2023/2/13 16:27 《現在地》
超鋭角で窮屈な新旧道分岐地点から旧道を進むこと約300m、小浜集落を外れてまもなく、道は再び二手に分かれる。
分かれるが、正面の道は、道として通用しているとはいいがたい。
特に通行禁止のような表示はないし、柵などの封鎖もされていないが、分岐に面して口を開けている素掘りのトンネルの内部に重機が駐車していて、自動車の進入を拒んでいる。
分岐の左側のスペースは建設会社の駐車場になっているので、駐車場と道路を挟んで向かい合う隧道内部も既に公道ではなく、駐車マスの一つという扱いっぽい。
現在の地理院地図にも、この正面の道は(トンネルも)描かれていない。
この正面の道が今回の主役である旧道であることは、いうまでもない。
最終的にはそちらへ行くことになるが、先に左の道へちょっとだけ寄り道をしたい。
チェンジ後の画像は、分岐を左折しかかった私の目に飛び込んできた、素敵な風景である。
そこには、地図を見ても一目瞭然で、那賀川を横断する長大な橋が架かっている。
キーワード 「窮屈」 その4
自動車1台分の幅しかない「長安吊橋」!
トラ柄模様の物々しい車幅&車高制限バーで入口を守られた、長さ150mに迫る長大な鋼補剛トラス吊橋だ!
見ての通り、通行できる車両の高さ、幅、重さの全てに規制が掛っているが、加えて右の看板にあるとおり、「車両橋上一台」という同時通行台数制限まである。「この橋は総重量9t以上の車輌は通行できません。9t以下の車輌でもつづいて通行すると振動が激しいので車輌は橋上一台の通行を厳守して下さい。那賀町」と、規制の理由が書かれている。振動が激しいとか、共振して橋が落ちそうで怖い。ちゃんと規制を守って利用しないとヤバいな…。
見た目も窮屈、規制の多さもまた窮屈な橋であるが、格好が良い(←重要)。
そして本橋もまた、長安口ダムとは切っても切れない間柄である。
銘板にも刻まれているように、本橋の竣工は昭和27(1952)年10月4日で、これは長安口ダム建設の最中だ。
もとは昭和8年の地形図に描かれていた旧谷口橋に替わるものとして架設された工事用の橋だったが、ダム工事の完了後は町へ払い下げられ、以来ずっと町道として利用されている。
おおおーー。 これはいい鉄の橋だー!!
補剛トラスに吊橋の吊り材やケーブル、そして手すりまでが鉄であるのは良く見るが、路面も全て鉄板なので、人が触れる部分もそうでない部分も完全に金属だけで出来た吊橋だ。
雨に濡れた鉄の橋は、普段以上に寒々として見える。
まさに工業製品然とした血の通わない外観が、抱きしめたくなるほど愛おしい。吊橋であることを感じさせる緩やかな撓みも綺麗だ。
山間部にあるワンスパンの道路用吊橋としては、完成時期を考えても全国屈指の規模(橋長147m)を持つ本橋は、徳島県の近代化遺産に登録されている。
完成当初は補剛トラスと床板が木造だった(つまり木造補剛吊橋)が、町道になった後の昭和35(1960)年に鋼補剛トラスと鋼床板に交換されているらしい。
面白いのは、本橋に対する呼び名が史料によってさまざまであり、少なくとも4つの名が確認されていることだ。
まずは、銘板にある「長安吊橋」という名前がある。これは工事用道路として架けられた当初の名であり、唯一現地で銘板として確認できる。
次に「小浜橋」という名があり、旧上那賀町に管理が移管されて町道の橋となったときにこの名へ改名されたことが、『徳島県の近代化遺産』に記載されている。
そしてまた、『上那賀町誌』はこの橋の名を「谷口橋」としている。
さらには、徳島県が平成28年3月末に実施した橋梁点検の結果では、本橋は「長安口吊橋」として記録されているのだった。
どの名前も不自然ではないだけに、余計こんがらがって質が悪い。そろそろ銘板に記された「長安吊橋」に統一してはいかがだろう。
古い橋だけに高欄が今の橋のように高くなく、【見た目も華奢】で、身体を預けようとはとても思わない。
橋の幅3.0mと狭いので、どこに居ても空中にいる感じがする。高いところが嫌いな人には堪らないだろう。
だがそれだけに、橋上からの見晴らしは抜群だ。長安口ダムの全容を一望できる。
このダムの展望台として、ここに勝る場所はないであろう。
昭和30年完成は、あの佐久間ダムより1歳年上である全国有数の“老ダム”だが、
近年、国土交通省に管理者が代わってから大規模な更新工事が進められているので、
真新しい部分が随所に見られる。詳しく知りたい人はこちらの資料を見るといい。
本題はここからだ。
橋の上で振り返ると、旧隧道が貫いている岩と、それを潜った先にある領域を、一望することが出来る。
もの凄い絶崖!!!
これは確かに隧道なしでは通り抜けが不可能な地形だ。
事実、旧隧道の上方には、現国道の長安第3トンネルも存在している。
そして、昭和27年にこの長安吊橋が架かる前から旧隧道や旧道は存在していた。
これは後の机上調査で知ったことだが、隧道を含む一連の旧道が整備されたのは、
大正12(1923)年から昭和2年の工事であり、昭和4年から路線バスも運行が始まっている。
寄り道、終了。
16:51 《現在地》
長安吊橋側から旧隧道の坑口を見ている。
吊橋を支える太いケーブルが、坑口前の岩壁に据え付けられた巨大なアンカーに固定されている。ケーブルは旧道通行の妨げにならないような高さが取られており、橋と隧道が共存できるように配慮されていた。
橋はダム工事の一環として建造されたものであり、そのダムが完成すれば旧道は行き止まりの道になることが明らかだったはずだが、それでも塞がれなかったのは、旧道にも役割があったということだろう。
また坑口の周りの岩盤は、昭和30年当時には普及していなかったコンクリート吹付けで補強されているために綺麗だし、坑口前の路面も清掃されているので、少なくとも外観は廃隧道に見えない。
まあ、中に重機が収まっているあたり、、まともな公道でないことは伺えるが…。
いざ、隧道へ。
見ての通り、短い隧道であり、ちゃんと貫通している。
入口にコンクリートの吹付けがあるが、内部は岩盤が露出している完全な素掘りで、路面はよく転圧された均質な砂利敷きだ。この路面については、隧道が最後に道路として使われていた当時の姿を留めているというよりも、重機の車庫として、現在の管理者が用意したものっぽいが。
このいかにも旧隧道だよという顔をした素掘りの隧道は、現在の地形図に描かれていないものの、旧道の存在を疑ってここまで来さえすれば、必ず見つけられる“易い”存在だ。
しかも、現役さながらの姿を留めているので、私のようにあまり予備知識を持たず探索を行った場合、この旧道は探索が容易いと予感することであろう。
だが、それは間違いだった。
きっといるはず……。
この先で道が分からなくなって引き返した人……。
私も手こずった。時間が最初から足りていないというのに……。
先へ進むだけなら、ほんの数秒で通り過ぎてしまう隧道だが、もう少し語りたい。
この隧道、正式名が分からない!
『上那賀町誌』によれば、小浜から長安を経て出合(位置)まで区間の県道が、初めて那賀川沿いに開通したのは、昭和2(1927)年であるという。
途中にあって迂回不可能な巨岩を貫通する本隧道が、同時に開通したことはほぼ間違いない。実際、昭和8年の地形図に本隧道ははっきりと描かれている。
だが町誌には、この隧道についての個別の言及はない。名前も長さも記載がない。
古いトンネルのデータを知りたい時のバイブル、お馴染み『道路トンネル大鑑』巻末のトンネルリストだが、昭和42年3月末日時点の都道府県道以上の道にあるトンネルのリストなので、昭和30年にダムが完成した時点で廃止された可能性が高い本隧道は記載されていない。替りに開通した現国道の長安第1〜第3トンネルが、昭和30年完成として載っている。
また、平成16年4月1日時点の道路法の道路にあるトンネルを網羅している『平成16年度道路施設現況調査』も確認したが、やはり記載はない。廃止済と見せかけて実は町道として(法的に)現役ということもなさそうだ。
これ以外にも、手元にあるさまざまな資料や、国会図書館デジタルコレクションを検索してみたが、本隧道の名前と長さなどのデータは見つけられなかった。
こんなに明らかに、「ここにあって」、「通り抜けも出来て」、そのうえ「○○○○○○(後述)」なのに、名前が分からないというのは、レアだと思う。はっきり言って凄く気になる。確実なのは、昭和30年以前の徳島県の『トンネル現況調書』が見つかれば解決すると思うのだが…。この手の資料は、各都道府県で調製していたはずだが、今日ではなかなか発見困難な場合も多い…。
というわけで、分からないうちは仕方がないので仮称で呼ぶことにしたい。
付け替えられた現国道のトンネルが長安第1〜第3トンネルと名付けられているので、「旧長安隧道」という仮称で呼ぼうと思う。
あくまでも目測だが、隧道の長さは約20m、高さ幅はともに4mくらい。
今回のキーワードは「窮屈」だが、この隧道については(道路の素掘り隧道としては)普通のサイズだと思う。バスも通っていたというくらいだから、狭い印象はない。むしろ、昭和30年以前としては恥ずかしくない大きさを持った、当時の山間部の幹線道路らしい隧道だ。素掘りなのも地質に恵まれてのことだろうし(全然崩れていないしね)、年代的に珍しくはない。
この隧道については、現役さながらという表現を使いたくなる良い保存状態だが、問題は出た先である。
出た先は、いきなりもう轍がない感じだ。
今は時期的に落ち着いているが、夏は草が生い茂っていそうな地面の色だし、それになにか……、ただの廃道ではなさそうなものが見えるぞ……。
チェンジ後の画像は、隧道の出口に置かれていた、分割して収納出来るタイプのボートだ。なぜこんなものがここにあるのかは分からない。この先の道と関係がある?
あっという間に、隧道を通過完了。
しかし、名前が分からないというのはいまいち攻略した感じがしない。これが入口ということには、探索の出鼻を挫かれた感がなきにしもあらずだ。
とはいえ、名前のことを除けば、あとは特に不思議はない素直な素掘り隧道である。
コンクリートの吹付けで後年補強されたらしき入口側とは異なり、こちらは現役時代から変わらぬ苔生した岩盤に、陰影の濃い坑口が開いていた。
好ましい姿をしている。
だが、“異物”がここにもある。
左のボートよりも、右の「いかにも工事用足場だよー」という顔をした、“鋼管製の通路”が気になるのである。
ナンダコレハ?!
旧隧道を潜ったら、廃道が出て来た。それはまあその通りだと思うのだが、
様子がおかしい。
これはいったいどういうことなんだ?!
隧道を出た先の道路は、いきなり急な登り坂になったかと思うと、絶対に昭和30年以前のものではあり得ない
見慣れたガードレールを路肩に抱えたまま、なんと地図にないトンネルに吸い込まれて行くではないか。
そのトンネル(?)の外観も、昭和30年頃に廃止された道路にあるようなものでは、明らかになかった。
見るからに鉄筋コンクリート製のボックスカルバートだ。だからトンネルというよりは、地下道的なものっぽい。
しかも、この“謎の坑口”の行く手にあるのは、明らかに現国道だ。 ここから繋がっているのか?!
“謎の坑口”だけでも、アタマの中はハテナでかなりいっぱいなのに、
加えて、“謎の通路”が、ボックスカルバートの外側を通って奥に伸びていた。
工事現場に入り込んだような風景だったが、嗅ぎ慣れた廃の匂いは濃厚である。
昭和初期に誕生し、昭和30年頃に廃止された、絵に描いたような旧隧道を潜ったら、
その先は、現代的な姿をした“謎の坑口”に繋がっていた。まさに予想外の展開。
そして、鋼管で作られた“謎の通路”は、旧隧道の北口から分岐して、
“謎の坑口”を避けて、現国道の直下へ入り込んでいるようだった。
おそらくこれは… … … … … …ということなんだと思うが……。
確信を得るには、まだまだ探索で得た情報が足りていないな。
今回は、定石通りのミニ廃道探索をするつもりが、
一筋縄では行かない“廃の迷宮”に遭遇してしまったようである。
こうなったらとことんだ。 暗くなるまでは付き合ってやるぜ!
2023/2/13 16:53 《現在地》
旧道に口を開けている“謎の坑口”に、これより突入する。
坑門の外観は、どこにでもありそうな(ただしここにあるのは意外な)ボックスカルバートだ。おそらく内部もボックスカルバートだと思うが、出口の光は見えない。もちろん点灯中の照明もない。
周囲に、扁額や銘板など、素性を知る手掛かりとなるような文字情報は見当らない。
はっきりしているのは、現在は使われていない構造物だということと、さほど古いものではないということくらいだ。
それでも、使われなくなってから10年以上は経過していそうである。坑門も、脇にあるガードレールも、全体に苔生しているし、急勾配の外の路面は砂利が流れてしまったようで、コンクリート敷きの洞内と20cmくらいの大きな段差が生じていた。
また、洞内は資材置き場として使われているようで、いろいろな資材が両側の壁に沿って置かれているのが見て取れた。
これは入坑直前の路肩から見た、ボックスカルバートが埋設されているとみられる部分の外壁の様子だ。
この外壁に沿って、いかにも工事用足場の雰囲気を持った“謎の通路”が設置されている。
外壁の上には盛り土があり、その上を現国道が通っている。
壁の裏の地中に、旧道の続きが埋設されているのだろうか?
だとしたら、なんのために?!
予想しなかった不思議な展開に驚いている。
洞内も、凄い上り坂だ!
何%くらいだろうか。
体感だが、8〜10%はありそうだ。
トンネル内としては特異と言えるレベルの急坂である。
そのうえ、やっぱりカーブしている!
外壁がカーブしているので、そうだろうと思ったが、やっぱりである。
しかも道幅は1車線分しかない。バスのような大型車も通れはするだろうが、本当にギリギリだと思う。トレーラーは無理そう。
この場所の印象はあれだ、地下駐車場の出入口の地下通路っぽい。
あのグネグネと曲がりながら下りたり上ったりする、窮屈な地下通路。
側壁の外と天井の上はいずれも地上なので、いわゆる覆道と変わらない構造物だが、側面の明り窓がないだけで、こんなに窮屈な感じになるのだ。
いろいろな資材が所狭しと置いてあるせいもあるが、ここは間違いなく本探索における“窮屈”キーワード第5番目の該当シーンである。
しかしともかく、この急坂で上っていけば、もうすぐに地上に突出するはずだ。
いったいどこに出る?!
16:54 《現在地》
出口は無いッ!
おそらくここが出口だったんだろうが、人為的に塞がれていた。
頭の中の立体コンパスをフル動員して考えてみると、ここは現国道の直下だと思う。
天井の壁をどうにかして突き破ったら、国道の路面にぴょんと飛び出しそうだ。
廃トンネルらしからぬ綺麗な封鎖ぶりは、この反対側が廃ではないからだと想像する。
塞がれているが、天井部分にほんの少しだけ隙間があって、外光がわずかに入り込んでいた。
出入りは、せいぜい昆虫くらいしか出来ないだろうが。
あと、こんなに生命感が乏しいコンクリートの函でしかない洞内なのだが、終点付近の洞床にコウモリの糞が散らかっていた。今日は1匹も見えないが、隠れ家にしていた時期があるようだ。
(←)終点から振り返った入口。
これが出口の位置で塞がれていると仮定すると、地下通路の長さは約30mで、道幅と高さは4m程度である。
接続している旧隧道のサイズを考えれば、これ以上のスペックは不要だろうが、なかなかの小断面である。
それと、写真に写っている左側の壁の模様に注目して欲しい。
段々のような模様が見えると思うが、これが水平に対する強烈な勾配を物語っている。
地下駐車場の出入口のような急勾配ぶりが伝わるだろう。
“謎の坑口”に始まる地下通路は、行き止まりであり、先へ進むことが出来ないということが分かった。
だが、旧道がこれで終わったとは考えられない。
ダムによって廃止された本来の旧道に、このような地下通路も急坂も、無かったと思う。
本来の旧道は、現道に無理矢理に上っていくようなことをせず、目の前にある“謎の通路”のような水平に近い勾配を維持したまま、ダムの“土手っ腹”へ突入していたはずだ。
だからこそ廃止されねばならなかったのである。
本来の旧道の続きを求めて、今度はこの怪しげな“謎の通路”を進んでみるぞ!
でもこれ、私が乗っても大丈夫ですかね………?
造りはしっかりしていそうだけど、見た目がえらくボロいので、ちょっとだけ不安だ……。
ぺこん ぽこん ぺこん ぽこん
ぺこん ぽこん ぺこん ぽこん
パキョッ… ?!??!
渡れるんだけど、正直あまり良い“足応え”ではないな。
ボロさが音に出ている。うっかり固定が緩んでいる部材があっても、不思議はない感じ。
この手の通路は、あくまでも仮設構造物なのに、現在進行形で管理されてなさそうだもの。
しかも、本来の旧道の路肩よりも完全に外である崖の空中にこの通路は組まれていて、
墜落したらまず助からない高さがあった。雨も降っているし、本当に気持ちが良くないな。
久々に、動画の歩行シーンを撮影した。第一声は、「気持ち悪い通路だよ」。
そして見た目の通り、この通路はとっても窮屈である。
本日のキーワード“窮屈”その6は、この通路で間違いない。
歩行中の通路が奏でる音にも注目して欲しい。不安になるよきっと…。
16:57 《現在地》
無事突破!
とりあえず、地べたに足が着いている幸せを噛みしめている。
この足元の平らな地面が、本来の旧道の続きなのだろうか?
まだ確定させるには情報が足りないが、その可能性は高そうだ。
そして、ここへ私を連れてくる仕事はしてくれた“謎の通路”だが、旧道の結末を見にいく仕事までは、手伝ってくれないらしい。
かの道は、ここで平場を外れて左の谷底の方へ下っていた。
おそらくだが、これは奥に見えるダムの最近の改良工事に関連した工事用通路だったのではないだろうか。
こんな場所にありながら、旧道や国道とは直接関係がない気がする。
おおっ! これはっ…!
振り返って眺めたコンクリートの壁面には、その内側に埋設されている道路の位置が露骨に現われていた。
奥側の左上がりに“でっぱり”が並んでいる部分の内部に、あの急坂の行き止まりトンネルが埋まっている。
ちなみにこの“でっぱり”は、擁壁を地山に固定するための強固なアンカーボルトが打ち込まれている部分だと思う。
手前側の壁面も、外観は奥の壁面と変わらないが、こちらの中身はただの土砂や地山であろう。
そして手前の奥も共通して、現国道がある盛り土を支える役割を与えられている。
最初は意味不明だったこの構造物だが、探索を進めたことで、いよいよ正体が見えてきた気がする。
私の推測が正しければ、【素掘りの旧隧道】には意外な活躍の場面が存在した可能性が高い。
次回は、ちょっとだけ探索の時系列を外して、こいつの正体をガチ推理してみたいと思う。
2023/2/13 17:34 《現在地》
旧道探索の途中だが、レポートはちょっとだけ時系列を逆転させて、先の展開を見てもらうことにする。
というのも、探索者としてはありがたいことに、本編である旧道には続きがまだあり、しかもそこには旧道探索に期待する“真っ当にあちぃ展開”が待っていた。
なので、時系列に沿ってレポートしていくと、前回見た【謎の地下道】の正体を語ろうとする頃には、すっかり皆様の中での印象が薄くなってしまっている畏れが大きいと思う。
旧道上に存在はしているが、イレギュラーな存在だと思われる“謎の地下道”については、ここで決着を付けてしまいたい。
というわけで、写真が一段と薄暗くなっているので察せられるかと思うが、同日の日没後の時刻に入っている。探索としてはもう延長戦という状況で、本音を言えば早く車へ戻って明日の探索に向けた休息の準備を始めたいところだが、まだギリギリ撮影出来る明るさがあるので、先ほどまで探索していた旧道のすぐ上を並走する現国道へやって来た。
今回紹介している旧道に対応する現国道の小浜〜長安口ダム間には、3本のトンネルがある。行く手に見えているのが、その最も手前にある長安第3トンネルだ。
これが長安第3トンネルの徳島側坑口だ!
って、わざわざ力むような特別な外観ではないな。
いたって普通の道路トンネルである。
坑門左上に飾られているレリーフの模様は、地場産品の“木頭ゆず”だと思う。
チェンジ後の画像は、坑門に取り付けられている銘板だ。
注目は、竣工年である。
「平成6年4月」になっている。
このことを念頭に置いてから、『道路トンネル大鑑』と『平成16年度道路施設現況調査』に掲載されている、長安第1〜第3トンネルの主要データを一覧にした次表を見てもらいたい。
資料名(データ年) | 隧道名 | 竣功年 | 全長 | 幅 | 高さ |
道路トンネル大鑑 (1967年) | 長安第3トンネル | 昭和30(1955)年 | 62m | 5.0m | 4.5m |
平成16年度道路施設現況調査 (2004年) | 長安第1トンネル | 昭和30(1955)年 | 62m | 5.5m | 3.7m |
道路トンネル大鑑 (1967年) | 長安第2トンネル | 昭和30(1955)年 | 30m | 5.0m | 4.5m |
平成16年度道路施設現況調査 (2004年) | 長安第2トンネル | 昭和30(1955)年 | 30m | 5.5m | 3.8m |
道路トンネル大鑑 (1967年) | 長安第1トンネル | 昭和30(1955)年 | 66m | 5.0m | 4.5m |
平成16年度道路施設現況調査 (2004年) | 長安第3トンネル | 昭和30(1955)年 | 66m | 5.5m | 3.6m |
まず、『道路トンネル大鑑』と『平成16年度道路施設現況調査』では、おそらくトンネル名がテレコになっている。
これが『道路トンネル大鑑』の単純なミスなのか、何らかの事情で途中でトンネル名を変更したのかは分からないが、おそらく前者だろう。今回の謎解きで重要なのはそこではないので、深く追求はしない。
追求したいのは、第3トンネル(大鑑は「第1トンネル」)の竣工年だ。
第3トンネルの銘板には、平成6(1994)年竣工、全長67m、幅8.5mとあって、実際の見た目もその通りなので、わずか幅5.5mとしている上記2つの資料にあるデータとは異なっている。
若干回りくどい説明をしてしまったが、要するに、第3トンネルはもともと、昭和30年の付替道路開通当初に完成した幅5〜5.5mの小さなトンネルだったが、平成6年に幅8.5mへ大幅に“改築”されていることが分かる。
別のトンネルを掘った可能性も本来なら疑うべきところだが、それは机上調査で明確に否定された(後述)。
17:35 《現在地》
そんな第3トンネルを潜り抜けた直後に、その高知側坑口を振り返って撮影した。
一見すると徳島側坑口と変わらぬ平凡なトンネル風景であり、先に旧道の探索を体験していなければ、特に立ち止まって調べたくなるような部分はなさそうだが……
“矢印”の向こう側の空間に注目だ!
ガードレールによって道路より切り離された、“矢印”の向こう側の空き地。
周囲に転落防止柵が設置されているが、なにかに利用されている様子のない文字通りの空き地である。
この空間、一見するとオブローダーのセオリー“トンネルの脇には旧道を疑え!”に則った旧道の入口のようであるが、奥まで行っても、どこにも続いてはいない。
それは当然で、この空き地の正体は、旧道を占拠している“謎の地下道”の屋根だ。
チェンジ後の画像は、先端から柵越しに覗いた下方の様子で、さっき歩いた旧道が足元に吸い込まれているのが分かる。
同じ場所から国道を振り返って見たこの眺めは、廃止後の旧道で何が起きて、どうなったかを、はっきりと教えてくれた。
現国道の直下に並走していた旧道は、少なくとも2つの段階を経て、現国道の一部に取り込まれてしまったのだ。
その第1段階は、チェンジ後の画像に黄色く着色した、“謎の地下道”によって上書きされたことであり、第2段階は、赤く着色した巨大な重力式擁壁に上書きされたことである。
どちらにしても、現国道の機能を強化するために、既に役割を終えていた旧道が、その身(用地)を差し出したということだ。
結果的に、この写真に見える範囲、おおよそ150mの旧道は、普通に路面を歩いて辿るということが出来ない状況になっていたのだ。
それはもう、現在の地形図に道として描かれていないのは当然だったのである。こんなにはっきり道がないんだから!
でも逆に言えば、この巨大な擁壁の向こうには旧道が残っていたのである!(次回以降紹介)
ここまでの説明から皆様察せられているかと思うが、【地下道の出口】は、この画像の中央の位置に埋まっている。
外側から見てもそれと分かるようにはなっていないので、もしこちら側の景色を見ただけで地下道の存在を言い当てる人が居たら、透視能力者だろう。
坑口は、現国道の路肩から下の重力式擁壁に連なる硬く締まった盛り土の斜面に埋められているので、もう一度掘り返して再利用するようなことは全く考えられてないのだろう。
だが、過去のある一時期は、ここに地下道が貫通していて、国道195号の一部として活躍していたと考えられるのだ。
立地的に、それ以外の用途を考えがたい地下道なのである。
一見すると何の変哲もない風景の中に、実は重要な役割を果たした道路の遺構が眠っていて、それと分からないよう巧みにカモフラージュされているというのは、とても面白いと思う。こういう“道路推理モノ”は、私の大好物である!
もう1段階引いたアングルから撮影したのが、この画像。
チェンジ後の画像に、地下道がどのように使われていたかについて、私の推理を書き加えている。
“私の推理”という言葉を強調したのは、別に「俺の推理力はすげーだろ!」って自慢したいわけではなく(苦笑)、残念なことに私の机上調査力では、このように利用されていたという証拠を掴めなかったので、やむなく“私の推理”であることを断ったうえで、書いている。
ずばり地下道の正体は、長安第3トンネルの改修工事中に使われた国道195号の仮設迂回路だと考えている。
前述の通り、長安第3トンネルは平成6(1994)年に大規模な改修工事を受けている(これは証拠がある←後述)。
その際、長期間の通行止を避けるために、仮設の迂回路を作って利用したのではないだろうか。その一部をボックスカルバートで覆ったのは、上方にある工事現場からの落石防止や、天井裏のスペースを作業空間としたことなどが考えられる。
そしてこのとき、仮設地下道に接続する【旧長安隧道(仮称)】も、一時的に復活したと考えられる。
昭和2年頃に完成し、昭和30年頃に役目を終えて久しかった素掘りの旧隧道が、平成の世に国道として甦ったのである。
災害復旧工事中などに旧道が再整備されて一時的に復活するケースは稀に聞くが、廃止から40年以上経った旧隧道が国道として復活したというのは、たぶん聞いたことがない。
事実なら(推理が当たっていれば)、凄いことだと思う。
そして、工事の終了後、仮設地下道は直ちに役目を失い、続いて行われた国道の拡幅工事中の盛り土造成によって、仮設地下道の高知側坑口が埋め戻されたのだろう。
この仮設地下道が利用された期間の長さは、工事の規模的に1〜2年程度ではなかっただろうか。たった数週間というような短期間でもなかったと思う。これだけの仮設構造物を作ったのだから、それなりに長い期間だったろう。
一件落着?
以上の推理については、現地探索の時点では「ほぼほぼ間違いないだろう」と自信を持ったのであるが、実は、帰宅後の机上調査で、大きな 反証 を突きつけられてしまった。
それが、次に紹介する資料だ。
長安第3トンネルの銘板に施工者としてその名を刻む鹿島建設(株)が、平成6(1994)年から発行している『KAJIMAダイジェスト』が、同社サイトで公開されている。同誌の平成9(1997)年号の特集「社会基盤施設のリノベイト」に、長安第3トンネルの拡幅工事の記事が掲載されているのを見つけた。
右の画像は記事から引用したもので、拡幅前の同トンネルの姿が写っている。確かに狭隘なトンネルであるが、問題は、実際の工事の進め方について紹介した本文の内容だった。
比較的古い道路トンネルには、幅員が狭く車がすれ違うことができないものも多い。幅員がもっと広ければ、渋滞もなくなり、交通の安全も確保できるのに…。こうしたニーズに応えるのが、拡幅活線工法である。既存のトンネル内部にプロテクターを設置し、交通を遮断せずに、断面を広げる工事を行う。国道195号線の長安第三トンネル(徳島県那賀郡)では、迂回路がなかったため、本工法により、幅員を7mに拡幅した。
迂回路がなかった国道195号の長安第3トンネルでは、拡幅活線工法が行われたと、そうはっきり書かれていたのである。
これが事実であれば(さすがに事実だろう)、私の推理は根底から意味を成さなくなってしまう。
なにせ、迂回路を使わずに拡幅工事を完了させるのが、拡幅活線工法なのだから。
だが、だとしたら、私が目にした地下道はなんのためにあったのかということになる。
このKAJIMAダイジェストを全面的に受け入れると、私の疑問は振り出しにまで戻ってしまう。
まさか、仮設迂回路を作ってはみたものの、何かの問題が生じて、実際には利用しないまま廃止した………………。そして拡幅活線工法が採用された……。(←もし、これが正解だったらやべぇな……萌える…)
残念ながら、今のところ、私の調べはここまでだ。
推理で完全解明みたいなノリで現地ではいたのだが、決着できずに、恐縮している。
だが私には、この謎を解き明かす力を秘めた、偉大な味方がいるのである。
それはいうまでもなく、読者の皆様だ。
皆さまの中に、この地下道を現役時代に利用したことがあるという通行人が一人でも出たら、一気に謎は解明に近づくであろう。
そうでなくても、長安第3トンネルの拡幅工事中にここを通った経験がある方の証言を、ぜひ伺いたいのである。
皆さまと作る明るい廃道サイトの「山行が」が、最も有利な力を発揮できるこの方法での謎の解明を期待しつつ、旧道を占拠している“謎の地下道”についての謎解きは、一旦終えようと思う。
マジで一筋縄でいかねぇぜ……、 この旧道のやろう……。
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