道路レポート 旧特別国道30号 扇浦〜北袋沢 導入

所在地 東京都小笠原村
探索日 2019.02.28
公開日 2022.07.23

表題のものが登場するまで、今回はいつもより少しだけ長い前説に、お付き合いいただきたい。

今回は、このレポートの背景の色で気付いた人もいるかも知れないが、久々の“島さ行がねが”の新作だ。

テーマは、 離島の失われた国道。




 第1章 戦前の離島には多くの国道が存在していた 

唐突だが、現在我が国に、国道がある離島はいくつあるかをご存知だろうか。
なお、淡路島のように本土と架橋によって結ばれている島は除くものとする。

道路クイズをしたいわけではないので勿体ぶらず答えを書く。
右図のように、現在は11の離島に国道が存在している。
ただし厳密には別の答えもあるだろう。たとえば、隠岐諸島としてまとめているが、実際は隠岐諸島の中の島後(どうご)と西ノ島の2島に国道があるし、五島列島も中通島と福江島の2島に国道がある。これらを分けて数えると、13の離島になる。

基本的に国道がある離島は、面積が大きな島々だ。そして人口も多い。
佐渡、隠岐、壱岐、対馬など、単独で旧国を構成していた島々が多いのも特徴だ。
架橋によって本土と結ばれた淡路島(旧淡路国)も、以前は国道を持つ離島だった。


さて、次にもうひとつ質問をする。いよいよ今回の本題に関わる質問だ。

昭和20年時点で、国道を持っていた離島がいくつあったかを、ご存知だろうか。

先ほどは「現在の」だったが、今度は「昭和20年時点の」に変わっただけで、あとは同じ質問だ。


この質問の答えは、右図のように、7つの離島だ。

当時は国道全体の本数が今とは比べものにならないほど少なく(合計82路線、現在は459路線ある)、現在より国道を持っていた離島は少ない。
戦前から国道が存在していた島は、沖縄本島をはじめとして、宮古島、奄美大島、対馬、(あと淡路島)などであり、これらは現在も国道を有しているが、奄美大島のすぐ南に浮かぶ属島の加計呂麻(かけろま)島と、あとは、小笠原諸島の父島に国道が存在していた。

加計呂麻島と父島の2島だけが、我が国の歴史上において、おそらく唯二の国道を失った島である。

そして今回の“島行が”の探索の舞台は、父島だ。

遙けき父島の紹介を始める前に、もう少しだけ、「昭和20年当時の国道」の話を続けたい。

国道について詳しく調べたことがある人はご存知だと思うが、現在ある国道(正式には「一般国道」)は全て、昭和27(1952)年に公布された道路法という法律が、その根拠法になっている。
この道路法が公布される以前にも道路法は存在し、それが大正8(1919)年に公布された旧道路法だ。
そして旧道路法を根拠とする国道を、現在の道路法による国道と区別する意味で、“大正国道”と表現することがある。(同じような成り行きで“明治国道”もあるが、本題から外れるので省略する)


先ほど問うた昭和20年当時の国道は、旧道路法の時代の話だから、全て“大正国道”である。
そしてここからが重要な部分なのだが、大正国道には2つの種類が存在した。
それはどういうことか、次に抜粋する新旧の道路法の条文を見較べて欲しい。

国道の指定に関する道路法の条文の違い
道路法 (昭和27年〜現在)旧道路法 (大正8年〜昭和27年)
第五条
一般国道とは、高速自動車国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ、次の各号のいずれかに該当する道路で、政令でその路線を指定したものをいう。

 ( 一〜五号 略 )
第十條
國道ノ路線ハ左ノ路線ニ就キ主務大臣之ヲ認定ス

 一 東京市ヨリ神宮、府縣廳所在地、師團司令部所在地、鎭守府所在地又ハ樞要ノ開港ニ達スル路線
 二 主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル路線

旧道路法が定める国道(大正国道)には2種類あった。
1つは、「東京市より〜」という条文を根拠にした路線、もう1つは「主として軍事の目的を有する路線」だ。
この2つ目を特に区別して、特別国道、特殊国道、軍事国道などと呼んだのである(呼び名自体は条文に定められているわけではない)。
また、軍事国道以外の国道を、普通国道と呼ぶことがあった。

昔の国道のこと、国道のしくみ、道路のことがもっと知りたい! そんなあなたに、私が全力で書き上げたこの本を読んで欲しい。道路の楽しさと深さを凝縮させた1冊になっていますので、ぜひご一読ください!

敢えて「戦前の日本」という表現を使うことが、ここでは妥当だろう。
戦前の日本の国道は、宮城がある東京市を中心とした中央集権的な路線網を持ち、かつ軍国主義的色彩を帯びた軍事国道を別に有していた。そのことが道路法の条文として明確に規定されていた。
全体としては構成がよく似ている新旧の道路法の条文を比べたときに、最大の違いを感じるのが、この国道の指定要件に関する部分だと私は思っている。

軍事国道は、路線名からして普通の国道と違っていた。
普通の国道は「一号」「二号」のような路線番号を持っていたが、軍事国道は全て、「特一号」「特二号」のように路線番号の前に「特」の字を付して区別されたのである。

路線の追加指定も何度か行われており、大正9(1920)年時点では普通国道38路線、軍事国道26路線でスタートしたが、昭和20年までに(これ以降追加なし)、普通国道41路線、軍事国道41路線、合計82路線へ拡大している。


上に掲載した図は、昭和52(1977)年に発行された『日本道路史』の附録である「全国国道図(昭和17年)」に、旧道路法時代に認定された全ての軍事国道を書き加えたものだ。
これを見ることで、軍事国道の全国的な分布が把握できる。
すなわち、軍事国道が関東近郊と離島に多く分布していたことが分かるだろう。
しかも、離島国道の路線数も多く、対馬なんて現在は1本しか国道がないが、戦前は5路線も存在していたのである。

しかし、路線数こそ普通国道に匹敵した軍事国道だが、総延長は天と地ほども違っていた。
全国的な路線網を形成した普通国道に対し、軍事国道は大日本帝国陸軍が管轄する演習地や、同じく陸軍が管轄した要塞地帯における砲台へのアクセスルート、特に離島に置かれた要塞に関わる路線が多く、太平洋戦争中に沖縄本島や宮古島などの海軍航空施設へ通じる路線も追加されたが、いずれの路線も短距離であり、いわゆる国道という言葉から想像するような規模の大きな路線は少なかった。

軍事国道は、いわゆる軍の専用道路である軍道ではなかった。
軍道はふつう、一般人が立ち入ることは出来なかったが、軍事国道には(軍事国道だからという理由での)通行規制はなかった。

軍事国道も普通国道と同様に管轄官庁は内務省で、陸軍省や海軍省ではなかった。
陸軍省や海軍省の要望を受けて、内務省が軍事国道へ指定したのであって、整備に要する費用は全額が国庫より支給された(旧道路法33条)。
普通国道に対する国庫補助率が平均して1〜2割程度であった当時、これは地方にとって破格の好条件だったが、逆に言えば、地方の要望とは関係なく整備された路線ということだ。

道路需要も費用耐久力も相対的に低い離島に、多くの軍事国道が多く整備されたことは、こうした離島が国土防衛の要としてしばしば要塞地帯に指定されていたことと合わせて、必然だったといえるだろう。

改めて、先ほど示した「昭和20年当時に国道が存在した離島」7島(右図)を振り返るが、淡路島と沖縄本島の那覇港に存在したもの以外は全て軍事国道だった。
また、対馬には対馬要塞、奄美大島と加計呂麻島は奄美大島要塞、父島には父島要塞が存在していた。
今回の舞台は父島だが、父島要塞は大正12年に指定され、終戦時まで存在した。これは父島に国道があった期間と概ね一致する。



小笠原諸島の父島に、かつて国道が存在した。

どんな国道があったのかを、私は知りたくなった。 (←探索動機)

次の章では、簡単に父島の紹介をしたい。





 第2章 遠くて遠い、父島 

父島は、遠い島だ。

父島は東京都小笠原村に属しており、同村役場や東京都小笠原支庁がある、小笠原諸島の主島である。
東京都庁からおおよそ1000km離れた南南東の太平洋上に浮かんでおりて、面積23.45㎢、これは十和田湖の3分の1くらいだ。あまり大きな島ではない。沖縄本島の北部と同じくらいの緯度で、当然気候は温暖だ。年平均気温は25度を少し上回り、亜熱帯気候に属する。

小笠原諸島は、北側から順に聟島列島、父島列島、母島列島、火山(硫黄)列島の各列島と、西之島、沖ノ鳥島(日本最南端)、南鳥島(日本最東端)などの孤島からなる。
その広袤は東西1800km南北800kmにもおよび、その全てを村域とする小笠原村は日本国最大の広がりを有する自治体だ。しかしこのうち民間人が居住するのは父島と母島だけで、それぞれ人口は約2100人と500人、この合計が村の全人口となる。

小笠原諸島の中ではまだ本土に近いところにある父島だが、それでも約1000kmの海路の隔たりがあり、かつ現時点では海路以外に訪れる手段がない。
東京港と父島港を結ぶ旅客船は月平均6便程度が運航されているが、片道24時間を必須とする長い船旅で、基本的に1往復に6日間程度を要する(うち2日間は往復の船上で終わる)。
国内10の空港から毎日のようにグアム島(本土の南約2400km)へ飛行機が飛び、3〜4時間程度で辿り着けるこの時代に、である。
父島は、距離も遠いが、時間も遠い島である。

太平洋の大海原に浮かぶこの島が、我が国の領土として正式に確定したのは明治9(1876)年のことで、世界史の中ではそう昔の話ではない。
その後は次第に産業も発達し、今では人が住まなくなった周囲の島々にも入植があって、昭和10年頃には父島だけでも4000人を超える人口を数えた。
戦前、グアム島が大宮島と呼ばれて、我が国の委任統治領「南洋諸島」の中心地であった頃は、父島は南洋航路の重要な経由地で、洋上の一大ターミナルであった。


『日本地理大系 4 関東編』より

左図は、昭和5(1930)年発行の『日本地理大系 4 関東編』に掲載された「東京府所属諸島一般図」で、当時の伊豆諸島や小笠原諸島と東京港および横浜港を結ぶ定期航路が描かれている。○で囲んだ位置に父島があるが、硫黄島を主島とする火山列島はおろか、南鳥島にまで船が行っていたことが分かる。南洋諸島行きもある。
このような立地は軍事的にも重視され、海軍も陸軍もこの島に根拠地を置き、次第に軍事施設を増やしていった。

太平洋戦争では、幸いにして硫黄島や沖縄本島のような玉砕戦地とはならなかったが、重要な防衛拠点と見做されていて、父島だけで万を超える軍人が駐在した。そして空襲が激化した昭和19年には、ほとんどの住人が強制疎開のため島を離れた。
続く敗戦によって、小笠原諸島は日本の施政権を停止されて米国施政権下となる。父島には米軍基地が設置され、元住民のうち僅か百数十人の欧米系の人々だけが帰島を認められた。小笠原諸島の本土復帰が成る昭和43(1968)年6月26日まで、この状況は変わらなかった。

本土復帰後は、本土との格差是正を目指して国や都による様々な施策が打たれ、大量の公共投資によって一度は大半がジャングルに還った島は次第に再生された。
現在も人口は戦前に遠くおよばないが、住民は若く元気で、村の老齢人口割合は9%台(全国平均27%)と国内自治体で最も低い。一度行くと二度行きたくなるような不思議な魅力のある島だという。

島の道路の話をしよう。
父島にはかつて国道があったという話をしたが、戦後の本土復帰時点では、国道どころか、我が国の道路法によって認定された道路は一つもなかった。
だから、昭和46(1971)年に改めて、道路法による道路の認定が行われた。そして、島内に1本の都道と無数の村道が誕生した。

都道の名は一般都道240号父島循環線といい、認定当初こそ大村と扇浦を結ぶだけの短距離路線だったが、その後村内の各拠点へ延伸が進められ、現在では右図の通り、島内を概ね網羅している。
路線がいくつも枝分かれしているように見えるが、これらの支線も含めて全長約22km、今も島ではただ1本の都道である。


次の章では、ようやく本題である戦前の父島に存在した3本の軍事国道のアウトラインを紹介するとともに、今回の探索の舞台を明らかにしたい。





 第3章 父島に存在した3本の軍事国道 


『官報 二五二一号 大正9年12月25日』より抜粋

右に掲載したのは、大正9年12月25日の官報の一部だ。
旧道路法の時代も現在と同じで、国道の路線の認定は官報によって公示されていた。

この日の官報に掲載された内務省告示により、旧道路法に規定された軍事国道(特別国道、特殊国道とも)が、特一号から特二十六号まで26路線について一斉に認定された。これらが軍事国道のファーストメンバーということになる。

特十九號 東京府小笠原島父島大村ヨリ扇村ニ達スル路線

『官報 二五二一号 大正9年12月25日』より

そしてこの日、すなわち大正9年12月25日に、国道特19号として、初めて父島に国道が認定された。
大正9年という年は、海軍側の強い要望を受けた陸軍が8月に築城部父島支部を開設し、父島要塞設立の本格的準備をスタートさせた年である(実際の父島要塞開府は大正12年)。
日露戦争後から海軍は父島の天然の良港である二見港に着目し、大村に海軍要港部を置いていた。これを守る要塞建設が要望されたのである。

これは旧道路法も現行道路法も変わらない点であるが、国道の認定・指定(旧道路法は国道を認定し、現行道路法は国道を指定するという言葉の違いがある)は、起点・終点・経由地の3つを明らかにすることが法で定められており、路線が短い場合など経由地は省略が可能だったし、逆に経由地を複数持つことも出来た。軍事国道はほとんどが短距離路線なので、起点と終点の地名だけで認定されることが大半だった。

国道特19号の場合は、起点が大村、終点は扇村であることが定められたのである。
これらの地名がどの場所を現わしていたのかを、まず考えてみよう。



右図は昭和10(1935)年の父島を描いた2万5千分の1地形図だ。
そこに描かれている道を見るのは後にして、ここでは地名の話をしたい。

現在は、父島の全域が小笠原村に属しているが、これは昭和43年6月26日の小笠原諸島の本土復帰と同時に、諸島全体を村域に設立された新しい村だ。
戦前の小笠原諸島には、もっと多くの村々があった。

ここでは父島に絞って話を進めるが、明治9年に正式に我が国の領土となり、まもなく本格的な入植が始まった直後の父島は、北部、中部、南部にそれぞれ大村、扇村、袋沢村があった。
明治22年には全国的に町村制が施行されたが、島庁が置かれていたいくつかの離島は対象外とされ、小笠原諸島も例外ではなかった。そのため、これらの村々の地方自治体としての機能は制限されていた。明治29年に扇村と袋沢村が合併し、扇村袋沢村となった。(凄い名前だ…)
明治41年に島嶼町村制が施行されると、父島の大村と扇村袋沢村も、これに移行している。

国道特19号が認定された大正9(1920)年時点では、父島には大村と扇村袋沢村が存在しており、起点とされた「大村」は、そのまま村名を示しているのだろうが、終点とされた「扇村」については、「扇村袋沢村」のうち旧扇村の村域内というふうに解釈するのが妥当だろう。

その後、日中開戦後の昭和15(1940)年に父島は普通町村制へ移行しているが、終戦まで村名は変わらなかった。
昭和21年に小笠原諸島への日本の施政権が停止されたが、昭和27(1952)年のサンフランシスコ平和条約発効により、正式にこれらの村役場が廃止され、村も消滅した。

……父島の昔の村名の話はここまでだ。

ここまでの話によって、特19号という国道を辿ろうとしたときに、難しさがあることに気付いただろうか。

「大村ヨリ扇村ニ達スル路線」というだけの情報では、起点や終点の正確な位置(番地まで特定されるような詳細な地点だ)や、その経路までは、分からないのである。
加えて言えば、全長とかも不明だ。

現在の道路法でも、路線の指定や認定だけでは、その道路の正確な位置やルートまでは分からない。これは昔と変わらない。
しかし、現在の道路法では、路線の認定後、速やかに道路の区域を決定し、これも公示することが定められている。
道路の区域は、適切な縮尺の地図上で示されるので、ここでルートが明瞭になる。まあ現実的なところでは、我々は全国の道路管理者が日々発表している公示でルートを知るわけではなく、それらをまとめた出版物である道路地図などで知るわけだが、ともかくルートを知る手段は明確である。
さらにいえば、各道路管理者は、各々が管理する道路1本毎に道路台帳の作成を義務づけられており、ここにも厳密な道路の位置を含む情報がある。

だが、旧道路法には、「道路ノ區域ハ管理者之ヲ定ム(第19条)」という条文はあるものの、告示は定められておらず、道路台帳もなかった。
したがって、管理者ではない者が道路の正確な位置を知ることは、今よりも遙かに難しかった。公道の主役である国道でもそれは変わらなかった。もちろん、軍事国道も。
それでも道路の位置を知ろうとするなら、道路管理者が実務上の必要から作成し利用した各種の図面や、管理者毎の管内図のようなものを入手するか(必ず存在した訳ではないし、保存されているとも限らない)、あとは間接的な情報にはなってしまうが、地形図を見るくらいしか手段がないのである。

特に軍事国道に関しては、地形図での確認すらも難しいケースが少なくない。
なぜなら、認定されていた期間が短い路線については、地形図が更新されるタイミングから漏れていて、そもそも描かれる機会がない場合があった。
さらに、要塞地帯のように軍事的な意味から地形図が故意に表現を緩めていた(改竄含む)地域に存在した路線も多かったためである。先ほど掲載した父島の地形図にも一箇所空白の部分があるが、そこには海軍の飛行場があったので隠されている。

これは軍事国道を探索する上で非常に重要なことなので、もう一度くり返す。
道路を調べるための情報が潤沢に存在する現代からは考えにくいことだが、軍事国道には、正確なルートが未だ明確になっていないものが存在する。起点や終点の正確な位置さえ特定出来ていない路線がある。
そして、国道特19号についても、それがいえる。
軍事国道のルートを正確に解き明かすことの難しさは、日本道路協会の月刊誌『道路』で2010年に連載された松波成行氏の連載「大正・旧国道をゆく」(全12回)を見てもよく分かる。


しかしそれでも、特19号は、まだだいぶ分かり易い方といえる。
この後で登場する、今回の探索対象となる国道に比べれば……。
徹底的な厳密性まで求めないのであれば…、特19号のおおよそのルートは容易く判明するだろう。

改めて、先ほどの昭和10年の地形図から、「大村〜扇浦」の辺りに目を向けてみよう(右図)。

図の中央を占めている二見湾の東岸に、島にある全ての道の中でもひときわ太い線で描かれた道がある。
これは、紛れもなく国道の記号である。
戦前の父島に国道が存在したことの超絶に明瞭な証拠だ!! この線の太さよ!
実は、戦前を通じて父島には県道(正確には東京府時代には府道、東京都になってからは都道)がなかったが、国道が存在していた。そんな特異な島だった。

国道として描かれた道は、大村(これは村名)の奥村という集落から始まり、海岸に沿って南下し、扇村袋沢村の村役場があった扇浦集落の外れで終わっている。
距離にして約3.5km。
しかも、この区間にはなんと6本もの隧道が並んでいる。
線形的にも、現代の道路と遜色がない感じに見え、まさしく堂々たる国道……そんな印象を受ける。

だが、よく見るとこの国道、一番南の隧道を出たところから扇浦までの約1kmは、「建設中」の記号で描かれている。
この図が描かれた昭和10年の時点は建設途中で、まだ開通していなかったということが分かる。

なお、これより1つ古い版は大正3(1914)年測図版となるが、当然、この国道は描かれていない。海岸沿いの道は里道で、位置も違っているし、車道でもなかった。
こうした地形図の変遷を見るだけでも、父島の国道特19号は、軍事国道として積極的に整備を受けた道だということが推測できる。



そして、国道特19号は立派に完成し、現在でも父島で最も主要な道路として活躍を続けている。

現在の都道240号父島循環線のうち、東京都によって「湾岸通り」の愛称を与えられている区間が、まさに特19号の忘れ形見なのである。
もちろん、大規模な改築を受けてはいるが、多くのトンネルの位置は当時から変わっていない。

より具体的に、国道特19号がいつ完成したかについては、平成10(1998)年に刊行された『長期滞在者のための小笠原観光ガイド』に答えがあった。

昭和15年8月、要塞建設のため囚人を使った突貫工事で、第一〜第五、丸山、扇浦トンネルの7つのトンネルができあがり、大村と扇浦が国道(現在は都道)でつながる

『長期滞在者のための小笠原観光ガイド』より

同書によれば、この道が開通するまでは、二見湾の南北に対面する大村と扇浦の間を行き来するのに、もっぱら通い船という渡船が利用されていたそうだ。国道の開通後も、軍需用品の輸送等で、通い船はますます繁盛したとも書かれていた。このような離島にあっては、道路が出来ても自動車の供給が追いつかなかったのかも知れない。しかも、完成後まもなく日米開戦となり、燃料の欠乏もあったことだろう。

しかしともかく、特19号は立派に完成して父島を支え、今もまた支え続けている。




父島に生を享けた国道は、これだけではなかった。
今回のレポートの表題が、まだ登場していない。
前座の話がやっと終わって、ここで主役が登場する。



『官報 三九六六号 昭和15年3月28日』より抜粋

まるで特19号の整備が終わるのを待っていたかのようなタイミング…、昭和15(1940)年3月28日の官報によって、父島に新たな軍事国道が認定される。

特三十號
東京府小笠原島父島扇村扇浦ヨリ袋澤村西海岸ニ達スル路線
特三十一號
東京府小笠原島父島扇村扇浦ヨリ袋澤村南崎ニ達スル路線
『官報 三九六六号 昭和15年3月28日』より

今度は一挙に2本!

特30号と特31号の2本の軍事国道が、十和田湖の3分の1の広さしかない父島に誕生する。

2本とも、起点として示された地点は同一で(だからといって必ずしも同一地点が起点だったとは断定できないが)、終点だけが異なっていた。
その異なり方も僅かで、いわゆる字(あざ)が違うだけだ。
特30号の終点は、袋沢村西海岸、特31号の終点は袋沢村南崎と認定された。


まず、昭和15年時点で袋沢村という自治体はなく、実際には扇村袋沢村であったのだが、旧袋沢村域の地名という認識で、昭和10年の地形図から「西海岸」と「南崎」を探すと、それぞれ島の南東部と南西部に発見された。(右図)

また、戦時中の昭和18(1943)年に発行された『現代本邦築城史 第二部第十四巻』によると、父島要塞は従来、大村第一〜第四砲台からなっていたが、昭和15年に、島東南部の西海岸の近くに巽谷(たつみだに)砲台の建設が決定して工事が行われたそうだ。
おそらくこの事実と特30号の認定がリンクしているのだろう。
特31号の目的地となった南崎についても、同様に軍事施設の建設が計画された可能性が高い。

下の図は、同書に掲載されている父島要塞の砲台配置図だ。
島内の軍事国道は(敢えてか)描かれていないが(それ以前の里道が描かれている)、西海岸の近くに、米国の方向を向いた巽谷砲台が描かれている。


『現代本邦築城史 第二部第十四巻』より


さて、右図のチェンジ後の画像に太いオレンジの線で描いたのは、特30号と特31号の想像ルートだ。
この位置には、昭和10年の地形図で既に細い道が描かれている。
公示されている起点と終点の位置を根拠に、これらの道が特30号および特31号に認定されたのだと想像することは出来る。

が!それはあくまでも想像出来るに過ぎないこと。

想像で、「ここが国道だったと思います。(終わり)」では容易く満足できないのがオブローダーだ。


特19号のルートを特定するときには、地形図が役に立ってくれた。
だが、父島を描いた地形図は、昭和10年版の次となると、なんと昭和44年版なのである。
まあ一時的に日本ではなくなっていたようなものであり、この空白はやむを得ないのだが、一気に30年以上も地図が飛んでおり、昭和15年に認定された特30号と特31号を描いた地形図は存在しない。

また、各路線の全長も不明だから、長さからルートを推測することさえ出来ない。
ではどうやってルートを調べるか。
もちろん、いろいろな手段を私は試した。たとえば、道路に関する古い統計資料を読むと、東京都内の軍事国道の総延長が分かったので、そういうところから少しずつディテールを詰めたり、軍関係の資料を調べてみたりもした。それらの成果はゼロではないので、本編の後で紹介したい。
だが結論を言うと、探索が終わってこれを書いている現在も、ルートの一部(特に終点の位置)は分からないままだ。


今回のレポートは、表題を「旧特別国道30号 扇浦〜北袋沢」としているが、この範囲については、島での探索の最中に“予期せぬ形”で特30号の位置が判明したので、これをまず紹介したいのである。

これ以外(以南)の区間については、将来の続編をお待ちいただきたいのだが、どちらの路線も終点付近は島の南部のジャングルに眠っている。
そして、島のジャングルの大部分は、平成19(2007)年から林野庁が森林生態系保護地域に指定していることや、小笠原村のガイドラインによって、ガイド同伴でなければ立ち入ることが出来ない(パンフレット)。また、このガイドは在住1年以上の島民でなければなることができない。(森林生態系保護地域は、我が秋田県の白神山地にも指定されているやつだ。)ガイド同伴で正式に探索して発表を行いたいので、もし島民ガイドの方で私の探索の趣旨を汲んでいただき、可能な範囲で西海岸および南崎方面へのガイドしても良いという方がおりましたら(もちろん所定のガイド料をお支払いします)、私までメールをいただければ幸いです。次の訪島時、ぜひ探索し発表したいと思う。


父島のジャングルに眠る“幻の軍事国道”、特30号と特31号の探索は、これから始まる。

まずはその緒戦となる探索をご覧いただきたい。

次回、島へ。



 父島への船旅と、“国道”との遭遇と


2019/2/26 7:46 《現在地》

やって参りました。小笠原諸島と伊豆諸島、総称して東京諸島の玄関口、港区の竹芝客船ターミナルへ。
ここへ来るのは、3年前の青ヶ島行き以来だ。しかも前は出航が夜だったから、朝の景色は初めてだ。

父島行きの出航時刻は11時だから、まだ3時間以上ある。なぜこんな早くに来たかというと、当時住んでいた日野市のアパートから鉄道を乗り継いでここまで来るのに、ラッシュの混雑を避けたかったからだ。島旅では毎度おなじみの“デカリュック”と、さらには輪行袋に詰めた自転車を持ち歩く私は、ラッシュの電車ではビンタされても文句は言えない。



さて3時間何して過ごすか。
とりあえず、せっかく自転車があるので、近くの竹芝桟橋からレインボーブリッジの辺りまで軽くポタリングをして時間を潰した。

写真は9:00ちょっと前に入港してきた我が便船、3代目“おがさわら丸”の雄姿である。小笠原ファンの間では“おがまる”の愛称で呼ばれている。
往復で48時間もの時間を、あの中で過ごすことが確約されている。お世話になるぞ。


何をしていても落ち着かず、結局、9:30頃に再びフェリーターミナルへ。
最初に来たときはほとんど人気のなかった広いターミナル内にも、今は乗船客らしき人々が集まりだしている。後は建物で大人しく待つことにする。

写真は、掲示されていた父島航路の“時刻表”。
しかし、時刻表というよりは、日程表と呼びたくなるような超大味な内容だ。
私が乗る船のダイヤも掲載されており、本日26日の11:00に出航し、明日27日の11:00に父島到着。帰り便は、月が変わって3月2日の15:30父島発、東京着は3月3日の同時刻となる。
しめて、船内泊2日、陸泊3日の5泊6日の船旅だ。短くは出来ないし、逆に伸ばしたいなら、1週間単位で伸ばすしかない。……なんとも大味。



これも私の中では“島旅”の代名詞的なアイテムになっている、手書きの行動メモ。
それと、今は命の次に大事な乗船券。9:30くらいに乗船手続きのアナウンスがあり、事前予約済みの予約票と引き換えで入手した。

今回私は、父島で2泊、そして母島でも1泊する計画を持っている。
どちらの島もキャンプは禁止で、こっそりキャンプも出来ないように、あらかじめ宿泊先の予約しないと乗船券の購入ができないような仕組み(だったと思う)。
キャンプ道具を持たないために、私のデカリュックも、これまでのキャンプ島旅よりはだいぶ中味に余裕があった。
でも、このような一連の旅の行程は、ある程度安めに抑えようとしても9万円くらいはかかるので、時間があるからといって、そう頻繁に行ける金額ではない。少なくとも私の財政状況では。


10:11

乗船案内アナウンスと同時にターミナルの乗船口ゲートが開放され、私を含む旅人たちはぞろぞろとタラップへ。
先ほど遠目に見たときにはあまり感じなかったが、間近に見るとこの小笠原海運が運行する“おがさわら丸”はでかい!
2016年に就航したばかりのこの3代目“おがさわら丸”は、2代目の倍近い11000トンの大型客船だ。以前、青ヶ島へ行くときに八丈島まで乗った東海汽船の大型客船の倍近い大きさである。

おかげで、外洋も外洋、大陸棚の外を航海する船としての安心感は十分。
滅多なことで欠航もないらしく、そういう意味では、伊豆諸島の島々よりもスケジュール通り旅をしやすいといえる。特に、青ヶ島、御蔵島、利島なんかは頻繁に欠航するので、それらより遙かに遠い父島だが、自身のスケジュールの都合さえ付けられれば、急な悪天候のために旅立てないような事態はあまり起こらない良さがある。



そんなわけで、出航の30分以上前には船内へ。
私が取ったのは金額的に下から2番目のオーダーである2等寝台だが、これは仕切りが十分にあるスペースで、個人的には十分に快適だった。

出航まで時間があり、船内の探検していると、まず目に付いたのが、「おがにゃん」のポスターだった。
なんでも、小笠原諸島では、野生化したイエネコが固有種たちの天敵となっているので、対策として積極的に野良猫を捕獲しており、捕獲された「おがにゃん」たちは島の病院で健康状態をチェックされた上で、この船で本土へ移送、その後に応募した里親へ引き渡されるのだそうだ。イリオモテヤマネコは許されるが、チチジマヌッコは禁断の存在ということだ。おがにゃんかわいいよおがにゃん。

10:56

まだ時刻表にあった出航時刻11:00の数分前なはずだが、乗船が全て終わったらしく、おもむろに船が埠頭を離れたぞ。

デッキではは大勢の旅人が最低6日間の帰らずを名残惜しみ、あるいは再訪を期し、陸へと手を振っていた。見よ! ここに集う者達は皆、6日間の冒険を決めた勇者たちである!(島民の方は例外だがな)




11:04

このパワフルな外洋客船の本領発揮はまだ先だ。
ときおり小雨の落ちる東京ベイを、陸上にあるかのような無動揺で船は行く。
出航直後に潜ったレインボーブリッジが、ぐんぐんと遠ざかっていった。



目指すは遙か1000km彼方の南の海だ。

船内の目立つところに、航路図と、船の現在地を知らせるインジケーターを兼ねたものがあった。ちょっとアナログなランプ表示が味わい深い。

今は出航直後だから一番左のランプが青く光っているが、船はこれから24時間かけて、ひたすら南下する。
今は北緯36度台だが、27度線まで行く。
ちなみに私がこれまで探索で赴いた最南端は、伊豆諸島の青ヶ島で、北緯32度台だった。今回大幅な更新となることが確定している。そしてこれをさらに更新しようとしたら、沖縄県へ行くしかない。

航路図上には、初めのうちこそ少し難しい飛石くらいの間隔で、伊豆諸島の島々が並んでいるが、矢印の位置の「青ヶ島」を過ぎると、もう ぅううううーーーーん と先まで、島はない。辛うじて(無人島の)「鳥島」が描かれているくらいだ。

あんなに遠いと思った、絶海の孤島という言葉がこれ以上なく似合っていた、青ヶ島。
しかし今回目指す父島は、単純な距離として、その2.5倍も遠いのだ。
伊豆諸島と小笠原諸島の間にある圧倒的な青の隔絶を、十二分に覚悟させてくれる、美しい航路図だった。 ほんとうに……。



12:45 《現在地》

出航から2時間近く経過した時点で、船は東京湾口の浦賀水道を通過して、三浦半島の先端辺りを横に見る位置にあった。
そろそろ太平洋の外洋だが、真に外洋の感じを受けるのはまだだいぶ先、伊豆半島と房総半島を結んだ線を超えて、伊豆大島も超えた辺りからかな、個人的印象。
しかしともかく、我が本土はそろそろ見納めだ。今日の天気だと、遠くの陸地はすぐに見えなくなるだろう。

そして、この少し後で、グググググググッと、船の速力が上がるのを明確に感じた。
世界屈指の交通稠密の海域を過ぎ、本船の機関が本領を発揮できるところへ出たのだと察した。ここからは早いぞ。あと22時間くらいで950kmも運んでくれるのだ。




17:26 《現在地》

出航からおおよそ6時間半後、船は東京港から約250km離れて、御蔵島と八丈島の中間辺りにあった。
そろそろ日没の時刻だが、夕日を見ることは叶わなそうだ。島影も見えない。晴天なら見えるはずだが。

船旅はデッキ待機が基本姿勢である私も、今回は天気があまり良くないことや、父島での過連続活動へ向けて十分に身体を休めたいという気持ちもあって、日中も大体の時間を船室内での読書で過ごした。ちなみにケータイ電話の電波(au)は、伊豆諸島の島々が近くにある海域だとデッキにいればアンテナが立ったが、基本的に鉄の箱の奥深くである船室にいるときは拾えなかった。現代人にはなかなか得がたい、24時間連続の電波遮断缶詰も可能なのが、この船旅の良いところだろう。



19:13 《現在地》

もうすっかり暗くなっていて、海上には何も見えない。デッキに出ている人も他にはいない。黒い海に灰色の航跡が少し見えて奥は途絶える。巨船は波にもほとんど動揺しない。重い船が滑るように進んでいく。
GPSを見ると、現在地は八丈島と青ヶ島の真ん中付近。とはいえ父島までどこにも寄港しない船だから、伊豆諸島の島々を横に見ても、さほど近くは通らない。
ともかく、東京港から320kmくらい進んだ。ようやく全体の3分の1を終えた。

このあと私は寝た。
寝てるあいだ、船は走った。走り続けた。


2019/3/27 5:20

翌朝5:20、目を覚ました私はデッキに出た。
ぼんやりと東の空に赤みが灯っていた。そろそろ日の出らしい。
そして、空気が不思議と温かい。昨夜の3月の海らしい寒々とした空気は、もうカケラもない。

GPSの測位を楽しみに待つ。 来た!
《現在地》 は、伊豆諸島の最南端である絶海の岩塔こと孀婦岩(そうふいわ)から南に150km、そして、小笠原諸島の北端にある島から北へ150kmという、周りに島がないという意味で、かつて体験したことがないレベルの海のただ中だった。

なるほどなるほど、ここが伊豆諸島と小笠原諸島の中間線か。
温かいのも道理だろう。すでに本州をぶっちぎって、奄美大島くらいの低緯度まで南下している。その辺りの3月を私は知らないが、シャツ1枚で外で寝れそう。
このあと、日の出を待たずに船室へ戻った。




8:40 《現在地》

この日は明るくなってからは、ほとんどをデッキで過ごした。
そして8:00を過ぎた頃から、三浦半島を見送って以来実に19時間ぶりくらいに、陸地を見た。
もちろん、出航から今までずっとデッキにいたならば、途中で伊豆大島とかいくつかの陸地を見たはずだが、
私はそれをサボっていたのでとても久々の陸地。でもサボってなくても、間違いなく今日最初に出会う陸地だろう。

なにせあの陸地こそは、絶海に隔離された小笠原諸島の最初にして最北の列島、聟島(むこじま)列島なのだ。
東京港からおおよそ930kmを南下し、いよいよ父島入港まで2時間のところまで来ていた。

しかしそれにしても、聟島列島の一部は、何かの呪いでも受けたような禍々しさだな。
ゲームなら、海賊島、いや、もっと邪悪な何かが潜んでいるに違いない。
明治頃には、聟島にもいくらか人が住んだことがあるそうだが…。



10:09 《現在地》

キタキタキターー! 大きな陸地が続々と!

入港予定時刻の1時間前には、船の進行方向左側を完全に塞ぐように、いくつもの陸地が連なって現われた。
よく見ないと分からないが、この写真の範囲には父島列島を構成する主要な三島、
左(北)から順に弟島、兄島、父島が写っている。

これらの島々は、もしぜんぶの島が有人島なら互いに架橋されていると思えるくらい近いが、父島以外は無人島だ。
弟島も兄島も、父島列島の主島である父島の3分の1か半分くらいの広さがあり、地球と月に喩えるならば
随分と大きな月だが、無人島。それが許されるほど、今の諸島の人口には余裕があるのだろう。
これらの無人島にも、戦前には僅かながら人が棲み、放牧などが営まれたそうだ。



10:26 《現在地》

これが父島!

失われた国道の島!

ジャングルの島という勝手な印象を持ってきたが、意外と褐色の部分が多い。
そしてやはり、太平洋の荒海に晒され続けている島の海岸は、どこも切り立っているようだ。
久々の有人島。先に見た弟島や兄島にはなかった建物や山の上の電波塔がある。

地図で見るとさほど大きな島ではないが、複雑な凹凸を持っていることが分かる。
いかにも火山島という感じの姿をしている伊豆諸島の島々とは印象が違うな。
ちなみに東京都の島では5番目の大きさで、4位の硫黄島、6位の新島とはあまり差がない。

船は、島の西側に開いている、青ヶ島がすっぽりと収まるくらいの大きな二見湾へ入っていく。
島に2つだけある集落はどちらもこの湾に面している。父島を天然の良港たらしめてきた湾。
船が着く二見港は、湾の北側にあるが、深い湾入のため入口からは見えない。


私もそろそろ船室へ戻り、荷物をまとめよう。もう少しで到着する。



11:00 《現在地》

二見港に定刻通り到着。何百人か分からないが、全ての乗客が吐き出されていく。
そしてその数に匹敵すると思えるほどのたくさんの島の人々が出迎えてくれた。
島での上陸シーンには欠かせない警察官を筆頭に、もの凄い数だった。

島の彼らはいくつもの集まりで、集まりの誰かが目立つようにプラカードを掲げていた。
プラカードには宿泊施設の名前が書かれていて、これはあらかじめ宿を予約している旅人たちを
出迎えてくれているのだ。そして旅人と荷物を車で宿まで運んであげようというサービスなのだった。

こんな賑わいに私も出迎えられた。
宿の出迎えの人に挨拶しつつ、私はまだ宿へ向かわないことを告げた。
それから速やかに自転車を組み立て――



11:11

漕ぎ出す! 父島の道へ!

フェリーターミナルの目の前を都道240号父島循環線が通っている。
船から吐き出された大勢と、出迎えの大勢が合わさって、人口2000人強の島とは
思えないくらいの賑わいが、このタイミングのターミナル前には現出していた。
噂に聞く品川ナンバーの車たちが、車列を作って信号待ちをしている。

都道を左へ行けば大村のメインストリート、右へ行けば扇浦方面だが、もう1つ選択肢がある。



古びた隧道へ吸い込まれてしまうという選択肢が!

私が島へ来た目的を知っている何者かが配置したかのような、この隧道は、

大村隧道(昭和13年竣工)

おそらくは、“大正国道”の遺産!






こうして、私の父島での探索は始まった。


島での残り時間 76:00