2019/2/27 15:35 《現在地》
上陸の4時間半後、私は島の屋根である中央山付近を走る「夜明道路」の路上にいた。
父島に滞在できる約2日間で私が達成せんとしていた目標は複数あり、その一つは、島を循環し、かつ多くの行き止まりの支線を有する都道240号父島循環線の完全走破であった。
そしてこれが主に初日(実質的に行動出来るのは半日程度)の目標だった。
今いる夜明道路と通称されている区間は、この都道の“循環”を司る重要な山岳道路であり、島のメインストリートである「湾岸通り」と対になる道だ。島の背骨である山岳地帯を南北に縦走するのだが、最も高い中央山付近をすでに越え、今は下りへ入っている。
そんな道の途中で、島での別の重要な目標である3本の特別国道の調査(これが2日目のメインの目標)に関わる重大なヒントを得ることになった。
写真の矢印の位置にそれはあった。
見ての通り、爽快な下り坂の途中であり、サイクリストとしての快感を優先すればスルー上等の場面だったが、道路が本職だと自分を律し、どうにか停まった。
矢印の位置には、1枚の案内看板が立っていた。
そしてその脇のガードロープの切れ目から、1本の山道が分かれていた。
案内板には、この山道が「扇浦〜桑ノ木山ルート 納涼山周遊ルート」と銘打たれた遊歩道であること、平成23(2011)年に小笠原村によって開設されたばかりの新しいルートであること、そしてコース沿いのいろいろな名所についての解説が書かれていた。
右図は、現在地周辺を描いた最新の地理院地図だが、この場所から徒歩道が分岐し、扇浦にある小笠原神社(貞頼神社)の近くへ下って行くように描かれている。
今回この道を探索する計画はなかったが、案内板によると、これが遊歩道になっているようだ。
チェンジ後の画像は、昭和10(1935)年の地形図で、現在の都道である「夜明道路」は影も形もないが、遊歩道となっている山道は軽車道として描かれており(黄色い矢印の位置)、これが中央山周辺の山岳地帯と海岸の扇浦を結ぶ古い道であったことが分かる。
とまあ、これだけであれば、「そうだったんだな。また時間のあるときに歩いてみようかな。」くらいで終わる話だったんだが――
『地図』に、「軍用隧道」の表記が2箇所!
「連珠トンネル(軍用隧道)」
昭和15年(1940)に特別国道(主として軍事利用を目的)として認定された「特30号」の一部として整備されたトンネルです。機密に触れる性質から、この路線に関して残された情報は非常に少なく、トンネルの名称もありませんでしたが、今回の整備で連珠トンネルと名付けました。トンネルは堅牢な構造となっていますが、南側のトンネルは崩落により通行できなくなっています。
間違いなく、「大正国道特30号」の遺構だ!!!
右図を見て欲しい。これは昭和10(1935)年の地形図だ。
「導入」の復習であるが、私は上陸以前の机上調査で、国道特30号(扇村扇浦〜袋沢村西海岸)の予想ルートを右図のオレンジ色のラインとして考えていたので、明日の探索2日目は、このルートを辿る予定であった。
だが、チェンジ後の画像を見て欲しい。
今見つけた案内板によると、チェンジ後の画像に示した位置に、国道特30号として建設された「軍用隧道」があるというのである。
これは事前調査では把握していなかった内容であり(案内板の設置や、遊歩道としての整備が2011年と最近だったからだろう。私は個人的な嗜好から、敢えて古い情報ばかりをアテにして島へ来ていた)、この案内板を見つけたことは、軍用国道を探索する上で大きなファインプレイだった。もし看板に気付かなかったら、このレポートの以下に続く内容の全てをスルーしていた恐れがある。
なお、案内板の地図には2本の「軍用隧道」が描かれていた。
しかし、南側の隧道は「崩落により通行できなくなっている」(案内文解説文より)ためなのか、北口だけが描かれていて、南口は描かれていなかった。
そのため、右図に描いた南側の隧道の南口位置は、等高線および最新の地理院地図(↘)からの推定である。
右図は最新の地理院地図で、上の旧版地形図と全く同じ範囲を切り出したものだ。
探索計画を立てる時点でじっくりと眺めたつもりであったが、迂闊にもこの“怪しい道”には気付かなかった。
扇浦から小曲へ向かう都道の東側に並行して、まるでトンネルだけが消えたように途切れ途切れの不自然な道が描かれているのである(赤く塗った位置)。
どうやら、この不自然な道の途切れた部分に、大戦中に建造された2本の隧道があるようだ。
しかしもしこの通りであるならば、南側の隧道の長さは500m級の長大さを持っている!
これは戦前の道路隧道としてはかなり長い部類だし、軍事国道として建設されたことが明確な隧道としては日本最長ではないだろうか。
軍事国道として建設された最長のトンネルだが、広島県呉市で昭和17(1942)年に着工した特24号の休山隧道は、全長1.7kmの長さを持っていた。これは栗子隧道(870m)を遙かに上回り、戦前を通じて最長の道路トンネルとなるはずだったが、150mほどを建設したところで工事中止となり、平成14(2002)年になんと60年ぶりに開通した。休山隧道は未成であったため、父島のこの無名の隧道が500mの長さで開通していたとしたら、軍事国道用トンネルとしては国内最長と思われる。
こうして私は、島へ上陸した時点では想定していなかった位置に、国道特30号の遺構が現存していることを知った。
そして、この場所の探索は、2日目の午後に行った。
2019/2/28 13:31 《現在地》
上陸翌日2月28日の午後に、扇浦を訪れた。
ただしこの写真は、昨日の夕方に訪れたときのもの。
そんなに大きな島ではないので、約2日間の滞在中にこの扇浦は何度も通ったのである。
扇浦集落は都道240号「湾岸通り」に沿って存在しているが、二見港や村役場を擁する大村が、その古名に不釣り合いなほどの賑わいを持っている今日(だから今は大村といわず西町とか東町とかの地名が使われている)にあってなお、ここが離島の小笠原“村”なのだと感じさせてくれる場所だ。
特別変わった景色が有るわけではない、砂丘を囲む平凡な海岸集落だが、ふと気付くとアスファルトの上を見たことのない陸ガニが歩き回ってあたりは、“ならでは”かも知れない。
陸ガニといえば、道路ファンにとっての小さな“小笠原名物”となっている、【こんな動物注意の標識】が「夜明道路」に立っている。国の天然記念物である「オオヤドカリ」への注意を促している。
これも前日の写真だが、扇浦の浜辺から見た二見湾の夕景だ。なんともいえない南島情緒の溢れる眺め。
ちょうど湾の真向かいに二見港があり、乗客たちが島で思い出作りに励む4日間、“おがさわら丸”が静かに休む姿が見える。
地形の上でも大村と対になるこの扇浦は、父島において、大村に次ぐ第二の繁栄地の歴史を有する土地であり、戦前の扇村袋沢村の役場所在地であった。
行政による父島開発の方針が一島二集落に定まった本土復帰後は、大村とここだけが集落としての積極的整備を受けている。
しかし歴史を紐解くと、島で最初に発展したのは、大村よりもこの扇浦であったらしい。
それは、この地に小笠原神社という、島の来歴に関わる様々な故物を祀る土地があることや、明治9年に初めて日本政府による小笠原の行政機関である内務省小笠原事務所(明治13年に東京府小笠原出張所に変更)が置かれたのが、この土地であったことからも説明できる。(同所は明治17年に大村に移転した)
そして何より私のような道路ファンにとっては、特19号、特30号、特31号の3本の軍事国道が集合していたと考えられる点でも、極めて重要な土地だ。
軍事国道探索をはじめるぞ!
13:36 《現在地》
さて、ここからやっと本来のタイムライン上、2日目午後に撮影した写真だ。
現在地は、扇浦やや東寄りの「湾岸通り」上、前述した小笠原神社の前である。
昨日見つけた「案内板」によれば、この小笠原神社のちょうど下を潜るような位置に、軍用隧道があるらしい。
とりあえず神社を目指してきたのだが、たくさんの案内板があって、神社自体はすぐに見つかった。
また、昨日見たのと同じ内容が書かれた遊歩道の案内板もあった(あの遊歩道を辿るとここへ出てくる)。
軍用隧道の位置も改めて案内板で確かめたが、とりあえず、神社を訪れれば自動的に目に付くという感じではなさそうだ。
……どこにあるんだろう?
とりあえず、小笠原神社の鳥居を潜って、石段も登って、お参りだ。
ソテツやバナナの林を縫って付けられた参道の風景は、やはりここが南国だということを強烈に思わせた。
昔何かの本で見た風景だが、戦前のサイパン島に建設されたサイパン神社の景色を思い出した。神社によって日本民族のアイデンティティを連結していた時代を感じる。
ここの境内は実に様々なものが解説板付きで置かれていて面白かった。
島の発見にまつわる江戸期の故事を記した記念碑や、明治期の日本政府による島の開拓に関する碑、そして戦時中に建造されたトーチカなど、まさに島の歴史の野外博物館のようであった。
観光ガイドのサイトなどにもいくらでも掲載されているだろうから、解説はそちらへ譲る。
チェンジ後の写真は、中でも私の心を惹きつけた、「小笠原開拓碑」だ。
明治13(1880)年の建立で、明治政府による小笠原開拓の方針や、そこに至る経過が、漢文で認められている。
撰文は内務卿大久保利通であり、三島通庸を竹馬の友として育ったオブローダーとしての私(おいおい)にとっては、ミッチーの気の良い兄貴分のようなトッシー(おいおいおい)の名前を、こんな海の果ての島で見られたことが感慨深かった。
明治政府の努力によって太平洋へと日本の版図が広がったことの記念碑だ。
ずっと後に太平洋戦争へ突入する、そんな国の大きな方針の転向は、この頃にあったのだろう。
それがやがて、軍事国道なるものを、この島へ導くことになる。
13:56 《現在地》
神社から通りに戻ると、今にも雨が降りそうな空に急変していた。いかにも南国? スコールの予感?!
それはさておき……どうやらここみたい。
小笠原神社の入口の一つ東隣の入口。
ぱっと見はホテルの進入路っぽい道だが、ここが軍用隧道の入口だと思う。
ということはつまり、
ここが特19号と特30号の分岐地点だったのだろう。
同時に、特30号はここが起点であったはず。
(あわせて特31号の起点でもあって、ここから北袋沢までは特30号との重複区間だった可能性があるが、現時点では判断に足る情報がない)
ここは、世にも珍しい、軍事国道同士の交差点だった。
今は国道が無い島に3本もの国道がひしめいた時代の記念地。……たぶん。
残念ながら、そんな経緯を伝える故物は何も見当らないが、20年以上も日本の国外になった体験を有する島とあっては無理もない。
今ある街並みや道並みの大半は、“リセット後”の世界なのだから。
……右折するッ!
都道から右折した1車線道路は、直ちに左へ曲がりながら登っていく。
道の両側はやや荒れた路面の駐車スペースで、たまたま近くで行われていた
工事の関係車両やホテルの車が、あちらこちらに停まっている。
なんとも観光っ気に乏しい景色だが……
あった! 隧道!
上陸直後に出迎えてくれた【大村隧道の姿】を彷彿とさせると同時に、
現在の有り様については、陽と陰の強烈な対比を思わせた。
遊歩道に組み込まれているらしいということで、それを知ったときには、
正直少しだけ期待感を損じたが、いやいや…、これは楽しめそうじゃないか…。
……しかも、2本あるらしいからな……。
2019/2/28 13:59 《現在地》
前回読んだ解説板の説明によれば、目の前にあるこの連珠トンネルは、戦時中に国道特30号の一部として建設された隧道(軍用隧道)であるという。
このことについて、私は即座に納得が出来、疑いを持たなかった。
なぜなら、坑門のデザインやサイズ感が、同じく軍事国道である特19号の一部とみられる、この島にある“別の隧道”と、あまりにも酷似していたから。
その酷似は、それらの隧道が同じ背景を持つものであることを如実に物語っていると思った。
“別の隧道”とは、島で私を最初に迎えてくれた大村隧道および清瀬隧道のことだ。
(←)二見港にあり、全ての上陸者が目にする大村隧道。
現在も歩行者専用道路として立派に活躍しているが、昭和13(1938)年に特19号の一部として建設されたとみられる。この隧道を潜るとすぐにもう1本隧道があり、そちらは清瀬隧道という。
大村にある大村隧道と、扇浦にある連珠トンネルの坑門のデザインおよびサイズ感は、酷似している。
環境の違いによる外観の差は生じているが、完成当初は同一の外観であったとみて良いだろう。
具体的には、大きなコンクリートブロックによる重厚なアーチ環、アーチ環天頂に配された盾型のキーストーン、やや広いが無意匠であるスパンドレルと、その中央に配された扁額の位置、僅かな出っ張りでしかない上部の笠石の表現など、異なるところが見当らない。
大村隧道は、米軍による爆撃の傷痕だと思われるが、坑門の上部、扁額を含む範囲が後年に作り直されている。
そのためトンネル名が深く陰刻された扁額のデザインは、おそらく本来のものではない。
対して、(←)清瀬隧道は本来の扁額を保存している。
清瀬隧道の扁額は坑門の壁の一部を僅かに出っ張らせただけの控えめなデザインで、そこにトンネル名が右書きで陰刻されていたようだが、長年の風化により文字の判読はギリギリ可能な状況だ。
(→)連珠トンネルの扁額については、比較すべき隧道に扁額が存在したことから想起して意識を向けなければ、その存在に気付けないほどに風化が進んでいる。
そのため、文字の範読は完全に不可能であり、そもそも文字が刻まれていたかさえも不明だ。
解説板には、「トンネルの名称もありませんでした」(平成23年に遊歩道として整備された際に連珠トンネルと名付けられた)とあったが、もしかしたら、扁額の文字が読み取れないためにそう判断されたのかもしれない。
ところで、連珠トンネルの坑門には、扁額の上下に、水平の赤い帯があるように見える。
まるで塗装したかのようにはっきり見えるこの帯だが、おそらくこれは意匠といえるようなものではなく、コンクリートの表面にたまたま生じた模様に、赤い土壌の成分を含む水が着色したものだと考えている。
実はこの模様は、着色がないので分かりにくいだけで、大村隧道や清瀬隧道にもある(と思う)。
この水平の模様はおそらく、坑門の建造時、生コンを型枠へ流し込む作業を数回に分けたために生じている。
丁寧にやる場合、こういう模様が目立たないよう、生コンの境目が固まる前にその辺りをかき混ぜたり、固まった後でさらに表面にモルタルを塗って隠したりしたようだが、軍事国道の工事では美観への配慮に時間を費やさなかったか、単純に工程管理が杜撰だったか、これらの隧道には横縞の模様が現われており、特に連珠トンネルの北口は赤くてよく目立っていた。
貴重な逸品……。
そう感じるから、さほど鑑賞に向いたデザインの隧道とは思わないものの、行きつ戻りつ丹念に観察した。
何か見逃しがあっても、気軽に再訪は出来ないからな。
隧道はちゃんと貫通しており、反対側の出口まで見通せた。
遊歩道というのは本当らしく、特に封鎖されていない。車止めはあったようだが、なぜか外されて脇へ寄せられていた。
ちょうど隧道の真上が小笠原神社の境内で、土被りは20mくらいしかないと思う。浅い隧道である。
(チェンジ後の画像)
坑口から振り返ると直ちに都道があり、その向こうは砂浜を挟んで海という立地。トンネル内から真正面に海が見えるのは案外に珍しいシチュエーションであるし、緩やかにトンネルから海へ向かって下り坂になっているため、視界に占める海面がより広く感じられる。
物語に出て来そうな素敵な景色だが、その来歴が、観光と無縁どころか、真逆というのが面白い。
内部は…… 素掘りだ!
大村、清瀬隧道は内部まで全面コンクリート巻立てがあったが、こちらは入ってすぐ、ほんの数メートルのところから素掘りになっていた。
巻立て部分と素掘り部分の壁に段差がないので、最初から坑口付近だけを巻き立てるつもりで、断面のサイズを計算して掘削したことが分かる。
素掘り部分の露出した岩面は、日本中どこでもよく見る凝灰岩ぽいもので、掘りやすそう。
ただ、遊歩道化の際に落石防止ネットを内張りしており、天井部分などは直接観察することが出来ない。
まるで五角形断面のように見えるのはネットのせいで、実際は入口と近い形とサイズの断面だと思う。
むしろ際立って特徴的なのは、洞内の勾配だ。
全長約100mの比較的短い隧道であるが、洞内で勾配が2回も変化している。
しかも、緩やかな上り、急な上り、緩やかな上りという順序で緩急緩がスムースに変化しているのは、戦前の道路隧道としては稀な手の込み方だ。
このことが、軍事国道としての利用目的に照らした特徴といえるのかは、当時の軍事国道の構造基準が明らかでないため不明だ。
素人考えではあるが、当時の一般車両よりも遙かに重量がある軍用車両や、衝撃に弱い火薬を積載した車輌の頻繁な通行を想定して、戦前の道路隧道としてはオーバースペックに思えるようなスムースな勾配変化を用意した可能性がある。
これは本隧道の興味深い特徴だと思う。
入ってすぐの洞内に、「照明操作盤」と書かれた制御ボックスがある。
“一般人お断り”っぽい姿をしているが、小さな文字で、「照明を点灯する場合はこのボタンを押してください。点灯時間は20分です。」と書かれており、このトンネルがセルフ照明であり、ここで操作することが分かる。
私は自前の照明を持っているが、当然備え付けの照明があるなら使用する。
さっそく、外箱に露出している黒いボタンを押してみると……
パパパパパッと、電気の早さで全ての照明が点灯した。
LEDライトであり、遊歩道化に際して設置されたものだろう。
それでは洞内の準備も出来たということなので、いざ自転車に跨がって――
現代に甦った特30号の遺跡へ、突入!
入口近くの壁面にで見つけた、不思議な凹み。
待避坑にしてはあまりに小さく、何かの備品入れくらいのサイズ感だが、何の目的で掘られたのだろう。
もっと大きな横穴を掘ろうとした未成工事跡ということも、大戦中の構造物としては考えられて良い。
そういえば、大村集落の中心地にあった大村および清瀬隧道については、大戦末期、空爆から大勢の住人が身を守る大型防空壕(待避壕)として利用された記録がある。
そのため、清瀬隧道の内部には、全断面を閉塞する爆風にも耐える【頑丈な扉】が設置されていたのだが、この隧道も、立地的に考えて、扇浦集落の避難場所として使われたのではないだろうか。
清瀬隧道のように扉が設置されていた形跡はないが、謎の凹みは扉を設置するための準備工事の痕だった……のかもしれない。
全体が上り坂になっている洞内だが、中央部が最も急で、実際に歩いてみるとかなりの勾配を感じる。
測定したわけではないが、数字にすれば8%くらいはあるんじゃないだろうか。トンネル内としては異例な勾配。
路面は島の海岸にたくさんある珊瑚を砕いたような白い敷石で、よく均されていた。
ただしこれは遊歩道化に当たっての整備のような気がする。以前の姿を知っている人がいたら教えて欲しい。
中央付近の内壁や天井は全体的にゴツゴツしていて、入口付近よりも天井が高いように感じた。
幅は全体で変化がなく、5.5mくらいだと思う。大村隧道や清瀬隧道と同一サイズである。
高さは低いところで4.5m、高いところは6mくらいか。ネットのせいで天井をあまり観察できないのが残念だ。
いずれにしても、断面の全体的なサイズ感は戦前の道路隧道としては普通で、決して小さくはない。
洞内の状況が良いので、自転車を漕いでいると、あっという間に出口が近づいてきたが……
お外はジャングル?!
そんな印象を持つくらい、鮮やかな緑が、黒のシルエットいっぱいに詰まっていた。
北口は父島らしい海に直面していたが、これから向かう南口は、
やはり父島らしいといえるジャングルに、口を開けている予感がする。
これはナイスギャップに萌えそうだ。
南口に近づくと、またしても短い横穴があった。
北口近くの穴とは形や様子が異なっているが、やはり正体は不明だ。
遊歩道化以前の空気が、ここにだけ残っている感じもあった。
隧道直上の小笠原神社には、案内板に「トーチカ」と書かれている【謎の穴】があり、その内部はどこにも繋がっていないが、洞内は下り坂になっているので、もしかしたら直下に存在する隧道のこの横穴へと繋げようと考えたのだろうか。……なんて、いろいろと想像したくなる。
これは太平洋戦争の戦跡といわれるものの多くに共通することだが、明確な“最終完成形”という状態ではないものが多くある。
いろいろな物が、発展途上であるままに、敗戦の日を迎えた現実があり、そのため、今日見る遺構も様々な発展的想像を否定し難いところがあるといえる。
まあ、私の想像は妄想レベルのものも多いが…。
やっぱりジャングル!
短い隧道なのに、両側の景色の対比が強烈だ。
車止めがなければ自動車もそのまま入ってこられた北口と違い、
この南口は、歩行者のトレースだけを残して路面がジャングル化していた。
このことは、戦後20年あまりも続いた米軍の支配下にあっても、
生活の場所として維持管理が継続されてきた大村周辺(含む2本の隧道)と、
一旦全てがジャングルに呑み込まれていた扇浦周辺の違いのようにも思う。
14:02 《現在地》
これはいい、トンネルのある風景だ。
連珠トンネルの南口は、オブローダーを喜ばせる状況になっていた。
終戦によって役目を失い、ジャングルの島に放棄され70年余年を経過した軍事国道跡。そんなストーリーを象徴するような景色がここにある。
なお、気付いた人もいるかも知れないが、外へ出ると強い雨が降っていた。隧道内部にいた時間はわずか3分ほどだったのだが、天気の変わりが高山より早い。
これが島で初めての雨だった。短い滞在の間で晴れ以外の天気を体験できたのが嬉しかった。幸いこの天気の崩れは明日まで続くものではないらしいので、濡れることを気にせず探索を続けよう。
なんか、不思議な居心地が良さを感じたし。ジャングルの雨に。
2019/2/28 14:03 《現在地》
遊歩道化に際して連珠トンネルと名付けられた、特30号由来の1本目の軍用隧道を潜ると、そこは雨のジャングルだった。
舗装された都道と海が目の前にあるところから、僅か100mの隧道を潜り抜けただけで、圧倒的に風景が変化した。
ところで、ジャングルという表現がどのような森を現わすかについては、厳密さを求めると様々な異論や議論があるらしい。ここでは私の漠然とした印象に則って、いかにも熱帯雨林的っぽいと感じた林相を言っている。熱帯雨林の存在に特徴付けられる熱帯雨林気候の分布は、我が国では沖縄本島よりも南の先島諸島に概ね限定されており、それより僅かに高緯度で雨量も不足している父島や母島は亜熱帯気候にあるといわれる。
私のこれまで活動範囲の最南端であった八丈島や青ヶ島でも、森の随所にあるいかにも熱帯的な巨大シダ植物を見て本土との違いを実感したものだったが、この小笠原の父島ともなると、もはや森全体に見覚えがないという感じだ。見慣れた本州の東日本や中日本、中国地方くらいまでの森の景色とは全く違うと感じる。もう生えている木の大半に見覚えがない。せいぜい松っぽい樹皮の高木は、たぶん松なんだろうなといくくらいしか分からなかった。
上の写真の道は、道の両側の斜面が落ち込んでいて、まるで盛り土の上にあるように見えると思うが、実際その通りで、築堤が小さな谷川を跨ぐようになっている。
築堤にはコンクリート製の暗渠が通じていて、少ない量の水がそこを通じていた。
写真は、路上から暗渠部分を見下ろしており、左側にコンクリート構造物の一部が見える。
谷底へ降りて正面からこの暗渠を確認しようと一度思ったのに、なぜかその事をうっかり忘れて、そのまま立ち去ってしまいましたごめんなさい。
この谷だが、本土復帰以降の地形図には特に河川名の表記はない。しかし戦前の地形図には「連樹谷」の注記があった。
遊歩道化で復活した隧道が「連珠トンネル」と名付けられたのは、このことに由来する。
昨日見た【案内板】にも、この地名に関して次のような解説があった。
「幕末文久年間(1861〜1863)に巡検した幕府の役人がうっそうとした木々の様子から「連樹谷」と命名したのが地名の由来です
」。
連樹が連珠に転じた経緯は不明だが、内地では見慣れぬ樹木が鬱蒼と茂る谷 〜ジャングル〜 を初めて見た昔の人々の驚きが、この地名には表れている。
さらに余談だが、明治17(1884)年に朝鮮でクーデター(甲申政変)を指揮し、のちに日本へ亡命した金玉均が明治19年から2年間、この連珠谷に隠れ住んだ記録があり、扇浦の人々との交流が伝わっている。
14:04 《現在地》
築堤を渡ると直ちに、砂利道が右から合流してきた。
その道には轍があり、普段から車が出入りしている様子だった。
この合流してくる道は地理院地図にも描かれていて、100mほどで亜熱帯農業センターの近くの都道240号(小港道路)へ出るようだ。ストリートビューでその地点を確認できる。
当初は、現在使われている都道の小港道路こそが、戦時中に特30号として整備され、本土復帰後に再整備された道だろうと単純に考えていた。だが実際は全く違っていて、この区間の軍事国道は、2本の隧道を有する完全な別路線だった。解説板によれば、この先にある2本目の隧道が崩落していて、通り抜けが出来ないという。そのために、本土復帰後、現在の小港道路が整備されたのだろう。
私は昨日も今日も小港道路を自転車で走ったが、扇浦の海岸から頂上まで約600mで80mの高低差を直登する、短いけれども急勾配の峠道だった。しかし2車線道路として十分整備された現在では爽快な道という印象で、まさかその地下に全長500mクラスの長大トンネルを含む“旧道”があろうなどとは、想像外だった。もし例の解説板を見つけなければ、たぶん気付かないまま島を離れ、後から何かで知って血の涙を流しただろう。
全国の軍事国道が全てそうだったのかは分からないが、少なくとも父島の軍事国道は急坂の回避にとても熱心だったようである。
自動車の力を持ってすれば、乗り越すこと自体はそう難しくない峠を越えるために、軍事国道最長クラスのトンネルを用意するほど、勾配を忌避していたように見える。
分岐地点を振り返って撮影した。
見慣れない木々と下草の向こうに、取り残されたようなコンクリートのアーチが見えている。
特30号のここまでの道のりは、起点とみられる交差点を出発してまだわずか200mだが、進路上にあるものは山も谷もことごとく、直進行軍でぶち抜いてきた。
そのように線形的には小港道路よりも遙かに恵まれた道が、旧道、いや、廃道となって眠っている。
この先の隧道が崩れているにしても、技術的に遙かに進歩した現代ならば、新トンネルを整備する選択肢だってあったはず。だがそれをしなかったのは、もはや“こんな大仰な道”を必要とする理由が、平和な父島にはないからだろう。
今の小港方面にあるのは観光地や農地であって、国の存亡を意識させるようなものは、何もないのだから。
軍事国道としての役目はとうに終えたはずの道が、ジャングルの中にしっかりとした轍を刻んで、真っ直ぐに伸びている。
道の右側は赤土が露出した高い素掘りの法面で、左側は連珠谷の暗い谷間になっている。
そ し て … … 、 もう見えている。
“第一報”の時点で崩落が語られていた、2本目の隧道が…!
やはりコンクリートの坑門があるようだ。
これが全長500m級の長い隧道であることは、並行する山越えの小港道路をすでに数回往復している私にとって、土地鑑として理解できるものがあった。この山は案外に高く奥行きがある。反対側の同じ高さの地表へ抜けようとすれば、どうしたってそのくらいの長さが必要になるはずだった。
現在使われている父島のどのトンネルよりも長い隧道が、地図に載ることなく眠り続けていたのである。
14:06 《現在地》
じっくり味わいたいと思っても、道の短さが、それを許さない。
轍が復活した道を150mほど進むと、再び丁字路があって、轍は全て左へ向かっていた。
もちろん、軍事国道は直進して、正面の谷のような切り通しの奥に見えている隧道へ向かうべきなのだ。現代へ甦った特30号の区間は、もう終わりを迎えたのである。
ところで、連珠トンネルの内部はかなり急勾配の上り坂だったが、この地上区間は緩やかな連珠谷の河川勾配に合わせるような緩やかな上り坂だった。
これで分かったことがある。連珠トンネル内で急坂を用いてまで高度を稼いだのは、あそこで稼がないと、トンネル南口と連珠谷の水位の比高を、十分に確保できないからだと。
なお、左折する道だが、地理院地図によると、ここから連珠谷に沿ってさらに上流を目指すものの、わずか100mほど先に終点がある。
ゴールが近いので、ちょっとだけ寄り道することにした。
この小さな寄り道のおかげで、いま通った軍事国道の路肩の下に隠されていた石垣と、小さな暗渠を見ることが出来た。
石垣は隙間をモルタルで充填した丁寧な乱積みで、暗渠はコンクリート製だった。
どちらも相応に古びており、終戦後本土復帰までの20数年はほぼ放置されていたエリアであることも踏まえれば、戦中に軍事国道の一部として建造されたものと判断できよう。
重い軍用車両の通行を想定していたとみられるだけあって、さすがに堅牢そうな構造をしており、実際、全く崩れている様子がない。
14:07 《現在地》
小さな寄り道の終点は、地形図の通り、あっという間に現われた。
戦前は南島の幽玄境としてその名を知られた連樹(珠)谷を堰きとめる、小さなダム。
その名を連珠ダムといい、本土復帰後から間もない昭和45(1970)年に上水専用ダムとして建造された。
貯水量は3900㎥と、本土にあるダムと比べればとても小さい。
しかしこのダムがあるおかげで島民は不便な天水生活から解放され、特30号の一部はジャングルと同化せずに轍を保っていられたのだ。
雨脚がかなり強くなってきたので、2本目の隧道へと急ぐべく、すぐさま引き返した。
14:08 《現在地》
さあ廃隧道だ。
直前の分岐地点から、2本目の隧道へ続く道を覗いているが、
もう道と呼べるような状況ではなくなっている。
排水不良でひどく泥濘んでいるから、樹脂製のパイプの上を歩くしかない。
……つうか、このパイプの存在で、察してしまったんだが……。
あー……。
パイプの存在と、坑口の下半分だけを塞いでいるコンクリートの壁。
やってるなこれ…。
19:09 《現在地》
2本目の隧道の北口へ到着。
この路面状況で、多くの観光客はここまで来ない気もするが、ここにも案内板が立っていた。
書かれている文言は、下にあったものなどと同じで、新規の情報は残念ながらない。
もうこの坑口前のいかにもな状況と、【これ】のせいで、
壁に登ってみるまでもなく、隧道内がどうなっているのか察してしまって、激しく萎えた。
1本目の隧道の南坑門も凄いと思ったが、それ以上の驚愕すべきコンクリートの風化ぶり!
さすがにコンクリート構造物の原形を失いすぎているが、太いアーチ環の痕跡に、
前出坑門との共通点を感じることは可能だ。さすがに扁額などは有無すら検知できない。
短い隧道ならまだしも、この入口の状況で、非常に長いというのは、
本当に絶望しかない。
そこにある脚立らしいものを使って、壁を登った。
壁の高さは、2m以上あった。
高さ2m以上ある壁に、洞内の水の縁は、
なみなみと、満ちていた。
すなわち、洞内水位は入洞後直ちに2m以上である。
何のための貯水であるかとか、立入禁止などということも書かれていないが、単純に
深すぎて突入不可能だ。
そしてやっぱり、洞内は直ちに素掘り。
あ〜んど、風なし、光なし。
「崩れている」と解説板にあったが、それ以前の問題だ。
そして……、まあ…、もう水に入るつもりはないから、これが何でもいいんだが…
無数のドラム缶が、水中の洞床に散乱している。
戦時中の遺構ということで、つい毒ガス兵器関係とかを想像したくなる。
何かの用水としているっぽい水だけに、安全なものではあるのだろうが…。
凄く気持ち悪いことに違いはない……。
洞内の様子。
カメラのフラッシュや照明が光が届く範囲に、目立った崩壊はない。
峠越えの隧道なので、たぶん進んでいけば浅くなるとは思うが……、
1歩目から確実に足が着かない深さなので無理だ。浮き輪とか持ってきてないし。
また、ジャングルの得体の知れない根っこが、ターザンロープのように天井から
大量にぶら下がっているのも、某コングじゃないので活用は不能。
14:13 潔く、撤退を決断。
壁の上から振り返り見る、坑口前の長い切り通し。
一般的な素掘りの法面よりは緩やかな法勾配が取られている。
あまり地質が良くないと判断されていたのかもしれない。
切り通しの向こうまで真っ直ぐ見通せる。
厳密には、1本目の隧道が見通せないくらいの微妙なカーブはあるものの、起点からここまでの約400mがほぼ直線で構成されている。このことが印象的だった。
ところで、この父島一長い隧道には、(解説板に書かれていたように)本当に名前がなかったのだろうか。
大村隧道、清瀬隧道には、扁額に刻まれた立派な名前があったじゃないか。同時代に生まれた特19号の隧道が他にもあるが、どれにも名前はあった。
特30号に属していた2本の隧道だけが、(扁額はあるのに)無名ということが、あるだろうか?
私は、本当は名前があったのではないかと疑っているが、証拠はないし、その名前も分からない。
遊歩道を整備した際、この無名の軍用隧道たちに連珠トンネルという名前を与えたそうだが、2本とも同じ名前というのは説明しづらい。
なので本稿では、遊歩道として通り抜けが可能な1本目を「連珠トンネル」と呼称し(たぶん本来の名前があったなら「扇浦隧道」だと思っているが)、それよりも圧倒的に長い2本目の隧道については、仮称として、「顕峠隧道」と呼びたい。
明治期まで扇村と袋沢村の境であったこの峠には、ちゃんと名前があった。
その名前は、戦前の地形図には出ていたが、連樹谷と同じく、本土復帰後の地図からは消滅した。
上図の赤丸の部分に、峠の名前が書かれている。
「顕レ峠」と。
「レ」は読み方を指示するための文字で、「あらわれとうげ」と読む。超絶に格好いい。
14:19 《現在地》
探索を終え、扇浦の浜辺に戻った。
雨は止むどころか、ますます勢いを増している。
雨具を持ち歩いていない私は濡れつつあるが、宿に戻れば着替えはある。宿のある旅は気軽だ。
そんなことより、顕峠隧道の南口はどうした?
行かないのか?
もちろん、行く。
否、
すでに行っていた。
昨日、“例の案内板”の【地図】に軍用隧道を見た時点で、南側の隧道の南口が書かれていないことが分かった。
遊歩道になっているという、行けばすぐに見つけられそうなものよりも優先して、見つけづらそうなものを探索したいと思った私は、今日のこの探索を行う直前に、南口の探索を行っていた。
遊歩道になる以前の軍事国道の姿が、そこにはあった。
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