道路レポート 国道229号 雷電トンネル旧道 (ビンノ岬西口攻略) 導入

所在地 北海道岩内町
探索日 2018.4.25
公開日 2019.8.18

 雷電岬。

こんなに恐ろしげな地名は、一度聞いたら容易に忘れないと思う。日本に稀な漢語調地名はインパクトが強烈だ。
私にとって、雷電といえば、4号機の個人的名機「闘神雷電花田勝」がまず思い出されるが、それを上回るインパクトがある。

字面も忘れがたいが、これほどの名前に負けない地形も凄いのだ。ここは険しい。
そんなところに、私がいつか、北海道に上陸することがあれば、真っ先に行きたいと思っていた国道がある。

その名も……

 雷電国道。

どうだよこの名前。もうこの名前だけで震えが走るよ。格好よすぎるよ。何が雷電国道だよ。やべぇよ。

北海道に慣れている人には、道内に大量に存在する道路通称「●●国道」に馴染みがあるだろう。これは内地でよく見られる「○○街道」と同列に使われている通称である。だが、不慣れな私には、この「●●国道」は、国道マニア心をくすぐるというか、とにかく「○○街道」よりも遙かに萌える。そのうえで、「雷電国道」は最高に格好いいと思う。
(ただ、この名前では旅行者を喜ばせられないと考えられたのか、愛称が別に設けられている。)

手元のスーパーマップルにも道路通称として表示されている雷電国道は、国道229号(小樽〜江差)のうち、余市〜茂津多岬までの約180kmに対する呼称であるようだ。これはちょうど旧後志支庁管内(現後志総合振興局)の区間に対応している(小樽〜余市間は国道5号重用のため除外される)。これが旧檜山支庁(現檜山振興局)に入ると檜山国道に変わる。

このように雷電国道と呼ばれている区間はとても長く、地名としての雷電岬はそのうちの僅かな部分でしかない。
しかし今回探索するのは、この雷電国道の中でも雷電岬にある区間である。
そして、現役区間ではなく、例によって、閉鎖されている旧国道である。


右図は雷電岬一帯のスーパーマップルデジタル(ver.20)の画像だ。
岩内郡岩内町敷島内から磯谷郡蘭越町港町まで約13kmあり、地図上の雷電岬はそのやや南寄りに存在する。

岬と言っても、それほど大きな突起があるわけではないように見える。
このように等高線が目立たない画像だと、そもそも険しいように見えにくいとも思う。だが、海岸から約5kmの至近位置に標高1211mの山、その名も雷電山が聳えていることに違和感を覚える。
日本中探しても、これほど海岸に近いところに、この高さの山がある場所は多くないと思う。(この標高差は、険しさで勇名を馳せた北陸の親不知に匹敵する)

海岸を伝う国道(雷電国道)に目を向けると、険しさの実証はより確かとなる。
赤い破線で強調した部分は、全てトンネルである。敷島内から港町まで13kmのうち半分どころか6割はトンネルの中にある。合わせて7本のトンネルがあるが、1本目の入口から7本目の出口まで約10kmあって、このうち明り区間は約1.7km、実にトンネル率83%に達する。奥只見シルバーラインを海水浴に連れてきたかのよう。

名前が凄いのは分かった。地形もどうやら険しいらしい。分かった。
それでも、私のような内地人にはまだピンとこない。雷電岬がどんなものなのか。
私が探索前に集めた情報はさほど多くなかったが、その中で読んで印象的だった『角川日本地名大辞典』(昭和62(1987)年)の雷電岬の解説文を、以下に全文転載する。これは少し長いが、誰しも気になる地名の由来や、通じている道路のことなど、知りたいことが一通り入っている。

雷電岬(らいでんみさき)
後志(しりべし)地方岩内町の南西部にある岬。日本海に突出する。奇岩として知られる刀掛岩は岬の先端部の岩を指し,昭和43年に刀掛岬を雷電岬と改称し,雷電の近くの岬はビンノ岬,雷電岬と蘭越町港町との中間に突出する岬はセバチ鼻と改称された。これらの岬の背後には安山岩を主とする雷電火山群が連なり,岬に近い熊野山(751.6m)は,磯谷から岩内に越える旧山道と国道229号の間にあり,熊野権現社があったという。この山地の西辺が日本海に達する海岸に海食崖が並び,雷電海岸の景勝地をつくる。地名の語義ははっきりしないが,松浦武四郎は「ラエンベツ(小川,出稼)和人ライデンと訛り,今雷電の字を用ゆ」(西蝦夷日誌)とし,「蝦夷地名考并里程記」は,「ライデン,夷語ライテムなり。則ち焼てうなると訳す。昔時此崎え雷落ち山の焼崩れし時,震動なしたる故此名ありといふ。又説に義経此所にて弁慶に別れし時来年といふて名残をせし故地名ライデンとなるともいふ。未詳」と記す。刀掛岩は弁慶が刀を掛けたと伝えられ,雷電海岸の景勝地を代表する奇岩。昭和36年に温泉が湧出して以来,付近は雷電温泉郷として知られる。昭和38年開通の国道229号は岬をくぐる刀掛トンネルで岩内・磯谷・寿都(すつつ)などを結ぶ。ニセコ積丹小樽海岸国定公園の一角を占め,ビンノ岬から雷電岬間には,断崖を落下する梯子(はしご)滝・雲間の滝や弁慶の薪積(まきつみ)岩がみられ,岩礁と奇岩が連続する景勝海岸となっている。
『角川日本地名大辞典 北海道』「雷電岬」より。

上記説明文にあるとおり、この険しい雷電海岸に国道が全通し、岩内町と蘭越町が車道で結ばれたのは、昭和38(1963)年のことだという。
だが、当時の国道と現在の国道とでは、細部のルートがかなり変わっている。そのほとんどは平成に入ってからの換線である。


右図は、「ビンノ岬」付近の新旧2枚の地形図の比較だ。
新旧といっても、古い方でも平成10(1998)年版とさほど古くなく、新しい方は平成26(2014)年版である。

これを見れば一目瞭然、「ビンノ岬」から「ウエントマリ」の間の道は、3本のトンネルと「樺杣内覆道」と注記された長大な覆道(シェッド)からなっていた海岸道路から、1本の長い長い「雷電トンネル」に換線されていることが分かる。
旧道は新しい地形図から完全に抹消されている。

国交省北海道開発局小樽開発建設部のこちらのページに、この区間の各トンネルの名称・延長・竣工年の一覧が公開されているが、雷電トンネルは全長3570mもの長さがあり、竣工は平成14(2002)年となっていた。
このトンネルの開通によって、実に4km近い旧国道が一挙に廃止されたようであり、これが今回探索のターゲットである。
(一帯にはこの他にも多くの旧国道があるが、今回紹介するのは雷電トンネル旧道のみ)


なお、これは先ほど掲載した『角川』の解説にも出ていたが、実は昭和43(1968)年までは、今回訪れようとしているビンノ岬が雷電岬と呼ばれていた。
これは当時の地形図(→)もそうなっているし、古い道路地図をお持ちの方は確認してみるといい。

地名移動の事情を想像するに、当時、海岸線に待望の国道が全通したことで、区域内最大の景勝地として名高かった刀掛岩をより明確に観光地として売り出すべく、刀掛岩がある旧「刀掛岬」に「雷電岬」の名前を移動させ、「ビンノ岬」には先住民の時代から伝わる古名を甦らせたようである。しかし今もビンノ岬に雷電川が流れているなど、地名剥奪の微かな痕跡は存在している。

話が脱線した。
今回探索するのは、このビンノ岬で平成14年まで使われていた旧国道である。
対して古くない、というか新しいので、いくら地形は険しくとも、さほど困難ではないと考えるのは甘い。甘すぎる。
問題は、ここが北海道だということだ。

北海道でオブローダーを悩ませる特異な問題として、すぐに思いつくのはヒグマ害だが、他にもある。
それは、北海道開発局による“特異な廃道対策”だ。
広範な意味での危険防止(オブローダーが立ち入ってどうのこうのということよりも、ヒグマの冬眠繁殖地を増やさないためとも聞くが真相未確認)を目的とした措置であろうが、内地とは比べものにならない高確率で、使用中止となった旧トンネルの完全閉塞(両側坑口のコンクリートでの密閉)が実施されている。


このトンネル閉塞の結果、今回探索しようとしている全長3.7kmの一連の旧道は、いくつものパートに分断されている。
このことは予想ではなく、確定していた。私が平成22(2010)年に執筆に参加した『廃道をゆく2』で、のがなあつし氏(Twitter)が書いているレポートを読んだからだ。曰く、ビンノ岬トンネル東口と鵜の岩トンネル西口が閉鎖されており、これらに挟まれた樺杣内(かばそまない)覆道が横たわる“中央部”は、到達困難とのことであった。

こんなことを聞かされて、燃えないはずがない。
北海道へ行くことがあればここに挑戦したいと思ったのは、のがな氏のためである。

もっとも、私は探索前に、陸路からの到達が絶対に無理というわけではないことも確認していた。
探索を行った平成30(2018)年当時、私の簡単な検索では、上記“核心部”への陸路到達方法を解説しているサイトは見つけられなかったが、到達したという話だけは読むことが出来た。
それは、道内の滝を紹介するサイト「きたのたき」にある、車滝梯子滝の紹介文だ。
地形図を見ると、確かに旧国道沿いの海岸線にこの二つの滝が描かれている。

きたのたき管理人氏によるこれらの滝の紹介文を、以下に抜粋して紹介する。

【梯子滝/幻の滝】
以前は2つのトンネルのわずかな間に駐車場が設けられ、この『梯子滝』を見学することができたが、全長4kmにも及ぶ新しい[雷電トンネル]整備により埋もれてしまい、近寄ることはできなくなった。既存の情報を総合すると、崖の上から梯子を掛けたように3段に変化して落ちる姿をしているそうで、かなりの落差らしい。また、夏の水枯期には姿を消してしまうことから「幻の滝」とも呼ばれているようだ。さて、そんな陸路が消えた滝へ挑むレポートが寄せられた。ピンノ岬側からでは到達ができず、親子別側から何とか辿りつけたとのこと。しかし、断崖の連なる危険な場所であり、命を懸けても見るか否かは自己判断。
『きたのたき』「梯子滝」の紹介文より
【車滝】
現在は滝の姿を見ることはおろか、近寄ることもできなくなった。今となっては、かつて眺望できた姿を想うのみだ。さて、別滝『梯子滝』に続き、こちらも断崖を乗り越えての到達レポートが挙がる。危険な岩場を進まなければならず「しんどかった」との探勝家の感想。しかしながら落差90m級の大滝である、この『車滝』には「しばし見とれた」ほどの感動があったようだ。訪問や探勝をオススメするものではないので、あくまでも自己責任で判断をお願いする。
『きたのたき』「車滝」の紹介文より

これらの情報の更新日は平成24(2012)年5月27日となっていて、おそらく到達者はM.カトー氏という人物だ。
どのような装備で到達に成功したのか分からないし、少し時間も経っているが、とにかく陸路で到達できたことは確からしく、またそれはビンノ岬側(東側)からではなく、親子別側(西側)からであったということは、とても有用な情報であった。

私もこの険阻に挑んでみたいと思う。
幻と謳われる壮大な滝たちではなく、たった16年前までは車で走り抜けることが出来た旧国道を目指して!

困難だろうが、勝算はあった。
なぜなら、旅立ちの前に見た昭和32(1957)年の地形図には、国道開通以前の徒歩道が、ウエントマリからカバソマナイ(樺杣内)にかけて、海岸に通じていることが確認できたから。
この道を発見し、辿ることができれば、おそらく……!

探索は、私の初の北海道探索(平成30(2018)年4月23日〜27日(5日間))の3日目、4月25日の夕刻に行った。



ウエンドマリの衝撃


2018/4/25 15:10 《現在地》

「怖い!」

ハンドルを握る私は、岩内の町を出て海岸線をほんの数分走ったところで、行く手に現われた雷電の山並みに恐れを抱いた。

だが、前走する車に動揺した様子はなく、むしろ速度を上げて、不気味な白雲のなびく岬へ突入していく。

“彼”と私の行く手に見え始めた海岸と山岳は、本当に空前絶後の険悪を予感させた。


だが、“彼”がこの険しさを恐れなかった理由は、おそらく単純で、この先の道を知っているからだろう。

安全に、あの険阻を超えられる道があることを知っているのだろう。

そりゃあ、私だって知っている。地図を見ているから。4km近い長大なトンネルで越えるのだ。


しかし、私が辿ろうとしている旧国道には、ないんだ、そんなもの。

だから、私だけが恐れなければならなかった、この車窓を。

昔人が全員抱いた恐れを、私は十数年ぶりに味わっていた。




車は速い。数分後には、雷電トンネルに飛び込んでいた。

そういえば、今通り過ぎた雷電トンネルの東口にも旧道の入口があった。
だがそれは僅かな距離でビンノ岬トンネル東口にぶつかり、袋小路になっているはず。
最終的にはそこも探索するつもりだったが、今は時間が惜しいからパスだ。短期日に探索を詰め込んでいるために、
開始前なのに15時半に迫っていて、結果が見えている小探索を後回しにしてでも、挑戦すべき大探索を先に始めたかった。

この雷電トンネルには、3.5kmオーバーという数字に恥じぬ長さを感じた。内部は出入口付近以外は全て直線で、
何キロも先までネオンライトが連なっているのを見ていると、見えないトンネルの外にある海岸の長さを思った。
実際のトンネルの外の世界が、どれほどのものであるかを知るときは、すぐにやってきた。
次に外へ出たとき、そこは雷電海岸の奥深く、もはや核心といえる領域だった。




15:30 《現在地》

日本に、こんな凄い景色があったんだ……。

映像でしか見たことがないギアナ高地みたいな風景が、目の前に広がっていた。
トンネルを抜けると、そこは南米だったという、特異な書き出しになりそう。

これが、雷電海岸……。
雲の演出はちょっとずるい…。迫力アップ過ぎるだろ……。
ぜったい、ラスボスの居城あるだろ、この雲に隠された岩峰の上に。
まだ新しいはずの雷電トンネルの入口が、私にはロンダルキアの坑口に見えた。

かつて「雷電岬」であったビンノ岬とは、あの一番奥に見える突兀とした尾根のことだろう。(←実は勘違いだった……後述)
さきほど車窓の中で私を恐れさせた岩山を、反対側から眺めている。雷電トンネルは、これら全てを一挙に抜いて見せたのだ。
なのに、私は今からわざわざ引き返して、行き止まりであることが確定しているあのビンノ岬を目指す。


旧道の入口は、もう見えている。




私の求める全ては、この先に。





旧道入口の特異な封鎖状況


2018/4/25 15:30 《現在地》

国境でも県境でもないが、3570mもの長さがある雷電トンネルを抜けると、すぐに大きな駐車場があった。ただの休憩用の駐車場のようで、現地に看板もなかったと思うが、グーグルマップには「敷島内 風の駐車場」と注記がある。(敷島内はここの大字だ)

前後を長いトンネルに挟まれたこの辺りの地名は、「ウエントマリ」というようだ。今の地形図や道路地図からは消えてしまったが、昭和50年代頃までの版には記載があった。傍にある路線バスの停留所も「ウエンドマリ」である。(一目でアイヌ語由来と分かる地名だが、かつてナコルル大好き少年だった私は、ウエン=悪い であることを思い出した。トマリ=港 なので、ウエントマリ=悪い港、不吉だ……。)

私は車を駐めるとすぐ車外へ出た。
冷たい海風にほんのりと霧雨が混じっていた。このくらいなら探索は出来そうだ。少し前まで感じの悪い大粒の雨が降っていたが、幸い、重い雨雲は短時間で過ぎ去りつつあるようだ。風も穏やかで、近くに見える海面は平穏だった。

とはいえ、この地の眺めは、平穏からはほど遠かった。
眼前の陸地に鬩(せめ)ぐ、岩と雲からなる大スペクタクルに、魂を揺さぶられた。海から上がってくる重い雲が、岩の砦のような巨大な山に纏わり付いて、高さの限りを想像に任せる状況に変えていた。初めて見る山でこれをされると、険しさの想像は際限なく増幅するよりなかった。
これからこの山を登るわけではないことが、今回の探索における一番の救いのように思えた。



向かうべきは、この駐車場の奥。
今くぐってきた雷電トンネルを逆走する方向だ。

広い駐車場の海側の端が旧道の路端だったようで、入口からいちばん遠い隅へ向かうと、すぐにそれらしい入口が見つかった。
その先には早くも覆道の入口のような四角い構造物も。(これは覆道ではなく、雷電トンネルの電気室だった)

また、この入口とは別に、「展望台」と書かれた小さな看板が立つ坂道もあった。
駐車場を見下ろす……というほど高くはない盛り土の上に通じているようで、案内通り展望台なのだろうが、時間もないので立ち寄らなかった。いずれにしても、駐車場の巨大さとギャップを感じる、まるでオマケみたいなささやかな施設だ。
この地のもの凄い景観を堪能するには、この駐車場が既に十分な展望台のように思えるが、安全を考えればそういう訳にもいかないのだろう。



これが、難攻不落を恐れられている雷電トンネル旧道入口か……。

確かに、甘くはないというのが、なんとなく伝わってくるようだった。

そう思う一番の理由は、行く手に見える岬の姿がどう見ても甘くない。
しかも、ほんの少し前まで私は思い違いをしていたが、遠くに見える岬は、私の目的地であり探索の折り返し地点であるビンノ岬では、ない。
あの岬は、現在地から1.2km先にある(地形図には)名前のない岬であって、ビンノ岬はそのさらに1.5km以上奥にある。つまり、あの岬は越えなければならない。
旧国道は「鵜の岩トンネル」であの岬をくぐっていたが、その坑口が閉鎖されているために向こう側への到達を困難にしているということを、私は本で読んできた。

繰り返す。
あの岬は、自力で越えなければならない。

旧道が甘くなさそうだと予感した、もう一つの理由は、目前の車止めの奥に見える、コンクリートブロックによる路上閉鎖だ。
実際に踏み越えるのはそう難しくなさそうだが、閉鎖区間に“うっかり”立ち入る可能性を完全に排除したいという思惑を感じる。
これはとても分かり易い、危険地帯の前触れのようだった。



15:32 《現在地》

自転車で車止めを越えて、旧道へ進入開始。
探索の16年前(平成14(2002)年)まで国道229号だった道だけに、オレンジ色のセンターラインが消えかけていたり、ちょっとした舗装のひびから僅かに雑草が顔を出し始めたりはしているものの、まだまだ廃道としては序の口も序の口、自転車での走行に何ら不満を感じない。

スタートとしては少々不安を感じる遅い時刻の出発となったが、今日の日の入りは18:30頃という予報なので、3時間はある。
今回の行程中、特に難関を予想されるのは、ここから1km先にある鵜の岩トンネルの閉鎖を突破するために海岸線を迂回する、推定600mほどの区間である。それが実行可能であるかどうかの見通しくらいは、これからの時間でも十分に立てられると思う。もし見通しが立った上で時間切れになるようなら、明日の朝から改めてやればいいことだ。

私の技術や装備では全く歯が立たない可能性もあるから、それも含めて見極めたい。
いまは天気も万全とは言えないし、このアタックについては半分くらい「偵察」という気持ちもあった。



最初の「鉄パイプの車止め」と、その30m先にある「コンクリートブロック(CB)の道路閉鎖」の間の短い“玉虫色区間”(立ち入り禁止なのかそうでないのか微妙な区間)の周りは綺麗に草刈りがされていて、海側の空き地に大きなモニュメントがあった。

ニシン漁の風景を描いた1m×4mほどの巨大な壁画が道路に向いていて、入口側側面には小さな文字が書かれた石版が嵌められていた。
石版の文字は細かく読み取りづらいと思ったので、時間節約のために撮影だけして先へ進むことにした。しかしこれが失敗で、画質を上げて撮影したにもかかわらず、写真も読み取りが難しかった。(面倒でもライトを出して、斜めから光を当てて撮影すべきだった)

帰宅後に碑文が読めず万事休すと思ったが、Twitterで協力者を探したところ、桜楽氏(@Our4k)から、この碑にある絵の作者である米沢ヒデノリ氏が記した「雷電国道開通記念碑制作雑感(pdf)」という文書(昭和42(1967)年第22回全道展目録収録)に、碑文が引用されていることを教えて頂いた。

記事によると、碑は「雷電国道開通記念碑」であり、私が見逃してはならないものだったことが判明。碑文は以下の内容だった。

ここは昔海岸に道路なく、山越えをした処である。旧山道は安政3年幕府の命によって当時の運上屋がこれを改修し、昭和6年、池田北海道庁長官が親しくこれを視察されたのを機に海岸道路開削の議が起き、その後、昭和26年6月起工、昭和38年10月完工、工費8億4千万円をもって40年間に亘る地方住民多年の願を達したものである。 昭和41年9月

碑文には2世代の道が登場している。安政3(1856)年に改修された「旧山道」と、昭和38(1963)年に完工した「海岸道路」である。
後者が私が探索しようとしている今日の「旧国道」で、前者は地形図にある「雷電峠」を越す道だが、探索の最中には徹頭徹尾雲の中にあったはず。



第一の閉鎖は、空気のような車止め。
そしていま、私の前に第二の閉鎖が。

今度の閉鎖は、間違いなく無意識では越せない。
とはいえ、意識すれば越えるのは全く難しくない。通行止めとも書かれていない。
ただ、意思を確かめるためにあるような閉鎖だった。

過去、ここを越えた人は少なくないようだ。
ブロックの狭い隙間には、地肌が露出するほど濃い踏み跡が刻まれていた。
彼らの幾人が私と同じ目的を持っていたかは分からないが、全員無事に帰れたのだろうか。



コンクリートブロックのスリットを抜けたことで、現道の気配が一気に遠のいた。
代わりに満ちる、旧国道との静かな対面の空気。
今のところの不安は、あの奥に見えている岬をトンネル抜きで突破出来るのかどうかだけ。

それにしても驚嘆すべき、見渡す限りの大断崖。
いったいどういう現象が、これほどの崖を誕生させたのか。
単純な浸食の作用で、これほど特異な景観が生み出されるものなのか。

この地形の特異さは、テーブルマウンテンのような奇妙な緩急にあった。
海岸線に崖が洗われているわけではなく、海岸は意外に緩やかな地形である。そこから樹木の生えた裾野的な斜面が立ち上がり、高さ100〜200mくらいのところから上は急に垂直近い岩盤の崖となって、それが雲の高さまで続いている。裾野は、崖が生んだ崖錐なのだろうか。
崖の落差は少なくとも200m以上はある。この日の雲は海抜400mよりも上の高さに浮かんでいるようだった。

そんな雲の中から一条の白い紐のような滝が垂れて、裾野の森へ消えていた。
地形図にも記載がある滝だが、その名も「雲間の滝」というらしい。
なんと似合う名前だろう。今日のような雲景が、ここでは珍しくないことを証明しているみたいだった。




そしてこの直後、また私の印象に強く残る光景が現われたのだった。




15:33 《現在地》

現われたのは、第三と第四の閉鎖!!

これは………… ゾクッ ときたねぇ……。

ここまでしなければならない廃道とは……、いったい……。




なんと、入口から僅か200mの間に、最初の車止めを含めて4箇所もの閉鎖があったのである。
一つ一つの閉鎖は特別厳重なものではないが、この数にはなんというか、象徴的な意味での狂気と恐怖を感じた。

しかし、本当に閉鎖したいならば、一つだけでも決定的に厳重な閉鎖を行えば良いわけだから、それがないということは、この閉鎖の多さは最初から意図した多重化ではなく、次第に閉鎖始点が手前に移動してきたことを示唆しているのだと思う。
景色が良い旧道を少しでも遊歩道的に開放したかった考えと、旧道は災害に対して無防備だから閉鎖したいという考えが、競い合った結果なのかも知れない。


第3の閉鎖は、施錠された両開きの金網フェンス扉であり、管理車両などの通行に伴う解放も想定していたと思われる。だが、これを挟み込んでいる第2と第4の閉鎖が定置コンクリートブロックであるから、扉は全く無能化している。
また、扉の両側にある金網のフェンスも陸地の果てまで続いているわけではないから、海側から自転車ごと簡単に迂回できてしまう。

このフェンスには、一連の閉鎖では初めて見る「立ち入り禁止」の警告書きが掲示されていた。
文章は右画像の通りで、特に意外性のある内容ではない。(なお、この画像はすぐ近くの別の旧道で翌日に撮影したものだ。この辺りの旧道には同じ看板が大量に設置されているので、写りのよいものを流用した)




第3と第4の閉鎖の間隙で撮影した動画。

手の届く範囲は平穏で、道も良い。

だが、遠からず、頭上にあるものが全てを台無しにしてしまいそうな、そんな恐怖を感じていた。



むぅっ!

第4の閉鎖は、思いのほかデカい!

遠目には第2の閉鎖と同じようなものかと思ったが、徐々に近づいてみると、遙かに巨大なコンクリートブロックが2段も積み上げられていて、さっきみたいな甘えた隙間もないことが判明。
そのうえ、道の両側の空き地がなくなってしまって、この巨大な障害物だけで完全に閉鎖されてしまっていた。

見える範囲では、この閉鎖の先にはもう新たな閉鎖はなさそうだ。
つまり、廃道区間への最終閉鎖ということらしく、今度ばかりは厳重そうだ。




背丈よりもかなり高くなっている、二段積みの巨大コンクリートブロック。

越える方法はすぐに分かった。
山側の斜面に明らかに踏み跡が残っていた。
ここをよじ登って乗り越えるのだ。

ただ、私には自転車があった。
どこまで自転車が役立つか分からないとはいえ、時間節約になりそうなので、まだ先まで連れて行きたかった。

自転車を肩に担いで、バランスを崩さないように、また滑り落ちないように、慎重に斜面をよじ登った。




旧道を完全に寸断している、マッシブなコンクリートブロック。

この先はもう、道の形をしていても道ではないのだと訴えているようだ。




しかし、私にはこの先にも道が続いているように見える。


開始から5分。早くも探索の舞台は封鎖された廃道へ。