国道128号旧道 おせんころがし 第1回

公開日 2009. 5.29
探索日 2009. 3.19


 おせんころがし


思わず声に出して何度も復唱したくなる、そんな口当たりの良い響き。

優しくて、柔らかくて、そして美しい。

だが、そこには何か悲しい響きをも感じられる気がする。


かつて、お仙という娘が憐れにも墜死したから「おせん転がし」だというのだから、音色は真実を語っているのだろう。


交通の難所といわれる場所には、古くから率先して地名が付けられた。
そもそも地名というもののおこりは、仲間達に「危険な場所」を伝えるために他と区別するべく与えられた識別標であるという地名学の一般論に照らしても、大勢の人が危険に接することとなる「交通の難所」に、他と明らかに区別できる特徴的な地名が付けられてきたのも納得できるのである。

つまり、「親不知・子不知(おやしらず・こしらず)」「大崩」「左靫(ひだりうつぼ)」などは日本各地に点在しているし、「○○ころがし」もここだけではない。

そして、この千葉県鴨川市と勝浦市の境にある「おせんころがし」こそが全国の「○○ころがし」の最筆頭にして、気の毒な娘「おせん」は、道路史上最も有名な墜死者ではないかと思われるのである。


「おせんころがし」における交通路の変遷を紹介するのが、このレポートの目的である。



現在、「おせんころがし」を通っている国道は128号線である。
また、並行してJR外房線も通っている。
今回のレポートは、外房最大の幹線である国道128号に関する最初のものであるので、その全体像についても簡単に紹介しておきたい。

国道128号は、館山と千葉を結ぶ全長130kmあまりの一般国道である。
内房の幹線である国道127号を館山で引き継ぎ、房総循環国道の一部を成すものである。
主な経由地は、南房総市、鴨川市、勝浦市、いすみ市、茂原市などであり、高速道路不在の地域における生活幹線、物流幹線、そして観光の幹線でもある。

今回の「おせんころがし」は、鴨川市と勝浦市の境にあたり、歴史的には安房郡と夷隅郡の境にあたる、外房最大の難所である。





続いて、鴨川〜勝浦間のプチ交通史をまとめてみた(下の表)。

藩政期、南房総一帯における海岸沿いの道、「房総東街道」はあまり整備されなかった。
鴨川(東條)、小湊、興津、勝浦などは既に有力な集落となっていたが、当時の房総における交通路は千葉を扇の要とした放射線状の道が主であり、海岸沿いを横に結ぶ道は行商人や安房霊所巡りの旅人が歩く程度の間道でしかなかったようである。
しかし、交通の自由化が果たされた明治維新以降、東京湾に面して波の穏やかな内房において海運が隆盛して陸上交通路の開発を阻害したのとは反対に、波荒い太平洋に面する外房では、比較的早く街道の改良が進められた。


鴨川〜勝浦間の交通史
道路鉄道海運
明治9年県道「房総東往還」
明治10年代「県道を開削」の記述有り(勝浦市史)
明治29年東京〜勝浦間 1往復
明治42年房総線 勝浦駅 開業
明治43年房総乗合馬車合資会社が勝浦〜鴨川間に乗合馬車を運行開始
大正2年東京湾汽船 東京〜勝浦間 3往復
大正8年三日月自動車合資会社 勝浦〜鴨川間 7往復
 〃府県道94号 勝浦北条線
大正14年北条線 安房鴨川駅 開業
昭和2年房総線 勝浦〜上総興津 開業
昭和4年房総線 上総興津〜安房鴨川 開業(全線開通)外房航路を廃止
昭和28年2級国道128号 館山茂原千葉線
昭和40年一般国道128号

残念ながら、外房の海岸沿いを周遊する最初の車道がいつ開通したのかという記録にはお目にかかれていないが、おおむね明治10年代には「房総東往還」が完成したようである。
その後は、道路の開発を鉄道が追いかける形をベースに推移するのであるが、明治43年に勝浦〜鴨川間に乗合馬車が運行されたという記録は重要なものであろう。
この時点では間違いなく「おせんころがし」を通過する車道が開通していたことになるからだ。




続いて、今回紹介する区間の歴代地形図を見ていこう。

上図は、ここを描いたものとしては最古の5万図である明治35年版である。
既に「府県道」のはっきりした線で、海岸沿いの道が描かれている。
そのルートは、西側の「小湊」から隧道を抜けて海岸線へ出て、郡境を越えて大沢へ、さらに浜行川(なめかわ)へと至るルートである。
『外房総大沢の生活と民俗』という資料によれば、「おせんころがし」は「大沢から行川に向かう海岸(中略)、長さ4キロ」とのことであるから、おそらく図中の「入道ヶ岬」から「遠洲崎」を越えて「浜行川」付近までのかなり広い範囲を指していたと考えられる。

県道「勝浦北条線」が国道に昇格する前年、昭和27年版を見てみる。
まず大きな変化としては、鉄道が通るようになったことである。ただし、図中の範囲には駅は設けられていない。
また、前の図には無かった「オセンコロガシ」の注記が書き加えられており、それは現在の“観光地としての”おせんころがしの位置を指している。
注記が書き加えられた経緯は不明だが、この図が発行される前の昭和23年には、おせんころがしを舞台とした陰惨な母子殺害事件が大々的に世間を騒がせていたことは付け加えておきたい。
なお、肝心の道路についてはほとんど変化はないものの、唯一「大沢」付近の道が内陸の新道に付け替えられている。

そして現在の地形図(2万5千分の1)である。
一目見て分かるように、国道色で塗られた道は前図までとは違って、内陸を長い数本のトンネルで通過している。
大沢付近では3世代の道がかなり錯綜している様子で、虫眼鏡で拡大してみてもよく分からない状況である。

今回の探索では、図中の「スタート地点」から、なめかわアイランド駅前の「ゴール地点」を目指すことにする。
もちろん足は自転車だ。



日蓮和尚ゆかりの地 鴨川市小湊


2009/3/19 7:05 《現在地》

小湊〜行川間の旧国道は現道に対しておおむね海側に位置するが、部分的に逆転している箇所もある。
小湊側の旧道入口がまずそうである。
この交差点を左に進むのが旧国道で、右が現道である。

明治35年版ではもちろん、昭和27年版の地形図でも右の道は現れていない。
いかにも歴史のありそうな三叉路ではあるが、その歴史は現国道が開通した昭和40年代からのものである。

そして、この旧道は現在、主要地方道「天津小湊夷隅線」になっている。




で、入口にある青看。

ただの旧道ではなく一応は県道の入口だからこその青看だと思うが、その表示内容はかなり怪しい。

どうやら、500m先が狭いらしい。

そして地図を見ると…、そこには確かに“狭そうな場所”がある。

行ってみよう。



分岐から100mほど進むと、ご覧の丁字路がある。
現道が開通する以前は、ここが国道と県道の分岐地点であったのだ。

直進は県道、右が旧国道である。

しかし、まだ青看に示された「狭そうな場所」を見ていない。
それはもう少し先であるはず。

明らかに寄り道になるが、ちょっと行ってみよう。




これか。

  …なるほど。


確かに狭いトンネル… というか暗渠である。
上を跨いでいるのはJR外房線。

珍しいと思うのは、卵形にやや尖った断面形と、斜めの入射角(スキュー)である。
コンクリート製ということで地味ではあるが、レア物件なのは確かだ。
おそらく鉄道が開通した昭和4年の生まれであろう。

県道はこの先で真新しいバイパスに合流しており、これ以上おかしいものも無さそうだと判断。
本来の目的へと引き返すことにした。




旧国道の方へ戻った。

すぐに現れたのは、前後の道より一段盛り上がった小さな橋。
銘板曰く、湊橋。
旧道化した後の、昭和46年竣功らしい。それは何度目の架け替えだったのだろう。

しかしひなびた橋である。

本当にここが外房の幹線だったのかと思ってしまう。
まあ、ありきたりな感想だが…。




そして、綾を成すように現道と交差する。
交差点の名前は、日蓮(にちれん)交差点。
写真にもギリギリ見えている現道の奥にあるトンネルは、日蓮トンネルという。
かといって地名が日蓮というわけでもないので、人名が道路構造物の名前になっている事には違和感がある。

中学校の歴史の教科書にも出てくる日蓮は、日蓮宗などの開祖とされる高名な僧で、13世紀の人物である。
そしてこの安房郡小湊の地は、日蓮誕生の地と伝わるその名も「誕生寺」や、傷を治療した寺といわれる「日蓮寺」、父母を祀った「妙蓮寺」などに取り囲まれ、まさに日蓮尽くしのお土地柄なのである。




小湊は日蓮に関わる巡礼の地であると同時に、その名の通り漁港としても知られている。
いまもその両方を失うことなく受け継いでおり、旧道沿いに続く市街地は小湊と内浦の二つの漁港と連続している。
そして、誕生寺へと歩いて向かう観光客向けのお土産物屋が魚屋と一緒に軒を連ねている。




7:28 《現在地》

誕生寺は、寺院見学素人の私が見ても、その立派な山門と巨大な本堂、広大な境内に思わず襟を正したくなるような名刹であった。

しかし我らが旧国道。
露天の並ぶ長く美しい参道をまるで無視して、堂々たる本堂のすぐ裏をカーブしながら通過する。
その大胆な線形は、寺より道が好きな私にとって、ちょっとだけ誇らしい景色だった。




そして道は1.5車線幅になって、山地へと入ってゆく。

明治時代には乗合馬車も通っただけあって、確かに緩やかな勾配だ。

見慣れないものとしては、千葉県オリジナルと思われるミニサイズの「道路情報板」が置かれていた。
流石に通行量は少ないようだが、決して廃道なんかではない。
この旧国道は、鴨川市道として現役である。




誕生寺から約800m。
ゆったりとした森の道の頂点に辿り着いた。

いかにも明治時代の隧道らしく、沢の奥のドン詰まりまで詰めてから、そこに短い隧道を穿って抜けるパターンの峠である。
この道が開通する以前の道がどこを通っていたのかは分からないが、おそらく当時の道はもう残っていないだろう。
「隧道あるところに旧峠あり」の法則も、明治前半に生まれたような隧道に関しては、例外も多いのである。





明治隧道明治隧道と連呼しているが、明治35年の地形図に描かれているからそう確信しているだけで、正確な竣功時期は分かっていない。
また、現地にはその名前を伝えるものも無く、探索時点では「名無しの隧道」と呼んでいたものである。

その薄暗い坑口には、たいへん古ぼけたロックシェッドが接続されており、国道として重責に堪えていた時代の装備品と思われる。
しかし坑口を見る限り、明治隧道と呼ばれるものの中では没個性的な存在のように見えた。

お馴染み「隧道データベース」によれば…

小湊隧道
全長:95m 車道幅員:5.9m 限界高:3.3m 竣工年度:昭和14年

どうやら、昭和14年に現在のサイズに拡幅改良されたようである。




ロックシェッドのため全体を見ることは出来ない西口坑門。

隧道内がコンクリートを吹きつけただけの素堀であるために、最初は坑門も同じ施工かと思ったが、よく見ると布積みらしき石材の模様が浮き出している。

惜しむらくは全体にコンクリートが吹き付けられ、さらに何らかの意匠が期待されたアーチ部が欠損してしまっている事であるが、房総では珍しい石造坑門の可能性を強く感じさせる。
それが昭和14年の改修によるものなのか、それ以前からなのかも重要だが、見立て通り石造ならばおそらく後者、実はコンクリートブロック積みというのであれば前者であろう。

決して推奨土木遺産になれるような大物ではないと思うが、破壊されていることが明白なだけに当初の姿が気になる隧道である。




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洞内は西側3分の2ほどが素堀吹きつけで、残りはコンクリート巻になっている。
そして写真でも分かるとおり、この隧道は東側がもの凄く明るい。
日中は照明要らずである。

この隧道の東口が殊更に明るいのには、当然理由があった。
東口から射しこむ光は、空から降り注ぐ日光だけでは無かったのである。
そこに何があるのかは、地図を見ていただければ明白だろう。




この隧道の“明るさ”を象徴する写真。

光の射しこむ東側から西口を臨むとご覧の通りで、
全長100m近くもあるのが信じられないほど、洞内全体が明るいのである。



そして“光源”の東口へ。

写真では分かりにくいが、ここは隧道内から引き続き下り坂である。
そして、真っ白に白飛びしてしまっているところにあるものは、海である。
隧道内に溢れんばかりに充満していた光は、空からと、海面を反射した光と、その両方が合わさったものだったのだ。

…たぶん。

そうでなければ、下り坂の隧道内があんなに明るいというのは考えられない。




同じ隧道でありながら、陰鬱とした西口とは全く印象の異なる東口。

全体的に黄土色に変色した坑門は、平凡なコンクリートであることを忘れさせる経年の妙を示している。
西口のような石積みの痕跡は見られず、形ばかりとなった控えめなアーチや笠石が同年代のコンクリート隧道の特色を示している。
もっとも、扁額の痕跡が見られないなど、当時からさほど記念すべき隧道とは考えられていなかったようである。

それに、改修されながら2車線拡幅もなされていないなど、戦前における外房の交通需要予測が貧弱であった事を感じさせる。
昭和4年に当時「房総線」と呼ばれていた現在の内房線と外房線とが、鴨川に結ばれて全通した。
陸上輸送の多くを鉄道に依存していた当時、並行する道路の規格はこれで十分と考えられたのだろう。
事実、鉄道開通後には乗合自動車事業の並行路線が廃業するというのは、当時における不文律であった。

同時期に要塞地域へと認定され、2車線幅の“戦車も通れる”サイズへと相次いで隧道が拡幅された内房とは対照的である。




誕生寺から小湊隧道まで緩い山道が稼いだ高さは30mほどに過ぎなかったが、その高さをほぼ維持したまま、道は太平洋に滑り落ちる断崖絶壁へと躍り出たのである。

空と海面とダブルの逆光で進行方向の撮影が難しく、次の写真は振り返ってのものだ。



このような山から海への鮮烈な景色の変化は、隧道の素朴な効用を強く印象づける。
そして、旅行者には強烈な旅情を与える。(旧道旅が旅感を高める由縁の一である)

この変化に私は息を呑んだ。
押しつけがましいようだが、ちょっと想像してみて欲しい。

鬱蒼とした森から、狭いトンネルを光の先へ下っていくと、出た先は太平洋の絶壁上だったのだ。
当然そこには潮騒も磯の香りも海風もある。
廃道もクソもあるか。これはもう完成された道ではないか。

旅の醍醐味は景色そのもののすばらしさもあるだろうが、何よりも旅行者自身が移動することで体感出来る変化が一番の旨味だと思う。
そして、道の状況や天気などあらゆる環境の変化が、味わうのに適した速度で体験できる自転車が、私の相棒である。



旧国道が海岸沿いを行くのは、湊川隧道から大沢集落までの1200mほどである。
この間の現道は、内浦と境川という長い2本のトンネルで短絡しているのであるが、唯一露出しているのがこの境川である。
とはいえ旧道からは、おそらくズリで埋め立てただろう高い築堤に阻まれ、その姿は見えない。

境川は大昔からの安房と夷隅の群境だったが、いまは埋め立てられて旅情の殺がれること甚だしい。
市境の標識さえ見られなかった。




さらに進むと、いよいよ道は険しくなり、国道時代のものらしき色あせた標識が現れた。
「落石」&「路肩弱し」のゴールデンコンビである。

そして、規格品ではない特殊な道路構造物が現れる。




でかい! ごつい!

形は橋の欄干のようだが、それより一回り以上大きく、いかにも頑丈そうである。
あまり大きいので、隙間から外へ出入りできてしまう。

…いや、本当は出来ないけどね。
外に出たら落ちるだけなんで(笑)。

たかが防護柵ひとつでも、旧道上の構造物はかくも魅惑的だ。




このような特殊構造物があるというのは、この場所が普通のガードレールでは物足りない危険地帯だった証しである。
さらに言えば、規格品であるガードレールが設置されるより以前から、ここだけには特注の防護柵が設置されたと言うことかも知れない。

確かにこの場所、坂道でかつ見通しの悪いカーブになっており、スピードを出せば自然と海へ行く線形をしている。

あと、こういうのは気にする必要はないのかも知れないが…路面の補修痕が非常に嫌らしいんですけど……。

いまにゴッソリと路肩が落ちそうな、 悪 感。




数十メートル置きにしつこいほど設置されているのは、「落石注意」の標識。

しかし、見渡す限りの法面はガチガチのコンクリートで固められており、もはや崩れる余地はないような感じもする。
とはいえ過去の経験上、どんなにがっちり固めても放置していればやがては崩れるのだが。

そして冒頭で紹介したとおり、本来の「おせんころがし」は、このあたりの崖も含んでいるらしい。
いつし、いつしか「おせんころがし」は大沢集落付近の“ある地点”。具体的には、「おせん慰霊碑」のそばの崖を指すようになったようである。

そしていよいよ見えてくる。

「おせんころがし」中の「おせんころがし」が。




やべ。

 房総、 キタコレ。


テンション上がってきた(笑)

  海ヤバい。

まるで、ファンタジーの世界…

  陸果つる地だ…。



…ちょっと望遠してみるよ。







・・・。




まさか…

あのライン…





おせん サン…





ころがりすぎ……