道路レポート  
雄勝峠(杉峠) 旧旧道 その4
2005.3.30


 今回から、いよいよ旧旧国道との本格的な戦い(調査ではない!)が始まる。

目標はズバリ、
峠を確認し、さらに言うならば、不通となっている隧道の代わりに、峠を越えてしまう事に尽きる。


これこそが、本道開設にあたった“鬼県令”三島通庸と、山チャリストヨッキれんとの、宿命の戦いに他ならない。
(此までの三島との戦いは、主に「万世大路」「主寝坂峠」「宇津峠」がある。参照されたし)

そう、私は、山チャリストとして、この戦いに挑む。
すなわち、チャリ同伴で突破しなければ、勝利とは言えまい。

竣工より2004年で、124年。
その廃止からも、49年を経過した、現在の国道から数えて、2代前の国道。
竣工より廃止まで、常に国道であり続けた、生粋の旧国道である雄勝峠、またの名を杉峠

郷土書などには、「既に藪と化し判然としない」と公然と記されている、いにしえの峠。

山行がヨッキれん、史上最大(?!)自己満足へ、孤独なる戦いの始まりだ。





 ふたたび、旧旧道との邂逅 
2004.12.2 9:54


<A地点>(これは、後述する地図に対応する記号です)
 旧国道の雄勝隧道の直上が、元来の雄勝峠であった。
この日は十二月の頭で、木々の葉も落ち、下草も大人しくなっていたので、雄勝隧道坑門の上にある平場に立つと、ご覧の通り、容易に峠を目視できた。
雄勝峠は、県境の峠であるから、どうしても大変険しいイメージを持ちがち。
でも、旧隧道は既に、かなり峠に近い位置を穿っていたことが、よく分かる。
峠は、もはや目と鼻の先なのである。

少なくとも、このときはそう思った。
そして、実際にチャリ同伴での突破を、現実的に指向しだしたのは、この景色を見た、そのときからだった。

ただし、距離はないが、斜面はとても急で、そこには道形は見あたらない。
佐竹の殿様が開削した“元祖”杉峠は、この斜面をも直登していたはずだが、その痕跡はない。
足元にある平場は、果たしてどの様にして峠へと近づいていくというのだろうか?
それが、とても楽しみに思えてきた。
まるで、三島の道を種明かししていくような、おもしろさを感じた。



 <B地点>
 とりあえず、道形は判別できる程度の鮮明さがあった。
しかし、やはりというかなんというか、地点などで見てきた通り、それはもはや、かつて自動車も僅かに通っていたことが信じられぬほどの、自然回帰なる姿であった。

写真の場所は、峠直下の急斜面(A地点)から、斜面を迂回しつつ つづら折りで登り始める、その始まりの地点。
私は、この段階ではチャリをSS横穴に置きっぱにしていたのだが、
この景色を見た段階で、なんとかチャリごと突破できそうだという判断を下し(我ながら、この写真を見る限り、何を根拠にそう考えたのか、全然分からないのだが…)、ともかく、チャリを回収しに、一旦引き返すことにした。
ここに来るときは、直接斜面を
       
よじ登って来たが、次はチャリごとだから、ちゃんと道形に進まねばならないだろう。
戻りながら、ちゃんと道を確認しておかねば。



 だが、どうやら道形を見失う心配はなさそうである。
写真は、<B地点>より戻り方向を撮影したものだが、驚くほど鮮明に、それは痕跡を留めていたのである。

これには、感動した。
どう見ても、斜面を削っただけの簡素な道なのに、さすがは国幹を成す峠道として永く君臨していただけのことはある。
ちなみに、写真に写っている道と、現在地点との間にある沢地のやや下流に、旧国道の雄勝トンネル坑門は存在している。
さっきSS内から見えていたのり面らしき岩肌とは、まさにそこの道であった。


 さらに振り返り、<B地点>から<A地点>を見る。
こうして見ると、道形がしっかりと確認できるだろう。
そして、<A地点>で180度ターンした道が、上の写真の崖の道へ続いているのだ。

では、これから実際に歩いて戻ってみる。



<C地点>
 写真は、いよいよ<B地点>のヘアピンを経由し、裸ののり面も雄々しい崖ゾーン。

注目は、この道が意外に、直線を多用した線形であるという点。
短い距離でも、直線を確保するために、かなり大規模に崖を削ったりした形跡が見られる。

直線と、ヘアピンだけで構成された峠道。

旧旧国道の線形を一言で言い表せば、そうなる。
直線の多用は、自動車交通への利便を当時なりに考えた結果だと推測できる。
無駄なカーブを省けば、より高速性に優れた道が得られると考えるのは、自然なことだ。
だが、今日ではむしろ、直線とヘアピンとの接続は、危険な良くない設計とされる。

日本で初めて、クロソイド曲線(緩和曲線)という、直線とカーブとの間に、緩やかな曲線を挟み込む線形が採用されたのは、群馬県の三国峠とされる。昭和二十七年のことだ。
この雄勝峠については、旧旧道は当然としても、昭和三十年に開通した旧道も、緩和曲線知らずのど派手な線形だが…。


 この直線は、200m程度の長さがあり、非常に印象に残る景色となった。
緩い勾配を下っていくと、途中からは旧道のSSが爽やかな青色で目を惹く。
しかし、チャリをあの中に置いてきている事を思えば、ちょっと萎える。
やはり、歩くなら結構快適な旧道遊びも、チャリを運搬するとなれば、かなりヤバイかも…。
どう見ても、旧旧道にはチャリに乗れる場所なんて全くない。
足元は土っぽく、かなりぬかるむ場所も少なくないのだ。
辞めるなら今のうちだな、とも思った。

まあ、なんとかなるだろう…。
峠をチャリで越えなくて、どうするんだ。
そんな脅迫観念が、私から正常な思考を奪っていた。

 天然の崖のようにしか見えない、のり面。
それは、一枚岩のようで、崩落などもほとんど見られるきわめて安定していた。
すこし、粒様の大スラブを思い出させられた。
しかし、この崖は人が人力で削ったものなのかも知れない。

上部はそのまま稜線付近までせり上がっており、雄勝峠は高さこそ無いが急峻な地形に違いはない。
稜線付近には、秋枯れのなか、鬱蒼と茂る杉の巨木が林立し、崖を隔てた別世界のような印象を持った。
まだ、峠は遠い。



<D地点>
 再び180度ターンターンのヘアピンカーブが現れる。
カーブは、曲率半径などと言うことは全く考慮されない、本当に180度の反転カーブになっており、大きな車は絶対に通れなかっただろう。
また、カーブの外側の施工もすごく…いや、これは施工などという次元ではないのだろうが、
写真のように、切り取られた崖が、90度直角に曲がって、まるで突き当たりの壁のようになっている。
旧旧道は、まるで直線の定規だけで設計されたかのような道だ。



 やっとか、チャリを置いてきたSSの横穴が間近になった。
しかし、旧旧道の後もこのさき間もなく途切れる。
それは、旧道の建設や、旧道と旧旧道との間に流れる小沢の河川工事などで失われたのだろう。
密度の濃い低木林を、強引に突破しての行き来となった。




 写真は、<D地点>のヘアピンに立って、上下段両方の道を一枚に収めた。

今まで気が付かなかったが、上段の道の路肩は、簡易な石垣によって得られたものだったのだ。
ただ、地点で見た立派な石垣とは似てもにつかない、乱暴な作り。
自然石を組み合わせて積み上げたような出来だ。

本当に、ここを自動車が通っていたのかと、疑いたくなる。
事実、通っていたようだが、昭和30年より前の雄勝峠の様子に詳しい方がいらっしゃれば、是非当時の様子をお伺いしたい。
ここも、そして近接する主寝坂も、酷い道だった。





 今回紹介した部分の地図である。

次回は、峠へと迫っていくが、難関は多かった。







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