2020/3/26 16:19 《現在地》
自転車ごと地上へ。
坑口前には、大量の新鮮な崩土が堆積しており、立ち止まるのは少し危険なので、崩土の外側まで離れてから振り返った。
比較表示は17年前の写真だが、当時の私の立ち位置には、二度と辿り着くことが出来なくなっている。
また、現地では気付かなかったが、改めて写真を見返してみると、坑門の意匠が変化していた。
前は何の変哲もないコンクリートの壁面だったのだが、今回、(この北口だけ)石積風の擬石タイルによって装飾されていた。
これを見て古いトンネルだと勘違いする人はいないと思うが、美しい自然に調和し、公園道路に相応しい姿を目指した改修だろうか。
だが、現実の自然は、このような甘い馴れ合いに絆されて手心を加えることはない。
奴の暴力に耐えるには、徹底的に頑丈にする以外の方法はない。
ここは海の護岸はほとんど壊されていないのだが、代わりに山の法面が壮絶なことになっている。
このまま崩れまくっても、崩土が次々海へ押し出されるため、隧道の閉塞までは行かないと思われるが、そんなことを今さら心配してくれる人もいないのだろう。
とにかく……
海も山も、ぜんっぜんっ!道に優しくない!
道の置き場所としては、おおよそ「最悪の環境」といえるのが、海食崖の下で直接波に洗われる浜辺という、この立地である。なにせもともと道を通すような平地がないところに、無理矢理に路盤を設けているのだから、環境の抵抗は最も激しい。
そんなところに、旧田老町はなぜ、さほど多くの交通量は望めない町道を、昭和40年代という時期に多くの予算を割いて建設したのだろうか。
旧田老町は、津波防災分野における日本の先進地であり、この立地に道を造っても、いずれ必ず来る次の“三陸大津波”で潰滅することを、予期しなかったはずはないのだが……。
一見、不条理なように思えてくる。
以前、この謎の答えを知りたくて、『田老町史』を漁ったが、通史編が刊行されなかったこともあり、分からなかった。
なので、次の説は私の勝手な想像だ。
昭和40年代の田老町は、とにかく観光開発に舵を切りたかったのだと思う。
田老という名前でピンときた読者もいたと思うが、かつて町内には田老鉱山というラサ工業が経営する硫化鉄の大鉱山があった。戦前の最盛期には4000人規模の鉱山集落を形成するほど繁栄し、戦後も長く継続していたが、昭和46年に資源枯渇を理由に閉山している。
元来、平地と農地に恵まれなかった町内の産業は、鉱山が第一のものであっただけに、閉山のダメージは大きかった。
そこで、産業の主力を観光へシフトすべく、従来は道が整備されていないために宝の持ち腐れに近かった町内の海岸風景を体感できる海岸道路を、敢えて津波への無理を承知のうえで、海岸線に建設したのではなかったろうか。
そしてこの大胆な勝負は、おそらく、それなりに成功した。
完成直後に津波が来ていたら、目も当てられなかっただろうが、40年くらいも活躍できたのだ。
この間、沿道にいくつもの海水浴場や公園が整備され、2010年までは稼働していたようだから、観光開発はひとまず成功と言って良いだろう。
宮古市の浄土ヶ浜と、岩泉町の龍泉洞という、超有名な観光地に挟まれているために、田老町の観光は地味に見えてしまう部分があるが、この海岸道路は、旧田老町の一大事における方向転換を、陰から支えてくれた功績があったと思う。
(それだけに、この崖岸道路を復活させないという県の決定を、旧田老町民はどう感じているのか。それどころではないというのが、大半だろうか。)
16:20 《現在地》
やはり、ロックシェッドは、失われていた。
もはや、この海岸線にあったトンネル以外のいかなる道路構造物も、無事ではあり得なかったことを実感する。
ロックシェッドは堅牢であることが最大の特徴といえるような道路構造物だが、根こそぎ逝かれて跡形もなかった。
個人的にも、崩土に押しつぶされたロックシェッドは見たことがあるが、波に押し流されたというのは初めて見た。
津波とロックシェッドといえば、ここから直線距離で約40km北に離れた岩手県久慈市の久喜漁港にあった
久喜隧道のものを思い出す。あちらも(廃止後に)津波を被ったが、流失には至っていなかった。
両者の立地条件や構造はよく似ているが、結果が違った条件は、なんだったのだろう。
震源からやや遠い野田村の場合、波高は最大で約17mとされているが、
鵜の巣隧道がある岬の木は海面から25m辺りまで枯れていて、推定される波高は17mよりも高い。
津波がぶつかってきた方向の差もありそうだ。当地は外海を真横に見ており、もっとも不利な状況と思われる。
もっとも、今後の津波防災において、この差の情報が役に立つとは思えない。
ロックシェッドが津波に耐えるかどうかは、そこにいる人を救えるかどうかとは、まず無関係である。
人は、とにかく避難する以外に助かる術がない。そこにあった道路がどうなろうと、関係ない。
これは、路肩に並ぶ駒止。
さっきから沢山見ている。
左端は、かつてのロックシェッドである。
その路肩には、駒止ではないものが、並んでいた。(↓)
これは断じて、駒止ではない。
ここに、少しだけ大きな駒止のようなナリをして並んでいるのは、かつて何百トンの重さを支えていた、ロックシェッドの支柱の基礎である。
私もこれを見るまで知らなかったが、ここにあったロックシェッドの支柱は、頑丈な一本の柱というわけではなく、基礎の上に“載っかっている”のに近い構造だったようだ。
もちろんある程度は締結されていたのだろうが、完全に強度的に一体化していたというわけではなく、一種のヒンジを持った耐震構造になっていたようだ。
しかし、まさか津波にさらわれるとは、想定していない壊され方だったろう。
今度は、支柱の柱が1本……。
巨大な屋根は、どこか遠くの海底まで連れ去られたのか、ここには見当たらないのに、支柱が1本だけ残っている不思議な状況。
なお、柱は上部が太く、株が細い形をしていたので、手前側が上だったはずだ。
とにかく、前にも書いたが、ここは道路の“破壊博物館”のようだ。
自然に起こるあらゆる壊され方の博覧会場だった。
この景色の異様さよ…。
完全に人工のものだった地盤が、強引に自然の砂浜の姿へ変えられている。
本来の波打ち際よりも遙かに高い位置に、奇妙な砂浜が生まれていた。
そして、ここは本当に吹きっ曝しで、何物からも逃げ場がないから、居心地が最悪だ。
波の穏やかな今日は特段危険ではないはずだが、それでも長居したいとは全く思えない、生物を拒絶したような風景だった。
危険の有無以前に、気圧されていたのだと思う。
私の(微かに)知る場所を、これほどに変貌させてしまった、力の存在に。
しかも、破壊の大鉈を振るった張本人が、何食わぬ顔でそこにいる不気味さもあった。
前言の一部を撤回する。
破壊されたロックシェッドの屋根の部分は、路上から完全に消えたのではなかった。
後半の3分の1程度が、海の藻屑とはならず、路上に残っていた。
……見るも無残な姿となって……。
前述の通り、逃げ場がない状況で、迂回方法はない。
普段はまず足を踏み入れることがないロックシェッドの天井の上へと進まねば、先へ行けない。
上手い倒れ方をしていて、自転車と一緒に進むことは難しくなかったが、それでも心拍数が上がった。こんな異様な進み方をせねばならないことに興奮した。
崩れたロックシェッドの天井裏という異様な径路を振り返る。
どうやら、ここだけ天井が海へ連れ去られず残ったのは、路肩の外に突き出した大岩のおかげのようだ。
しかしそのために、破壊の無残を一層強調するハメになっている。
おそらく、真横からぶつかってきた天井より遙かに高い波は、垂直の護岸にぶつかった瞬間、上方向へ吹き上がり、巻き込まれた屋根全体を、その衝撃と浮力とで一瞬にして浮かび上がらせた。
直後、屋根は巨大な重量を思い出してほとんど真下の路上へと墜落し、同時に瓦解したものだろう。
震災後9年が経過し、手つかずのように見える破壊の現場は数が少なくなってきた。
震災直後は、行方不明者の捜索が路上の瓦礫の下でも可能な限り行なわれていたと思うが、大勢が立ち入ったのは、その時だけだとも思う。
玉石の浜から波が引く、ガラガラという爽快な音が、えらく耳に残った。
それと同時に、17年前の同じ音の記憶も、呼び覚まされていた。
(今回、動画を見直して気付いたのだが、19秒付近の海上に何か黒い大きなものが浮かんでいて、
次に同じ場所にカメラを向けた30秒過ぎに、スッと潜るように消える瞬間が写っていた。魚だろうか?)
不安を募らせた暗い潮騒をつき破って、明るい月が海面に浮かび上がった。
これから未知の夜道を漕ぎ進むことを励まされた気持ちがして、若い私の覚悟が決まった。
よほど感心したらしく動画を撮っていたが、これだけ見ても何が何やらだな。
ロックシェッドから先へ進むところで、一瞬、躊躇いを感じる場面があった。
待ち受けていたのは、道を完全に塞ぐ、高さ80cmほどの頑丈なコンクリートウォール。
まるでビルの屋上のような雰囲気があり、先へ進むには、“身投げ”を強要される。
壁越しに先を見ると、かなりの高低差が感じられるため、進めるだろうかと一瞬不安になった。
幸いにも、乗り越えた先の1.5mほど下に、本来の路面があったため、進むことは出来た。
自転車は自由落下させねばならなかったが、タイヤから落としたことと、砂利が敷いてあったことで、ノーダメージで突破できた。
16:28 《現在地》
全長100m前後のロックシェッドを突破すると、終点の青野滝漁港が300mほど先に現われた。
そこまでの浜辺に、路盤は見えない。残骸すら散らばっていないことが、逆に不気味だった。
港の施設に目を懲らすも、海上に突き出た小さな物揚場に船は見当たらない。
もちろん、人がいる気配も、建物もなく、これまでの沿道各浜同様、無人に帰しているようだった。
夕日が山の影に隠れ、気温が急速に下がってきた。
出迎えなどない、寒々しい終点を覚悟せねばなるまい。
道が切れた所から浜に降り、少し引き返して、壊滅した道を見上げた。
護岸擁壁の直接波に曝される辺りが、激しく浸食され大きく凹んでいるのを見た。
やがて転倒し、道は流失してしまうだろう。
震災前と較べ、宮古市内の地盤は40〜50cmも沈下しており、その分海面が上昇したという。
そのため、路盤が波の影響を一層強く受けるようになったはずだ。
ことのことは、県が現道復旧を断念した根拠にもなっていると思われる。
シェッドを後に、港へ向けて出発する。
すぐに大きな山崩れの現場に差し掛かった。
周囲の露岩や浜辺の岩石とは明らかに風合いの異なる茶色い瓦礫が、張り詰めた袋が破れたように、ぶちまけられていた。
津波と山崩れのどちらが先に起きていたかは不明だが、山際にあった道、ないしその跡地は、50m近くも完全に埋没していた。
清浄な玉石の浜を、自転車を押しながら、黙々歩いた。
遠目には完全に流失したかに見えた路盤だが、実際は山際すれすれの所に、半ば砂利に埋れながらも断続的に残っているのを確認した。
ここに車道が甦ることはないが、道があった様々な痕跡は、トンネルを中心に何世紀も残り続けるだろう。
数世紀先の人類も、三陸に住むならば、再び大きな津波を経験することは、おそらく避けられない。
だが、防災の教訓めいた話は、もっと人が大勢いる場所で語られてこそ、効果もあろう。
ここは、素朴な環境の猛威を、孤独に体感できるところが、魅力的である。
思索を巡らせるにも、ただ呆然とするにも、孤独がここには相応しい。
“出口”だ。
道は、青野滝漁港の入口で、道らしくないような塞がれ方をしていた。
段差と、車止めで、もとは一続きであったはずの市道沼の浜青の滝線は、イキとハイの領域に分断されていた。
これを見る限り、青野滝漁港自体は、イキの領域に残ることを許されたようだ。
車止めがある段差の縁から、視線をそのまま右にずらしていくと――
ポツンと海に突き出た物揚場がある。
しかし、大量の砂利が陸上を占拠していて、係船業務が出来るようには見えないし、実際に利用されている気配がない。ただの防波堤なのだろうか。
いずれ、この膨大な砂利が津波によってもたらされたものなのかは分からないが、50cm近く地盤沈下した影響は大きいはずだ。
16:39 《現在地》
出発からちょうど1時間を要し、起点から1.9km地点にある、青野滝漁港に到達した。
まだ終点ではないが、廃道区間は、ここまでだ。
この漁港は、珍しく入り江ではなく、あまり凹凸がない砂利浜にある。
こういう地形は一般的に遠浅で、港に適さないが、青々とした海面を見る限り、ここは陸から3mで十分に深い。
ただ、深さはクリアしたとしても、外洋の高波や強風を防ぐ術がないのは、この港の利用を著しく制約していることだろう。
ひとことで言えば、吹き曝しの寒村的漁港。しかも。近くにはその寒村さえない(集落は100mも高い岡にある)から、半端なく淋しい。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
突堤の先端で撮影した全天球画像は、同じく名前に「青」が付く某島の港の風景を彷彿とさせた。
そして、もしかしたらこの港も未成ではないかという疑いを持たせた。
だが、帰宅後に震災前後の航空写真を比較してみたところ、私の疑いの不当さを理解した。
震災前の写真には、突堤の付け根辺りの砂利浜に陸揚げされた10艘以上の小舟が写っていた。
港は、ちゃんと活用されていたのであろう。
道路沿いに数軒の番屋があったことも見て取れた。
また、宮古市の公式サイトにも情報があり、漁港として始めて指定を受けたのが、海岸道路の開通よりも早い昭和26(1951)年だったや、「天然のアワビ、ウニ、ワカメなどを採る磯漁業を営んできましたが、現在はワカメ、コンブの養殖漁業を主体に行っています。東日本大震災の津波被害からの復旧は平成25年10月に完了しました。
」との説明から、現在も漁港として存続していることが分かった。
土砂の退かし方などが“粗々”の印象は拭えないが、漁港の敷地に入ったところから、道は管理されるようになった。
この先の道は浜沿いを200mほど北上し、青野滝川の河口に突き当たったところで左折、始めて海岸線に背を向けて、青野滝集落を目指す山岳道路になる。
おそらく、河口にぶつかって左折する地点が、全長2180mと記録される市道沼の浜青の滝線の終点だったのだと思う。
全て流失したらしく浜に建物はないが、大きな岩の上に一基の石碑が残っていた。
表面に流麗な文字で「龍神塔」とあって、水神を祀るための石仏だった。
右に年号があり、そこに「弘化四」の文字がはっきり読み取れた。
弘化4年は西暦1847年、江戸時代末期である。この浜の歴史は、思いのほか古いようだ。
青野滝川の河口に突き当たると、道はもの凄く新しくなった。
市道沼の浜青の滝線の災害復旧のための付け替え工事の成果であった。
おそらく17年前に上っていった坂道と、位置はほとんど変わっていないと思うが、生まれ変わっていた。
このまま道なりに進めば青野滝集落だが、しばらくは車を駐めてあるスタート地点から離れる一方になる。集落経由で国道45号へ迂回し、ぐるっと一周するか、いま来た廃道をそのまま戻るかだが、どちらを選んでも、車に戻る頃には真っ暗だろう。
出来れば第3のルート、建設中と思われる新道がほぼ出来上がっていて、かつ通行できれば、帰還の時間を大幅に短縮できそうなのだが。
新旧道の分岐地点は、写真奥の突き当たりだ。
16:50 《現在地》
あった!
17年前には生まれる計画さえなかっただろう新道が、ここから左に分岐している。
まだ地形図には反映されていないこの新道に、帰路を託そう。
案の定、供用開始前のようで塞がれていたが、見える範囲はすっかり完成しているし、かつ工事の音も聞こえないので、貫通の期待が持てた。
最後に、急に遠くなった海を振り返った。
新道からは、全く海が見えない。
海は美しく、目を楽しませ、心を癒すが、安全とは両立できないので、捨て去ったのだ。
これが、人間社会が望んだ現代の Disaster Distance.
……なお、期待の新道はほぼ完成していて、開通式を待つだけに見えた。途中に二つの小さな峠越えがあり、自転車には少しだけ辛かったが、道が良いので40分足らずでスタート地点へ戻ることが出来た。