に昇格させ同37年3月熊野車庫迄バス開通に至らせ産業文化を導く基を成した
昭和47年3月主要地方道に昇格 北房井倉哲西線として幹線に属し以来改良が進められた 中でも昭和53年3月川と道の兼用部分は分離され岩壁は天然の環境を保ち洪水の時の川止めを解消した
昭和53年12月哲多町営バスは井倉駅に延長され沿線の福利増進に寄与して長年にわたる願いは達成された (つづく)

今回、探索後の机上調査を別途行なうことなく、速やかにレポートの執筆を始められたのは、この碑に拠るところが大きい。
無明谷に開削された道路の沿革が簡潔かつ要領良くまとめられている。土木的な意味での道路整備と、それを支える行政的な進展(この場合は県道昇格や主要道への昇格)が、並立して述べられていて、非常に分かり易い。

碑文によれば、昭和18年に完成した、世にも珍しい川と道の兼用部分は、昭和53年というさほど昔ではない“現代”まで、存続していたらしい。
残念ながら既にそれは失われているとのことだが、これから現地に赴けば、この特異な道路状況の断片、片鱗くらいは、見て取れるだろうか。楽しみである。
それにしても、川底を通る道がそのまま県道だったり、バスが通行していた時代があったというのは、重ねて驚きを禁じ得ないものがある。

碑文はなおも続き、建碑の目的が、熱い言葉で綴られていた。


しかるに年とともに右事情を忘れ感謝の念も次第に薄らぐを憂え当時よりその事に当った当事者の一人として放任し難く建碑を大字荻尾部落に諮り同意を得て浄財を受け町議会の議を経て敷地の承認と補助を得た よってここに町長自ら文を作し且つ書して部落と共に先人の功を顕彰し碑を建て記念とする

昭和54年4月大字荻尾部落建之

碑文は以上である。
道の入口という目立つ場所に、小さくない石碑を建立し、それをわざわざ屋根で風雪から守ってきた目的が、率直に述べられていた。
通常、道路のような公共物が誰の功績によってそこにあるのか知る事は、なかなか困難である。それは道路の各部にいちいちそういう記録が表示されていない(道路の無記名性)からだが、困難な事業であればあるほど、記録を後生に残し、広く伝えたい思うのが、多くの関係者の偽りざる心境だろう。

しかしそのためにも費用がかかり、簡単な事ではないはずだったが、道路開削で中心的な役割を果たした旧哲多町大字荻尾の住人達は今一度力を集めて、それを成し遂げた。結実したのが、この碑だ。
一部落民ではない広域的な行政の長である町長の作文が、これほど熱を帯びている事に、当事者の強い思いを感じた。

……いやはや、熱い碑でしたな。
おかげで、探索する意欲は倍加した。
それでは、簡単に残りの碑も確認して……、とはいかなかった。

熱い「碑A」の裏面にも、大量の文字が刻まれていたのである。


県道編入の時の人 自昭和19年至同23年
 万歳村長 逸見亀治  石蟹郷村長 杉 寛次
 万歳村長 小河正吉  石蟹郷代理村長 吉尾九一郎
 万歳村長 吉岡義夫  (以下7名列記 略)
県道改良に協力した時の人 自昭和24年至同50年
 地元町村議 石井米太郎  (以下5名列記 略)
バス開通(熊野車庫迄)の時の人 昭和37年
 本省自動車局長 木村睦夫  県会議員 宮崎宗雄
 哲多町長 名越照夫  (以下11名列記 略)
川と道を分離の時の人 昭和53年
 県会議員 松尾昌泰  工事請負人 新見 川上学志
町営バス井倉駅に延長の時の人 昭和53年
 哲多町長 小河正吉  町会議長  赤山 博  (以下15名列記 略)
建碑彫工 有限会社新見石材 藤井貞男

表面碑文の沿革にあった各時点における行政関係者を中心に、おそらく功労の多かった人物たちが、「時の人」として列挙されていた。
注目は、万歳村長と哲多町長として二度登場している小河正吉氏と、運輸省自動車局長木村睦男氏の存在だ。
前者は、おそらく表面碑文の作文者である昭和54年当時の哲多町長本人であろう。「当時よりその事に当った当事者の一人」と碑文にあったのは、新旧の町村長として長らくこの道路と関わった事を示しているとみられる。
後者は新見市出身者で、昭和37年当時は運輸省自動車局長という、バス行政の頂点を握る要職にあった。その後昭和39年には岡山県から国会議員に初当選し、三木内閣のもと運輸大臣に就任するなどし、昭和最後の年まで国政に身を置いた。このことから旧新見市の名誉市民に顕彰されている。

政治的にもしっかりとした足場を固めながら、道路整備が着々と進められた、そんな歴史が窺い知れる碑面であった。
それが、いまや柵の向こうで立入の出来ない状況になっているそのギャップの現実に、深い興奮を覚えてしまう。


これで、ようやく「碑A」を読み終えた。
隣りにある「碑B」を簡単に確認して、先へ進もう。今度は何の碑だろうか。

右建碑総経費金311万円
 財源 町補助金   120万円
     部落寄付金 121万円
     特志寄付金 70万円
 当時玄米一石 43040円

 うちの庭 自然のままに 観やしゃんせ
  岩間に育つ 草木折らずに        まさよし

「碑A」とよく似た碑だと思ったが、この「碑B」とワンセットだったようである。
石灰岩らきし白茶の巨石に刻まれた御影石には、これらの碑の建立費金とその財源が記されていたほか、変体仮名混じりの目立つ詩文がしたためられていた。
内容は、無明谷の貴重な陰生植物の保護に関する訴えだった。

この詩作も、まさよし=小河正吉氏の手によるものらしい。達筆である。

そして、二つの碑が兄弟だと分かった時点で予感された事だったが、「碑B」にも裏の碑文があった。
そろそろ皆さん、バリケードの先の景色が見たくなってきたかも知れないが、乗りかかった船だからね、最後まで付きあって!


無明谷入口より井原八幡宮前迄 
 開設道路延長 2420メートル
 幅員 3.6メートル

経費 36000円也
 当時玄米一石47円 (60キロ入1俵)18円80銭
財源 県補助 11000円
    村 費 12659円
    寄付金 5000円 岡山 今田兵一 (以下2名100円ずつ寄附者列記 略)
    寄付金 66戸 7141円 大字荻尾部落
開設当時の人 自昭和16年至同18年
 万歳村長 平田宮蔵  県会議員 羽場盛太郎 (以下22名列記 略)
 設計者 岡山県技手 高森光治 立石仁之祐 経廣 博
 工事請負人 柳井栄二郎   (以下1名列記 略)
 事務担当者万歳村助役 小河正吉

碑文の内容は、「碑A」の裏面碑文の前に続くべき内容だった。
おそらくB→Aの順序で読み進めることを想定していた模様だ。
それはともかく、昭和18年開設当初の各種緒元が判明した。これから探索しようとしている道路の長さは、2420m。

財源を見ると、万歳村の村費が最も多く全体の3分の1強、続いて県からの補助金も3分の1弱あって、県の公共事業として評価されていた事が伺える。
しかも、着工は日中開戦の年で、太平洋戦争激化の最中に完工に至っているのは、軍事的な面で高く評価される要素があったのだろうか。
財源の残り3分の1は寄付金だが、その6割を荻尾部落で負担しているのは、どれほどの負担であったかを考えてみる。
『角川日本地名大辞典岡山県』で荻尾の項を調べてみると、唯一人口が分かるのは明治24年で、戸数68、人口582人であった。昭和16年頃もこれが大きく変わっていないとすると、各戸あたり100円(1人あたり12円)という負担額が計算され、碑文にあるように当時玄米1俵18円ほどだったことと比較しても、決して気軽な金額でなかった事は明らかだろう。

前掲の地図を見てもらえば分かるとおり、大字荻尾は山間に隔絶された土地で、この道路の圧倒的な最大受益者であったから、末代の幸せを願って大きな負担を自主的に行なったものと推定される。
しかし、岡山市の今田兵一なる人物が、一人で5000円もの高額寄付金を寄せているのは、どういった事情によるものだろう。
調べが付いていないが、荻尾出身で、岡山の都会で大きな成功を収めた人物であったのだろうか。興味深い。

碑文では4度目の登場となる小河正吉氏が、最初にこの道と関わったのが、万歳村助役としてであった事も分かった。
彼はその後、同村長となってから県道編入にも尽力し、さらに昭和50年代には哲多町長として町営バスの延伸に関わり、最後は本碑をもって永遠に事業を記録する行動を起こしたものらしかった。
これらの碑を見る限りにおいて、この道の立役者を一人挙げるとしたら、まず彼を措いてなしということになりそうだ。


ようやく、残る碑は一つ、「碑C」だったが……。



建碑寄附者芳名
 特志寄附
  金拾万円 新見市 川上学志  (以下7名列記 略)
 部落内寄附
  金参拾万円 小河正吉  金五万円  石井米太郎  (以下60名列記 略)
 建碑発起人
  荻尾下区長 赤城勇  (以下3名列記 略)
 敷地60.98平方米は元家実公会堂跡地也 現在町有地

もう当然のように、この碑もセットでした。3碑セットの大盤振る舞いじゃあ!
内容は、「碑B」の表面に書かれていた建碑費用の内、特志寄付金と部落寄付金に関する寄附者全員の氏名と金額が列記してあった。
断トツの最高額を寄せていたのは、予想通りの小河正吉氏であったが、外にも「碑A」の裏面に時の人としてあげられた人物の名前を、ちらほら見付ける事が出来た。
地域の力を相当結集して、この事業にあたっていたという事が、感じられたのだった。

……ちなみに、裏面に文字はなかったです。 (ホッ)




7:28 《現在地》

こんなに道路愛が重たい!

のに、肝心の道路はこの状況ッ!(涙)



真っ先に目に入ってきたのは、大量の赤い看板。全面通行止めを知らせる者達だったが、ちゃんと通行できた時代のアイテムも残っていた。
まずはそれらを紹介したい。

一つ目は、上の写真に写っているオレンジ色の道路情報板だ。
最近、幹線道路ではあまり見なくなってきた、電光式ではない手動式だったが、肝心の道路情報は表示なし。「落石注意」とか「全面通行止め」の表示板があるはずだが、既に掲示されていなかった。

もう一つは、この写真の「異常気象時通行規制」の看板。
事前情報が正しければ平成21(2009)年11月15日までは解放されていたはずだが、その当時から異常気象時通行規制区間だったらしい。
しかも、区間の長さは10.1kmと長く、地図上で計測してみたところ、これは無明谷をずっと越えて、井倉駅の近くで国道180号に達するまでに相当する。

村、町、市、県、そうした様々な行政者がこの道の整備に意を注いできたことは、前出の碑からよく分かったが、それでもなお安心して通れる道にはなりきれなかった。なんとも厳しい現実だった。




ここからは、通行止めになってから設置された看板類だ。

2014年にお寄せいただいたまっぷる氏の情報に拠ると、通行止めが始めってから、訪れる度に看板類が増強されていったという事らしいが、確かにその通りだろうと思える状況だった。
看板によって、経年の度合いが明らかに違って見えたからだ。
看板だけでなく、複数あるバリケードについてもそうだった。

この写真の看板は、おそらくかなり早い段階から設置されていたものと思われ、水垢のような縦縞汚れが目立つ。
内容はいたってオーソドックスな全面通行止めの告知だが、やはり期間を限らず、常套句の「当分の間」と書かれているのが、厳しい現実。
あと、わざわざ「歩行者も通れません」としてあるのは比較的珍しいことで(このような表示がなくても、本来、全面通行止めは歩行者も対象になる)、私は塩那道路を思い出した。
塩那道路とここに共通するところがあるとしたら、ゲートの先に風光の優れた土地があり、観光の目的で徒歩で侵入したい人が一定数あるだろうということ、あとは貴重な植生の在処を盗掘から守りたいという状況だ。



汚れ方を古さの基準とするなら、最も古びて見えたのが、この看板だ。

やはり全面通行止めの告知だったが、この看板の主眼は迂回路の案内だった。
通行止め区間の北側にある「市道草月線」を迂回しろということだったが(位置は前掲の地図に表示した)、この草月線という道路名は「碑A」の表面に登場しており、「坂道で遠回りの小道草付線」の不便を憂いた荻尾の人たちが中心になって、無明谷の道を切り開いたという話だった。

悲しいかな、県道の通行止めによって、また不便の時代に逆戻りしてしまったような感がある。

ただし、実際はさらにもう少し便利な迂回路が完成している。これは地図上にも表示されているので気付いた人もいると思う。県道の新道ではないようだが、本編でも後に登場する。この看板が立てられた当時は、まだ開通していなかった模様で、ならば開通後に看板を修正すれば良いのだろうが、そうはなっていないところがまた哀しい。

もう一つ、この看板のつっこみどころは、現在地である県道33号を「R33号線」と略記していることだ。
この表現は一般的に国道33号を連想させるものであり、県道に対してはあまり使われないと思うが、国道33号は四国にあるので、混乱を招くことはないのだろう。



バリケードは3重であった。

手前から、重しで補強された“A型バリケード”。
中に、現役当時から設置されていただろう定置式の遮断機。
そして奥には最も堅牢な有刺鉄線付きのフェンスゲートだ。

設置の順序としては、中、手前、奥の順であると思われる。
通行止めが長引くにつれて、手前と奥のバリケードが増強されたものだろう。
奥のバリケードは山側の崖まで10m以上も伸びていて、ガチである。





川側はどんな感じかな。   ……ふむふむ。

遮断機を固定するのに、デリニエータか路肩ポールの切れ端みたいなのが使われており、そこに書かれていた「岡山県」の文字がぶっつぶれている……。美観的に酷い使い方してる。愛が感じられないよ。
デリニエータへの愛が。




バリケードを裏側から見ると、さすがに無表情であるが、唯一顔を見せてくれていたのが、青看だ。

もちろんこの青看も、現役時代のもの。いまは役に立てそうにない。




現代までちゃんと現役で活躍してきた道なんだというのが伝わってきて、この青看は逆に寂しさが増す。

果たしてもう一度、真っ当な位置からこの青看を読めるようになる日は来るのだろうか。

青看に当てられているライトが工事用みたいでゴツかった。そもそもどうやって給電していたのか謎。



起点の交差点を紹介するだけで1万文字近く要するとは思わなかったが……(苦笑)、

次回、

昼なお暗き無明谷へ

開きし人の徳をしのびに参る。

川と道がコングロマリットしていた特異な道路の痕跡は、果たして残っているのか?!