2009/7/31 9:35 【周辺図(マピオン)】/《現在地》
ここは日光市五十里(いかり)。
国道の路肩に立って、そばを流れる男鹿川(おじかがわ)の広い流れを眺めている。
この辺りは、おおよそ6km下流にある五十里ダムによる堰止め湖(五十里湖)のバックウォーターに位置しており、時期によっては河原のように白く見えている部分は全て水没する。
ここから見える対岸の鬱蒼とした森の中には、近世中頃まで会津西街道の宿場として栄えた五十里集落(江戸から50里の位置)があったといい、今は地名に残るだけの五十里の由来に想いをはせると、悠久の時の流れを感じる事が出来るのだ。
この道は私が東京と東北を往復するときに良く通るが、日中に通りかかれば、たいてい車を停めて、この景色を眺める。
大塩沢林道は、そんな私の馴染みの場所からはじまっている。
今度は同じ位置で山側を向くと、そこに分かれ道がある。
この分かれ道の正体は旧国道だが、大塩沢林道もこれから入る。
現国道には長い橋が見えるが(上の写真にカーソルオンした後の画像はこの橋上で撮影)、大塩沢を渡る大塩沢橋である。
旧国道もこの先で大塩沢を渡るが、もう少し控えめに、上流へ300mほど迂回してから渡っていた。
なお、現在の大塩沢橋が開通した年は失念したが、平成に入ってからと思われる。
それともうひとつ、右の画像は今回の探索時に撮影したものでは無い。
こっから先が、今回の探索。
旧道の入口には…
←左側に「この先通行止」の小さな看板があり、→右側には…
山を甘く見ないで
入山者・遭難注意
行方不明・滑落事故多発
急斜面に近づかない・一人で入山しない
なんていう、脅しが…。
でも、「そうなんですか」と引き下がるわけにはいかない。
廃道は、山の中にあり!
てことで入り込むと、そこはまず旧国道。
消えかけたオレンジのセンターラインが味わい深い、しかし平凡な旧国道の風景である。
この右側は大塩沢の河口部だが、一帯は民間の砂利採取場になっており、そこをダンプやブルが動き回っているのが見える。
一方、位置的には前方に見えていなければおかしい旧大塩沢橋は、透明になってしまったかのように見えていない。
9:36 《現在地》
五十里ダムとほぼ同時の昭和32年に生を受けた旧大塩沢橋は、現橋の開通と引き替えに撤去されていた。
それで見えなかったのだ。
しかし、旧道は行き止まりではなく、その直前で右に分かれる砂利道があった。
これは採石場への進入路だが、採石場が稼動していないときには、河原を通って、仮設橋から対岸の旧道へ行くことが出来る。
そして、肝心の大塩沢林道はといえば、河原へ下りる砂利道を無視して、あくまでも行き止まりを確かめようとする者にのみ、道を開く。
なんの標識も案内も無いが、ここが大塩沢林道の入口(起点)である。
7月の深い藪は、目の前にある2本の轍を、すぐにでも覆い隠してしまいそうに見えた。
あまりにも、頼りない感じがした。
この入口には、山の裏側にある塩原温泉郷の賑わいが、ほんの少しも漏れていない。
そればかりか、約7km先にあるという市境の峠の姿さえ想像することが出来なかった。
嫌な予感しかしない。
それから少し進むと、なにやらこちらを向いた看板が立っていた。
おそらくは、この林道の名前であるとか、通行上の注意であるとかが書かれていたのだろうが、文字は綺麗さっぱり消失しており、何も読み取ることが出来ない。
「落石により通行止め」「通り抜け出来ません」とか、そんなことでも良いから、書いてあって欲しかった。
これじゃあ、この道はもう管理されていないのではと余計に不安になるし、さらには「通り抜けたいだって? なに馬鹿なこと言ってんの」って返されている気さえするのだ(←被害妄想的)。
なお、看板もそうだが、ゲートやバリケードのようなものも見あたらなかった。
それからまた3分後。
道はすぐに森の中に入り、とりあえずは草藪に覆われてしまう不安からは遠ざかった。
また、未舗装ではあるが、道幅もそんなに狭くはない事が分かった。
標準で4mくらいはあると思われる。
そして、私がここで立ち止まったのは、山の中の道では重要な情報源ともなる、「保安林」の看板を発見したからだ。
私はこれが大好物である(情報的に)。
保安林の看板は、地図の部分以外は定文化されたもので、固有の情報は持っていない。
よって、地図部分だけを超クローズアップアングルで。
そしてその成果は、期待したとおりのものがあった。
この林道には名前こそ書かれていないものの、その行く先にはっきりと「至塩原町」の文字を見て取ることが出来たのだ。
国道にあてがわれた「会津西街道」という文字や、それが旧道の線形であることなどを見るまでもなく、この看板は林道が開通したのと同じ昭和40年頃に立てられたものと思われる。
さらに6分ほど進んだ所には、1本の橋が架かっていた。
実はここまでにも何本か小さな橋があったのだが、欄干を有する規模のものは、これが初めてだった。
欄干があるとは言え、取り立てて騒ぐような橋ではない。
だが、昭和35年の銘板を持つ「細井橋」には、ほんの微かに、誇らしげな空気を感じた。
やっぱりこの道は、ただの林道よりは大きな使命を与えられていたような、そんな気がしてきた。
…先入観かも知れないけれど。
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それからあまり間隔を空けず、似たような橋が、さらに2本現れた。
昭和35年12月竣功の「牧の内橋」(右写真)と、同年同月竣工「松手沢橋」がそれだ。
牧の内橋はご覧の通り、夏場にはよほど注意していないとそこに橋があることに気付かず通り過ぎてしまうくらい、カムフラージュされていた。
それは1車線分の自動車の轍よりも、橋の幅がだいぶ余裕を持って作られているせいだ。
二車線とまでは当然行かないものの、昭和30年代という古い時期の林道としては、木橋ではなく永久橋であることをはじめ、なかなかの高規格と言っても言い過ぎではないだろう。
さらに数分進むと、今度はこれ。
もっこり。
少し土砂崩れが起きたまま、それをちゃんと路盤面まで復旧せず、強引に車で踏み越えるプレーを続けてきたようである。
こういうのを見ても、この道が現在どれだけ等閑視されているのが分かるというものだ。
…やがて廃道になるのは想定内だとしても、それまでの“ねばり”に期待したいところだ。