2013/2/1 9:42 《現在地》
度肝を抜かれた掘割りを北へ抜けると、道はかなりの急勾配での下りとなっていた。
道は昭和16年に旧道化したという話だから、その終盤は自動車の通行もあったことと思われる。
だが既に車輪の轍は見あたらず、靴底の柔らかな感触は、山野の地肌となんら変わらなかった。
路上には大きな木こそまだないが、小さな森は着実に生長を遂げていたのである。
やがては掘割りの内部だけを残して、前後の道は鬱蒼とした森の一部へ呑み込まれてしまうだろう。
南側がそうであったように、北側もすぐに沢底と思える底平地に下りたった。
やはり峠らしからぬ地形であると思った。
ただ、南側と同じような地形でありながら、道の状況は大きく異なっていた。
南側では掘割りからこのくらい(約100m)離れた場所には人家が現れ、道も廃道状態ではなくなっていたのだが、北側は依然として青々とした草木のうちに支配されていたのである。
地形図には全くこの道が描かれていないので、どこまで進めば現道と合流することができるのか、はっきりした事が分からない状態である。
既に「ハイライト」は見終わったはずであるから、後はあまり藪で私を苦しませることなく、すんなりと現道へ復帰させてくれると嬉しいなどと身勝手な事を思っていたワケだが…。
そうそう思うとおりには行かないのが、…廃道だったっけ…。
これはなんだ〜!!
何か得体の知れない廃屋らしきものが、道のすぐ脇に現れた。
南側の状況に対応させるならば、この建物の正体は民家の廃屋と考えられるわけだが、生半可な“廃度”では無さそうである。
それに作りも何か普通じゃない感じがする。
なお、ここで私が廃屋の方へ近付いていったのは、単に廃墟への興味が湧いたと言うことよりも、ちょうどこのタイミングで廃道の方の路面状態が凄まじいブッシュになってしまって、寧ろ渡りに船の状態で廃屋がある一段低い場所へ逃げ出したのだった。
これは…?!
なんかいかにもジャングルでのゲリラ戦に登場しそうな家だが…。
よく塀に用いられているコンクリートブロックで壁を作った、簡易な作りの平屋建てであった。
しかし屋根はコンクリートであり、その平らな屋根の上にも“新たな地面”が出来上がっていた。
この壁は民家として見るといささか不自然だが、それ以上に奇妙なのは、家屋を真っ二つに切断したかのような断面だった。
なぜか掘割り側には一切の壁が存在せず、コンクリートブロックの壁の断面がモロに露出していたのである。
これはさながら「地震体験用ハウス」のようである。
そして現在残っている部分には3つの部屋(左端のは通路か?)があるが、そのうち1つにはタイル貼りの浴槽があった。
これを見る限り、そんなに古いものでは無いらしい。(地形図にもこの廃屋らしき建物が描かれているが、正体は不明だ)
どうにもならないほどのブッシュに覆われた旧道(皆様お忘れではないと思うが、今回も自転車同伴である)を、小さな廃屋とその周囲にある藪の浅い領域を使って無事に迂回できた。
ここに廃屋があったのは、私にとってはラッキーだったかも知れない。
左側の一段高くなっている部分が、旧道の路盤である。
もうそろそろ、現国道が救いに来てくれると信じたいが…。
なにやら先行きはまだ安泰では無さそうである。
何というか、良くない明るさだ。
向かって左側の低い素掘の法面に、2つの洞穴が口を開けていた。
それぞれ中を覗き込んでみたが、奥はすぐに狭くなっており、隧道の類でないことは明白だった。
房総でこの手の穴に全て付き合っていては日が暮れるのセオリー通り、華麗にスルーした。
左の穴をスルーすると、今度は右の浅い沢を挟んだ山腹に、異様な光景を見た。
尋常ではない密度のササが、まるでざんばら頭の毛髪のように、ことごとく倒れ臥していたのである。
生き残っているものは1本も無さそうであり、これがウワサに聞くササの大量枯死(同じDNA情報を持つササやタケは数十年に一度という周期で一斉に開花し、一斉に枯れる事が知られている)なのか、あるいは別の要因か。
いずれにせよ近寄り難い異常な光景であって、先ほどからの前方の明るさの一因がこれだった。
ちょっと怖かった。
それから道は激藪化への一途を辿った。
この展開は皆様も想像していただけるとよく分かると思うが、テンションが上がらない。
今はただ現道へ接続し、「確かに旧道は貫通していた」したという確証が欲しいだけなのである。
にもかかわらず、旧道はいやらがせのように現道へ近付こうとせず、微妙な間隔を保ったままで共に北上を続けているのだった。
もっとも旧道を弁護すれば、この私の感じ方はGPS上で現道と旧道の位置関係だけを見ていた事による半ば被害妄想なのであり、実際には依然として現道が掘割りの中にあるために、容易に近付けないのだった。
そうは言っても現道を走る車の音が間近に聞こえるだけに、ここで汗を掻かされる展開はストレスだった。
♪ おいでおいでしてるぅ〜… ♪
9:57 《現在地》
掘割りを抜けた所から、ここまで下りベースでありながら、17分間で200mしか前進できていなかった。
道路上に何かめぼしい遺構でもあれば耐えられもするが、もう我慢の限界だぁ〜〜!
私は現道との間を隔てている細長い林をショートカットすることに決定し、法面へ自転車を担ぎ上げた。
10:00 《現在地》
現道へ復帰!
抜け出してみると、そこはもうほとんど旧道と現道の合流地点であった(苦笑)。
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これで探索終了だとあまりに締まらないと思ったので(苦笑)、ちょっとだけ戻って現道の掘割りへも行ってみることにした。
旧道の荘厳な切割を見た後だけに、戦時中に建設された現道のそれには、あまり期待していなかったのであるが…。
こ…
バケモンだああ!
ちょっと、おかしいだろ!!
ここを平然と、何の疑いもせず通過していくドライバーは、ちょっとおかしい!
もう慣れちまってるとでも言うのか?!!
こんな道が他にあると思ってるのか?
いやいやいやいやいやいや!!
あってたまるかよ!! この掘割りは普通じゃないぜ!!
奥に見える電柱が、通常は13〜14mの高さである。
しかし切割の最も高い所はその2倍を超えていそうだ。
しかもこのねずみ色の壁の素掘にはない圧迫感はどうだろう!
確かにこれと比較したら、明治の切割など役目を終えても仕方が無さそうだ。
旧切割の幅も軽自動車がすれ違えるくらいはあったが、こちらは大型車が余裕で離合可能。
そして前後のブラインドカーブや北側の急坂も解消されており、それこそ昭和16年という時期に
これだけの道をここに作ったことに、通常の道路整備とは違ったベクトルが働いたことを強く感じる。
車がミニチュアみたいだぜ?
…これが、大日本帝国の力か!
この切割を開削したのは、昭和16年に海軍砲術学校が館山に開校した時であると、
帰宅後に読んだ館山市の広報『だん暖だてやま』に書かれていた。
具体的な両者の関わりは分からないが、軍が主導してこの新道を切り開いたのは間違いない。
まさにモーセもぶっ飛ぶレベルで奇跡でも何でもない“土木の力業”を見せつけられたわけだが、なぜここに並ぶ新旧の掘割りは、地形図の中で異なる描かれ方をしているのだろうか。
新道のそれは「岩崖」で、旧道のは「土崖」の記号である。
両者の違いは、その高さと、そして表面がコンクリートに覆われているか否かだけである。
実際の地質は共に「岩崖」だと思うが、しかし道路の「切取部」でもあるから、国土地理院のベテラン職人も「岩崖」「土崖」「切取部」のどの記号で描くかを悩んだはずだ。
いったいどのような判断基準で描き分けたのかが、気になるのである。
そして掘割りの両側を岩崖の記号で描いてあるのは珍しく、図上で異彩を放っている。
もしかしたら、特別に巨大な掘割りを他と区別したいという、素朴な意図が働いたのかも。
いやはや、驚いた。
この切割の最寄りにあるバス停の名前は、そのまんま「切割」だが、
もはやそれ以外に名付けようがないであろう。
旅人にこれほどのインパクトを与える切割というのは、そうそうあるものではない。
しかも、誰でも車で走り抜けられる点もポイントが高い。日本百名道に入れてあげたいぜ。
…切割は、当分お腹いっぱいでふ…。