2007/7/25 15:10
熱海市網代から伊東市宇佐美までの国道135号には、大きく分けて二つの旧道がある。
一つは前回まで二回にわたって紹介した網代旭町の立岩周辺の旧道であり、残るがこれから紹介する伊東市宇佐美のものである。
両者の間には数キロの隔たりがあり、この間は大正時代の初代県道から同じ経路を国道が通っている。
まずは、この間を簡単に紹介して後半へ移る。
上の写真は、立岩トンネルを過ぎて旧道と合流して、もう少し進んだ辺りの景色だ。
地図では海岸線の近くを通っているように見えるが、実際には「峠」に向かって徐々に高度を上げつつ、特に険しい波打ち際の断崖から逃げている。
ホテルや別荘地が国道よりも高い黒い森の中に点在し、まるで海の眺めの覇権を競い合っているかのようである。
さらに進むと、やがて市境の標識が現れる。
しかし、辺りには待避所もなく、上りが下りに転じるわけでもなく、完全に通過地点である。
管轄が伊東市へ変わっても、なお緩やかな上りが続く。
市境を過ぎてやや行ったところが最初のピークで、そこを過ぎると下りながら山側へ二度切れ込む。
二度目に下りきったところが御石(おいし)ヶ沢である、暗渠でこれを跨ぐ。
この御石ヶ沢は、江戸時代に各藩大名の石切場が有ったところで、山中には今も家紋を刻んだ刻印石が残されているという。
名の由来は、将軍の御用石(御石)が伐り出されたことによる。現在の皇居の城垣にも、この地の石は大量に使われているそうだ。
しかし、今は国道よりも下側の谷は最終処分場の敷地として埋め立てられ、歴史を思わせるムードは全くない。
御石が沢を渡ってから少し上り直し、南に向かう直線路となる。
最初のピークもこの先も、地形図上ではともに海抜50mの主曲線に重なっている。
網代から続いた上り基調もこの高度で満足したらしく、後はほぼ水平となってしばらく進むことになる。
宇佐美峠はまだ少し先で、右の写真のガードレール越しに見える、こんもりとした岬の付け根あたりがそれである。
その峠は、歴代の地形図にも名前はなく、大正時代に車道が通じて初めて名付けられ、旧道となって忘れられたものだろう。
いずれにしても、上りはもうほとんど無い。
伊東市に入って都合1300mほどで、この御石が沢トンネルが現れる。
そして、宇佐美峠を頂点とする一連の旧道は、この坑口前から、閉じられた脇道の姿で始まる。
私はこの奥で、人の愛と醜さの両方を、
一度に見ることとなる!
15:16 【現在地:御石ヶ沢トンネル北口】
写真はトンネルへと続く直線路。
このような見通しの良い直線から、そのまま幅の十分広いトンネルに入っていくので、車の流れは非常に速い。
だが、注意深く観察していれば車窓からもこの旧道の入口が見えるはずだ。
そこには、車が入れないように簡単なバリケードが設置されているが、チャリならばそのまま入ることが出来る。
別に立ち入り禁止と言った看板も見られない。
全長536mとそこそこ長い御石ヶ沢トンネル。
トンネルは緩やかにカーブしており、出口を見通すことは出来ない。
どことなく有料道路のトンネルを彷彿とさせるムードがある。
扁額はあるが工事銘板は無く、竣工年が分からない。
昭和42年の時点で開通していなかったことは間違いないが(「隧道リスト」に記載がないので)、お陰で旧道の廃止時期が不明である。
地形図でこの旧道を見てみよう。
…と思ったが、最新版の地形図に、この旧道は描かれていない。
このことがまた、私の興味をより惹き付けたのだった。
旧道は、付記した矢印の方向へと、如何にもそれらしいひび割れた舗装路として始まる。
うぅ〜ん… いい カ ン ジ …。
カーブの先に何が出てくるか、久しぶりにゾクゾクするぜぃ…。
チャリで気持ち良く走れるくらいの“廃道”って、貴重な存在だと思う今日この頃。
しかし、明らかに廃道となってから手が加わっているようだ。
流石に、現役当時からこの電柱の立ち位置は無いだろう(笑)。
また、路面にも何かを埋設されたようで、コンクリ舗装の部分が続いている。
やはり光ファイバーか、それ以外のライフラインだろうか。
ナニコレ?
ナニコレー?
なんということだろう!
折角、気持ちの良い廃道を満喫していたのに、とんだ邪魔が入った。
まるで、土石流にでもやられたかのような、道を全て覆い尽くす枯木の山、やま、ヤマ!
これが自然現象ならば諦めもつく。
しかし、どう見てもこれは… 人為の所作。
所謂 廃道化工事 というやつに、すっかりやられチマっている…。
はぁー…。
楽しかったのは最初の50mだけで、木の雑破が小山のように積み上げられた場所を境に、再びの激藪地獄が始まった。
発酵した朽ち木の山をチャリとともに乗り越えるのは、大変な作業だった。辺りには、微かに甘い匂いが立ちこめている。
自然を壊して切り開いた道を、要らなくなったからといって放置せず、こうして、少しでも緑に返そうというのは、大変有意義な試みであると評価しなければならないだろう。
で、でも…。
本当に、オブローダー泣かせである。 この廃道化工事という奴は。
もう、最後までずっとこんな有様なのだろうか。
だとしたら、うんざりだーあ。
念入りである。
非常に手の込んだ、廃道化である。
本来の舗装された路面を全て隠すように、たっぷりと土や枯木が持ち込まれており、既にその試みは大成功して、ススキの大群落となっている。
今はまだ草原の様相だが、後はもう人が手を加えずとも、自然にマント群落化し、最後は林に、森に帰るのであろう。
チャリなど、押して進むことさえ困難な状況となっている。
担ごうにも、足元にごろごろと隠れている枯木の玉に頻繁に足を取られ、転びかけたり、実際に手を突いたり…。
人の造った廃道に、面白みは皆無。
辛いだけだ…。
そんな私を、フレーフレーと励ましてくれたのが、僅かに露出したアスファルトや白線の姿だった。
完璧と思われた廃道化も、よく考えてみれば乱暴な手口である。
舗装をはぎ取る事はせず、その上にまま土砂を被せているのである。
法面からの流水が道を横断する位置には、自然の流水路が形成され、そのような場所に元の舗装が線状に露出していた。
前言撤回。
このままでは、しっかりとした根付きの森が出来るとは思えない。
ただ徒に植生をかき乱しているだけのようにも思える。 (←急に偉そうになるオブローダー風情…)
路肩のガードレールよりももっと外に放置されていた、おそらく漁船の上半分らしき物体。
昔は物置小屋か、或いは密漁監視所などとして使っていたのかも知れない。
向こうは大海原だ。
赤茶けたガードレールは、薄っぺらで、今日見られるものとは規格が異なっている。
経験上、昭和30年〜40年代ぐらいまでの道で使われていたものだ。
しかし、赤茶けたとはいえちゃんと形を保っているのは、雪の降らない国ならではだ。
もっとも藪の濃い(廃道化の盛んな)エリアは、100mほどだったろうか。
距離的にはたいして長くなかったが、要した時間は… 約8分。
とにかく、チャリの取り回しに苦労させられた。
汗だくの両腕が繰り返しススキに斬りつけられ、猛烈に熱い。
もう慣れっことはいえ、今夜の風呂は苦しみそうだ。
しかし、最後まで執拗に廃道化工事をされた訳では無かったのには、助けられた。
こんな道でも、頭上には束になった電線が通じており、完全にお役ご免というわけでもないのだろう。
むしろ、最初のあの猛烈な藪は、我々のようなおもしろ半分での来訪者への威嚇とも取れる。
藪の浅い場所を選びながら、再びチャリに跨り前進開始!
15:30
おー!
なんか、すっげカックイイものが見えるんだけど!
洞門のようだが…。
猛烈な引力で私を惹き付ける、廃洞門!
だが、そこへ辿り着くためのラスト50mは、廃道化工事などという生易しさとは無縁の、生の崩壊地であった!
落石防止ネットの残骸もろとも、大型ダンプ数台分くらいの土砂が、路面を埋め尽くしている。
法面には、なお今にも落ちてきそうな木の根や、土の塊が見て取れる。
このレポの後にも大きな台風が伊豆を襲っているが、さらに崩壊が進んでいる可能性が高い。
このような悪地形だからこそ昔から重厚な洞門が必要であったのだと、訪問者にそれを教えるための崩壊だ。
キタキター!
特に期待していなかっただけに、その遭遇には、普段よりも興奮した。
その外見は、まるでインカかアステカの古代遺跡のような、一種異様な風格がある。
少なくとも、日本的なイメージではない。
見ての通り、洞門である。
上に地山が乗っているように見えるが、よく観察すると、そうではない。
長い年月の間に、土砂の上に木が生えたのだ。
しかし、この洞門はただの洞門ではない。(注:ここで言う洞門は、「落石覆い」などの「片洞門」のこと。普通の隧道も洞門と呼ぶ古い用法があるが、除外する)
洞門でありながら『道路トンネル大鑑』の巻末資料「隧道リスト」(←お馴染みの例の資料です)に記載されるという、快挙を成し遂げている。
資料が編纂された昭和40年代初頭には、まだ洞門自体が今ほど多くなかった訳だが、それでもあくまで隧道のリストとして各地の隧道・トンネルを蒐集している。
しかし、どのような訳か、この路線にあった全部で5本の洞門は、一風変わった表記にて取り上げられているのである。
片三号
それが、この洞門に付された名前だった。
そして、リストには「片一号」〜「片五号」までが、延長以外の諸元が次の通り同一に記されている。
それは、車道幅員:4.8m、限界高:4.8m、竣工年度:不明というものである。
「片」という不自然な名前は、地名由来ではない。
おそらく洞門を意味するのだろう。(扁額などがないので、これが洞門の正式な名なのかも分からない)
なお、竣工年度が不明となっているが、これはおそらく昭和7年頃と見て良いだろう。
震災復旧工事として網代隧道が掘られた時期であり、また「伊豆大循環道路改築事業」として、本道が大々的に整備された時期でもある。
今回の探索行で、この旧道について唯一予習したのが隧道リストであったから、先ほどの「網代隧道」と、この先の宇佐美峠にある「宇佐美隧道」との間に、「片一号」〜「片三号」という、変わった名前の隧道が存在したことは知っていた。
だが、それが洞門のことであるとは思わなかったし、また地形図にも記載がなかったために、いずれも短いこの「片」たちは、全て開削済なのだろうと、そう早合点していた。
しかし実際にはこうして、威風堂々たる姿で私を待ち受けていたのだ。
これには、痺れた。
洞門は、坑口部が重厚なら、内部も同様である。
丸みを帯びたバットレスが日本古来の梁のようにして天井と側壁の間を支え、海から差し込む外光が独特の陰影を付けている。
路面はコンクリートで舗装され(なおリストでは未舗装だった)、センターラインや路肩の白線も敷かれているにはいるが、そうして区画された車線は詐欺的に狭い。2mも無かろう。
リストによれば、この「片三号」の全長は17メートル。
旧道は全線が海崖を削って築かれたもので、一部で崩壊が著しい。
その中で、敢えて17mである。
何故ここを選んだのかと問いたくなるほど、今日的な道路防災の視座から見れば、子供だましに近い防禦である。
しかし、この堅牢な外見は確実に通行人にインパクトを与えただろうし、もはや威嚇に近い感じもある。
そもそも、この様な構造物によって極端に幅員と天井高を制限されたことが、この区間の早期引退理由ではないかと、そう勘ぐりたくなる。
網代隧道や宇佐美隧道よりも本洞門は狭隘で、熱海〜伊東間の最狭部(ボトルネック)なのである。
なお、今回紹介されない「片四号」と「片五号」が、熱海市街〜網代間の同国道上で、現役利用されていることを付記したい。
しかし、いずれも腹付けの新道が出来ており、片側の通行のみ担当する状況になっている。
つまり、堅牢さではなお現役に不足はないが、相互通行を行うものではないというのが、熱海土木事務所の見解なのだろう。.
内壁の様子。
ペンキほどの自己主張ではないが、何か尖ったもので壁を引っ掻いた落書きがある。
内容はと言えば… 上等… …参上… どうやら、お兄さん達の仕業らしい。
廃道化の後だろう、おそらく。 最近ではないだろうが。
どうでもいいが、こういう場所で壁とか地面に焼けた痕があると、何となく嫌な想像するよね…。
さて、先へ進もう。
連チャンで
チター!
しかし、前衛の藪が…
…うえっ ぷ…
次回、 愛を知り、愚かを知る!
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