2009/7/31 9:58
前回の最後、1.3km地点あたりで大きな路肩決壊現場に遭遇したが、そのただ一度の破綻をきっかけとして、呆気なく廃道が始まってしまった。
記録(『森林開発公団十年史』)によると、この大塩沢林道は全長7322mということだから、まだわずか6分の1である。
さらに高度的にも先は長く、現在地の標高約650mに対して、峠は1050m(地形図より)もあることになっている。
自転車好きの人ならば分かって貰えると思うが、高低差400mというのは、それなりに腰を据えて取り組まないといけない覚悟を要する数である。
…で、廃道ですね。
まあ、早く廃道が始まったからといって、意外にすぐ“迎え”(行き止まりではないので、反対側から車が出入りする可能性あり)が来るかも知れないので、焦らずに進んでいこうと思う。
路肩決壊現場を起点に、ここまで見られなかった急な上り坂になっており、山チャリストの心を早速折りにかかって来た。
あまり繰り返し書いても詮無いので、冒頭のここで一度だけ書こうと思うが(といいつつまた愚痴るかも)、この探索日は7月31日であった。
ということは、暑い。
ここがいくら避暑地として高名な塩原の近くだと言っても、風の通りの悪い谷底で、さらに雨上がりの曇天の湿度激高という条件だと、目眩がするほど蒸しあっつかった。
実はここまでの単なる林道走行でも、もうダッラダラと汗を垂らしていたのであるが、この期に及んで廃道とは、「うんざり」というより無かった。
正直、探索日を間違ったと思ったけれど、「では帰ります」と潔く行かないのが私(の悪いところ)だ。
10:01
幸いにして急坂区間は長くはなく、上の写真の荒々しい切り通しまでの100mくらいであった。
切り通しの先には再び従来のような緩勾配が現われたが、路盤の状況は全く別の道のように変わってしまった。
路面に敷かれているはずの砂利は落葉と腐葉土の厚い堆積に隠され、チャリのタイヤが底なしに“取られる”ほどぬかるんでいる。
おかげでせっかく勾配が元に戻ったのに、この後もう少しだけ乗車はオアズケとなった。
10:06
廃道化から5分ほど進むと、再び橋が現われた。
写真はそこで振り返って撮影したもので、高い岩場を見上げるように架かっていた。
この橋の親柱は4本とも健在だったが、銘板は1枚を除いて失われており、辛うじて判明したのが「横川橋」という名称だった。
橋の前後は路盤の荒れもあまりなく、山菜採りなど付けたと思しき鮮明なシングルトラックが、私を廃道化以前と大差ない速度で進ませてくれた。
自転車を漕げば必ず“風”が出来るというのは、地味に夏の山チャリを励ましてくれる。
10:11 《現在地》
さらに5分後、道幅が唐突に広がり、そこは尾根を回り込むカーブの先端に設けられた広場になっていた。
こういう地形の常として、谷を流れる風の通り道となっており、汗の染みた身体には堪らない褒美であった。
またどういう訳か知らないが、この日の山にはまとわりついてくる厄介な虫たち(蚊や虻たち)がほとんどいないのも、美点だった。(雨あがりだから?)
入口から2.1km地点にあるこの特徴的な広場そのものは地形図上に表現されていないが(というか、地形図には広場を表現する術は無い)、広場の右に見えている地形のふくらみが小さな円形の等高線になっており、更にその上に標高638mの写真測量による標高点が描かれている。
ここは車を楽に転回出来るスペースであり、せめてここまでは道が存置されていたならば、山菜採りや渓流釣りなどに使い出のある道として、もう少し認知されていたのではなかろうか。
広場の奥に立って谷筋を通視する。
しかし、木々の“窓”が狭いうえ、相変わらず低く垂れ込めた雲もあって、目指す峠の所在は知れなかった。
まあ、仮に枝と雲が無かったとしても、この位置からでは峠は見えないと思うが、この思わず入山を躊躇いたくなるような空模様にはうんざりだ。
一応天気予報だと今日はこれから快方に向かうとのことで、それを信じて探索をはじめているのだが…。
先が読めない展開に緊張感が持続しており、あまり長く休憩する気にはならず、居心地は良かったが3分ほどで前進を再開した。
10:16
広場から2分ほど漕ぐと、通算で5本目となる親柱&銘板付の橋が現われた。
ちょろちょろと水の流れる低い沢に架かっており、特に藪が深いわけではないのだが、今にも緑に没してしまいそうな橋だった。
そして、今度も橋も銘板の現存率が低く、現存は1枚だけ。
その貴重な1枚により判明したのは、橋名の読み「くまいざわはし」であった。
橋を渡ったところにあった保安林の案内板にも「クマイ沢県営林」と書かれていたので、本来の橋名は「クマイ沢橋」であろうか。
漢字に直すとしたら熊居……きっと熊井さんの橋だよ!
クマイ沢前の広場である。
水も滴る、いい広場。
これだけ密に雑草が茂っているのに茫々になっていないのは、
地中の浅いところに堅固な旧路面の砂利層が残っている証拠か。
さらに進んでいくと、ガードレールのない路肩にポツンと1本だけ、鉄のデリニエータが佇んでいた。
デリニエータといえば、その胴の部分に書かれた文字で設置者(道路の管理者)が割れたりする楽しみがあるだが、残念ながらこの胴には何も書いてはいなかった。
まあ、素性が林道なので無理もない。
それにしても、廃道で見るデリニエータは寂しげだ。
路肩にありながら、ガードレールのように物理的な転落防止の役にはほとんど立たず、あくまでもドライバー自身による運転を視線誘導という形でサポートする存在。
そのように単機能であるだけに、あるべきドライバーが存在し得ない環境では、生きながらにしてたちまち無用のものになってしまう。
一応私もチャリの“ドライバー”と言う事で、束の間の慰めになってくれると良いが。
10:27
クマイ沢橋から10分ほど進むと、急に行く手が明るくなってきて、思わず「嫌だな」と思ったら、やっぱり…
何という YA-BU!!
これにはテンションが下がる。
言うまでもなく、この藪の元凶は直接地面に差し込んでいる外光である。
では、なぜ急に森が途切れたのかというと…左の法面に注目。
そこには、これまでのじめじめ展開からは想像出来ないダイナミックな法面施工があった。
それ自体も藪に覆われはじめていて、写真では広がりが十分捉えられていないが、小さなグラウンドひとつ分くらいの面積でコンクリートの吹き付け工がなされている。
このコンクリート吹き付け工自体、この道でははじめて見るものだ。
周囲の森が切れている事と合わせて考えれば、おそらくこの施工は当初からではなく、開通後の災害復旧か何かで行われたものなのだろうと“読んだ”のだが、後日読んだ『森林開発公団十年史』にそのままそういうことが書いてあって驚いた(笑)。
しかし現状を見る限り、昭和40年代には間違いなく行われていた維持補修のための努力も、その後長くは続かなかったようだ。
10:28 《現在地》
チャリと身体で強引に濡れたツタを引き裂きながら、約50mほどの激藪地帯を突破すると、まもなくL型断面の白い金属柱に「二五〇〇M」と書かれたものが立っていた。
これは起点からの2.5km距離標であろう。
まもなく1時間が経過するが、ようやく全長の3分の1を攻略した。
まだまだ先は長い。
そして、2.5kmポストから先。
しばらくは何事も起きず、淡々とした展開で距離を稼いだ。
そして14分ほど進んだ所で、久々に目をみはる風景があった。
10:42
路傍からドドーンと天突く、巨大木。
水も滴る、イイ木だ。
この太さは間違いなく林道の“先客”であろうが、よくぞ切り倒されなかったものだと思う。
そういえば、全体的にこの林道沿いには人工林が非常に少ないことに気付く。
また、所々に「県営林」や「保安林」の標識があることを見ても、景観保護や水源保護といった目的だろうか、沢沿いの伐採を最小限にしていると窺えるところがある。
或いは将来の観光道路化を構想してそうしているのでは? というのは深読みのしすぎか。
平凡な造林地を行く林道に辟易している身としては、廃道であることを差し引いても魅力的な林道と言えなくもない。
(強く断言出来ないのは、この後の状況がアレなんで…)
「巨木」の少し前あたりからだが、右の写真を例とするように路面の状況が一段と悪化してきており、廃道化後も概ね7割程度で推移してきた乗車時間率(移動時間に占める自転車に乗車出来ている時間の割合)が、ここに来ておそらく3〜5割くらいまで低下している実感があった。
当然のように進行のペースは緩み、その一方で徒行による運動量の上昇と風による冷却効果を得にくいことを原因とする体温の上昇が進行、流した汗と比例して体力の消耗も進んでいった。
…むしあぢぃで…。
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10:49
巨木から7分後、通算6本目となる銘板付きの橋が現れた訳だが、これまでの橋とは一目で分かる違いがあった。
それは、欄干が従来の「コンクリート柱+鉄棒」の組合せから、よりシンプルなガードレールに置き換わったことだ。
そのために親柱も見られなくなった。
それでも銘板は、あった…ようだ。
最初は4枚あったのだと思うが、現存するのはまたしても(三度!)1枚きり!
なんで毎回1枚だけなのか不思議だが、オブローダーへのせめてもの褒美だと捉えておこう。
で、肝心の内容は…「昭和37年12月竣功」というもので、残念ながら橋名は不明である。
6本目の橋からほんの少し進むと、
グシャッ!
っと、規模の大きな崩落が現われた。
この崩れはごく最近のものらしく、岩石に混じって落ちてきた表土上に灌木がまだ生きていた。
既にこの道だけで30箇所くらいの土砂崩れ現場を見てきたと思うが、自転車を担いで土砂の斜面を上り下りしなければならないのはこれが最初で、路上に積み上がった土砂の丈は、路肩傍でも1m以上、中央部では3mくらいあった。
やれやれ顔で担ぎ上げた私だが、登り切るなりその赤ら顔(残念ながら「紅顔」という感じではない)に「ぴゅっ」と冷たい沢風が当ってきたのが、思いがけない歓びであった。それがよほど嬉しかったのか、わざわざ動画を回してコメントしていた(笑)。
お分かり、
いただけただろうか?
↓↓↓
そこに橋があることに。
11:05 《現在地》
想像を遙かに上回る地味さ加減で現われたのは、この林道が唯一大塩沢の本流を渡る地点に架かっている橋だった。
起点から3.7km地点のこの橋は、スタートの時点でも重要なマイルストーンとして意識していたものだったが、現実にはご覧のような、緑に埋もれまくった姿で私を迎えた。(所要時間1時間30分)
…でも贅沢は言うまい。
まかり間違ってこの橋が落ちでもしていたら、チャリ同伴での探索続行は絶望となるおそれもあったのだ。
本橋がなんの面白みもないコンクリートの小橋であったことは、橋としてあくまで堅牢に存続していた事に較べれば、ごく小さな欠点に過ぎない。
それに、またしても1枚だけ残っていた銘板(!)に刻まれていた内容も、なかなか味わい深いものだったし。
その名も、「おくおおしおばし」。
かなり「お」がいっ ぱい だが、漢字だと間違いなく「奥大塩橋」だろうな。
【余談】
個人的に、「奥」が付いたネーミングに惹かれるというのがある。
奥多摩、奥武蔵、奥只見、奥日光、奥鬼怒、どれも観光地としてのイメージが強い地名だが、そもそも観光面でのメリット(秘境感の訴求)がある場合でないと、辺鄙なイメージのある「奥」を地名に付けたいとは思わないのではないか。
そういう意味からも、この橋の他のどこにもない「奥大塩」という表現には、「もしかしたら将来このあたりが“奥大塩高原”とかなるんじゃね?」みたいな営林署らしからぬ“脂っこい”思惑が透けている感じが…。
…まあ、深読みのしすぎだと思うが…。
橋を渡るとすぐ、
《 Stage 2 》
の開幕を象徴するかのような、これまでで最大規模の切り通しが現われた。
今までと反対に、山が右、沢が左に変わっていることにも注目。
で、この粗い岩の門に立ち入ると、先の道がはじめて目に入ってきた。
「 なにか おかしい… 」
グリーンだよ…
まったく、道のある気配がないわけだが…。
つか、この後はマジにキツかった…。
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