2012/6/1 5:37 《現在地》
糸魚川地域振興局が設置した「お知らせ!!」は、この道が国道148号へは通り抜けが出来ないという事を書いていたが、とりあえずバリケードがあるでもなく、直前までの集落内と変らぬ1.5車線の舗装路が、緑の森の奥へと続いていた。
そしてまた、森の入口は私を神妙な気持ちにさせた。
道路の向かって左側に、老木を乗せた巨岩が鎮座していた、その根元の窪みに山の神らしい祠が納められていた。
周囲には御幣が垂らされていて、鳥居こそないものの、素朴な神域であることが見て取れたのであった。
今日最初に出会う神さまに、私は自然と頭を下げた。
さらにその同じ地点の道路を挟んで反対には、小さな墓地が広がっていた。
その墓地は少し変っていて、植林地らしい杉の純林に取り囲まれていた。
もしも下草や下枝が処理されていなければ、たいそう陰鬱な雰囲気を醸していたに違いないのだが、緑の地面は掃き清められ、朝日が斜めに入り込みつつある墓地は、とても“居心地”が良さそうに見えた。
近くに寺院も見あたらない中で、これだけ手入れが行き届いているのは人の活力のなせる業であり、これから廃道へ一人挑もうという不安な気持ちを、少しだけ軽くしてくれた。
森に入った道の両脇からは人家こそ絶えたものの、道を幹とした人の営みは手入れの行き届いた畑の形で続いていて、私は明るい気持ちのまま東向き斜面の九十九折りを走る事が出来た。
地図を見てもよく分かるとおり、この峠道の蒲池側の登り道には10を優に超える顕著な九十九折りが刻まれていて、道幅こそ狭いものの、小気味の良いワインディングロードとなっている。
(高低差がより大きい西側の九十九折りがあまりないことは、逆に不気味であるが…)
さらにこのマイナーなワインディングを賞揚する理由の一つは、根知川を挟んだ向いに聳える海谷三山の美しさである。
稜線から顔を出しつつある朝日のために強烈な陰影を付けた稜線の迫力は、息を呑むほどだった。
登山をすることのない私にとって、取り立てて攻略すべき道を持たない純粋な登山の山は、道を有さぬ海原と共に、心を穏やかに眺める事が出来る風景である。
未踏の峠を持つ山などを目にすると、いい年をして未だに「負けじ」という気持ちが先立って落ち着かない。
そういう意味でも、深く残雪を抱いた海谷三山は、私を喜ばせた。
これは下から算えて6番目の切り返しだったろうか。
出発前の情報収集によると、この辺りは冬でも除雪がされているらしい。
なぜ分かるかといえば、新潟県が公式発表している道路情報におけるこの道の冬期閉鎖区間は、全面通行止めの区間2.5kmの他に1.8kmしかないことになっている。
その距離からは、どう考えてもこの辺りは含まれ得ない。
麓の集落を抜けてからここまで600m以上も人家は見あたらないが、どうやらこの先にもまだ人が住む集落があるらしいのだ。
九十九折りの大きく拡幅されたカーブを見て、雪の壁に閉ざされた壮絶なアイスバーンを想像する。
私の故郷の秋田でさえ、こういう道を辿らねば辿り着けない集落はあまりないし、私は知らないのである。
果して集落は無事であるかと、見ず知らずの私が心配をしていた。
道の端には、まだ少しの雪の塊が残っていた。
周囲の森の中にはそれが見あたらない事からも、確かに道路の除雪が行なわれていたことが感じ取れた。
そして、この先にある集落の存在も、雪とは別のものが教えてくれた。
路傍に佇む一基の石碑は、台座の特徴的な形がその正体を語っていたのであるが、路傍に一基だけある状態から、私は勝手に道の開通記念碑のようなものを期待して、表面に刻まれた文字を目で追った。
“故陸軍上等兵 勲八等功勲 木島八郎次郎之墓”
麓から来る人に正対するように向けられた墓碑は、この坂の向こうに待ち受ける集落が生んだ偉人のものであろう。
麓の墓よりはいささか哀愁を帯びてはいたが、ここにも水や菓子が手向けられていた。
5:57 《現在地》
麓の集落を外れてから20分を九十九折りに費やし、約1.2kmを前進したところで、予言されていたかのように人家が再び現れた。
県道の起点から算えると約2.2kmの地点であり、谷底から始まる峠の登りの全体から見れば中間地点を少し過ぎている。
それは標高の上でもだ。
そして地形図で見ると、数軒の家屋の記号の中心に「中上保」の地名が書かれている地点である。
大字としては麓と同じ蒲池に含まれているが、集落の名前は中上保というのだろう。
見えてきた家屋の内外に灯りや人影は見あたらないがが、建物に傷みも見られない。
また、この道の上には一際大きな老木が聳え立っており、麓から登ってくる冬場の目印として大切にされてきたものだろうと思った。
もちろん、古い道は今のように九十九を描いてはおらず、尾根に沿って直接上り詰めてきたのであろうが。
しかし、この現状を果して集落と呼んでも良いものか?
集落“跡”と呼ぶべきなのではないか?
そんな疑問が発生した。
道の両側には、先ほどまでの九十九折りの区間には見られなかった緩斜面と、そこに段を成す明るい草地が広がっていたが、最初の一軒に続く人家も田畑も、すぐには現れなかった。
そのかわり、廃屋と呼ぶにはいささか小さすぎる廃“小屋”がぽつんとあって、雪に押し潰された壁面に、人生の先達のありがたいお言葉が、直截に示されていた。
集落と共に消え去ろうとしているこの文字を敢えてデジタルデータとして記録するのも一興だろうから、以下に勝手に転載させてもらう。
我が友に贈人生は 毎日が新しい出発 目標を明確に
中上保集落は、標高370mから420mにかけての東向き緩斜面に広がっていた集落と見え、下の方の道沿いに多くの家屋があったようだ…ということが地形図からは読み取れる。
しかし現状も存在する家屋の数は、地形図に描かれているよりも、明らかに少なかった。
そして、まもなく私は集落の中央にある十字路に行き着いた。
県道はこのまま直進だが、左右の道も地図を見るとそれぞれ山間にある集落に届いているようだ。
道路工事の標識が出ていたから、廃道と言うことは無さそうである。
この集落の中心を思わせる角地には、麓の集落にも無かったくらいに際立って大きな屋敷が建っていた。
少しだけ寄り道にはなるが、庄屋屋敷を思わせるような趣のある佇まいに惹かれて、その全容が見晴らせる門前へ行ってみる。
それは廃屋だった。
おそらくは一つの屋敷の母屋と離れであろうが、手前の小さい方の家屋は大破して見る影もなかった。
奥の一層巨大な家屋は辛うじて家形を留めていたが、堅固であるはずの梁は無惨に歪んで曲がり、
剥がれ落ちたトタン葺きの下から現れた古めかしい萱葺きは、最期に今一度日の光を浴びたいと懇願したように見えて憐れだった。
崩れ落ちた屋根による足元の悪さと、マムシでも潜んでいそうな膝丈の草むらに注意しながら、
失礼とは思ったが好奇心も手伝って、開け放たれた軒に近付いて、屋内を覗いてみた。
まるで時代劇のセットのような間取りは、本当に江戸時代からの建物であるのかも知れなかった。
そして破れ障子の奥に見えた暗い室内は意外にもがらんどうではなく、残された家財が見えた。
壁に掛けられた面のようなものに戦慄しつつ、廃屋の鬼気迫る景観には居たたまれない気持ちになった。
峠を前に昂ぶっていた気持ちが醒めて少し後悔をしたが、県道526号の際だった添景を間近に記録しておきたかった。
中上保集落から先は、冬期閉鎖がなされる区間である。
閉鎖される期間は例年12月上旬から4月下旬までというから、約5ヶ月間。
探索日においても解放から1ヶ月少ししか経っておらず、前述のように路傍には少しの雪の塊も見られたのであるが、閉鎖区間の内外を分ける定置式のゲートのようなものは見あたらず、移動式のバリケードで簡単に封鎖されるだけであるようだ。
まあ、はっきり言って一般的な通過交通が想定し辛い位置にある県道だけに、それでも十分なのだろう。当然のように、今日この道では一台の車とも遭遇していない。
だが、道の作りには冬期閉鎖区間の内外で多少の変化がみられた。
それは道幅が1.5車線から1車線まで狭まったことともう一つ、路面の舗装がだいぶ傷んでいるということだ。
特に後者の特徴はあまり見られぬもので、地震でひび割れたり欠けたたりした路面を、無理矢理アスファルトで埋め戻したような印象を受けた。
しかし、おそらくその原因は地震ではなかったということが、机上調査で判明した。
その話は次回にしたい。
中上保集落の中とも外とも付かない辺りから、再び峠に向けた九十九折りの連続が始まる。
地形図ではこれより先にもいくつかの家屋が描かれているし、道の周りには依然として明るい草地が多く点在しているが、全ては無人の荒野も同然と見えた。
来た道を振り返ると、海谷三山に灯った太陽が眩しく、私はくしゃみをさせられた。
廃道歩きにはいささか熱くなりそうではあるが、午前中の空模様を心配する必要だけは全く無さそうだった。
中上保集落の一軒目を目にした地点から500mほど道なりに進んだ標高420m付近でも大きな家屋が見えたが、ここでは道と家の間に広がる広い畑の一部の土が掘り返されていて、集落内で初めて耕作者の存在が明らかとなった。
なお麓とは異なり、この集落に水田は全く見られなかった。尾根筋であるために用水の便を得難かったのだろうか。
そして手元の地形図では、集落でこれより上の峠寄りにある建物は二つだけである。
そのうちの最も上手のものが「神社」だということは記号から分かっていたが、もう一つの他の家屋よりも大きく描かれていた建物の正体は、実際に目にするまでは分からなかった。
その大きな建物は…
6:10 《現在地》
廃校であった。
膝丈の草むらに埋もれつつある門柱に扁額などはなく、現地ではその名を知る手立てがなかった。
しかしこれが廃校であることは、外見的な特徴から明らかだった。
帰宅後に歴代の地形図を見較べてみると、この地点には明治44年の版で既に学校の記号が描かれており、それは昭和まで受け継がれていたが、昭和50年の版から消えていた。
廃校舎の傷みが少ないことから、廃止されたのは平成に入ってからだろうと想像していたのだが、実際は昭和末期に校舎としての役目は終えていたようである。
さらに机上調査を進めたところ、この学校の名が判明した。
糸魚川市立蒲池小学校、それがこの校舎に与えられた最後の名であった。
蒲池小学校は、昭和48年に根知川流域にあった他の2つの小学校と合併し、現在も麓の東中地区で存続する根知小学校になっている事が分かったのだが、健在に見えた校舎が実は廃校から40年近い月日を経ていたのは意外であった。
しかし、改めて現地の写真を見返してみると、校舎のトタン屋根や壁の一部には真新しい補修の痕跡があるほか、校庭の一角に植えられたツツジには冬囲がされていた。
それが取り外されぬまま美しい花を付けていたのはご愛敬だが、間違いなくこの校舎を守る人の心が生きていたのである。
そしてこの机上調査の過程で、蒲池集落(中上保や下上保など)が既に無人化しているという情報も得たのであったが、探索前に知らなかったのは幸いだった。知っていたら、もっと暗い気持ちで峠に挑まねばならなかったろうから。
中上保集落でこれより上にあるのは、村を見下ろす高台に描かれた神社の記号だけだった。
九十九折りの途中にある小学校の廃校を通り過ぎても、道はこれまで通り九十九折りを重ねてゆく。
その路面はうねうねと、なおも不気味な小起伏を見せていたが、舗装されているだけ良しとせねばなるまい。
お陰で通行量がいくら少なくとも、藪道を掻き分ける苦労をしないで済むのだから。
沿道には“廃”と付くものしか無い…。
それはさすがに言い過ぎだとしても、ワインディングから見える遠望の美しさに反して、華やかさとは全く無縁である県道526号。
だが、ここまで登ってきて見晴らせるようになった南側の斜面には、華やかさが見て取れた。それは稜線のてっぺんから麓まで続く巨大なスキー場のゲレンデであり、今は広大な牧草地のようでも、ひとたび白銀の世界に転ずればカラフルなウェアが踊るに違いない。
私の地図では、まさしくゲレンデの位置に「杉之当」という変わった名前の集落が示されているが、その健在は不明である。しかし県道から見ればなんとも…、「向かいの芝生は青い」ように見えたのであった。
6:16
九十九折りの途中から、道の進行方向とは反対の向きに登る、
荒れ果てた、しかし意外に幅の広い石段が伸びていた。
鳥居も見あたらないが、この上には地形図に描かれた神社があるのだろう。
「集落の一番上に神社がある」。
そんなシチュエーションが好きで、登ってくる最中もずっと意識をしていた私だが、
いざ急な石段を前にした私は、自分でも意外なほど敢えなく寄り道(登攀)を断念した。
私の目的地はここではないと、素通りすることに決めたのである。
どうやら私はシチュエーションに惹かれただけで、神社そのものにはあまり興味がなかったのだ。
…だが、この神社はそんな妥協を…
許さなかった。
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