道路レポート 長野県道55号大町麻績インター千曲線 差切峡 第2回

公開日 2015.09.25
探索日 2014.10.28
所在地 長野県麻績村〜筑北村〜生坂村

失われた5号隧道跡地と、「たん」


2014/10/28 12:52 《現在地》

差切バス停から100mほど進むと、路傍の渓谷はいよいよ深さを増し、対岸の切り立ち方も半端なくなってきた。
またおそらく、対岸からこちらを眺めたとしても、同じように険しい場所にこの道は切り開かれているのだろう。
道幅は1.5車線で、大型車のすれ違いは不可能。
そこに切り立った法面に張り付くような見通しの悪いカーブが次々現れてくる。
まさに“険道”であるが、それだけに、ハンドル捌きを駆使して自ら風景に切り込んでいくようなライブ感の強い景観は爽快だった。
この先の全面通行止めさえなかったら、今日だってもう少し多くの車が紅葉のドライブを楽しんでいただろう。

そうしているうちに、さっそく次のチェックポイントが見えてきた。



上の写真にも見えているさほど大きくもない切り通し、近付いてみるとこのようになっている(→)。

現在はこのようにただの切り通しでしかないが、おそらくこの地点には、遅くとも昭和40年代初頭まで、「大鑑」に記載された「差切5号隧道」があったと思われる。


ここを隧道跡地と考える根拠は、昭和27(1952)年の地形図(←)で、ここに短い隧道が描かれているからだ。

「大鑑」では昭和28(1953)年の竣工となっているが、それ以前からここに隧道が存在していたとみられる。
だが、この隧道は1〜6号の中でも最短の13mしかなく、そのためにさっさと取り壊されてしまったのだろう。
取り壊しの時期も不明だが、そうして5号隧道が失われた際に、前回紹介した隧道を6号から5号へと改名したと考えている。(このようにわざわざ改名するのは、結構珍しいと思う。大概は道路改良の過程で番号が抜けても、構われずにそのままにされている。)




独り逝ってしまった隧道に思いを残しつつ、先へと進む。

間もなく道は直角に近いカーブで山手に折れて、麻績川に注ぐ小さな谷川を一時の伴走者とする。
だがその期間は非常に短く、目の届く範囲で谷川を跨ぎ、180度屈折して再び本流沿いに戻ってくる。
谷川の向こうに目を向けると、一段低い所に次の隧道と、その隧道を圧するようにそそり立つ、天突く巨巌が遠望された。
早くも渓谷の険しさは、最高潮を迎えようとしている様子がある。

それにしても、この谷川を越える部分の地形にあまり逆らわない迂回の線形は、いかにも古い時代の車道っぽい。
いずれ、差切トンネルの新道を伸ばすようにして大々的に改築される日が来たら、真っ先に棄てられてしまいそうな“ワル線形”だ。




小さな谷川を渡る地点にある、その名も「大曲橋」より眺める、来た道・行く道の共演。
両の道に微妙な落差が付いている辺りなど、なかなかに面白い風景だ。

線形は古びているが、橋自体は意外に新しく、銘板には昭和63(1988)年竣工とあった。
きっと先代の橋もあったのだろうが、今は痕跡は見あたらなかった。




大曲橋は、一風変わった道路の眺めだけでなく、小気味の良い滝の眺めも楽しめるスポットだった。
橋の傍らには、「大滝八たん」と書かれた看板が立っている。
真面目な場面でいきなり気の抜ける平仮名交じりの地名に、ちょっと吹きだしてしまったが、この「八たん」の「たん」は、びんちょうタンとかの「たん」ではなくて、漢字にすれば「潭(たん)」と書くものと思い当たる。
「潭」とは、水を深く湛えた淵のことで、おそらく明治以降大いに流行った漢風の名付けと思われる。
山や渓の風光を名付けるにあたって、何よりも漢風の名が尊ばれた時代が、我が国にはかなり長くあった。



これが、大曲橋から見下ろす「大滝八潭(たん)」の眺めだ。

手の届きそうな所にあるささやかな連瀑で、歓声を上げるほどのスケールではないが、
小滝と小淵を連ねる眺めは、まさに八潭という名付けに相応しいものがあった。
せっかくに良い名前なのだから、「たん」なんて意味の通じにくい書き方はやめたら良いのにと思った。





差切4号隧道と、その脇にあるもの


12:55 《現在地》 

さきほどから谷川の向こうに見えていた隧道が目前に迫った。
ここまで近付いてしまうとむしろ分かりにくいが、隧道が貫いている岩山は非常に高峻なもので、差切峡の代表的な景観かと思われるほどだ。
そして隧道は、この貴重な岩山を容赦なく貫いている。

通算2本目となる隧道は、素掘にコンクリートを吹き付けた野性的な姿だが、坑口部分には頑丈そうな短い洞門が付属しており、巨大な岩山からの予期せぬ落石に対する、唯一の護りとなっている。




洞門の入口に、「差切4号隧道」と書かれた扁額が取り付けられていた。

この洞門が昭和28年の竣工当時からのものかは分からないが、先に見た5号隧道の扁額と比較することで、一つの面白い事実に気付く。
この4号隧道の扁額は、6枚のタイル状のプレートに、各1文字ずつ文字入れされているのに対して、5号隧道の銘板は、1枚の横長の銘板に6文字が入れられていた。
そして、なぜか扁額の右側に余地を埋め戻したような形跡があった。

ここまで情報が揃えば、私が何を言いたいかも、もうお分かりだろう。
もともとは今の5号隧道には、この4号隧道と同じような、6枚のプレートからなる「差切6号隧道」の扁額が収められていた。
それが今の名前に改名される時に、形の異なる扁額が取り付けられ、そのために扁額を収める窪みに余地が生じてしまったのに違いないのだ。

こんなことは、道を利用する上では何の役にも立たない枝葉末節と我ながら思うが、「道路上の違和感にはたいてい納得のいく原因がある!」というのは私の持論であり、それは道路趣味のやり甲斐を担保する重要な美点だと思うので、敢えてこのことを書くのに文字数を惜しまないことにした。



さて今度の差切4号隧道であるが、昭和27年の地形図では、ここには隧道ではなく、代わりに橋の記号が描かれている。

ということは、前出の5号隧道がそうであったように、ここにも隧道を介さない旧道が期待される状況ということになる。

私としても、是非ともあって欲しかった旧道だが、実際はどうだったのかというと…。




ここにも隧道脇から崖沿いに延びる小径を発見!!

この場所は、看板によると「ドの渕」というらしいが、これまた変な平仮名片仮名交じりの地名で、その由来は分からない。
しかし、この隧道にもまた旧道らしい小径がある。
私の期待は、ここでも再び叶うのか。



本当に橋があった!

昭和27年の地形図に橋が書き込まれている地点には、今もちゃんと橋が架かっていた。

明らかに遊歩道用の人道橋で、前後の道幅に対して狭すぎて、往時のものではあり得ないが、地形はほとんど変化していないだろう。

そして、この人道橋の上から見下ろす眺めが「ドの渕」というのだろう。
なるほど、ここでは麻績盆地の全ての雨水を集めた麻績川が、わずか一跨ぎの狭潭に流れ込み、周囲の釣鐘のような岩場にどどどと大音響を巡らせている。
人道橋はさほど興奮を誘わないが、シチュエーションは文句なく良い。
往時はここに短くとも怖ろしげな木橋の架かっていたに違いないのだ。

そしてなお素晴らしいのは、この橋に続いて現れた、まるでオブローダーの理想を絵に描いたような“片洞門”の景である。
こんなものまで出て来てしまえば、これはもう遊歩道と侮っている場合ではない。



久々に見事な片洞門を見た気がする。
この短い旧道は、僅か33mの隧道を掘れば迂回できた岩場にある。
道が切り開かれる前の地形は、人の立つ場所などこれっぽっちもない、完全な崖であったと思われる。
こんな岩場に道を手作業で切り開く困難を思えば、最初から隧道を掘った方が楽だったのではないかと思ってしまうが、それは今日のトンネル時代に毒された、甘ったれた考えなのだろう。

こうした苦労の結晶が、旧道になった後も廃止を免れ、遊歩道として命脈を保っていることは、本来は喜ぶべきだが、同時に「惜しい」と感じてしまうのは、オブローダーの性だ。
ここが廃道だったら、3倍は興奮しただろうな…。




片洞門の旧道から、対岸に向かって鉄の吊り橋が架かっている。
写真は、この遊歩道である吊り橋から振り返り見る片洞門と前出の人道橋だ。

遊歩道としてはお誂え向きな岩場のスリル・ロードだが、これを雨の日も雪の日も昼夜も問わずに通わねばならなかった昔人は、やはり全てが頑丈だったのだろうと思う。




33mの差切4号隧道に対応する旧道は、長さ60mほどである。
見所はあったが、僅かな時間で再び県道に戻ってきた。

そしてはじめて目にする4号隧道の西口は、何と素掘のままであった。
しかも本当の素掘で、コンクリートの吹き付けなどもなされていない。
内部はさすがに吹き付けられているが、外壁は完全な素掘。
こうした素掘の隧道は、林道ならばいざ知らず、県道、それも主要地方道としては非常に珍しいものであることを、当サイトの常連さんはうっかり忘れているかもしれないが、一応言っておく。



ところでこの4号隧道の西口には、ちょっと不思議なものがある。

素掘の坑口を取り囲むようにして、幅30cmほどの窪みが左右に刻まれている。また、それらを結ぶように上部にも凹みがある。
これらの窪みの正体については、ふたつの説が想像された。

第一は、雨だれが無造作に流れて交通の妨げになることを防ぐための水除けの溝である。
もっと言えば、雨と言うよりは、氷柱防止ではないかと私は考えた。
この辺りは内陸性の気候なので、冬場はかなり寒冷の度合いが厳しく、積雪もある。(ちなみに、こんな“険道”だが、冬季は除雪されるようだ)

第二は些か夢見がちな想像で、隧道を一回り大きな断面へ改築する工事を始める直前になって、それを中止した名残という説だ。
とはいえ、この説は妄想の度合いが強い。
やはり、正解は第一の説だと思うが、素掘隧道を数多く見てきた私をして、あまりこういう溝が掘られているのを目にしないので、貴重なものといえるのではないだろうか。





“お宝”な銘板を発見!


4号隧道の先も、1.5車線の見通し悪い絶壁の道である。
法面も路肩も常に切り立っており、風景は相変わらず美しいが、自動車を駐めて観賞する場所は無い。
また、歩行者のための遊歩道が他にあるわけでもなく、この県道だけが辛うじて天然の神に通行を許されているという雰囲気だ。
色づいた紅葉も、ここではなんとなく長閑ではない。

飾り気のない小ぶりな橋が現れた。
ガードレールよりも低い欄干は、長い年月の間で、路面のアスファルト舗装を繰り返し更新してきた結果だろうか。せっかくの銘板の文字も路面に近すぎて下の方が埋もれつつあるが、まだ読み取れた。
曰く、橋名は千尋(ちひろ)橋。竣工年は、昭和27(1952)年とある。
一連の隧道群と同時に建設されたものだろう。
先代の橋もあったはずだが、同位置更新であったようで、痕跡は見あたらない。

千尋とは、「千尋(せんじん)の谷」などという言葉があることからも分かるとおり、古い長さの単位で、1尋は6尺(約1.8m)(時代によっては5尺)を指す。深い峡谷を見下ろす橋の名としては、この上なく似つかわしいものだろう。




もう見飽きるくらい見てきたが、それでも見つけると無視出来ずに必ず撮影してしまう、定番のアイテム。
「注意 CAUTION」 の道路標識を発見。
この道の風景には、こいつがとても似合う。標識柱もろとも錆び付いて、何が書かれていたのかまるで判読出来なくなった補助標識も、良い味だ。

今さら説明不要かも知れないが、このレポートではじめて目にするという読者さんも少しは居るだろうから、簡単な説明を。
これは、昭和25(1950)年3月から昭和46(1971)年11月まで制式されていた、「注意」という道路標識である。
昭和46年11月に、現行の「その他の危険」という、いわゆるビックリマークの道路標識に置き換えられるまで、全国各地に設置されていたので、様々な旧制標識(現在のデザインと異なる標識)の中では、白看(白色をベースとした案内標識)と並んで多く残っており、旧制標識収集の入門的アイテムといえる。
ちなみに、これと非常に似たデザインで、上位互換とも言える「危険 DANGER」と書かれた、その名も「危険」の標識は、昭和25年から38年までと設置期間が短いので、「注意」と違ってレア度が高い。




うひょー!!

凄まじい大岩を背負って3号隧道が現れたッ!

これは見るからに「あちぃ」場面!!血圧上昇! よくこんな所に道を作ったな!
現代ならばこういう風景の良いところに、新たに道を作るなんて横暴は許されないっぽい。
これまで差切峡で目にした中では、一番に立派な大岩の基部を、隧道は堂々と貫通している。
私が道贔屓だからこういう感想になるのかも知れないが、人為と自然の高度な渾然一体を見るようだった!



13:02 《現在地》
今日一番の「あちぃ」場面を前に、見逃せない前座も用意されていた。

隧道の直前にある、先ほどよりも一回り以上大きな橋。
この橋を境にして、同じ東筑摩郡のなかでも、村が変わる。
これまでは筑北村(旧坂北村)で、橋の向こう、巨大な岩峰から始まるのは、生坂村である。
町や村の境というだけで少なからず興奮を覚えるのは、旅する人の宿命だと思う。(村と村の境というのも、平成の大合併以降は本当に少なくなってしまった)

そしてこの村境を流れる川が冷沢で、橋の名前もそのまま「冷沢橋」という。
銘板に刻まれた竣工年は、昭和35(1960)年1月とあるから、前出の千尋橋より少し新しく、向こうに見える3号隧道よりなお新しい。

ところで、親柱に掲げられた4枚の銘板のうちの1枚に、ちょっと面白い誤記(?)があったので紹介したい(↓)。



ここに書かれている文字を、お読みいただきたい。

「府県道中島大町線」

親柱に路線名が書かれているのは、全国的に見れば結構珍しい。
これには地域的濃淡があり、お隣の新潟県では都道府県道以上の道に架かる橋の場合、高確率で路線名が書かれているが、他の地域ではあまり見られないものである。
そして、「中島大町線」という路線名は、昭和43(1968)年発行の「大鑑」にあったのと同じ、現在の路線名とは違う旧称である。

以上のような事柄は、この銘板から読み取れる有意義な情報なのだが、私が特に面白いと思ったのは、ここに「府県道」と書かれていることである。
これまた些細な話になるが、府県道(正確には府縣道)というのは、大正8年から昭和27年まで施行されていた旧道路法にあった名称だ。
旧道路法では、国道、府縣道、市道、町村道などといった道路の分類がなされていた。
それが昭和27(1952)年施行の新しい(現行の)道路法では、府縣道から都道府県道へと名称が変更されているわけで、結論から言うと、昭和35年竣工の橋の路線名銘板に「府縣道」と書かれているのは、誤りなのである。(ちなみに、県道中島大町線の路線認定は昭和34年)

思うに、この銘板を鋳造した当時の人々には、まだ府縣道という古い呼び名が受け継がれていて、そのためにうっかり間違ったものと思われる。
とても地味ではあるが、道路法制の移り変わりを肌に感じさせる、珍しい「ミス」である。



冷沢橋には、まだネタがある。
現在の橋の上に立って冷沢の上流を見ると、そこには旧道の石垣や橋台、そしてさらに別の橋台などが見えるのだ。

昭和35(1960)年に現在の橋が架けられるまでの旧県道は、この場所にも不便な迂回を持っていたようだ。


しかし、この前時代的な石積みの橋台が、本当に昭和35年まで使われていたのであろうか。
正直、疑わしいといわざるを得ない。それほどまでに、橋台は古びて見えた。
石材は全て空積みで、コンクリートは全く使われていない。
そして、橋の周囲も対岸の路盤も、完全に自然に還ってしまっていた。
或いは、旧橋も今の橋と同じ位置にあって、この橋台は“旧旧橋”なのかもしれない。

明治車道との関わりという私の期待を肯う、なんとも古色蒼然たる道路遺構だった。



それに較べ、さらに上流にあるもう一つの橋台は、だいぶ新しい時代のものだった。

見ての通り全面的にコンクリート造りである。
しかし木橋であったようで、完全に落橋しているため、対岸へ向かうには、いちいち河床まで降りて徒渉しなければならない。

この橋は、県道とは無関係のものである、廃道に違いは無い。
偶然見つけたこの廃道を探索したい気持ちはあったが、地図を見る限り、沢沿いに1kmほど登って行き止まる林道のようなので、今回は深追いしなかった。




複数の廃橋台が見られる冷沢の拡大地図は、左の通りである。

村境付近の極めて険悪な地形を、複雑に入り組んだ等高線の模様が物語っている。
麻績川沿いの車道が通じる以前、この冷沢という場所は本当に辿りつきがたい、人跡未踏にも等しいような土地だった気がする。
山村の境界とは、得てしてそういう場所だったりするものだ。

ちなみに、橋の銘板は、この村境の沢の名を「冷沢」としており、本稿もそれに倣ったが、地形図では「彼岸沢」と注記している。




さて、それでは後半戦。生坂村の旅を始めよう。

この道とその旧道が本当に私を燃え上がらせたのは、

こ こ か ら だ っ た !