今回探索した町道半場神妻線は、いかなる歴史を持った道だったのだろうか。
以前目を通したことがある「佐久間町史(上・下巻)」には、関連する記述はなかったように思う。
そこで今一番頼りにすべきは、地元にお住まいの方々の記憶ではないかと思うわけだが、残念ながら、探索当日にはお話しを聞く機会が無かった。
これをお読みの皆さまの中に、何かご存じの方がいたら教えて欲しい。
今回はとりあえず、いつも通りに歴代の旧版地形図を見ておこう。
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昭和35(1960)年 発行 | 昭和23(1948)年 修正 | 明治41(1908)年 測図 | ||
1枚目は、レポートの冒頭でも紹介した、昭和35(1960)年発行版だ。
この道は小型自動車道(幅1.6m以上)として描かれている。
当時はちょうど佐久間ダムが完成し、それに伴う飯田線の付替や佐久間湖畔に沿って長野県へ通じる県道(現県道1号)の建設など、佐久間が町としての独自の繁栄を最後に謳歌していた時代と言えるだろう。
しかしその“熱”が数年で醒めると、長年ここを優先的に潤してきた天竜川の恵みが失われた現実を前に、周辺の他の町や村と同じ悩みを抱えることになるのだった。過疎である。
昭和23(1948)年修正版は、佐久間ダム以前の風景である。
この図でも既に、大月トンネルをはじめとする一連の道が存在している。
沿道で目立った違いといえば、神妻沢の合流地点付近に発電所の記号が描かれていることくらいだろうか。
また、原田橋は現在の橋ではない旧橋の時代であるが、この橋を使わずに天竜川を渡る破線の道が描かれている事にも着目したい。その渡河部分には渡し船の記号がある。
明治41(1908)年測図版は、ここを描いた一番古い版である。
なんと、この当時から既に半場と下川合を結ぶ川縁の道が二重破線の「間路」(これは当時の図式で3種類ある「里道」のうちで一番低い格付け)で描かれているのである。大月トンネルは見あたらないものの、道がほぼ同じ位置に描かれていることと、現場の地形的に迂回が難しいと思えることから、隧道は既に存在していた可能性がある。その場合は、文句なく明治隧道ということになる。
なお、最初の原田橋が架設されたのは大正4(1915)年であったから、当時はまだ存在していない。その代わり天竜川を渡る通船が描かれている。(この図では川の上に橋のようなモヤモヤしたものが描かれているが、これは正体不明の記号である)
このように、天竜川と大千瀬川の合流地点の東西を、両川の南岸沿いに連絡する道は、相当古くから存在していた事が分かる。
飯田線(三信鉄道)よりも古いらしいのである。
ところで話は変わるが、平成25(2013)年の探索で撮影した写真に、原田橋の下流で天竜川を渡渉連絡するような道が見えていることに気が付いた。
そして実はこの道、平成27(2015)年の原田橋落橋に際していち早く整備され、乗用車のみではあるが、原田橋の迂回路として利用されるようになるのだった。
なぜ2年前に撮影された写真に原田橋の迂回路が見えているのか不思議に思って調べたところ、これは探索前年の平成24(2012)年4月24日に原田橋のメインケーブルに深刻な劣化が見つかって全面通行止めとなり、調査の結果8トン以下の自動車の片側交互交通が再開される6月25日までの期間、具体的には5月2日頃から6月25日までの間に使われていた「緊急仮設通路」であったらしい。
さらにこの同じ仮設通路は、昭和60(1985)年にも一度使われたことがあるらしいことが判明した。
昭和60年、平成24年、そして平成27年と、3度にわたって原田橋の代わりを務めてきた仮設通路が渡っている場所は、昭和28年や明治41年の地形図に見えていた天竜川の渡船地点である。
佐久間ダムが完成する以前は天竜川の水量は年間を通じて多く、渡渉はほとんど不可能だった。しかしそれでも渡りやすい流れの穏やかな場所が渡船に選ばれたのだろう。
そして、その「渡りやすい」場所を地域の人々は何十年後でもちゃんと記憶していて、原田橋の危急の際に利用することを行政へ助言したものと思う。
そう考えれば、ただの河川敷の仮設道路でさえも愛おしい気がするのである。残念ながら、私の相棒は通して貰えないが…。
佐久間ダムが放流を行う度に通行止めとなる今の仮設道路は、現代人が当然のものとして甘受している橋の有り難さを問いかける存在といえる。
願わくは、この古橋が最後に残した教訓が広く私たちに共有され、さらに安全で立派な橋へと姿を変えて、早い日に蘇らんことを。
以下、追記。
町道半場神妻線は、私などが考えつくよりも早くから、原田橋の迂回路としての可能性を地元の人々によって、当然見抜かれていた。
地域情報ブログ「浜松・佐久間Atti-koti」の平成27年2月14日のエントリ「橋崩落の説明会に70人」によると、原田橋西側の浦川地区の住民に対する浜松市開催の説明会で、住民側からの質疑の中に、「う回路の整備を (林道佐久間線、市道浦川半場線の神妻・半場間)
」という項目があったという。
この市道浦川半場線とは、かつての佐久間町道半場神妻線が浜松市道となって新たに得た名前と思われる。
果たして今後どのような仮復旧と本復旧が進められるのか、注目していきたい。