国道410号 真倉の切割 前編

公開日 2013.03.26
探索日 2013.02.01


今回紹介したいのは、房総半島の南端を走る国道410号が、洲崎(すのさき)へと連なるその中央分水嶺を越える地点に穿った、「真倉(さなぐら)の切割」と呼ばれている道路である。

東京都心から南南東へ約90km、関東地方では最も温暖な地域にあるこの地域は、今日でこそ交通の便も十分に開け、年中多くの観光客が訪れているが、内房と外房の結節点である館山より南は、交通の面でも長らく「半島の中の半島」と呼べる不利な条件に置かれていたのであって、この「真倉の切割」は、明治期に車馬の交通を辺境へともたらした、画期的な交通施設であった。

今日では切割がある分水嶺の北も南も館山市の一部であるが、昭和29年より前は歴とした市村境だったのであり、南側が安房郡神戸(かんべ)村、北側が(旧)館山市であった。
現在は大字上真倉と大字藤原の境目となっている。

これから現地の風景を紹介するが、天与の地形に人がその英知と胆力をもって挑んだ結末は、道路および土木ファン必見である。



先ほどから「房総半島の分水嶺」という大仰な表現を、太平洋岸(外房)と東京湾岸(内房)を隔てる稜線の意味で使っているが、切割がある一帯はたとえ切割を用いなかったとしても、さほど高い山ではない。
真倉の切割の周囲の山はせいぜい海抜80〜100m程度でしかないのである。

しかし、湿潤多雨で地質的にも浸食に弱い地域的特性の結果、沢底から尾根が急激に切り立つような地形をなしており、明治期の非力な車馬が通行できる緩勾配な峠道を切り開くことは容易ではなかったのだろう。
それゆえ峠越えの隧道や深い切割が房総半島の至るところに設けられたのであり、真倉もその典型的な例といえた。

左の地形図を見れば良く分かるが、切割を頂点とする“峠”の前後まで沢が侵入し、そこに水田や集落が広がっている。
それだけに、自転車や徒歩ならばいざ知らず、自動車でここを通過すると切割の印象だけが残って、ほとんど“峠越え”の感じはない。





モーセも驚く?! 大地を切り割った国道。


2013/2/1 9:30 

太平洋に面した平砂浦(へいさうら)から、洲の宮川沿いの国道を自転車で3kmほど遡ってきたが、ここまで全く峠道の気配を感じないまま、問題の切割(峠の頂上)まで400mの至近位置にある運動公園入口の交差点に辿りついた。

だが、そこを過ぎても相変わらず景色はゆったりとしており、水田や休耕地が広がる谷はまだまだ広い。
唯一景色に変化があったとしたら、この谷が間もなく行き止まりであることが、前方を塞ぐ形で現れた小高い濃い緑の稜線によって知れたことだった。

私の経験上で言えば、「トンネルがあるんだろうな」と判断する景色だ。
この稜線との高低差は、どう考えてもトンネルの“守備範囲”と思えたのである。
それが普通なはずだ。




上の写真の奥に見える左カーブから急に谷幅が狭くなって、道の両側に林が迫った。
だが、まだ切割の姿は見えていない。
あと100mも進めばきっと現れるだろう。

そしてこの左カーブには、地形図に記載のない分岐があった。
それは2車線の国道に較べればいかにも脆弱な1車線道路だったが、舗装はされており、しかも国道との分岐の角度が鋭角で典型的な新旧道分岐を思わせるものだった。

加えて、私はこの切割に旧道があることを、次の事情から予め想定していたのである。




前述の通り、「地形図に記載のない分岐」ではあったが、その延長線上には異様な地形が描かれていた。

右の地形図を見て欲しい。
現在の国道の両側には、「岩がけ」の記号が連なっている。
これが「真倉の切割」である。

そしてそれと並行するようにもう1本、
「切取部」の記号が連なっている!

否。
本来、「切取部」の記号は道路や鉄道とセットで表示されるものであり、ここにあるのは「土がけ」の記号である。
道の表記が消滅した後も、その痕跡が地形として「切取部」から「土がけ」に変化して、なお描かれ続けていると想像された。

ここにはきっと、廃止された旧道がある!




理想的なタイミングで現れた脇道を旧道と確信した私は、奥に見える民家の生活道路としか見えない外見にも怯まず、どんどん奥へと進んでいった。

左の木立が連なっている向こう側に、現国道の「真倉の切割」が始まっている“地形的気配”を感じたが、今は、この道の先にきっとある…「真倉の旧切割」を優先したい。




2013/2/1 9:34 《現在地》

地形図にない小径を行くこと100m。
2軒目の民家が路傍に現れ、この道の役目が終らされた。
舗装がぷっつりと途絶えたことが、その何よりの証拠である。

だが、どう見ても道はまだ終っていない。
役目を終えた道が、この先にも続いているのは明白だった。
民家の遠慮がちな立ち位置が、その何よりの証拠である。

道はまっすぐ、私と同じ確信を持って、山の奥へと吸い込まれていた。




♪ 知らない事が おいでおいでしてる ♪

♪ 出かけよう 口笛吹いてさ ♪ 





♪ ビックリしようよ あららのら ♪

♪ 調べて納得 (うん、そうか!) ♪ 




♪ 面白地図を広げよう ♪

♪ 探検 発見 僕の町〜 ♪ 
    「たんけんぼくのまち」テーマ


怪しい森へ心の赴くままに入り込むとき、決まって頭の中に再生される曲を口ずさみながらゆく事、約2分。

背中に聞こえる現国道の車音が遠のくと同時に、前方には巨大な奥行きが現れた。

次の緩いカーブに立つとき、私は何を見るのか。
「おいでおいでしてる〜〜!!!」




気持ちは急くが、マッディな地面が「まぁまぁ」と窘(たしな)める。

車の轍も人の靴跡も全てを覆い隠す、チョコレート色の湿田は、
普段から長靴装備で探索している私でなければ、破滅するに十分な深さを持っていた。




♪ 探検 発見 僕の道〜 ♪

9:37 《現在地》

地形図に描かれていた不審な「土がけ」は、

やはり廃道となった道に附属する、道路構造物であった。

馬鹿でっかき、垂直の掘割り。



この掘割りを目にしてまず驚いたことは、高さもさることながら、幅の広さだった。

これまでも房総半島や三浦半島などで、これに匹敵するくらい深い掘割りを目にしたことはあったが、
それらは時代の古さもあってか、幅がせいぜい荷車1台分とか、その程度であった。

しかしこの掘割りには、軽自動車ならば余裕ですれ違えるくらいの幅があったのだ。
そのため一体どの時代の遺構なのかが、外見から判断を付けがたかった。

(比較対象物として自転車でも置いて写真を撮れば良かったと後悔)



私は壊れた操り人形よろしく、首を上角45度に固定された状態で右左交互に見回しながら、
自転車を押して坂道を登る老婆のようにのろのろと、半地底の鞍部を進んでいった。

遠目にはそれほどとも見えなかった奥行きの広大さと、深い掘割りの中にもちゃんとサミットがある所に、
これを建設した人物が、道路線形を設計する知恵の持ち主であったことが感じられた。

岩盤の表情だけでは、太古のクメール人の遺跡だと言われても信じるより無いが、
机上調査によって明治35年に開削された掘割りと判明した。

これこそ館山市が広報誌に『真倉の切割』として紹介したこともある、密やかな名物。
地域の土木遺産と呼ぶに相応しい、素性明らかなる旧道路の跡だったのである。



鼻歌と一緒に出会った掘割りだったが、
気付いたら無言。周囲の森も私も、箝口令が敷かれたように押し黙っていた。

私のこの荘厳な心持ちは、古代の聖職者がその篤い信仰心のため海を割って見せた奇跡、
それを目の当たりにした一信仰者のそれに似ていたかもしれないと思った。

もっとも、私を肯かせたのは信仰ではなく、渇望された道路を実現させた、
人々の智力と胆力に対してであったが、これは大した違いではない。



堀割りの底は、落ち葉が泥土化したものによって、次第に埋もれつつあった。
明治35年より今日までおおよそ110年の秋ごとに、どれだけの落葉が降り積もってきたものか。
しかし調べによると、この掘割りが廃止されたのは昭和16年というから、無為に積もり続けた年月は70年くらい。

どちらにしても、この深さ20mを下らない掘割りが落葉だけで完全に埋没するためには、
数百年では到底無理で、今日も古代の遺跡がジャングルの中に認められるとおり、
数千年でもなお及ばず、人類の歴史が終焉したときも、ここには幾分の掘割りが残っているかも知れない。



掘割りが拝み勾配であることも、雨に伴う水流で堆積物が排出される機能を実現している。
さらに関東大震災の震動にも耐えているのである。地質も万全。

森を自由に駆け回りたい動物たちにとっては、廃道になっても邪魔なことこの上ない。
本当にこれは、人類には過ぎたるレベルの堅牢さを持った掘割りだ。

(リス 「廃道にすんなら埋めてけよ、ホモサピエンス…。分不相応なもの作りやがって…。」)




掘割りの最も深く刻まれた辺りから、振り返って撮影。

周囲の樹林景観を含め、あらゆる面で理想的な掘割りの遺構だ。必見に値する。

この深さをなぜ隧道ではなく、掘割りとしたのかは記録がないが、明治当初から「真倉の切割」であったことは確かめられている。
これだけの広幅員の隧道へは技術的な不安があったのか、あるいはこの掘割りの元となった浅い掘割りが同じ場所にあって、
それを順当に掘り下げることで建設されたからなど、いくつかの可能性を論じることは可能である。後者の可能性が高いか。




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左カーブで始まった掘割りは、右カーブで終っていた。

掘割り中央付近のサミットを過ぎた路面は結構な勾配で下っているので、ここだけは“峠道”っぽい。
そして下り坂は明るい藪の中へと呑み込まれていった。
そこに踏み跡は見られず、やはり紛れもなく廃道だった。




太平洋に面した旧神戸村(現館山市)藤原より、東京湾に面した館山市上真倉(かみさなぐら)へ。

くぐり抜けた掘割りを振り返ると、こちら側から見た方が遙かに迫力に勝っていた。
しかし、通常ここを訪れる人の99%は、私と同じく南側からのアプローチになるはずだ。

それがなぜかという話を、次回はする。