12:43 《現在地》
重量制限予告、高さ制限予告、そして全面通行止め予告。
これらの不穏な物に迎えられた麻績村の県道入口から、車で約3kmを走り進むと、この間に舞台は筑北村へ代わり、そして1本目のトンネルの姿が見えてきた。
見るからに新しいトンネルであるが、その傍らには、オブローダーのガンリキを用いるまでもなく、あからさまに旧道の入口が見えていた。
差切峡の県道探索は、この旧道より始めることにしよう。
特に封鎖されているわけでも無いようなので、始まりとしては気楽でよろしい。
手早く車を駐めて、自転車へと乗り換えた。
身の回りを確認し、いざ、探索スタートだ!!
手頃な最初のターゲットは、平成16(2004)年に完成したばかりという、全長205mの差切トンネルに対応する旧道である。
この旧道は長さ400mほどと短いが、地理院地図には旧道の途中に1本の隧道が描かれており、これは「大鑑」に見られる差切1〜6号隧道のうちの1号ないしは6号隧道であろうと予想していた。
既に述べた通り、この旧道は特に封鎖されていない。
やや進んでいくと、その理由が明らかとなった。
路傍の少しばかり眺めの良い場所に、「県立自然公園聖公園 差切峡」と大書きされた立派な標柱や、川原へ下るための階段など、ささやかな観光施設が現れだしたのだ。
観光名所としての差切峡は、この旧道から始まるようだった。
そのために、封鎖を免れていたのである。
しかし、冒頭の「全面通行止め」に大半の人が恐れをなしたのだろう。あの封鎖ぶりでは無理も無いことだ。
お陰で付近に人影はなく、まるで廃道のような静けさの中で、この探索は始まった。
旧道から眺める差切峡の風光。
この辺が核心部なのか、それともまだ序の口なのかは定かでないが、
どちらにしても、さすがは信州で観光地を名乗るに足る景色である。来た時期も良かった。
色づきのやや淡い、未だ生命力を失っていない紅葉を、私の貸し切りに出来るらしい。
この恵まれた色合いの中で今日はどんな“道”が体験できるのだろうかと、私はウキウキした。
12:45 《現在地》
のんびりと自転車を漕いでいくと、入口から250mほどで目当ての隧道が現れたのであるが、近付いてみると、坑門がかなり特徴的な形をしていた。
まず、坑門が坑道の進行方向に対し異常なほど斜行した、いわゆる“スキュー坑門”になっている点。
さらに、坑門上部が出っ張っているデザインも特徴的で、古い意匠の笠石のようでもあるが、おそらくこれは飾り付けではなく、その上に取り付けられている落石防止フェンスと合わせて、坑門への落石を防ぐための工夫なのだろうと思う。
正直、あまり風情があるとは思えぬ、武骨といえば聞こえは良いだろうが、それよりアンバランスさが目立つ、少し不格好な坑門だ。
もっとも、個性が無いありきたりな整った坑門よりは、遙かに興味深く、また私を喜ばせるものだった。
そして、この隧道が私をさらに喜ばせたのは、取り付けられた控えめな扁額の奇妙さであった。
それは、私がぜひとも解き明かしたくなる“小さな秘密”の存在を、シッポ半分だけ見せていた。
まず、先ほど私はこの隧道が現れる前に、その名前を差切1号ないしは6号隧道であろうと予言した。
それは、「大鑑」に差切と名の付く隧道が6本記録されていたから、最初に現れる隧道は1号か6号であるべきだと考えた故であったが、現実に現れたのは、そのどちらでもない、「差切5号隧道」というものだったのだ。
さらに、いまこの扁額が嵌め込まれている窪みには、以前はもっと横に長い、別の扁額が取り付けられていたような形跡が見られた。
これらの事柄から予測されるのは、この隧道はかつて「大鑑」が編纂された昭和40年頃には、確かに差切6号隧道であったが、その後に隧道の数がひとつ減って、そのために5号隧道に改名されたのだろうという、推測である。
この推測が正しかるべきことは、このあとの探索において実証的に確認されるのだが、「大鑑」に記録された6号隧道と5号隧道のデータを比較することでも、同じ結論を導くことが可能である。
すなわち、「大鑑」には6号隧道が27m、5号隧道が13mという長さを記録されているなかで、この5号を名乗る隧道は、明らかに13mでは利かない、その倍と思える程度の長さを有しているのである。
…また、私の悪い癖が出たようだ。結構どうでも良いことを随分語ってしまった…。
私が現地で扁額の謎解きをひとしきり想像して楽しんでいる最中も、チラリチラリと目に入るこっちが、実はとても気になっていた。
←これ旧道だよね!! 鼻息ブホホッ!
最早オブローダーのみならず全人類の共通意識でもあるところの、「トンネル脇の小径に旧道を疑うべし!」なる原理が、私がはじめて体験する差切峡にも通用するのかと思うと、胸が熱くなる。
そしてこの“旧道”は、実を言うと予想外のものではなくて、あるべくしてあるものを見つけたに過ぎないとも感じた。
その理由は、私が本編の冒頭で紹介したように、新旧の地形図を予め比較していたからである。
昭和27年版地形図の通りであるならば、今いるこの場所には、隧道を介さない道もあったはずなのである。
というわけで、5号隧道へは入らず、脇の崖縁を伝う小径へ進路を取る。
この道は、現在の差切トンネルから見れば旧々道と目されるが、思いのほかに道幅があった。
さらに道は平坦でもあり、これは明らかに車道らしかった。
私が大好きな“明治廃道”を思わせる、朴訥でありながらも厳格な、そういう空気が感じられた。(なぜ明治車道を愛しているかは説明しないが、このレポートを最後まで読めば、共感していただけると思う)
そしてこれこそ、私が今回の探索で最も期待していた存在だった。
この探索のきっかけは、冒頭でも紹介したように、新旧の地形図の比較である。
昭和28(1953)年竣工の隧道たちのいくつかには、より古い旧道や、さらには旧隧道の存在さえ疑わせる兆候があった。
そこには、論理的に説明しがたい経験則的な部分もあるが、単なる地形図の表記ぶれや、表記の不正確性からくる誤差ではないと思える予感のようなものがあった。
今ここでおきたことは、そんな予感の的中である。
また始まったばかりだが、とりあえず一度的中した。
だからこそ、この発見は、偶然の発見なんかよりも、遙かに意中の嬉しさがあった。
とはいえ、私のこの“盛り上がり”は、客観的に見たら些か過剰だろう。
まだこれが明治の車道と断言出来るような証拠品が現れたわけでは無いし、冒険の末に勝ち取った廃道でもなく、ここを通れば誰でも気づくものである。
岩角の小径には、藪も倒木もなく、とても歩きやすかった。
そして、隧道の代わりに設けられた切り通しには、古ぼけたベンチまで置かれていた。
この小径は、差切峡を探勝する遊歩道の一部として、程よく整備されていた。
客観的に見れば、これはただの「遊歩道」かもしれない(きっとそう)。
それでも私は、確かな手応えを感じたのだ。
この先の隧道にも、同じように旧道が現れるなら…。
そして、今日の差切峡の賑わいは、おそらく全ての旧道を余さず活用するほどではない。
険しき故に、打ち棄てられた旧道も、あるのではないか…。
私の探検を求める気持ちは、早くも次の隧道での試行を欲していた。
全長205mの差切トンネルの旧道にある、全長27mの差切5号隧道の旧道(=旧々道)である。
そういうものが長いはずはなく、小さな切り通しを抜けると、あっという間に旧道が迎えにきた。
その奥の方には、既に現道も見えだしている。
差切5号隧道に合流し、すぐ差切トンネルとも合流。
こんなに手軽に巡ることが出来る旧道&旧々道というのは、あまりないかも知れない。
ちなみに、5号隧道のこちら側(西口)には扁額が無かった。
スキューもしていないが、しかし無個性とは思われない。なんか、坑門に対して坑口が大きいという、妙なアンバランスさが印象的だった。
これでは、地圧を支える力は弱そうだが、土被りの小ささからして、それでも事足りたのだろう。
或いは、観光客の機嫌取りで、「素掘ではない」というアピール程度の目的で作られた坑門かも知れないとも思ったが、さすがにそれは言いすぎか。
12:51 《現在地》
差切トンネルの先には、トンネル前までののどかな集落とは打って変わった、起伏の激しい峡谷の眺めが広がっていた。
旧道を探索してきた私にとっては、この変化も唐突ではなかったが、ただ1本のトンネルだけでこの変化に直面する現道ユーザーには、それなりの驚きもあるだろうと思う。
そんな場面の転換を背景に現れた、地上3階建築物が目を惹く。
こちらは鳥立鉱泉という名前の温泉宿だった。
建物の道向かいには、古くなさそうな句碑が立ち、「差切」という名の路線バス停留所もここにある。
これらの周到な配置や前方の景観からして、差切峡の核心部はここから始まり、約1km先の「重」集落までであろうと思う。
残る数本の隧道が、果たしてどんなものなのか、期待は高まるばかりだ。
バス停前で2度目の警告。
思わずビクビクしてしまうが、まだここが封鎖というわけではない。
これは、今日の差切峡を私の貸し切りにしてくれた、そんな功労者の姿である。