国道16号 八王子バイパスの未供用ランプの謎 考察編

公開日 2012.09.17
探索日 2007.04.04
および2012.08.23
所在地 東京都八王子市

八王子バイパスの中谷戸〜片倉間に存在する未供用のランプウェイに関して、本編(前後編)で提示した謎は以下の5つである。

  1. 八王子バイパスは、計画当初からハーフインターを多用する設計だったのだろうか?
  2. なぜ、使われていないのか。
  3. 使わないのならば、なぜ建設されたのか。
  4. 名前は、予定されていたのだろうか。
  5. 今後、活用される可能性はあるのだろうか。

また、特に謎解きの「手掛り」として示したものが2つあった。

  1. 北野台地区での片倉ICの案内が不親切で、故意にそうしている様に感じられる。
  2. 北野台地区には八王子バイパス建設当初に設置された、大気汚染と騒音のモニター装置がある。


謎の答えを探すべく、私はまず、八王子バイパス建設計画の始まりを探ってみることにした。

前編にも述べた通り、八王子バイパス(全長10.5km)には無料の区間と有料区間があり、先に無料区間(6.0km)が開通し、後から有料区間(4.5km)が開通した。建設したのは日本道路公団で、全線開通日は昭和60年10月31日である。
ではこの道の建設は、いつ頃から始まっていたのだろう。
wikipedia:八王子バイパスにも記載がない。

ここでは例によって、歴代地形図の比較検討を行ってみようと思うが、このときに注目したいのは、バイパス建設と周辺開発(主に宅地開発)が、どのような順序で行われたかと言うことだ。
…どちらが先だったと、思われるだろうか?

私が掲げた「手掛り」の内容を見ればお分かりの通り、私は未成ランプが出来た最大の原因として、住民によるバイパス建設への反対運動があったのではないかと踏んでいるのだが、道路の開発が明らかに先であれば、それは早くも見込み違いと言うことになるだろう。


@ 平成12年版の内容は、この範囲内について現在の地形図とほとんど違いが見られない。
まずは今回の“時間旅行”に登場する各キャラクターの位置関係を、確認していただきたい。これから、だいたい10年刻みで昭和42年まで、時間を遡る。
キャラクターたちは次々に“未来の世界へと脱落”していくが、その順序を見物していただきたい。


A 平成4年版においても、まだほとんど違いは見られないが、北野台団地の5丁目街区や、片倉台団地の一部地区も、まだ分譲が進んでいないようだ。
八王子バイパスを挟撃するこれらの大団地は、平成10年前後に完成したと言うことが言えそうだ。
肝心のバイパスを含め、道路網は既に出来上がっている。
だが、この次のステップでは大きな変化が現れる。

B 昭和60年版、つまりこの年の10月末に八王子バイパスが全通するのだが、部分的に描かれているのは建設中の路線だ。
これを見る限り、八王子バイパスの有料区間内には部分開通が無く、4.5kmが一挙に開通した事が分かる。

バイパスはまだ建設中だが、既に北野台や片倉台の分譲は進んでおり、予想していた以上に多くの家屋が建ち並んでいる。
どうやら開発の順序は「住宅→バイパス」であり、私の目論み通り、バイパスは現住している人々に排撃される立場にあったと見て良さそうである。


C 昭和51年版まで遡ると、北野台も片倉台も綺麗さっぱり消え去った。
が、既にその開発は確実なものとなっており、広大な山河が均されきっている。

ここは都心から西へ35km。
東京にマイホームを求める人々が、夢を抱いて厳しい抽籤に参加し、大手不動産業者が群雄割拠の覇権を競った時代である。
だが私はこの時代を意識的に生きてはおらず、語りきれない。

今回の時間旅行の終点が、近付いてきた。

D 昭和42年版。
この地域の“現代史”と“近代史”の分かれ目は、この時期だろう。
左下、御殿峠越えの「東京環状線」という文字もどこか初々しく、「え?東京?」という風がある。それもそのはずで、この4年前までは2級国道129号という、今からは想像出来ない3桁国道に過ぎなかった。
御殿峠の東に目を向ければ、古の道“シルクロード”が原形のまま残り、谷戸の奥にまで細々とした水田が連なっている。
“謎のIC名”などと私にこき下ろされた「中谷戸」も、この頃までは地図に載る地名だった(見つけられただろうか)。

…それにしても、旭ヶ丘団地(地図中では朝日ヶ丘団地とある)の古さは際立っているな。


(参考) @〜Dの変化をアニメーションで表示した。


これらの歴代地形図の読み取りにより、少なくとも地図の上に形が現れる順序としては、「北野台・片倉台(住宅地)→八王子バイパス」であったことが確かめられた。

だが、それよりも重要な事は、建設の順序云々より、計画が作られて(それが公示された)順序の方であろう。
住民による反対運動がICの建設を未成に終らせたと考えるには、まだまだ材料が少ない。


では、次の資料をご覧頂こう。

先の“時間旅行”の終着地とした昭和42年の6年後に、東京都首都整備局地域計画部土地利用計画課(以下「首都整備局」と略)が公表した、「三多摩地方都市計画街路網図」の一部を。


八王子バイパス計画は、昭和48年には既に存在していたのである!

都市計画道路1.3.5号、それが八王子バイパスの当時の路線名である。
(なお、路線番号のひとつめの数字「1」は、現在の命名ルールだと自専道を表わすが、当時はこれに準拠しない)

しかし、実際に建設されたバイパスと比較すると、結構な違いもある。
一目で分かるのは、起点の位置が違っていると言うことだ。
当時は、御殿峠の頂上付近で現道(国道16号)から分かれて、打越方面へと向かう計画だったのである。

とはいえ、これが八王子バイパスの原点的な計画であったことは間違いない。
また、これと交差する都計道2.1.9号線(現在の長沼片倉線)の計画も既に存在していた。

当時の計画では、現道についても幅員25〜28mと4車線化が目論まれていた。
これが何らかの事情で果たせなくなったことと、バイパスの起点が相模原市内まで南下したことは、関係があるかも知れない。
それと、原図の凡例に説明が無いのではっきりしないが、バイパスの部分が“網掛け”されているのは、歩者分離区間(或いは自専道)を表わしているのかもしれない。
ちなみにその網掛けは、現在の無料区間の大半部にも及んでいる。




この街路計画図の最大の注目箇所は、ココ!→

都計道2.1.9号線(長沼片倉線)との交差地点に、長大なランプウェイを有するフル規格のインターが、描かれていた!

この姿、まさに現在の片倉IC周辺と見事に重なりはしないだろうか。

偶然ではあり得まい!
未成ランプウェイが建設された原点は、昭和48年の街路計画にあったと見て良いだろう。

これでとりあえず、【疑問1】の回答が得られた。

“八王子バイパスは、当初の計画において、今のようにハーフICを多用する計画ではなかった”、と。





しかし、この街路計画で描かれた道は、仮に自動車専用道路であったとしても、現在のような有料道路を想定していたかは大いに疑問である。
というのも、経路上のどこにも料金所を設置するようなスペースが描かれていない。
また、路線名も「八王子バイパス」ではなく、あくまでも都計道1.3.5号線なのであって、この計画と実際に建設された八王子バイパスの繋がりがはっきりしないと、「これが原点だ!」と断言するのは、少々乱暴な感じはする。(まあ、これだけ類似しているのだから、ほぼ間違いないとは思うが)

都計道1.3.5号線と八王子バイパスを直接結びつける記録が見つからないと、
八王子バイパスの原点を探る旅は、ここまでで “行き止まり” になってしまう。

それに、バイパスの計画と住宅地の計画のどちらが先に動いていたのかという事も、この資料からは読み取れなかった。
街路計画図の色分け(土地利用)から分かるのは、都計道1.3.5号線の周辺が全て(緑色の)「第1種住居専用地域」に指定されているということだ。
つまり、商業施設や工場の建設に制限があるだけで、実際に沿道での住宅開発が当時目論まれていたかは、分からないのである。


残りの謎を解くためのアイテムは、どこかにないか……。



ああっ! こっ、この資料はッ!!

というわざとらしい前振りでゲットしたのは、近くの図書館にこっそり所蔵されていた、1冊の冊子。

タイトルは、「国道16号八王子バイパス計画に関する要望書−意見書に代えて−」(以下、要望書)というもので、
作成されたのは昭和58年9月である(八王子バイパス開通の約2年前)。

この資料が残りの謎解きに関する重大な情報を、たくさん含んでいたのである。
以下、要望書の関連する記述を、順に見ていこうと思う。


まず、この要望書がなんであるかについてだが、これは昭和58年9月に、東京都都市計画地方審議会(以下、審議会)会長に宛て、片倉台自治会(以下、自治会)会長が送ったものである。

片倉台は右図のところにあり、まさに八王子バイパスの隣接地である。
そして、東京都都市計画地方審議会は、「都が都市計画を定めるときに、都市計画法に基づき都市計画案を調査審議する機関」(東京都都市整備局サイトの説明による)で、東京の都市計画を実際に審議する場である。

そしていよいよ肝心の要望の内容についてだが、以下が序文である。
少し長いが、重要なので引用する。

片倉台自治会は、八王子市都市計画道路1.3.5号線(一般国道16号八王子バイパス=以下、16号バイパスという)の計画変更案が貴審議会で審議されるに当たり、以下の通り私たちの意見を申し述べ、要望いたします。本来なら、都市計画法に基づく「意見書」を提出すべきかと思いますが、私たちは当初の計画時代に重大な疑義をもっており、単に変更計画に対する部分的意見書の提出では不十分と考えますので、意見書に代えて要望書として提出いたします。

この序文の内容から、都計道1.3.5号線=八王子バイパスであることが確認できた。
そして、この要望書が提出されたきっかけがあり、それは「審議会でバイパスの“計画変更案”が審議される事」である。
が、それがどのような“計画変更案”であるかは、残念ながら明らかでない。
さらに、自治会はバイパスの計画に「重大な疑義」を持っていると書いているが、その理由を次章の「片倉台団地の概況」で述べている。
引き続き引用を交えつつ、紹介していこう。

(1.片倉台団地の概況 〜の一部)

当団地は、八王子ニュータウンの一角として、東急不動産(株)が開発、販売しているもので、総面積約66万平方メートルです。48年から入居が開始され、現在まで約920世帯が入居済みで、将来は約1500世帯になる予定です。
また片倉台の東側には、隣接して西武鉄道(株)が開発している「西武北野台」団地(現在まで約650世帯入居、将来は約2000世帯)があります。
私たち片倉台の住民は、都市公害を逃れるために、都心から50キロ近くも離れ、交通不便な地であるにもかかわらず、静かで緑豊かな自然環境を求めて移転してきた人がほとんどです。それだけに、16号バイパスが片倉台と北野台両団地の境界部分を南北に縦断する形で通過する予定になっていることに重大な関心を持ち、道路公害に対する不安も日に日に高まっています。

ここで重要そうなのは、片倉台が昭和48年から入居が開始している点だ。
昭和51年の地形図ではまるで更地のようだったが、実際にはそれよりも早くから入居が行われ、つまり計画自体は昭和48年より前の段階に存在していたということになる。
であるならば、昭和48年に公表された前述の街路計画よりも、住宅の計画の方が早かったと言うことになるのだろうか。

この辺りの「どちらが先か」という問題は、自治会が自らの陳情の正当性を表明する上でも重要であり、次の第2章では、その事を述べている。
(こうして長々と引用しているが、この要望書に未成ランプそのものが現れるわけではない。期待をしすぎて怒らないでね…。あくまでも、謎を考えるための手掛りを紹介しているのです)


(2.バイパス計画と私たちの関係 〜の一部)

16号バイパス計画は、ご存知の通り昭和44年3月4日、貴審議会の議を経て計画決定されました。東急不動産(株)が片倉台地区の買収を始めたのは38〜39年ごろで、当時この地域は山林と農地だったということです。開発許可を受けたのが昭和45年の12月で、その後に造成、住宅建築が行われ、48年から分譲が開始されました。
従って、16号バイパス計画は、片倉台の住民が入居する以前に決定されたものであり、当然ながら、私たちは当初の計画の説明は一切受けておらず、都市計画法に基づく住民の石の反映も全くなされていないのです。まずこの点にご留意いただきたいと思います。

…どちらが先であったかが、解決した。
バイパス計画が先だったのである。

バイパス計画が昭和44年3月に決定し、翌45年12月には、その予定線の隣接地で東急による片倉台の開発が(八王子市に)許可されている。
そして、団地に当初入居した人達の多くは、販売元である東急から、「団地内に予定されている道路が16号バイパスであることを十分に説明」されないまま、購入したのだという。

これが事実だったら、心情的には怒りたくなるのが分かる気がする。だが、その事実関係を確かめるのが本稿の目的ではない。(また、バイパス計画は入居前に公示されていたのだから、購入者自身が調べれば知り得たことでもある) ともかく間違いなく言えるのは、片倉台の住民が、計画中のバイパスに対し大きな不満を持っていたということである。

要望書では、次の第3章「16号バイパス計画の問題点」で、実に8項目もの問題点を挙げている。
一通り簡単に紹介すると、

  1. バイパス計画には、片倉台住民の意見が全く反映されていない。
  2. 16号バイパスは国道16号に代わる幹線道路であり、通過交通が多いので、住環境への悪影響が大きい。
  3. バイパスの予定線が住宅専用団地の中央部を通ることは、東京都が定めた「都市計画再検討の基本方針及び基準案」に反している。
  4. 団地内に上り勾配とトンネル出口、加えてランプが予定されており、公害の発生が予想されること。(後述1)
  5. 有料道路化によって、バイパスが高速道路化する可能性があること。
  6. 都計道2.1.9号線と団地内で接続するため、団地内の交通量が増えて危険であること。(後述2)
  7. 現在までに市や相武国道事務所が明らかにしている公害防止対策が極めて不十分であること。(管理者サイドは沿道の大気汚染について、「基準を守れる自信はない」と表明したことが書かれており、実際そうなのかも知れないけど…そりゃ凹む)
  8. 片倉台の住民にとってメリットがほとんど無い道路であること。(後述3)

この8項目の問題点のうち、4、6、8番目の説明文に、未成ランプウェイの成因に関わると思われる記述が散在しているので、全て拾ってみよう。
いよいよ、核心部へと近付くぞ。

(問題点4  〜の一部)

その上、団地内にバイパスのランプが予定されており、団地全体がインターチェンジ化する可能性が大です。
トンネル出入口から北東約230メートルの地点に、相模原方面に入れるオンランプ(入口)と、同方面から団地に出られるオフランプがつけられる計画(当初は2か所だったが1か所に変更された)です。これができれば、バイパスを利用しようとする車が団地内に集中的に流れ込んでくることが考えられ、ランプ付近のみならず、団地全体がインターチェンジ化する恐れは十分です。

キター!!と思ったね、実際これを読んだときは。

ここで紹介していない資料も含めて10以上目を通し、何度か図書館に通って遂に辿りついた、未成ランプと直接関わりがありそうな記述だった。
すなわち、傍線をふった部分―

当初は2か所だったが1か所に変更された

―が、関係するに違いない。

だが、問題がある。
この計画の変更が「いつ、どうして」行われたのか、残念ながら分からないのである。

要望書が書かれた昭和58年の時点では、まだ団地内の工事が行われていなかったようであるが、であるならば、なぜ未成ランプの一部(北野台団地側のオフランプのみ存在)が作られたのかという(【疑問3】)が、ますます高く行く手に立ちはだかったのである。
建設前に計画が変更されていながら、ランプの一部を建設したとでも言うのだろうか。
要望書の記述にはどこかに誤りがあるのだろうか。
既に団地内で工事が進んでいる状態になってから、こうした要望書を提出したとは思えないのだが…。
或いはもう一つの可能性としては、「当初は使わない予定のまま、将来のためにランプを一部建設した」ということなのか。

使わない計画でなぜランプが一部建設されたのかという新たな謎は、未だ解けていない。

「当初は使わない予定のまま、将来のためにランプを一部建設した」という仮説を立てた場合、いつから使うつもりなのかが疑問になる。
これについて読者さまからのコメントでは、「有料道路としての償還期間が終って、無料化した段階では」というものが少なくなかった。
もしその通りであれば、本路線の償還期間は平成27年に満期を迎える予定である。もう遠くはないのだが、どうなるのだろう。



もう一つの消えた計画 〜「道了山トンネル(仮称)」について〜

ここまで本文にさり気なく登場しながらもスルーしていたが、実は昭和58年時点の計画では、八王子バイパスにはトンネルが1本予定されていた事が、今回の調査の副産物として判明した。


実際には巨大な切り通しとして開通した道了山には、
建設の直前までトンネルが予定されていたのだ。

(問題点4  〜の一部)
さらに、団地南西部、道了山脇にトンネル(長さ170〜180m)の出入口が予定されているので、車の音は衝撃音となり、排ガスも圧縮された形で一気に吹き出してくることが予想され、公害の被害が一層強くなることは目に見えています。

このトンネルは、どうして現在の掘割に計画変更されたのだろうか。
昭和58年の時点ではトンネルが計画されており、60年の開通時点では掘割だったと言うことであるから、かなり慌ただしい変更だったように思われる。
或いは要望書の陳情が容れられたものかもしれないが、トンネルのある八王子バイパスも見てみたかったと思うのは、一トンネル好きの戯れ事に過ぎない。



(問題点6  〜の一部)

16号バイパスのみならず、片倉台小のすぐ北側を東西に横断する形で都市計画道路2.1.9号線(館―平山線、幅員18メートル4車線、一部開通)が予定されています。2.1.9号線は、団地商店街の北東部分でバイパスと立体交差(2.1.9号線が上)する計画で、バイパスとは直結はしませんが、側道で取りつく形になっていますので、実質的に接続することになります。
2.1.9号線は、現16号や野猿街道と直結する道路です。このため、バイパスを通過する車だけでなく、前述の進入路の問題とも相まって、バイパスや2.1.9号線を利用しようとする車が団地内に流れ込んでくるでしょう。従って交通量はさらに増大し、現在の団地内道路までが車の通過道路となることが予想されます。これでは交通事故も多発するのではないでしょうか。

八王子バイパスの【計画当初】から予定されていた都計道2.1.9号館平山線(現在の都計道3.4.14号長沼片倉線)との接続は、バイパスの利便性を向上する重要なポイントだったと思われるが、結局その目的は半ば“以下”しか達成されなかった。
その原因のうち最大のものは、前述したとおりランプが相模原方面にしか出入り出来ないハーフタイプになったことであり、次いで、現地で私を訝しがらせた「案内の不親切さ」であった。

そして少なくとも「案内の不親切さ」については、「団地全体がインターチェンジ化する恐れ」を抱く近隣住民の要望を汲んでそうしている様に思われる。
長い側道を団地内に設けることで団地内の4個所からバイパスへとアクセス出来るという、いわば団地住民の利便性を期待しての側道計画だったはずだが、これが裏目に出たのかもしれない。まあ、団地の中央に巨大なクローバー形のフルインターを設置しても問題になったろうが。


(問題点8  〜の一部)

以上の問題点から明らかなように、16号バイパス計画は、片倉台の住民にとってのメリットは見つけにくく、むしろ道路公害による環境破壊などデメリットの方が大きいと考えざるを得ません。仮にバイパスを利用する点だけを考えても、利用ひん度の多い八王子市街には行けず、八王子方面から団地に入ることもできません。ましてや「バスも通る便利な生活道路」(東急側の客に対する説明の例)などではなく、車専用の通過道路にすぎないといえます。

団地住民の苦しい心情が滲み出ているようである。
便利な道ならば使いたいけれど(都心から50km近く離れた交通不便な場所だと、序文で要望書も述べていた)、八王子バイパスはその期待には応えてくれない、団地にとっての邪魔者でしかないと。
この陳情書の書き方を見る限り、自治会の要望によってランプが「2か所だったが1か所に変更された」のではないようだが、どうなのだろう。

片倉ICのフル→ハーフの計画変更理由は、新たな大きな謎として残ってしまった。


要望書の続く第4章と第5章では、自治会のバイパス計画に対する基本的スタンス(計画の撤回を求める)と、これまでの反対運動の経緯(八王子市および相武国道事務所に対する折衝の内容や、その対応の不十分さ)を述べている。

(4.バイパス計画に対する私たちの態度 〜の一部)

当自治会では、52年10月22日に自治会内に「16号バイパス対策委員会」を設置し、本格的取り組みを行ってきました。
〜〜 当自治会が本年(58年のこと)5月初めに実施した「16号バイパス問題住民アンケート」の結果(当時893世帯、回収率98.1%)〜〜
@16号バイパス計画に「賛成」はわずか6%にすぎない。〜〜

(5.市・国側との折衝の経過 〜の一部)

当自治会は7月5日、中谷戸地区反対同盟(100世帯)、打越旭ヶ丘自治会(500世帯)とともに〜〜」


これらの記述から、実際に団地住民がバイパスに強く反対していたことや、反対運動は片倉台団地だけでなく、通過地点となる中谷戸地区や旭ヶ丘団地でも行われていたことが伺えるのである。
が、その一方で、西武鉄道が分譲したという北野台団地の状況が現れてこないのが、興味深いといえば興味深い。
彼らは目立った反対運動を行わなかったということなのだろうか。

北野台の住民は強硬に反対しなかったために、北野台側のオフランプは建設できるが、片倉台の住民は強硬に反対したために、片倉台側のオンランプの建設は難しい。
そんな問題が計画の段階で明るみになり、それが原因でランプが「2か所だったが1か所に変更された」という可能性もあり得る。

この仮説(片倉台住民の反対によって片倉ICがフル→ハーフ化した)を支持しうる証言が、読者さまのコメントに含まれていたので紹介する。

一部のエリアで、どうやら土地の権利問題が解決してない状態のようです。
以前、鑓水ICから打越ICに向かってる時、渋滞が発生してて ノロノロ運転で進んでたときにそのような看板?を見かけました。
場所は中谷戸IC出口付近だったと思いますが、もう少し打越IC寄りかも知れません。

車線の左側に山があって、その山の地権者と思われる人の権利主張、行政に対する批判などが書かれた看板が、山肌に立ててありました。

読者さまコメントによる

現在、この看板は見あたらないようであるが、場所的には中谷戸IC付近の打越に向かって左側の山肌ということだから、まさに片倉ICの八王子方面オンランプが予定されていた地点に近い。



要望書に添付されていた、出所不明の計画図など

実はこの要望書には、2枚の大きな図が付録として取り付けられていた。
いずれも自治会が調製したと言うよりは、計画主体側が用意したものと思われるが、出典がないので出所不明としなければならない。
1枚は八王子バイパス全体の路線計画図(平面図+縦断図)で、もう1枚がここで紹介する「片倉台隣接地平面図」である。

これぞ「片倉ICの全体計画図」とでもいうべきもので、右が北で左が南になっている。地図でいえば【この範囲】である。


【拡大図1】 (クリックで拡大)

左図はこの平面図の一部で、実際に建設され供用されている片倉IC(相模原側オン・オフランプ)と、この後で計画が変更され作られる事が無かった、道了山トンネル(仮称)が描かれている。

トンネルは幅7mの車道と幅2mの歩道を有する全幅9.75mの2車線トンネルを、上下線に1本ずつ双設する(長さは180mと170m)計画だったようだ。



【拡大図2】


そしてこれが(→)、未完成に終った片倉ICの八王子側オン・オフランプ周辺である。

ここにはオンランプもオフランプも平然と描かれており、要望書の中で述べられている「2か所だったが1か所に変更され」る前の平面図であることが伺えるのだ。

普通に完成していたら、全く違和感なく利用していただろうな。
このICを。






以上をまとめると 〜疑問の答えと残された謎〜


  1. 八王子バイパスは、計画当初からハーフインターを多用する設計だったのだろうか?

    【答え】 昭和48年の街路計画図を見る限り、そうではなかった。

  2. なぜ、ランプは使われていないのか。

    【答え】 昭和58年頃に都市計画の変更があったため。ただし、なぜ計画が変更されたのかは【残された謎】である。料金所を逃れて通行しようとする車のために団地内に過剰な交通が発生する懸念などが、計画変更理由の候補である。

  3. 使わないのならば、なぜ建設されたのか。

    【残された謎】 都市計画変更と、実際に工事が行われた順序を考えると、「開通時には使わない前提で建設を始めた」としか考えられないが、その途中で“なんらかのの問題”があって中断されたものと考えられる。片倉台の一部住民との土地権利問題の可能性有り。

  4. 名前は、予定されていたのだろうか。

    【答え】 片倉ICの一部であるから、片倉IC。

  5. 今後、活用される可能性はあるのだろうか。

    【残された謎】 不明である。中日本高速道路に問い合わせ中。なお、平成27年の無料化を機に解放されるのではないかという意見もあるが、建設されていない片倉台側のランプを作らないとそれも難しいと思う。


戦績は、“5戦中2勝2敗1引き分け” といった感じになるだろうか。

随分と引っ張った割にだらしないと思われるかも知れないが、今後も調べを続行するために皆様と疑問点を共有したいという想いもあって、本編を公開することにした。

それにしても、ネタ自体は紛れもなく小物なのであるが、私はどうしてもこういう道路上の “小物語” から離れられない。 好きなのである。
そもそもあの小さな未成ランプを見つけなければ、片倉ICがフルインターとして計画されていたことなど、一生知ることは無かったろう。

常々思っていることだが、基本的に真面目一辺倒で作られた道路の上に、「理由のないものはない」のである。
(また、そうあって欲しいと思う潔癖なところが、私がトンネル坑門の飾りであるレリーフを嫌う理由だと思う)
道路上の様々なものには、そこにあるべくしてある理由 ―それは経緯と言い換えても良い― が、あるのだと思う。

だからこそ、疑問に思ったことを面倒くさがらずに追求していけば、最後はそれなりに納得出来る答えに辿り着ける。
道路を含む交通、あるいは公共物と呼ばれるものは全般において、“追求し甲斐がある”。 大なる魅力と言わねばならない。