道路レポート 国道195号旧道 小浜〜長安口ダム 第1回

所在地 徳島県那賀町
探索日 2023.02.13
公開日 2023.03.06


《現在地(マピオン)》

今回もダム絡みの旧道を紹介する。

徳島県那賀町(なかちょう)にある長安口(ながやすぐち)ダムは、昭和30(1955)年に那賀川を堰き止めて完成した、現在でも徳島県最大の多目的ダムである。徳島県の那賀川総合開発事業の中核施設であり、長らく県が管理していたが、平成19(2007)年に国土交通省へ管理が移管され、最近では機能強化を含む再整備が進められている。

那賀川は、徳島県の最高峰である剣山(つるぎさん)付近の源流から、全国屈指の年間雨量を誇る四国山地の渓流を集めて駆け下り、阿南市の巨大なデルタ地帯で紀伊水道へ流れ出る、国内有数の急流河川である。
現在では、剣山地を横断して徳島と高知を結ぶ広域交通路として、また那賀町の暮らしを支える生活道路として、欠かせない存在である国道195号が那賀川に沿って整備されているが、かつて道路未整備の時代には、長安口ダムより奥の木頭(きとう)地方は“那賀奥”と呼ばれた秘境であり、剣山を挟んで隣り合う祖谷(いや)地方と並ぶ僻地として畏怖されていた。

長安口ダムの建設は、いくつもの集落を水没させたほか、那賀奥の主要な産業である林業に欠かせない輸送手段だった流送を不可能にさせるなど、地元に大きな犠牲を強いたが、同時に誕生した人造湖(長安口貯水池)の湖畔に付け替えられた片側2車線の新国道は、交通不便による僻地性を除去する大きな力となり、さらにこのダムを中核に進められた那賀川総合開発事業の他の事業も、奥地への積極投資と道路整備を促したため、最終的には昭和40(1965)年の高知県境四ツ足峠トンネルの完成へと結実し、那賀奥は袋小路を脱して、その呼び名を過去のものとした。




『昭和卅年 : この年の徳島県の鼓動をとらえる』より転載

長安口ダム完成当時の熱 を、感じられる資料を一つ紹介する。
徳島県が、国から国土総合開発法に基づく那賀川特定地域の指定を受けて、大々的に那賀川総合開発をスタートさせた当時の熱を感じて欲しい。

右の画像は、長安口ダムが完成した年である昭和30(1955)年に、徳島新聞社が発行した、『昭和卅年 : この年の徳島県の鼓動をとらえる』の見開きだ。
本文は読めないだろうが、見出しの内容からも、開発へ向けた熱量が存分に伝わってくると思う。
次に本文より、ダム工事の進展を伝える象徴的な一文を引用しよう。

――那賀川渓谷に、たくましく張りめぐらされたワイヤロープ、真白いダムの巨体が周囲の緑の山に浮き彫りにされた長安口一帯には建設の音がほえ狂っている。幾多の有益なる事業を含み本県未曾有の大工事であり、全国でも類例の少ない大開発は、県産業界のバックボーンとして注視の的となっている。――

『昭和卅年 : この年の徳島県の鼓動をとらえる』より

建設の音が吼え狂っているとは、今日の新聞にはまず登場しなさそうな強烈な表現である。
そうして完成したダムの威容は本編に登場していただくとして、ここからは今回紹介したい道に、焦点を当てていこう。



@
地理院地図(現在)
A
昭和42(1967)年
B
昭和8(1933)年

今回探索するのは、国道195号の旧道に相当する道路だ。
ダムの建設によって従来の道路が水没し、湖畔の新道へ付け替えられるのは良くあるが、今回紹介するのは湖底へ沈んだ旧道ではなく、ダムの下流側に取り残された行き止まりの旧道である。

右図は3世代の地形図で、順に@地理院地図(現在)、A昭和42(1967)年版、B昭和8(1933)年版を用意した。
まずは@だが、この地図だけでどこに旧道があるかを判別できる人は少ないだろう。それを知るには、AやBとの比較が不可欠だ。

Aは昭和42(1967)年版だが、既にダムが登場しており、国道195号は基本的に現在と同じルートを通っている。
国道195号が指定されたのは昭和28年で、その時点でダムは着工済みだったが(着工は昭和25年)、昭和30年にダムが完成し、その前年頃に付替道路が完成している。
したがって、昭和28年の国道指定当初は、旧道が国道に指定されていた可能性があるが、それから2年足らずで湖底に沈んだことになる。

Bは昭和8(1933)年の地形図である。国道指定以前のまだ県道だった道路が那賀川に沿って描かれているが、ダムはまだ存在しない。ここに描かれている道路のだいたい左半分が、後にダムの建設によって役目を終えることになる。

以上の3枚の地図を比較すると、どの辺りに今回探索する旧道があるか分かると思うが、旧道の大部分は現在の地理院地図に描かれていない。
描かれていないということは……、はい、廃道です。
昭和30年に華々しく登場した徳島県最大の長安口ダム。その直下に眠る、一瞬だけ国道195号であった可能性を有する旧道が、今回のターゲットだ。

既に探索を終えた私が、何かこの旧道に一つだけキーワードを付与するとしたら、それは、窮屈。

窮屈を好きな人はあまりいなさそうだが……、味わっていただきましょう! 私が感じた窮屈な探索を!



 窮屈三昧の探索スタート! まずは窮屈な小浜集落 


2023/2/13 16:20 《現在地》

窮屈、その1

探索の始まりの時刻が遅い。(日没まで残り1時間強)

……ほんと毎度のことながら、ごめんなさいね。
これまた旅先での夕暮れを惜しんで、暮れ間に捻じ込んだ探索となります。しかも天気も宜しくなく、小雨がぱらついておりました。
そんな中、初めて訪れる長安口ダムでの探索をはじめようという場面です。既に自転車に跨がっております。

県道36号日和佐上那賀線の終点に架かる小浜大橋を渡ると、国道195号にぶつかる丁字路だ。左が高知方面、右が徳島方面だが、写真は左折した直後の国道195号現道風景である。この850m先に長安口ダムがある。
頭上の大きな電光掲示板には、「国道195号 長安トンネル 夜間時間通行止」と表示があり、ここからダムまでの区間にある長安トンネルが、補修改良工事のため夜間通行止となることを案内していた。

目当ての旧道の入口は近いが、ここはまだ現道と同一ルートである。 前進スタート!



まずは今回の出発地のプロフィールを紹介しよう。
ここは、徳島県那賀町の小浜という集落の西の外れの辺りだ(写真右に「谷口」というバス停がある)。

この集落の中心地は、少し下流のさほど広くない河岸段丘上にあって、そこは国道に沿って両側に密集した市街地を形成している。
平成17年の広域合併で那賀町が誕生するまで、上那賀町の役場所在地だった集落なので、役場関係とか、学校、郵便局、商店、その他もろもろがここにはある。

一方で、行く手の風景はいかにも山が押し迫っている感じだが、実際のところここはもう町外れで、いよいよかつて那賀奥と呼ばれた長い山峡の道を歩んでいこうという、そんな覚悟が滲み出てきている感じ。直前の電光掲示板なんかも覚悟の現れである。

もう一つ、まだ姿を見せてはいないが実に近くに存在しているダムと、集落の関わりについて、私が本で読んだ昔語りをしたい。
ダムの着工当時、ここは宮浜村(みやはまそん)という小さな村の役場所在地で、林業を中心に農家もあるいわゆる山村だった。
だが、昭和25年に集落の目と鼻の先でダム工事が始まると、それまでの人口の何倍もの数である5000人を越える労務者が一挙に入り込むこととなり、もともと狭かった集落内には彼らを相手とする映画館、パチンコ店、飲食店、風俗店などが所狭しと軒を連ねるようになったそうだ。それらはダムの完成とともに幻のように消え去ったのであったが、ダムの直下流にあるこの小浜の集落は、直上流にあった長安のように水没の傷手こそ負わなかったが、翻弄された具合でいえば、より大きなものがあったと思う。

これから私が見ようとしている旧道も、そんなダムによる翻弄、ダムがもたらした大きな変化の一面だ。



へーー、こういうかんじなんだねーー。

徳島県はどこもかしこも初めて訪れる土地だけに、街角の看板までもが目新しいだ。
こういうローカルな内容の看板が古い街角の長く更新されていない壁面を飾っているというのは、だいたい全国どこでもあると思うが、多くの看板が交通安全標語を掲げているのは、私が今まで見たことがない特徴だ。

この特徴を共有している範囲が知りたいな。これは徳島県の地域色なのか、あるいはもっと広いのか、狭いのか。たぶんこのくらい特徴があれば、これを見ただけで「我が故郷!」って感じる人が一定数いると思う。いいよね、こういう地味な街角の地域色って。




まだ、「谷口バス停」の前に滞在中。
あまり時間がないんだから早く旧道探しに行けと思うが、ちょっと気になる建物を見つけてしまったもので寄り道中。

これ、ずいぶん可愛らしいサイズの“三角地建築”だ。
一般的なプレハブ小屋くらいのサイズ感だが、これが嬉しいことに、谷口バス停の待合所なので誰でも自由に出入りが可能だ。




内部の様子を全天球画像で。(→)

普通の四角形の建物の半分の広さしかないけれど、木の温かみが感じられる整頓された綺麗な室内は居心地が良くて、うっかりバスの到着に気付かず居過ごしてしまいそうだ。
というわけで、今回のキーワード「窮屈」の第2番目は、この可愛らしい三角地のバス待合所に贈呈したい。

まあ、私の場合、基本的に窮屈な空間が好きだからね。笑




しかし、改めて三角の角側の外観を見ても、なぜここが三角地なのか、その理由が見えない。多くの三角地は、三叉路の角だったり、他の建物と道路に挟まれた角地だったりするのだが…。

だが、周囲をよく観察すると、画像の矢印の方向に、今はほとんど使われていない道が分岐していることが分かった。
チェンジ後の画像がその道で、現在の国道とは比べるべくもないが、それでも車道らしい道幅や、しっかりした路肩の石垣が見て取れた。

目指す旧道とも異なる、現在の地理院地図には全く描かれていないこの道の正体が気になるところだが――




冒頭でも紹介した昭和8年の地形図には、この道が県道(いまの国道)から分岐する「幅2m以上3m未満の町村道」として、はっきりと描かれていた。
その行く先には、那賀川を渡る長い橋の記号があり、対岸の谷口地区から支流の古屋谷川の奥へと通じていた。

「谷口」バス停の地点から下って行く古い道の正体は、谷口を経て古屋谷方面へ至る、現在の県道36号日和佐上那賀線の旧道というべき道だったのだ。

さらに昭和8年の地形図を観察すると、橋のすぐ下流の川の中に、現在の地形図にはない珍しい記号を見つけた。
櫂を左下へ伸ばした小舟を描いた記号の正体は、昭和30年頃までの図式に存在していた、舟楫しゅうしゅうに依る通船」である。
これは水域を横断する「渡船」とは異なる記号で、河川の上下流を結ぶ「通船」の船着場を意味する。(舟楫とは舟を使ってものを運ぶことをいう)

以下は、探索後の机上調査で知ったことだが、小浜は古くから那賀川に開けていた高瀬舟による通船の起点だった川港で、広大な那賀奥地方のヒト・モノ両面の玄関ともいえる場所だった。
これより上流に通船はなかったものの、伐採された大量の原木の流送が行われており、それらは谷口に一旦陸揚された後で筏に組まれ、これより下流は筏送によって運び出されていたという。
人の出入りが絶えない谷口の入口となったこの辺りも、かつては大いに賑わい、人家や商店が軒を連ねていたそうだ。
そんな土地の“窮屈”を生んだ繁栄の名残が、この可愛らしい三角地だったのだと想像した。

今回探索はしていないが、ここから始まる“旧道”もまた、地方史の一面を物語る重要な路線であった。




16:25 《現在地》

めっちゃ鋭角な分岐ッ!

鋭角過ぎて思わず「ふふっ」ってなってしまうこの分岐が、長安口ダムに関わる旧道の入口だった。
もちろん左の道が、右の道に対する旧道である。ごく短期間、国道195号であったかもしれない道。
もし国道ではなかったとしても、間違いなく右の道の先代として、ダム完成までの時を生きた道だ。

窮屈キーワードの第3番目は、この分岐だ。とっても窮屈な感じがひしひしと伝わってくる。
そもそも分岐を置くような広さがないところに無理矢理分岐を作ったから、こんな極端な鋭角になった。
特に規制は敷かれていないが、新道旧道相互の行き来は考慮されていないと見て良い造り。



地理院地図も、こんなに鋭角な分岐は想定していないのだろう。
実際に分岐がある位置は、描かれている位置より100m近く手前だった(苦笑)。

それではこれより、旧道探索をスタートする!

ダムまで残り750m!



振り返る分岐地点。
国道と旧道の間の高低差を吸収すべく、旧道側の停止線付近が激しく横断勾配を抱えているのが、苦心作めいていて面白い。
むりやり繋げるからそうならざるを得ないよね。

左に見えている「スピード落とせ」の立て看板もこれ、“立ってない”からね。
鉄の棒のようなものに縛り首にされて空中設置されている。窮屈だなぁ(笑)。
こんな窮屈なのに、空中看板の直下に置かれた手製のプランターで沿道美化を忘れない、そんな日本人のおもてなし心は好きよ。




地形図だとまだ分岐に至っていない区間だが、すっかり2本の道に分かれてギリギリのところを並走している。
分岐するなり国道は登り始めるのが、既に間近に迫っているダムの高さを超えるという必要に駆られた切迫感がある。動きに余裕を感じない。昭和30年の付替道路なんて、絶対に余裕なんて持たなさそうだもんな。経路が必要最小限って感じ。

旧道も、ここでは町道としての第2の使命を与えられているので、道幅は狭いが綺麗に整備はされている。
旧道としては珍しい風景ではないものの、沿道の軒先までの距離が近い。ダムが出来るまでは両側ともこういう状況だったらしいが、付替道路の建設による立ち退きが発生している。
『上那賀町誌』には、改良前の国道の様子が活き活きと描写されていた。


その当時はトラックやバスが家の軒先をかすめながら通行していた。国道とは名ばかりの実に狭い道路――(中略)――今にして思えば、格別道巾がせまく、ちょうどカーブであった当時の古川豊重や元木吉市、入江俊信の家の前、また越野竹敏宅の下(筏の組合事務所の前後)あたりの道路は、当時の小さなトラックやバスでさえ、後輪のタイヤの外側1本は完全に路肩をはずれて通行していたほどで、自転車との対行さえ至極危険で、待避場所もほとんどなかった。このため車同(ママ)の対行に際しては何十メートルもバックしなければならず、運転手がいつもいい争っていたことを思い出させる。現在では、大きなカーブもなく、前線二車線で大型トラックがゆうゆうと対面通行できるすばらしい道路に変わり、あの当時の道路はまるで夢物語の感じである。

『上那賀町誌』より

この町誌が出版されたのは昭和57(1982)年なので、現在と比較すればまだまだ国道195号は随所に狭隘な区間を抱えており、災害に対しても脆弱だったのだが、それに比べても以前の道路が如何に悪かったかという話だ。
全線が“ヨサク”みたいな状況だったことは、想像に難くない。しかも通行量が多いんだからタマラナイよな…。


(←)
受け売りの昔話を紹介しているうちに、旧道は入口から100mほど水平に進み、現国道の路肩との水平距離は全く離れないまま、高低差だけが増えてきている。

沿道の家屋の連なりも途絶え、小浜集落の本当の外れに進んで来ている。
前方は那賀川の峡谷を挟み込む高い山々のシルエット。ダムの威容はまだ見えないが、もう残り600m台である。

(→)
路肩の下を覗くと、ひどく切り立った岩壁が、50mも下の那賀川に落ち込んでいた。
先ほど別れた【谷口旧道】の行く先が、この直下辺りに架かっていた旧谷口橋であり、それ以前は谷口の渡し場だったのだが、落差がありすぎて谷底の様子はあまり見えない。とりあえず橋が架かっていないのは見えるが。

小浜集落全体が川からだいぶ高い段丘の高さにあり、今はその高さを維持したまま上流へ進もうとしている。
ダムの堤高は83mあるのだが、その半分以上は最初から下にあるのだ。そのおかげで下流側の付替道路は短く済んだとも言える。

そうして、入口から約300m進んだ旧道は――




隧道出現!

ワルそうなマッスィーンが、ヤドカリみたいに住処にしているッ!!

小浜集落の外れにしれっと顔で現われた、現在の地形図からすっかり抹消されたこの隧道が、

窮屈なる廃道探索の入口だった。