都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋 前編

公開日 2010.10.9
探索日 2010.3.15

日原(にっぱら)は、東京都の西の端に位置する奥多摩町の北西部、多摩川の支流である日原川上流の一帯である。
ここにある鍾乳洞は有名だが、オブローダーの世界でもその名は少しばかり知られている。
日原地区への出入りは、今日なおただ一本の都道「日原鍾乳洞線」による他ないという“陸の孤島ぶり”で、近世以来のこの道の変遷が、そのままオブローディングの対象となるのである。

右図では中でも一番メジャーで新しい「旧都道」のみを赤く示しているが、実際に明治以降に使われていた道は、下図の通り多くの世代が存在する。



これら「日原旧道群」の探索は、私が東京に移住してきた平成19年に集中的に行ったこともあり、一通りは終えているという認識だ。
当サイトでも、以下のようなレポートを公開してきた。

これらの探索のあと、しばらく日原の土を踏むことはなかったのだが、本年(平成22年)の春頃になってふと、やり残してきた(未踏破がある)ことを思い出した。

それが、右の図で赤い破線で示した部分だ。

それは歴代のルートの中では現道に次いで新しい、昭和52年までは現役の都道として使われていた道(旧道)なのだが、他のルートにはない極端に踏破を難しくする理由を抱えていた。
次図でその状況をより詳しく見ていこう。



上図中に赤い実線及び破線で示しているのが、昭和52年まで使われていた旧都道だ。
そして図にカーソルをオンしていただければ分かると思うが、この全長約2kmの旧都道は、すでに地形図から抹消されている。
断続的に道が見える気がするが、そのほとんどは道ではなくて、ただ擁壁が存在することを示している。
もっとも、その擁壁が廃道を暗示しているわけだが、道として今も地図中に描かれているのは東側の僅かな部分(B〜C区間)だけである。

というような状況の中で、私はまだA〜B〜Cの区間(約800m)に足を踏み入れたことがない。

その理由は…、まあ、既にお分かりの人もいるかと思うが、これから実際の風景とともに振り返っていきたい。
探索は本年3月、おおよそ2年半ぶりの訪問時に単独で行った。



お馴染みの風景を見ながら、旧都道の末端へ…


2010/3/15 16:15 《現在地》

日原の探索は、ほとんど毎回この景色から始まる。
左に見えるのが現在の都道で、日原トンネルも見える。
そして、その坑口から右に逸れて山腹を迂回しているのが、これから向かう旧都道である。

ここはもう何度も通った道だから、駆け足(レポも)で一気に末端まで行こう。
ちなみに、画像の「NEXT」の位置が次の写真だ。




西側から旧道に入ってわずか100mほどで現れる、(旧)日原トンネル。
坑口を塞ぐフェンスは施錠されており、長さ300mを越えるトンネルを通行することは出来ない。(反対からは入れるが)

旧都道の姿を長い間人目から遠ざけてきた第一の関門たる隧道だが、実のところこのトンネルは歴代の日原旧道群の中でも、素性がよく分かっていないもののひとつである。
このトンネルの正式な名称も、竣工年度も、長さも、記録としてあるものを見たことがない。
断面の卵形形状は、昭和30年代から40年代初頭の特色なので、この時期に作られたものなのは間違いないと思うが。

そして、坑口を避けて右へ進む道が、第一の関門を避けて奥へと進む唯一の道…、旧々道である。




ここを通るのは、何度目になるだろうか。
個人的に、こんなに何度も通っている廃道は、万世大路とこの日原くらいだと思う。
それだけに、普通ならば確実に萎縮するだろう前方の眺めも、馴染んだものである。

凄まじい崩壊斜面…かつて「大崩落」とレポートで紹介した“第二の関門”が近付くと、
まさに自分を含めた道全体が、荒涼たる破壊の世界に呑み込まれていく感じを受ける。

それがまた気持ちいい。




最初にここを突破しようとしたときには、
文字通り右も左も分からず、ただ闇雲に高巻きをくり返し、大変な労力を要した。
或いは、当時は本当に踏み跡など無かったのかも知れない。

だが、現在ではほとんど前後の道と同じ高さに、幅30cmほどの踏み跡がしっかり刻まれており、
頭上からの落石にだけ注意を払っていれば、比較的容易に横断しうる状態となっている。
むしろ相対的に見れば、この先の「小崩落」のほうが危険度は高い感じだ。

スタスタ行くよ。
(この日の帰路の模様を、「ニコニコ動画」に以前投稿しました)




「大崩落」を抜けると間もなく、旧々道の左手に、土砂に呑み込まれつつある旧日原トンネル出口が現れる。
そして旧々道は旧道に呑み込まれ、再び瓦礫混じりの舗装路を進んでいく。

入口から600mを過ぎたあたりに、二度目の封鎖ゲートがある。
このゲートの先が「小崩落」で、小とは言っても道は50mにわたって完全に斜面となって消えている。

それも過ぎると、今度は垂直に切れ落ちた素っ裸の法面が続く…「伝説の百メートル」だ。
これも今となっては少々大袈裟なネーミングセンスに恥ずかしさを覚えるのだが、
上の写真はこの「伝説の〜」だ。
基本的に3年前から全く変化はないと思う。




16:47 《現在地》

入口から1.1km、所要時間30分ほどで、「末端」が見えてくる。

末端とはその名の通り、辿りうる旧道の末端である。

そして今回は、その末端の先の道を探ることが目的であった。




説明は要らないと思う。

この景色が、私を狂わせた。(→【狂ってる場面】)

そして、当サイトにお越しの皆様のことも、少なからず狂わせたのではなかったろうか。

私と、そしてトリ氏が命を懸けてくり返し挑んだ、日原川右岸の旧道たちの姿である。
思えば、【あの穴】に辿り着いたこともあったな。
あちら側には本当にアレ以来行ってないが、今も歩けるのだろうか。
見た感じに変化は無さそうだが…。




しかし、今回はあくまでも此岸の話である。

対岸の景色があまりにも衝撃的であったが為に、
自分がいる足元の道の続きがどうなっているのかという、
当然気にすべき問題に対して、今まで無関心になっていたのだと思う。

或いはこの対岸の景色がなければ、本編の内容は3年前に書かれていたかも知れないことなのだ。
大袈裟な物言いは今も健在と言うことでお許し頂きたいが…

対岸の景色は私の脳を3年ものあいだ眠らせていた。



さあ今こそ
この景色の中に眠っている旧道を探せ!!
↓↓↓








旧 道 、見 つ か り ま し た ?




非常に残念だが、これより先には進むことは許されない。

ここは現役の採石場で、今はたまたま人影は見えないが、
遠くでは重機のエンジン音や、クラッシャーが鉱石を砕く甲高い連続音が聞こえてくる。
流石に直接この先に入り込んで道探しをするというのでは、無法者に過ぎる。


そして、こうなることも分かっていた。

分かっていたにもかかわらずここまで来たのには、ワケがある。

・ワケ その1

この先の旧道を辿れないまでも、その位置について、思い当たるところがあったから。

・ワケ その2

この先の旧道には「兎峰橋」という橋が架かっていたのだが、その所在に思い当たるところがあったから。

まずは「1」から確かめていこう。




これが、採石場の端からギリギリ見ることが出来る、構内の全景である。

足元に広がっているのは、露天掘りで平らにされた盆地状の地形だが、
その奥はまるで壁のように、本来の“山の縁”が台形に残されているのが分かる。

そしてこの残された“山の縁”こそが、旧都道そのものではないかと思うのだ。


3年前に撮影した写真を見直していてその事に気づき、それで今回、改めて望遠で確認しようと思ってきたのである。

さっそくこの“山の縁”の中央の辺りを、デジカメを望遠にして覗いてみる。




やっぱり思った通りだ!

こいつはマジだぜ。




こちら側の末端から見てm採石場を挟み、
直線で200mほど先に見えているあの平らな部分が、
かつての都道だったのである。

廃道になり、鉱山会社に払い下げられた末の正当な結末と分かってはいるが、
道を愛する一人として、かつて我々の足元にあったものがこんな姿に豹変しているのを見るのは、
相当に衝撃的だ。





この図のように山(とぼう岩)が削り取られ、旧都道の路面だけが縁のように残ったということだろう。

なお、現状の風景からは、ここに大きな山があったことは信じられないかもしれないが、
昭和20年代にこの氷川石灰石鉱山の本格的な採掘が始まるまでは、
日原川を挟むようにして此岸にも、対岸と同規模の岩峰が存在した。

以前のレポートでも少し触れたと思うが、
この左岸にあったのが「蜻蛉地(とんぼぢ)山」、
対岸は「一通巖(いちのとおりいわ)山」である。
そして両方をあわせて、日原地区の戸口(方言で“とぼう”)という意味で、
「とぼう山」と呼び習わされていたのである。




残念ながら、とぼう岩の双峰が揃った風景を写した写真を見たことはないが、
上の地図は「日原を繞る山と谷(朋文堂)」に掲載されていた昭和17年当時のもので、
左岸には右岸を凌駕する巨大な岩山があったことが分かると思う。
(なお、旧都道が出来る前の地図なので、道は右岸である)

一山のすべてが良質な石灰石であったため、
そのほとんどが国土復興と経済成長のための礎(コンクリート)に化けた。
だからこの山の欠片は、今も我々の身近に散乱しているはず。




あれが旧道の路面である証拠は、こちら側と大体同じ高さにあることや、ガードレールが見えるということだけではない。

地形図に現役のように描かれている吊橋の主塔が、その傍らに残っているのもそうである。
(実際は廃橋で、反対側から見ると【こんな感じ】






この衝撃的な旧道は、今は遠くに見ることしかできないが、

次回は、“失われた橋” の話をしようと思う。