2020/3/26 16:09 《現在地》
道にいる。
そうは見えないが、間違いなく、かつての路上にいる。
写真の左端に、路肩が見えている。
段差があるので、転落防止用に駒止工が並んでいたのだが、それすら押し流されていた。鉄筋でしっかり路盤に固定されていたにも拘わらずだ。
路面が壊されず残っている場所もあるが、大量の砂に埋立てられているので、自転車で走行することは無理だった。
この場所もそうで、仕方なく押している。
もうずっと押しっぱなしだが、砂地に轍を刻むのも、ここでは意義深いことのような気がして、嫌ではなかった。
重津部沢の浜を横断していた長い堤防状の道路構造物。
辛うじて擁壁が残っているが、それらに守られていた肝心の路盤は、中込めの土石と共に流失し、空虚な髑髏のような姿を晒していた。
しかも、この擁壁さえ半分は流失していた。
この写真の“突端”は、本来の堤防の突端ではなく、単なる構造状の継ぎ目でしかなかったはずだが、これより先、津波の流心に近い領域は、地中深く杭打たれた巨大擁壁ですら、跡形もなくなっていた。
(←)
この先にポツンと残っているのが、本来の堤防突端部の擁壁だ。
津波の流れに逆らわない向きだったおかげで、流失を免れたらしい。
(→)
近づいて見てみると、何十年も流心に晒されていた砂防ダムの一部のように、角という角が丸くなっていた。
だが、どう考えても、この構造物が削られる機会は、ほとんどなかったはずなのだ。
あの日、繰り返し押し寄せてきた津波の他は…。
なお、かつてはこの構造物の左側を、清らかな重津部沢が流れていて、ボックスカルバートが横断していた(【KAZE氏の写真】に写っていた)のだが、現在は流れが全く見えない。沢の水は砂丘を深く伏流して海へ注いでいるようだ。
茜色に染まる砂丘を横断して、対岸の道に上陸した。
風景の穏やかさが、なんともやるせない。
道の闘いが終わった、決着の寂しさがあった。
いま辿っている旧ルートは、前須賀の浜から、沼の浜、重津部の浜を経て、青野滝の浜まで、全て海岸線の道であり、高低差はほぼゼロだった。
しかし、4つの浜と浜の間には示し合わせたように1つずつトンネルがあって、地形には緩急の心地よいリズムがあった。
これから踏み込むのが、3本目のトンネルが待つ最後の区間で、おそらく最も険しい区間であることも、地形図は物語っていた。
青野滝漁港までの残りは約700mで、距離もちょうど3分の1だ。
砂丘を出ると、路盤の荒廃は、それまで以上に、暴力の色を帯びた。
3本目のトンネルに至るまで、崖下の道を守衛するための多種の構造物があったが、何一つ無事ではなかった。
その中に、平成時代に入ってから新たに増設されたと思われる、まだ新しそうな山留め擁壁があった。
表面に自然との調和を意識させるような模様が施されているので、それと分かるのだ。
だが、絶対に堅牢であったはずの新しい土留め擁壁でさえ、浮き上がって移動したとしか思えないような変形を起こしていた。
さらに驚いたのは、この新しい土留め擁壁の裏の高いところに、駒止を並べた路肩擁壁の大きな残骸がひっくり返っていたことだ。
つまり、路肩にあったコンクリートの巨大な構造物が、それより何メートルも高い所まで押し流されていた。
これほどの荒廃を目の当たりにすると、気になってしまうのが、この路上にいて津波に巻き込まれた人の有無と、その命運だ。
もちろん、何も手を打たず最後まで路上にいたならば、それは悲劇であり、おそらく体験を語ることは出来なくなってしまっただろう。
しかし、後日の調査によって、幸いにも、ここで津波に巻き込まれた人はいなかった可能性が高いことが分かった。
みやこわが町@ミヤペディアというサイトに、次のような記述を見つけたのだ。
偶然にも、平成22(2010)年の年末の大時化で道路が決壊し、震災当時は通行止めになっていたというのである。
ならば、私のような不届き者がいなかったとするならば、巻き込まれた人もなかったと考えられる。工事関係者も、多分タイミング良くいなかったんだね。
津波から逃げ場のないこの道で、通行人が一人も巻き込まれなかったのは、道の最後のご奉公だったのだろう。
引き波の強烈さを物語る、巨大な土留め擁壁の散乱地帯を踏み越えると、大穴が待ち受けていた。
おそらく、路肩にある防波擁壁の基礎が荒らされ、道を支えていた土砂が海中に流失したのだろう。
全てが津波の影響ではないかも知れないが、あらゆる破壊の見本市のような状況である。
素人考えだが、こういう場所を道路の被災を研究するための場所“道路版の死体農場”のように活用するアイデアは、需要がないのだろうか。
……この直後、ちょっとヒヤッとさせられた。 ↓
私が直前まで自転車を押しながら通った路面の下も、大空洞だった…。
まあ、人間の体重くらいで、落ちたりはしないよね……。
…あんな大きな“塊”も、転がっている位なんだし。
……でも、ヒヤッとしたのは事実。
深さが5mくらいあるので、万が一予期せず(受け身も取れない)落ちたら、非常に危険。
16:16 《現在地》
起点から1.4km地点にある、3本目のトンネルに到達した。
探索開始直後に【遠望】した、恐るべき荒廃の核心に、踏み込んでいる。
しかし、得てして廃道には、こういう場面があるものだ。
直前の悪状が嘘のような、無傷に近い、こんな場面が。
最後のトンネル前の空間は、少しの路上清掃で復活できそうなくらい綺麗で、逆に驚かされた。
すぐ隣には、研がれた斧の刃を思わせる鋭い岬が峭立している。
ビルの5〜6階くらいの高さまで、表土と植生を根こそぎ奪われており、鬼気迫る、裸である。
至る所が赤褐色に変色していて、まるで流血しているように見えた。
水深20mに溺れた過去を、外見からは伺わせない、鵜の巣隧道。
1つ前のトンネルもそうだったが、耐用年数を経過していないし、それ自体にも欠陥はなかったのに、前後の道が失われてしまったために廃止されねばならなかったという境遇は、哀れだ。
しかし、こればかりはどうにもならない。他の場所で活躍させるというわけにも行かないのが、土木構造物。
労力や資力といった建設時の投資を回収するには、その場所で活躍するしかないという当たり前の宿命がある。
だからこそ、土木には「百年の計」という言葉に代表されるような尊さがあるとも思う。
全長以外のスペックは、第二沼の浜隧道と同じである。全長も5m短いだけだ。
鵜の巣という名前の由来は不明だが、普通に考えれば、この隧道が貫いている小さな岬の名前に由来していると思う。
どことなく鉄道のトンネルを思わせる、縦に細長い断面だ。
断面サイズは1つ前のトンネルと同じだが、さっきは土砂の堆積が厚く、本来の断面が分かりづらかった。
今回もたくさんの瓦礫が散らばってはいるが、埋れる程ではない。
また、内壁のツルツルとした光沢が、印象的だった。
昭和40年代のトンネルにしては、とても新しく見えた。
海風が常に吹き抜ける環境にあり、地下水が湧き出る場所でもないので、
内壁が乾燥を保ちやすいことが、老朽化を抑えているのかも知れない。
しかし、いまはトンネルが綺麗であればあるほど、気の毒だ……。
トンネルは廃道の安全地帯だという、初歩者の印象とは真逆の真理。
……津波さえ来なければね……。
だから、トンネルを出ると、ろくでもない。出口にかけて、大きな崩土の山が出来ていた。
落石を心配するなら、地上に出ることを自粛したほうが良さそうな、生々しい崩壊現場だ。
もちろん、私は躊躇わず外へ向かうが、心配なのは、崩土の山で目隠しされている、この先の状況だ。
ここまでは海への注意だけだったが、落石にも虐められるとなると、さらに道の立つ瀬はないだろう。
隙間から、トンネルの先の最終500mの道のりが、現われてくる――
険悪の空気が、満ち溢れる。
その奥には、ついにゴールの浜辺が見えてきたが……、この区間にあったと記憶している
ロックシェエッドが、ない?!!
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