おせんころがし
思わず声に出して何度も復唱したくなる、そんな口当たりの良い響き。
優しくて、柔らかくて、そして美しい。
だが、そこには何か悲しい響きをも感じられる気がする。
かつて、お仙という娘が憐れにも墜死したから「おせん転がし」だというのだから、音色は真実を語っているのだろう。
交通の難所といわれる場所には、古くから率先して地名が付けられた。
そもそも地名というもののおこりは、仲間達に「危険な場所」を伝えるために他と区別するべく与えられた識別標であるという地名学の一般論に照らしても、大勢の人が危険に接することとなる「交通の難所」に、他と明らかに区別できる特徴的な地名が付けられてきたのも納得できるのである。
つまり、「親不知・子不知(おやしらず・こしらず)」「大崩」「左靫(ひだりうつぼ)」などは日本各地に点在しているし、「○○ころがし」もここだけではない。
そして、この千葉県鴨川市と勝浦市の境にある「おせんころがし」こそが全国の「○○ころがし」の最筆頭にして、気の毒な娘「おせん」は、道路史上最も有名な墜死者ではないかと思われるのである。
「おせんころがし」における交通路の変遷を紹介するのが、このレポートの目的である。
現在、「おせんころがし」を通っている国道は128号線である。
また、並行してJR外房線も通っている。
今回のレポートは、外房最大の幹線である国道128号に関する最初のものであるので、その全体像についても簡単に紹介しておきたい。
国道128号は、館山と千葉を結ぶ全長130kmあまりの一般国道である。
内房の幹線である国道127号を館山で引き継ぎ、房総循環国道の一部を成すものである。
主な経由地は、南房総市、鴨川市、勝浦市、いすみ市、茂原市などであり、高速道路不在の地域における生活幹線、物流幹線、そして観光の幹線でもある。
今回の「おせんころがし」は、鴨川市と勝浦市の境にあたり、歴史的には安房郡と夷隅郡の境にあたる、外房最大の難所である。
続いて、鴨川〜勝浦間のプチ交通史をまとめてみた(下の表)。
藩政期、南房総一帯における海岸沿いの道、「房総東街道」はあまり整備されなかった。
鴨川(東條)、小湊、興津、勝浦などは既に有力な集落となっていたが、当時の房総における交通路は千葉を扇の要とした放射線状の道が主であり、海岸沿いを横に結ぶ道は行商人や安房霊所巡りの旅人が歩く程度の間道でしかなかったようである。
しかし、交通の自由化が果たされた明治維新以降、東京湾に面して波の穏やかな内房において海運が隆盛して陸上交通路の開発を阻害したのとは反対に、波荒い太平洋に面する外房では、比較的早く街道の改良が進められた。
鴨川〜勝浦間の交通史 | |||
道路 | 鉄道 | 海運 | |
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明治9年 | 県道「房総東往還」 | ||
明治10年代 | 「県道を開削」の記述有り(勝浦市史) | ||
明治29年 | 東京〜勝浦間 1往復 | ||
明治42年 | 房総線 勝浦駅 開業 | ||
明治43年 | 房総乗合馬車合資会社が勝浦〜鴨川間に乗合馬車を運行開始 | ||
大正2年 | 東京湾汽船 東京〜勝浦間 3往復 | ||
大正8年 | 三日月自動車合資会社 勝浦〜鴨川間 7往復 | ||
〃 | 府県道94号 勝浦北条線 | ||
大正14年 | 北条線 安房鴨川駅 開業 | ||
昭和2年 | 房総線 勝浦〜上総興津 開業 | ||
昭和4年 | 房総線 上総興津〜安房鴨川 開業(全線開通) | 外房航路を廃止 | |
昭和28年 | 2級国道128号 館山茂原千葉線 | ||
昭和40年 | 一般国道128号 |
残念ながら、外房の海岸沿いを周遊する最初の車道がいつ開通したのかという記録にはお目にかかれていないが、おおむね明治10年代には「房総東往還」が完成したようである。
その後は、道路の開発を鉄道が追いかける形をベースに推移するのであるが、明治43年に勝浦〜鴨川間に乗合馬車が運行されたという記録は重要なものであろう。
この時点では間違いなく「おせんころがし」を通過する車道が開通していたことになるからだ。
続いて、今回紹介する区間の歴代地形図を見ていこう。
上図は、ここを描いたものとしては最古の5万図である明治35年版である。
既に「府県道」のはっきりした線で、海岸沿いの道が描かれている。
そのルートは、西側の「小湊」から隧道を抜けて海岸線へ出て、郡境を越えて大沢へ、さらに浜行川(なめかわ)へと至るルートである。
『外房総大沢の生活と民俗』という資料によれば、「おせんころがし」は「大沢から行川に向かう海岸(中略)、長さ4キロ」とのことであるから、おそらく図中の「入道ヶ岬」から「遠洲崎」を越えて「浜行川」付近までのかなり広い範囲を指していたと考えられる。
県道「勝浦北条線」が国道に昇格する前年、昭和27年版を見てみる。
まず大きな変化としては、鉄道が通るようになったことである。ただし、図中の範囲には駅は設けられていない。
また、前の図には無かった「オセンコロガシ」の注記が書き加えられており、それは現在の“観光地としての”おせんころがしの位置を指している。
注記が書き加えられた経緯は不明だが、この図が発行される前の昭和23年には、おせんころがしを舞台とした陰惨な母子殺害事件が大々的に世間を騒がせていたことは付け加えておきたい。
なお、肝心の道路についてはほとんど変化はないものの、唯一「大沢」付近の道が内陸の新道に付け替えられている。
そして現在の地形図(2万5千分の1)である。
一目見て分かるように、国道色で塗られた道は前図までとは違って、内陸を長い数本のトンネルで通過している。
大沢付近では3世代の道がかなり錯綜している様子で、虫眼鏡で拡大してみてもよく分からない状況である。
今回の探索では、図中の「スタート地点」から、なめかわアイランド駅前の「ゴール地点」を目指すことにする。
もちろん足は自転車だ。