2011/2/8 7:32 《現在地》
車力道に始まった今回の探索は、本来の目的だった隧道を首尾良く発見したにもかかわらず、その直前で分岐する謎の道におびき出されるように西方への寄り道を開始。
やがて行き先不明の小さな穴と、その隣の巨大な堀割に辿り着く。
崩落のためその奥を探ることが出来なかった私は、さらなる発見を貪欲に求めて、さらに西へ進むことにした。
西方見聞録 in 鋸山。
堀割よりも西側には、道らしい道が見出せなかった。
だが、ややゆるやかになっている山腹の所々に、相当古い時代のものと思われる石垣の遺構が残されており、明治以前から人々の出入りがあったことを思わせた。
西へ進むということは、次第に「日本寺」の山域に近付くということでもある。
現れる遺構は必ずしも石切場関連ではないかもしれない。
日本寺の公式サイトには、「日本寺は開山当時、七堂十二院百坊を完備する国内有数の規模を誇り、良弁、空海、慈覚といった名僧が留錫(りゅうしゃく)したと記録されています」とあって、現在とは比べものにならない規模の寺院だったことが伺えるのである。
7:36 《現在地》
数分後、平坦な地形に辿り着いた。
灌木が茂っており見通しが利かないが、山中には不自然な平坦地。
イバラのトゲに苦しめられながら平坦地の奥へ進むと、人工物が見えてきた。
それは、錆びたドラムカンの山である。
そしてドラムカンのそばには、道のような部分もあった。
これまで探索してきたエリアとは、年代的な隔たりを感じさせる、ドラムカンという遺物。
先ほどまでのエリアとは道も繋がっておらず、どうやら新しい時代の遺跡へと出て来たようだ。
現在地は、日本寺と元名ダムのあるエリアのほぼ中間にある大きな尾根上の標高200m付近と思われる。
ドラムカンの前を通っている道は、入山後に出会った道の中では最も幅広で、目の前の尾根を低い堀割で貫いて西へ進んでいる様子だった。
これまた、新旧いずれの地形図にも記載のない道だが…。
この道は…
見慣れた景色だ。
私が見慣れている景色ということは、おそらくこれが、
自動車道の廃道
ってことだと思う。
この山腹を横断する線形、勾配、道幅、どれを取っても、自動車が走っていた道の雰囲気がある。
この常緑樹が茂る斜面からは、南の視界がときおりひらけた。
それは、今日はじめて、“山を上ってきた”という実感を得られる眺めだった。
海に浮かぶ島が見えた。
5kmほど南にある勝山地区の沖合いに浮かぶ、浮島かと思われる。
そしてその向こうの水平線には、まったく陸の影がなかった。
そこはもう、世界に開けた海だった。
100mほど西へ下っていくと、切り返しのカーブが現れた。
この線形にも嫌というほど見覚えがある。
やはりこの道は、自動車道の痕跡に違いない。
地形図には無いが、鋸山の標高200mより上部まで、かつて自動車の通る道が拓かれていたようである。
現在は鋸山本峰から西に離れた明鐘岬の突端方面に「鋸山登山自動車道」があるのみなので、この自動車道の存在はレアである。
そしてこの素晴らしい風光を目の当たりにすれば、その跡地が観光道路に利用されなかったことは、意外に思われる。
それにしても、この切り返しカーブからの眺めは、低山を忘れさせる原始性と峻険さがあって興味深い。
明治に夏目漱石や正岡子規などの文化人がこぞって遊んだ鋸山本来の美貌は、こんな風景だったのではないだろうか。
ちょうどこの方角は日本寺の山域であり、大規模な採石な植林を鋸山全山中ほとんど唯一の例外として免れてきたのである。
夏目漱石は第一高等中学校の2年生だった明治22年8月、明鐘岬に開通したばかりの新隧道を通って日本寺を訪れ、参道を通り山頂へ登った。この旅の様子を漢詩文『木屑録』にしている。そして彼と交遊があった正岡子規も2年後の明治24年3月に房総を旅行し、同じく日本寺から鋸山へ登頂。紀行文『隠蓑日記』を著した。
7:43
切り返しから先を見て分かったのだが、道はすぐ先でまた切り返しており、いわゆる九十九折りの形で下へ続いていた。
私は悩んだ。
いくら好奇心の虜になっている私でも、当初の目的を完全に忘れてしまったわけではない。
この道も採石に関わる遺構なのは間違いないだろうが、最初探索していた車力道とは別系統かつ別時代の道だろう。
だから、これを追いかけていけば、どこか別の場所へと下山することになると思う。
そこまで行ってしまうと、当初の目的地である“隧道”へ戻るのが大変になるなぁ…。
それで、この車道の探索は次回以降にしようということに決めた。
これまでの探索と成果を地図上にまとめてみた。→
現在の地形図だと、「日本寺」より東の鋸山山中に1本の道も描かれていない。
だが、私はこれまでに少なくとも2本の道を確認した。
ひとつは石畳が敷かれた“車力道”であり、明治以前に使われていた道だ(赤線)。
もうひとつは自動車が通っていたと思われる道で、昭和以降のものと思われる(青線)。
さらに、大正時代の地形図に描かれている道が別にあり(黄の破線)、“崩れた堀割”はその一部ではないかと思われる。
これも合わせれば、3本3世代以上の“廃道”が存在しているのである。
ときに、この“自動車道”はどこに下山しているのだろう。
日本寺付近の「鋸山観光道路」に接続しているのか、それともこのまま真南方向に下っていくのか。
この解明は、今後の課題である。
[ 鋸山での石材運搬方法の変化 ]
『探る』に掲載されている手書きの図を引用して、鋸山で採掘した石材を山元→麓→消費地へ輸送する手段の変化を確認しておこう。
まず右の図は以前も掲載したが、近世から大正初期までの方法である。
猫車という荷車を人間が曳く“車力”による輸送が、その中心的な役割を果していた。
また、麓から市場への輸送には帆船が用いられていた。
大正〜昭和初期には、車力の代わりにトロッコが用いられた。
ただしこれは鋸山北面の金谷側について述べた資料であり、いまのところ南面の元名側でトロッコが用いられていたという情報は得られていない。
引き続いて車力による輸送が続けられていた可能性が高いと思われる。
そして麓から市場への輸送手段も、従来の船に代えて鉄道が用いられるようになる。
木更津線(後の内房線)は大正5年に浜金谷まで開業し、翌年さらに安房勝山まで延伸開業となった。
この麓→消費地という長距離輸送手段の変化(船→鉄道)は、様々な石材産地の明暗を分けた。
例えば東京(江戸)に対する石材の第一供給地は、近世から明治初頭まで長らく伊豆産(伊豆石)であったが、明治中期に近距離の房州石が首位となり、さらに明治後半に鉄道の便がいち早く整備された栃木県の大谷石がその座に着いた。そして伊豆石の採掘は明治末までにほとんど終了し、以降戦後に至るまで大谷石と房州石がこの順位で1・2を占めた。
昭和初期以降になると、今度は車力やトロッコの代わりに、索道と自動車を組み合わせた輸送が行われるようになる。
これは木材輸送における森林鉄道→トラックの変化に似ているが、鋸山北面では昭和10年頃にトロッコが廃止されて索道+トラックの輸送に変わっており、全国的な林鉄の廃止(昭和40年代)よりもかなり早くに自動車が導入されている。
なお、鋸山南面で索道が用いられていたかは現時点で不明だが、少なくとも自動車による輸送が行われていたことは間違いないだろう。
以上のような輸送手段の変化をみると、さほど広くない山中に様々な廃道があることも納得される。
そして実際にはこうした石材輸送路の他に、古道や登山道、寺社の参道、山林の管理道、獣道などなど、様々な“怪しい”道がこの山中には存在しているようだ。
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7:47 《現在地》
勢い余って下ってしまった道を登り直し、ドラムカンが沢山ある広場“ドラムカン広場”へ戻ってきた。
だが、ここで来た道…というかそこは道ではなくてイバラの痛いブッシュ(白矢印)…に戻るのが嫌だったので、今度はこの自動車道の反対側の続きへ行ってみることにした(黄矢印)。
ここから見ても、かなりの急勾配でカーブしながら左の山に登っている。
だが地形的に終点もそんなに遠くないはずだし、このくらいの寄り道はまだまだOKでしょ。
さっきは、山を下ってしまうのが嫌だっただけだし。
7:49 《現在地》
広場から一回だけ切り返して、進路は再び西へ。
そしてすぐに現れた、先ほどよりも大きな広場。
おそらくはここが車道の終点だ。
なにせ右側の山はもう、車道がどう曲がろうとも歯が立たないくらい鋭く切り立っている。
それが枝葉越しのシルエットではあるが、容易に感じ取れた。
おそらくここは、鋸山主稜線の直下と言って良い位置だろう。
そしてその“崖のシルエット”が実体を見せ始めると、私の興奮度も急激に上昇した!
スゲー崖だ!
大都会の高層建築(の廃墟)のような姿をした、垂直すぎる断崖絶壁!
しばらく上を向いたまま、口ポカーン。
垂直の崖は明らかに人工的な地形なのだが、表面に現れているものは天然の岩盤であるだけに、長年の雨風を受けてツタまで這うようになった現状、その風合いは天然の崖のようである。
まさに廃墟を好む心理を的確に突いた、人工と天然の素晴らしい合作だ。
実は鋸山の正規登山コース上にもこのような場所があり、主要な見どころにもなっているらしいが、私はそれを知らなかった。
それだけに、驚きは大きかった。
この採石場の最後は、平穏な幕切れではなかったのか。
切り出された石材が搬出されないまま大量に放置され、既に苔むしていた。
なおここにある石材は、「尺三石」とよばれていた房州石の標準的な製品型と思われる。
すさまじいことになっている。
崖の高さは、4〜50mあるかと思う。
石切場特有の等間隔に刻まれた水平線が全面に残る垂直の壁は、中腹に顕著なオーバーハングを交えつつ、鋸山の主稜線付近まで一挙に達している。
あの稜線上には登山道が通っているが、ここからそれを確認することは出来ないし、辿り着く道もまずないだろう。
過去に伊豆石の採石場を何箇所か見たことがある。
そのひとつは沼津市の口野の採石場で、あそこは典型的な坑道掘りの採石場だった。
対してこの鋸山で行われていたのは露天掘りという採掘方法で、地表面を削って地中に内蔵されている石材を切り出していた。
景観に対する負荷が高い採掘方法だが、鋸山では近世以来伝統的に露天掘りが続けられてきた。
昭和33年に鋸山一帯は南房総国定公園に指定され、新規の開発には一定の制限が加わることになるが、当時は復興の需要が大きく採石は千葉県の重要な産業であったことから、依然として盛んに採掘が続けられた。
中には江戸時代中期から昭和後半まで、250年間も掘り続けられた箇所もあるという。
そのために、崖も非常な高さに達したのである。
垂直な崖の下に広がる、崖の高さと同じくらいの横幅を有する帯状の平坦地。
この特異な地形は、露天掘りによって山の側面を“L字”にカットされたことによって生じたものである。
なお、どういう訳か知らないが、最新の地形図はこれらの状況をまったく反映していない。
ここにある高さ50mを越えるだろう崖も、幅50m以上の平坦地も、2万5千分の1という縮尺ならば描くことが出来ると思うが、これらはまったく描かれていない。
単純に斜度45度くらいの山腹が描かれているのみである。
『房州石の歴史を探る』より転載。
右図は、鋸山で最後まで(昭和60年まで)採掘を続けていた「芳家石材」が県に提出した、昭和56年〜58年の採掘計画認可申請書の一部である。
ちなみにこの採掘場は鋸山の北面であり、現在探索中の地点とは異なっている。
図中の点線に沿って「江戸中期の原型」という注記があるが、これが元来の地形だったのである。
また右端にある「GL280-300」というのは鋸山の主稜線で、ほとんど稜線の直下から垂直に切り下げられているのが分かる。
そして下の方の平坦面に「GL224」の注記があるから、この上の崖は50m前後あることがわかる。
ちなみにこの事業計画は、GL224を2年間で約2m掘り下げるというものだった。
ところで、崖(切羽)の中ほどに小さな平坦面があり、そこに「戦后(後)の切下地」という注記がある。
この事業地では、戦後に入ってから採掘のスピードが大幅に増していることが分かる。
それにしても、この巨大な絶壁から、どのようにしてブロック状の石材を切り出していたのだろう。
いままでは漠然と眺めていたが、切り出し方を知れば、採石場に特有の“水平線模様”の正体も分かるかも知れない。
引き続き『探る』に教えて貰おう。
[ 鋸山での石材の切り出し方法 ]
鋸山で行われた露天掘りでは、右のような道具が用いられていた。
作業の手順としては、
まずはじめに「刃ヅル」というツルハシの一種で、岩盤の水平面に溝を掘る。
この溝は予め尺三石の寸法にあわせてある。
つまり、長辺が82cm、短辺が29cmの長方形になるわけである。
次に「ゲンノー」か「両ヅル」を用いて、この溝をより深く掘っていく。
最終的にこの溝の深さは26cm程度になる。
次に溝の底から水平方向に「矢」を5〜6本打ち込み、これを「ゲンノー」の平らになっている面で叩いて、石材を岩盤から切り離す(“石を起す”という)。
そして切り出された石材の寸法を「タタキ」で整え、最後に石問屋ごとに定められた印を付けて完成。
鋸山の石材は、石切場で商品の形まで整形されて山を下りたのである。
なお、この一連の切り出し方法を「溝掘矢割技法」といい、房州石や大谷石や伊豆石など、比較的軟質な凝灰質砂岩の採掘を手堀で行う場合、近世から昭和後半まで全国で標準的に用いられた。
これに対して硬質な安山岩や花崗岩の採掘では、溝掘が省略された「矢割技法」が用いられる。
また、いずれの岩質においても昭和30年代以降はチェーンソーの導入が進み、これを「機械技法」とよぶそうだ。
これは昭和30年代に撮影された鋸山での採掘風景。
人物がちょうど「ゲンノー」をつかって岩を起こしている場面だ。
左には岩盤から切り離されたばかりの石材がいくつも見え、人物が立っている足元には既に升目状の溝が掘られている。
この溝を掘ったのは、奥にあるガイドレール方式のチェーンソーである。
つまりこの写真の採掘は、機械技法による。
背景は真っ白く空が映っているが、鋸山の稜線に近い高所での作業風景と思われる。
右の写真は、前回紹介した“崩れた堀割”の表面で目撃した特徴的な模様。
水平方向に一定間隔で刻まれているのが尺三石の厚みに等しい溝掘の痕跡である。
そしてこの水平線に斜行するように、ツルハシの先端が刻んだ模様が無数に見える。
これはチェーンソーで溝を掘った場合、あまり目立たない。
すなわち、斜めの模様が顕著であれば、それは手堀の証拠となる。
手堀にせよ機械堀にせよ、一度の掘削はわずか30cm程度の切り下げに過ぎなかった。
それを連綿と繰りかえした結果、このような高さ50mを超す崖になったのだ。
刻まれた水平線は、まさに採掘場の年輪だった。
ちなみに、先ほど図面を紹介した北面の採掘場では、戦後の30年間で18mの切り下げが行われたという。
1年平均は60cmであり、すなわち30cmが2段程度ということになる。
機械堀が行われる以前はもっとスローペースだったが、明治24年に鋸山に登った正岡子規は、山の至るところで採石が行われている光景を目の当たりにし、次のような感想をしたためている。
伐山為石材。百年之後。地図無鋸山矣。
すなわち、採石のため、100年後の地図からは鋸山の姿が消えているのではないかというのである。
鋸山の採石業は、大正12年の震災を契機に長期的に見れば衰退期へと入っていくが、それでも地域第一の産業として昭和50年代頃まで盛況を続けた。
本来の目的地からは離れまくった採石跡地巡りは、次回その核心へ到達し、
以後は、軌道修正されてゆく。
もうしばらく、お付き合いいただきたい。