国道135号旧道 宇佐美峠  最終回

所在地 静岡県熱海市網代〜伊東市宇佐美
公開日 2007.9.18
探索日 2007.7.25


 天籟の海道

 宇佐美峠の旧国道



 2007/7/25 15:50 

 網代〜宇佐美間における国道上の最高所となる宇佐美峠。
現在は右の新宇佐美トンネルが利用されるが、平成5年に開通するまでは左の舗装路が使われていた。
分岐地点はガードレールによって完全にセパレートされているが、チャリならば旧道への潜入は容易である。



 新旧道の分岐地点を振り返って再確認。
奥に写っているのは御石ヶ沢トンネルである。
前回まで紹介した御石ヶ沢トンネルの旧道から、これから入る新宇佐美トンネルの旧道との間は、ほんの一瞬だけ現道を掠めることになる。
二本のトンネルは同時に竣工したわけではないので、この交差部分での車の流れは、これまで何度も変遷したことになる。
川や、生き物の血液の流れのように。



 右にアートな落書きに満たされた擁壁を見ながら、旧道へと入る。
路面にはまだはっきりとアスファルトや白線、中央線などが残っており、路幅自体も御石ヶ沢の旧道に比べ段違いに広い。
旧道化の時期がはっきりしている本区間と、はっきりしない御石ヶ沢のそれだが、こちらの方が後で旧道になったことは明らかだ。

 そんなしっかりした国道も、いまでは趣味で入る者が僅かにある程度で、路面に彼らの残した幾筋かの乾いたタイヤ痕を残す他は、夏草の侵食に身を任せている。
両脇だけでなく、中央線附近に隠された上下線の継ぎ目からも、繁殖力旺盛なススキが身を開花させている。
意外に舗装の路盤は浅いのか、その下にも生きた根が張り巡らされているのだろう。



 御石ヶ沢の旧道はほぼ平坦だったが、こちらは僅かながら登っている。
網代〜宇佐美間の最高所へむけた、スパートと言うほど厳しくもない、ラストの登りだ。

旧道に入り150mほどで、大きな右カーブに差し掛かった。
と同時に、それまで林が続いていた左側の近景が一瞬で消える。




 海だ!

地形図を確認すると、ちょうど100mの主曲線(2.5万分の1地形図では50mごとに引かれる等高線)に道はぴったり重なっている。
路肩の外は垂直にも近い断層崖で、そのまま碧海に落ち込んでいる。
路肩に立って見下ろすと、とても写真では表せない物凄い迫力。
そんな場所に、ほぼ妥協のない2車線の幹線国道が通じている姿は、苦心惨憺が滲むような御石ヶ沢の旧道とは対照的な、近代土木力という「力の原理」を感じる。



 「ほぼ妥協がない」と書いたが、あくまでも「ほぼ」である。
路肩の薄さなどは、ご覧の通り…。

 路肩=有って無きが如し

地震や大雨・台風災害の多発する伊豆の地にあって、これでは幹線道路と呼ぶには余りにお粗末。
こんな姿を見せられてなお、例えば長雨の夜、この下り車線を走りたいと思うドライバーがいるだろうか。

大正以来長らく使われた旧道の道筋は、何度も拡幅されてそれなりの規格に達しはしたが、根本的に危険すぎる道だったのだろう。
拡幅すればするほど、リスクも増したに違いない。
それが長大なトンネルに置き換えられるのは、自明だった。



 地形図には、今もこの旧道は広い道幅のままで記載されている。しかし、もはや管理されている様子もなく、いずれの改訂の際に削除されるだろう。

道は、右側の険しい尾根を乗り越えられる場所を探すように、険しい崖を切り取って回り込みを続ける。
そして、やがて道は「一点」を見付けると、意を決し転進するのだ。

先は読めるが、それでもワクワクする。

素晴らしい眺望と潮風と潮騒とに満たされた一級品のドライブウェイが、敢えて私のために廃道の姿を借りたような…
興奮!「海の廃道」!




 読み通り(地図通りと言うべきか)、やがて見えてきたカーブに、“変化”を感じた。

“転進の合図”とでもいうべき、急カーブを警告する「赤矢印」標識が見える。


 いよいよ、宇佐美峠へ肉薄する。




 絶海に開口する宇佐美隧道


 15:56 【現在地:宇佐美隧道 熱海口】

赤い矢印に寄って導かれた視線の先には…

  あった。 隧道だ。

何度味わっても、この瞬間は堪らないものがある。
しかも、『日本トンネル大鑑』がスクラップした本隧道の記録は、大正14年の竣工を伝えている。
網代〜宇佐美間ではもっとも古く、伊豆東海岸の道路隧道としても、現存するものでは二番目に古い。
明治40年に熱海側より着工され、大正14年に漸く宇佐美までの全通を見た初代車道の、記念すべき竣工の地でもある。



 いよいよ現れた宇佐美峠の頂点である隧道。

だが、私が今でも本当に忘れられないのは、隧道そのものよりも、むしろ…

この、厳重な二重ガードレールの外に見た景色の方だった。








海面上110mの高さに、ほぼ海岸線とは直角の方向に口を開ける宇佐美隧道。

その熱海側坑口前の急カーブから見る海の眺めは、本当に素晴らしいものだった。

もし、この道が今も現役だったなら、じっくり立ち止まって見てなどいられなかったかも知れない。

本来の潮騒と蝉時雨だけをBGMに取り戻した、原色の伊豆が、見渡す限りに続いていたのである。



 宇佐美隧道の上に乗っかる土の厚さは、決して大きなものではない。
地形図で見ると、隧道直上の稜線の標高は140mほどであり、坑口との高低差は30mほどに過ぎない。(参考地図)
しかし、たった300mほど北に掘られた新宇佐美トンネルの上となると、稜線の高さは300m近くにもなり、必然的にトンネルの長さも700m超と長いものとなった。
大正時代に、出来るだけ短い隧道で峠を越えることを指向した結果として、これまで見たとおり、非常に険しい海崖に道が開かれることになったのだ。
また、もし坑口をもう100m南までもっていくことが出来たなら、隧道自体が不要だったとも思われる。
そこでは、稜線の道に対する高さは殆ど失われている。
だが、南に行くほど崖の傾斜も厳しくなっており、もはやこれ以上は道を延ばせなかったのだろう。
坑口脇の、物凄い高さの法面は、そのことを私に教えてくれるようだ。

 新旧二本のトンネルの位置は、私に色々な想像をさせた。
まだ土木技術という手足が未発達だった時代の頭脳(設計者)が、複雑な地形の中に道を描いた苦悩を、ほんの少しだが、追体験したような気もする。




 宇佐美隧道

  大正14年竣工
  全長114m
  幅5m 高さ4m

 昭和52年に大規模な改修を受けているようだが、長さ幅高さといった基本的な数字は竣工当時から変化がないようだ。

廃止間際の平成の世にあっては、「狭い」「暗い」「気持ち悪い」などとの誹りを受け、遂に路上から排斥されたのであるが、
大正という、まだ自動車が高嶺の花もいいところ、乗り合いバスとして漸く利用され始めたばかりの時期にあっては、むしろ「無駄に広い」という感想があったかも知れない。
それほどに豪壮な隧道だったことと思う。
大正時代のものとしては、本当に立派な大断面隧道である。





 坑門に埋め込まれた巨大な扁額。
右書きで宇佐美隧道と大書きされ、それ以外の装飾は一切見られないという、実用一点張りの坑門である。
他に装備品としては、3.6mの高さ制限の標識が、苔に汚れた姿で残っている。



 入ってすぐの側壁に埋め込まれた、小さな工事扁額。
そこには、この隧道が受けた改修の記録が残っていた。
内壁全体のうちかなりの部分にこの時、コンクリート吹きつけの改修が施されたようだ。翌年には伊豆大島近海地震が発生するが、隧道は見事に耐え抜いたのだろう。
偶然のベストタイミングだったのかも知れない。



 僅か114mの隧道だが、それよりは長く感じられる。
照明がないことが、その最大の理由だろうか。
驚くことに、元もと無灯火だったようである。

 コンクリートが吹き付けられた内壁は、その内側に耐震強度の高い鋼線が埋め込まれているのだろう、表面に格子模様が浮き出している。
見てくれは良くないが、今のところ目立った崩壊はない。
まだ当分は持ちそうな表情である。



 入ってすぐに振り返って撮影。

私が溜息を漏らした展望地のカーブが、ドライバーにとっては危険なカーブだったことが分かる。
二重のガードレールに守られてはいるが、それを突き破ってしまえば、あとはもう西部警察ばりの特撮シーンが展開するのみだ。
免許を取ったばかりの人なら覚えているかも知れないが、トンネルのような暗い場所から明るい場所へ出た直後は、目の機能が低下している。
だから、トンネル前に急カーブというのが典型的な悪線形とされるわけだが、ここはもろに悪い。
まして、年に数回くらいは路面が凍結する日もあっただろうし、霧や嵐の日だってあったろう。 …危険だ。



 中程まで進むと、壁の様子に変化が。

ライトで照らしてみると、そこには紛れもない石積の模様が。

中央付近には断続的に、コンクリートが吹き付けられていない箇所が残っていた。
しかし、そのような部分も目地は良く埋められており、綻びは感じさせない。
良く整形された石材(未確認だが、鉱滓コンクリートのようにも見える)が、ゆっくりと時を刻んでいた。



 人の住めない険しい海崖と、人郷とを隔てる、宇佐美隧道。

郷の側の出口が近づいてきた。
心なしか、差し込む光も緑を帯びて優しげである。

 写真には、何か左に写っているものがある。

不思議に思い近づいてみると…。



 年代物らしい、一台のバイクの廃車体…。

もちろんナンバーも付いていない。

壁に立てかけられるようにして、ポツンと。

この隧道の中で、ただ一つの放置物である。



 振り返って撮影。

内壁に光が反射している部分が、ほぼ石積が残っている場所に一致する。
ちょうど中央部附近が石積で、他はコンクリート吹きつけである。

地被りがさして大きくない割に、地下水の量は豊富で、全体的に路面は濡れている。



 ほぼ平坦かつ直線の隧道を通り抜ける。

伊東側の坑口は、両側に三角形の擁壁を従えており、ほぼ垂直な急斜面に掘られた熱海側坑口とは早くも違いを見せている。
また、ガードレールによる永久設置のバリケードが見えている。



 一転して穏やかな森の中に口を開ける、伊東側坑口。

意匠は熱海側と変わらないが、直射日光や海風に晒される機会が少ないせいか、より本来の風合いを残しているようだ。
特に、表面のコンクリートが独特の赤っぽい色なのは、汚れや苔ではなく、元もとそのような色のコンクリートだったようだ。これは珍しい。

またよく見ると、アーチにあたる部分に、石材によるアーチ模様を連想させるような微妙な凹みが存在する。
だが、剥離した内部には石材が使われていない。つまり、これは単なるアーチ模様ということになる。
おそらく、坑門自体が当初からコンクリートで施工されたのだろう。
そこに、伝統的な石造隧道を彷彿とさせる模様で化粧をして、外見を整えた。

それは、コンクリート隧道の揺籃期である当時の、おそるおそる、伝統から脱皮しようとする姿だったろう。



 坑口前は一軒の家屋と駐車スペースがあり、ここまでは普段から車が入ってきているようだ。

実質的に廃道となっている区間は約400mということだ。

残りは、現道合流まで、峠の下りを約300m。
さらに宇佐美の街地まではもう500mほどである。
本レポも、いよいよ終わりが近い。




 旧道の忘れ形見


 16:02

 長かったこの日の探索も、この坂を下りきれば終わりだ。

探索を締めくくる時の気持ちよさは、ちょっとレポートでは表現できない。

まして、それがこんな下り坂であったりすれば、言うことは何もない。
陽がいい感じに色づいていれば、その情感は最高潮に達する。

気を抜けばヤッホーなんて叫んでしまいそうな開放感とともに、私は坂に身を任せて、どんどん下っていった。





 隧道から200mほど、林の中を二三のカーブとともに駆け下りると、道を左右を塞ぐバリケードとお決まりの通行止めの看板達が立っていた。
そして、辺りには何台もの車が停まっている。
まだ現道との合流には少しあるはずだが。



 通行止め地点の目の前は、非常に広い大きなカーブになっていて、カーブの外側には見るからにドライブインと分かる建物が。
停まっている車はこのドライブインに来ているお客さんのものらしい。
大変失礼ながら、殆ど廃止同然の旧道脇でドライブインが営業を続けていけるとは思えないのだが…。

 訝しさも手伝い近寄ってみると、ドライブイン風の建物の何枚も並んだガラス戸には、幾つもの巨大な魚拓が飾られている。
また、お品書きにはお馴染み「カツカレー」や「ラーメン」の替わりに、「ウニ」「ガンガセ」などが並ぶ。
どうやら、釣り餌のお店として再生したようである。



 ドライブイン改め釣り餌店を過ぎると、旧道は終わりが近い。
残り100mほどで、現道と合流する。



 16:05

 合流地点の様子。
正面奥に見えるのは、新宇佐美トンネルの坑口だ。



 しかし、宇佐美峠の峠道らしい部分は、現道となってからもしばらく続く。
というか、宇佐美の街地へ下り着くまでは、急カーブ急勾配の連続する、ある意味旧道然とした道である。
網代からじっくりと距離をかけて登った宇佐美峠を、あっと言う間に下りきることになる。

いずれはここにも、旧道と好対照を見せるような素晴らしい新道の生まれる日が、来るだろう。



 パッと宇佐美の町並みが眼前に広がった。
思わず走りながらだが、カメラのスイッチを入れて撮影する。

現在の広域伊東市の中心地一つ、宇佐美。
元々は網代同様に静かな漁村として出発したが、貿易港として大いに栄えた網代に対し、内陸の大仁(おおひと)や天城、或いは東海道三島宿方面へ続く亀石峠の道と東浦筋を別つ交通の要衝として発展してきた。
やがて、海港以上に観光や物流に陸路が重要になると宇佐美はさらに発展した。
「イサミ」つまり「美しい砂浜」から、この珍しい地名は生まれたのではないか。
弓形の美浜も、今では絶好の海水浴場となって、観光の街に花を添えている。

 伊豆東海岸を代表する二市を結ぶ、明治大正に端を発する旧国道の旅は、ひとまず終わった。