2023/2/13 16:20 《現在地》
窮屈、その1
探索の始まりの時刻が遅い。(日没まで残り1時間強)
……ほんと毎度のことながら、ごめんなさいね。
これまた旅先での夕暮れを惜しんで、暮れ間に捻じ込んだ探索となります。しかも天気も宜しくなく、小雨がぱらついておりました。
そんな中、初めて訪れる長安口ダムでの探索をはじめようという場面です。既に自転車に跨がっております。
県道36号日和佐上那賀線の終点に架かる小浜大橋を渡ると、国道195号にぶつかる丁字路だ。左が高知方面、右が徳島方面だが、写真は左折した直後の国道195号現道風景である。この850m先に長安口ダムがある。
頭上の大きな電光掲示板には、「国道195号 長安トンネル 夜間時間通行止」と表示があり、ここからダムまでの区間にある長安トンネルが、補修改良工事のため夜間通行止となることを案内していた。
目当ての旧道の入口は近いが、ここはまだ現道と同一ルートである。 前進スタート!
まずは今回の出発地のプロフィールを紹介しよう。
ここは、徳島県那賀町の小浜という集落の西の外れの辺りだ(写真右に「谷口」というバス停がある)。
この集落の中心地は、少し下流のさほど広くない河岸段丘上にあって、そこは国道に沿って両側に密集した市街地を形成している。
平成17年の広域合併で那賀町が誕生するまで、上那賀町の役場所在地だった集落なので、役場関係とか、学校、郵便局、商店、その他もろもろがここにはある。
一方で、行く手の風景はいかにも山が押し迫っている感じだが、実際のところここはもう町外れで、いよいよかつて那賀奥と呼ばれた長い山峡の道を歩んでいこうという、そんな覚悟が滲み出てきている感じ。直前の電光掲示板なんかも覚悟の現れである。
もう一つ、まだ姿を見せてはいないが実に近くに存在しているダムと、集落の関わりについて、私が本で読んだ昔語りをしたい。
ダムの着工当時、ここは宮浜村(みやはまそん)という小さな村の役場所在地で、林業を中心に農家もあるいわゆる山村だった。
だが、昭和25年に集落の目と鼻の先でダム工事が始まると、それまでの人口の何倍もの数である5000人を越える労務者が一挙に入り込むこととなり、もともと狭かった集落内には彼らを相手とする映画館、パチンコ店、飲食店、風俗店などが所狭しと軒を連ねるようになったそうだ。それらはダムの完成とともに幻のように消え去ったのであったが、ダムの直下流にあるこの小浜の集落は、直上流にあった長安のように水没の傷手こそ負わなかったが、翻弄された具合でいえば、より大きなものがあったと思う。
これから私が見ようとしている旧道も、そんなダムによる翻弄、ダムがもたらした大きな変化の一面だ。
へーー、こういうかんじなんだねーー。
徳島県はどこもかしこも初めて訪れる土地だけに、街角の看板までもが目新しいだ。
こういうローカルな内容の看板が古い街角の長く更新されていない壁面を飾っているというのは、だいたい全国どこでもあると思うが、多くの看板が交通安全標語を掲げているのは、私が今まで見たことがない特徴だ。
この特徴を共有している範囲が知りたいな。これは徳島県の地域色なのか、あるいはもっと広いのか、狭いのか。たぶんこのくらい特徴があれば、これを見ただけで「我が故郷!」って感じる人が一定数いると思う。いいよね、こういう地味な街角の地域色って。
まだ、「谷口バス停」の前に滞在中。
あまり時間がないんだから早く旧道探しに行けと思うが、ちょっと気になる建物を見つけてしまったもので寄り道中。
これ、ずいぶん可愛らしいサイズの“三角地建築”だ。
一般的なプレハブ小屋くらいのサイズ感だが、これが嬉しいことに、谷口バス停の待合所なので誰でも自由に出入りが可能だ。
内部の様子を全天球画像で。(→)
普通の四角形の建物の半分の広さしかないけれど、木の温かみが感じられる整頓された綺麗な室内は居心地が良くて、うっかりバスの到着に気付かず居過ごしてしまいそうだ。
というわけで、今回のキーワード「窮屈」の第2番目は、この可愛らしい三角地のバス待合所に贈呈したい。
まあ、私の場合、基本的に窮屈な空間が好きだからね。笑
しかし、改めて三角の角側の外観を見ても、なぜここが三角地なのか、その理由が見えない。多くの三角地は、三叉路の角だったり、他の建物と道路に挟まれた角地だったりするのだが…。
だが、周囲をよく観察すると、画像の矢印の方向に、今はほとんど使われていない道が分岐していることが分かった。
チェンジ後の画像がその道で、現在の国道とは比べるべくもないが、それでも車道らしい道幅や、しっかりした路肩の石垣が見て取れた。
目指す旧道とも異なる、現在の地理院地図には全く描かれていないこの道の正体が気になるところだが――
冒頭でも紹介した昭和8年の地形図には、この道が県道(いまの国道)から分岐する「幅2m以上3m未満の町村道」として、はっきりと描かれていた。
その行く先には、那賀川を渡る長い橋の記号があり、対岸の谷口地区から支流の古屋谷川の奥へと通じていた。
「谷口」バス停の地点から下って行く古い道の正体は、谷口を経て古屋谷方面へ至る、現在の県道36号日和佐上那賀線の旧道というべき道だったのだ。
さらに昭和8年の地形図を観察すると、橋のすぐ下流の川の中に、現在の地形図にはない珍しい記号を見つけた。
櫂を左下へ伸ばした小舟を描いた記号の正体は、昭和30年頃までの図式に存在していた、「舟楫に依る通船」である。
これは水域を横断する「渡船」とは異なる記号で、河川の上下流を結ぶ「通船」の船着場を意味する。(舟楫とは舟を使ってものを運ぶことをいう)
以下は、探索後の机上調査で知ったことだが、小浜は古くから那賀川に開けていた高瀬舟による通船の起点だった川港で、広大な那賀奥地方のヒト・モノ両面の玄関ともいえる場所だった。
これより上流に通船はなかったものの、伐採された大量の原木の流送が行われており、それらは谷口に一旦陸揚された後で筏に組まれ、これより下流は筏送によって運び出されていたという。
人の出入りが絶えない谷口の入口となったこの辺りも、かつては大いに賑わい、人家や商店が軒を連ねていたそうだ。
そんな土地の“窮屈”を生んだ繁栄の名残が、この可愛らしい三角地だったのだと想像した。
今回探索はしていないが、ここから始まる“旧道”もまた、地方史の一面を物語る重要な路線であった。
16:25 《現在地》
めっちゃ鋭角な分岐ッ!
鋭角過ぎて思わず「ふふっ」ってなってしまうこの分岐が、長安口ダムに関わる旧道の入口だった。
もちろん左の道が、右の道に対する旧道である。ごく短期間、国道195号であったかもしれない道。
もし国道ではなかったとしても、間違いなく右の道の先代として、ダム完成までの時を生きた道だ。
窮屈キーワードの第3番目は、この分岐だ。とっても窮屈な感じがひしひしと伝わってくる。
そもそも分岐を置くような広さがないところに無理矢理分岐を作ったから、こんな極端な鋭角になった。
特に規制は敷かれていないが、新道旧道相互の行き来は考慮されていないと見て良い造り。
地理院地図も、こんなに鋭角な分岐は想定していないのだろう。
実際に分岐がある位置は、描かれている位置より100m近く手前だった(苦笑)。
それではこれより、旧道探索をスタートする!
ダムまで残り750m!
振り返る分岐地点。
国道と旧道の間の高低差を吸収すべく、旧道側の停止線付近が激しく横断勾配を抱えているのが、苦心作めいていて面白い。
むりやり繋げるからそうならざるを得ないよね。
左に見えている「スピード落とせ」の立て看板もこれ、“立ってない”からね。
鉄の棒のようなものに縛り首にされて空中設置されている。窮屈だなぁ(笑)。
こんな窮屈なのに、空中看板の直下に置かれた手製のプランターで沿道美化を忘れない、そんな日本人のおもてなし心は好きよ。
地形図だとまだ分岐に至っていない区間だが、すっかり2本の道に分かれてギリギリのところを並走している。
分岐するなり国道は登り始めるのが、既に間近に迫っているダムの高さを超えるという必要に駆られた切迫感がある。動きに余裕を感じない。昭和30年の付替道路なんて、絶対に余裕なんて持たなさそうだもんな。経路が必要最小限って感じ。
旧道も、ここでは町道としての第2の使命を与えられているので、道幅は狭いが綺麗に整備はされている。
旧道としては珍しい風景ではないものの、沿道の軒先までの距離が近い。ダムが出来るまでは両側ともこういう状況だったらしいが、付替道路の建設による立ち退きが発生している。
『上那賀町誌』には、改良前の国道の様子が活き活きと描写されていた。
その当時はトラックやバスが家の軒先をかすめながら通行していた。国道とは名ばかりの実に狭い道路――(中略)――今にして思えば、格別道巾がせまく、ちょうどカーブであった当時の古川豊重や元木吉市、入江俊信の家の前、また越野竹敏宅の下(筏の組合事務所の前後)あたりの道路は、当時の小さなトラックやバスでさえ、後輪のタイヤの外側1本は完全に路肩をはずれて通行していたほどで、自転車との対行さえ至極危険で、待避場所もほとんどなかった。このため車同志の対行に際しては何十メートルもバックしなければならず、運転手がいつもいい争っていたことを思い出させる。現在では、大きなカーブもなく、前線二車線で大型トラックがゆうゆうと対面通行できるすばらしい道路に変わり、あの当時の道路はまるで夢物語の感じである。
『上那賀町誌』より
この町誌が出版されたのは昭和57(1982)年なので、現在と比較すればまだまだ国道195号は随所に狭隘な区間を抱えており、災害に対しても脆弱だったのだが、それに比べても以前の道路が如何に悪かったかという話だ。
全線が“ヨサク”みたいな状況だったことは、想像に難くない。しかも通行量が多いんだからタマラナイよな…。
(←)
受け売りの昔話を紹介しているうちに、旧道は入口から100mほど水平に進み、現国道の路肩との水平距離は全く離れないまま、高低差だけが増えてきている。
沿道の家屋の連なりも途絶え、小浜集落の本当の外れに進んで来ている。
前方は那賀川の峡谷を挟み込む高い山々のシルエット。ダムの威容はまだ見えないが、もう残り600m台である。
(→)
路肩の下を覗くと、ひどく切り立った岩壁が、50mも下の那賀川に落ち込んでいた。
先ほど別れた【谷口旧道】の行く先が、この直下辺りに架かっていた旧谷口橋であり、それ以前は谷口の渡し場だったのだが、落差がありすぎて谷底の様子はあまり見えない。とりあえず橋が架かっていないのは見えるが。
小浜集落全体が川からだいぶ高い段丘の高さにあり、今はその高さを維持したまま上流へ進もうとしている。
ダムの堤高は83mあるのだが、その半分以上は最初から下にあるのだ。そのおかげで下流側の付替道路は短く済んだとも言える。
そうして、入口から約300m進んだ旧道は――
隧道出現!
ワルそうなマッスィーンが、ヤドカリみたいに住処にしているッ!!
小浜集落の外れにしれっと顔で現われた、現在の地形図からすっかり抹消されたこの隧道が、
窮屈なる廃道探索の入口だった。