房総東往還とは、県都千葉と房総半島南部の要衝館山(北条)を外房海岸伝いに結ぶ道に対して、明治期に与えられた名である。
現在の国道128号の旧名にあたり、反対に江戸時代の古称を遡れば、伊南房州通往還などと呼ばれていた。
これまでも当サイトでは国道128号の旧道とされる道をいくつも紹介してきたが、代表的なものとして勝浦市の「おせんころがし」の旧道が挙げられると思う。
「おせんころがし」のレポートの冒頭で、房総東往還の来歴を簡単にまとめているので一度ご覧いただきたい。
そして、今回紹介する道もまた、房総東往還の一部として明治期に整備された「旧道」である。
この区間の正式な名前がまだ明らかでないので、仮称、“大風沢旧道”としておく。
大風沢は土地の名前で、「おおびそ」と呼ぶ。
しかもここは明治期から戦後まもない時期まで長く使われていた「おせんころがし」の旧道とは異なり、明治に誕生し、明治のうちに旧道になったとみられる“古き廃道”なのである。
@ 明治16(1883)年 | |
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A 明治36(1903)年 | |
B 地理院地図(現在) |
その本当に“古い”ということは、普段の探索では利用しないような古い年代の地形図に頼ることからも伝わるだろう。
右図は新旧の3枚の地形図の比較であるが、一番古い@に注目して欲しい。これは明治13(1880)年から17年頃に描かれた迅速測図と呼ばれる、我が国の地形図の原点ともいえる古い版だ。まだ全国的な三角点測量網が整う前に、試作的な意味合いも含めて主に関東近郊のものが縮尺2万分の1で作成され、明治19年に完成している。ここに掲載したのはその中の1枚で、明治16(1883)年1月に測量された「千葉縣安房國長狭郡天津村及内浦村」という図の一部だ。
この“最古の地形図”に、大風沢旧道は描かれている。
“どのように”描かれているかは、次の拡大した地図で詳しく見るので、少しだけ待って欲しい。
で、この@から時代が少し進んだAの地形図は、いわゆる通常の5万分の1地形図の最も古いもので、明治36(1903)年測図版だ。
Aは大抵の探索だと「最も古い地形図」という扱いになると思うが、なんと大風沢旧道は早くも旧道化してしまったらしく、山越えの肝心な部分が、描かれていない!
……その代わりに海岸沿いにトンネルが掘られて、改良が進められている。
そして最後のBの地形図は、一気に時代が進みまくって現代の地理院地図である。
Aで登場したトンネル(実入隧道)は、最近旧道になったが、今も国道として健在である。
Aで早くも消えていた大風沢旧道については、当然のように描かれていないが、代わりに、近い位置にJR外房線の大風沢トンネルが描かれている。
この場所の外房線が最初に開業したのは昭和4(1929)年で、大風沢トンネルもその時に生まれた。
以上を短くまとめると、「大風沢旧道は明治16年の地形図に登場し、明治36年の地形図で早くも退場した」となる。
右図は先ほど掲載した@の迅速測図より、大風沢旧道がある辺りを拡大した図である。
実はこの道、この地図においても、
普通には描かれていない。
どういうことかというと、「新設縣道線」という注記と共に“点線”で表現されている。
この迅速測図の図式(凡例)は迅速図式と仮称されるが、そこにこのような“点線”の定義はなく、イレギュラーな表現だ。でも注記のおかげで、これが「工事中の道路」のようなものを描こうとしたことが分かる。
つまり大風沢旧道は、明治16年に作成された地図では「まだ工事中の新道」だったのに、明治36年には既に旧道(廃道?)になっていたということだ。何があったか知らないが、新道としては驚くほど短命だったことになる。
一方この迅速測図で、工事中の新道に対して県道の現道として描かれているのは、現在の国道がある海沿いのルートだ。
明治36年の地形図の県道は、この古い海岸ルートをベースに峠部分を隧道化したものであり、後に鉄道が通ることになる大風沢旧道の山越えルートは、道路としては継承されなかったようである。
ところで、これは探索者としては非常に重要なポイントになると思うのだが、この明治期に旧道化した大風沢旧道には、どうやら隧道が存在していた。
そう考える第一の根拠は、迅速測図に描かれたルートの形だ。
切り立った峠の尾根を隧道でなければ実現できないような直線的なルートで突破しているのが分かるだろう。
しかも、よく見ると、越えている尾根は2本あり、隧道も2本あったりして……と思わせる。
……まあ、こんなに古い地形図の「工事中の道」が、どれだけ正確なルートを描いているか疑わしいが……。
隧道が存在した第二の根拠は……これはもう根拠というか直接の証言というべきなのだが……、千葉県教育委員会が平成2(1990)年に発行した 『千葉県歴史の道調査報告書12 伊南房州通往還II』 にある、次のような記述である。
この先天津へ抜ける道は(中略)山を越える道と、一旦海岸に出て寄浦から山を越える道があった。線路に沿って小道を上っていくと外房線のトンネルからさらに先へいったところに明治の中頃までつかわれていた隧道が崩れてのこっている。明治29年に房州を訪れた邨岡良弼が「小半里穿隧道、則天津村」と記している、隧道を抜け外房線の線路に沿うようにして山道を下ると天津の神明神社の近くに出られた。その前は山を越えて天津に抜けていたとのことである。今でも天津側の道には昔の街道の名残が見られ、路肩の石垣や山の片側を切った幅2、3mの道が外房線と平行するように神明神社の鳥居のところまで続いている。
一方海岸に出る道は(後略)
基本的に近世までの古道を調査している『歴史の道調査報告書』だが、珍しいことに、明治20年代に使われていたという「崩れた隧道」のことが登場している!
この隧道を歴代の地形図に見つけることは出来ず、前後の文章の内容と合わせて考えると、まさしく大風沢旧道のことを書いているに違いないと思われた。JR外房線の線路沿いという話も決定的に一致している。
崩れていたようだが、平成2年頃まで隧道が残っていたらしい!
なお、私が引用を(後略)として省いた部分には、現在の国道と同じ海岸ルートの古道の紹介がある。近世から既に山側と海側の2ルートが存在し、それぞれ明治時代に県道の房総東往還として整備されて利用された時期があったようだ。
上記引用した踏査は、先ほどの地図でいえば、東側(内浦)から西側(天津)へ向けて行われていた。
隧道が何本あったのかは分からないままだが、最も内浦側の麓に近い坑口が現存していたということのようである。
そして、道自体は天津側を含めた広い範囲に現存しているようなので、これはいよいよ私も実踏に行きたいと思った。
さあ、異常に短命だった“幻の明治新道”の調査を始めるとしよう!