道路レポート 愛知県道505号渋川鳳来線 八昇峠旧道(巣山坂) 机上調査編

所在地 愛知県新城市
探索日 2018.3.25
公開日 2019.6.20

名前も知らない状態から始まった机上調査


1.歴代地形図調査

まずはいつものように、歴代地形図の順繰りチェックから。

@
明治32(1899)年
A
大正6(1917)年
B
昭和26(1951)年
C
昭和41(1966)年
D
地理院地図(現在)

右に掲載した「@明治32(1899)年」版から最新の「D地理院地図」まで5世代の地形図を、ぐるぐる回しながら比較して見て欲しい。

今回探索した細川〜巣山間の峠道に関して、これらの地形図から読み取れるのは、概ね次のような情報である。

@明治32年からA大正6年の間に、従来の古道に変わる道(=今回探索した旧道)が開削され、それがB昭和26年版にも引き継がれている。
C昭和41年版では、現県道ルートが新たに登場し、旧道は@のルートに逆戻りしている。(=5号橋が落ちて通行不能になっていた?)

上記は道の位置(線形)だけを見たが、道自体の記号的な描かれ方にも着目すると――
 @A=里道(連路)
 B=県道
 C=幅員2.5m〜5.5mの道
 D=徒歩道
――という変遷を遂げている。


なお、@に描かれている古道が、Dの徒歩道と同じものであるかについては、正直判断が難しい。

というのも、現地探索では右図に赤線で示したような2ルートの“古道らしき道”を見つけているが、上記@の道は東側尾根の道に近いように見えるし、上記CDの道は西側尾根の道に近いように見えるということで、統一されていない。
ただ、古い5万分の1地形図では、このくらいの誤差をよく見るので、地形図からの判断は難しいと感じる。
私が古道探索者であれば、この点をこそ詳らかにすべきだろうが、そうではないので妥協を許されたい。
(私見としては、石仏があった東側尾根の道がより古道っぽい気はする。西側尾根の道は、やはり古くからある電信線の保守道じゃないかと推測)

話が古道に脱線したが、今回の主題はAとBの時代に主役を張っていた“旧道”である。
私は現地探索中に、道幅の広大さや、勾配のキツいところが多いことを根拠としたうえで、「馬車や荷車のためではなく、自動車道として初めから整備されたものではないか」という読みをしたが、 これは正解ではない可能性が高くなった。
Aの時代に、いきなり自動車道を作ったとは考えづらいからだ。

廃止された時点の旧道が、自動車が通行可能なレベルに整備されていたことは、疑いがない。
そしてそのルートが、大正時代までに切り開かれたものであることを、地形図は教えている。

これらの事象を総合すると、「大正時代までに整備された近代車道を、拡幅や橋梁のコンクリート化などを行うことで現代車道化したものが現在の旧道」ということになる。
明治時代に整備された馬車道をベースに、昭和初期に自動車道化が行われるというのは、有名な万世大路の例を引き合いに出すまでもなく、よくあることだった。本路線も同様の経緯をたどったのではないかという推測が可能である。
この道の勾配の厳しさは人力や畜力には厳しかったと思うが、「古道よりはマシだ」と耐えたのだ。 きっと。

次は、文献調査だ。




2.巣山には大いに栄えた時代があった

今回、文献調査を開始して真っ先に判明したことは、細川と巣山の間にあるこの山道が、近世以前には、いわゆる“街道”と呼ばれるような重要な道の一部だったということだ。
土地鑑のない私は、巣山がそのような土地柄であることを全く予期しなかったし、現地でもそれを伺わせる発見には恵まれなかった。
だが、例えば「新城ふるさと倶楽部事務局」が運営する同名の地域情報サイトにある記事「古道を巡る 秋葉街道鳳来寺道参詣道 〜江戸時代道中記〜」には、このような記述がある。

御油と掛川を結ぶ山岳道、秋葉街道は全長27里(約100km)の信仰街道でもあった。
(中略)
三州(三河)巣山宿は、山越えで汗を絞った旅人がホッと息をつける平地にひらけている。
秋葉道の中では門谷と巣山は旅籠の完備した観光地である。
日の残った頃に着いた旅人は山の神、荒神様、行者様、水神様、お諏訪様、氏神様、十王堂、観音堂を巡って金竜山高福寺の阿弥陀如来に参詣する頃、ちょうど日が暮れ時で宿屋に入るという物見遊山ののんびり旅を楽しんだ。中には茶店もかねて名物の酒饅頭、おこわ飯、地酒や料理に舌づつみを打ったという。夏の暑気払いに阿寺七滝まで足を延ばすのもここからの道であった。繁盛した宿屋の裏に履き捨てた草鞋が山となっていたという語り伝えが残っている。
巣山宿を出ると四十四曲り大難所と語り継がれた急坂が待っている。
下り切ると細川村六郎貝津村と長い在所を抜け、小さな峠を越えると大野宿に入る。
近在の生活物資が集まる大野は、商工入り交じった天領の商都として大いに栄えた。
「新城ふるさと倶楽部」より

ここに書かれている「四十四曲り大難所と語り継がれた急坂」は、今回の机上調査で最初に知った峠の名らしいものである。固有名詞とはちょっと違う気もするが。

ともかく、江戸時代の巣山が宿場として栄えていたことが書かれている。
道の名は、秋葉街道とか秋葉道といい、御油から掛川まで約100kmを、東海道から外れて結ぶ、山岳道、信仰の道であったと。

右図は、『定本 静岡県の街道』にある地図をもとに作成した、三遠(三河と遠江)地域における江戸時代の主要街道である。
街道好きには常識だろうが、当時この地方で最も多くの道が集中した土地は秋葉山である。この山を中心に四通八達の「秋葉道」が存在した。
今回探索した巣山を通る古道も、そうした秋葉道の一つであったが、別の大きな要素も帯びていたらしい。

それは、この道が秋葉山と鳳来寺山を最短で結ぶものであったことだ。
近世の鳳来寺山には東照宮が置かれ、幕府の篤い庇護を受けていた。そして、この地方では秋葉山に次いで多くの参拝者を集めた。
秋葉山と鳳来寺山を巡り、さらに豊川稲荷を詣でる、まさに参詣旅行……物見遊山を含む……のスーパーゴールデンコースに、巣山の地は当っていたのである。

さらに、宮本常一の『山の道(旅の民俗と歴史8)』には、この道の裏の顔を窺わせる、こんな記述がある。
大井川中流の川根から山を越えて入る道などもあった。この川根からの道をたどって秋葉、鳳来寺を経由して御油に出ると大井川の渡しや新居の関所、姫街道の気賀の関所などを避けることができるので、後暗いところのある無宿者や浪人などが利用することが多かったといわれている。秋葉・鳳来寺道もそういう点では関所をさける裏街道だった」。


私の当初の予想に反して、実は江戸時代には大いに栄えていたらしいこの鳳来寺秋葉山道
それだけに……
  ・高山彦九郎 『甲午春旅』 (安永3(1774)年)   ・司馬江漢 『西遊日記』 (天明8(1788)年)
  ・三井清野 『道中日記』 (文化14(1817)年)   ・野田泉光院 『江戸旅日記』 ( 同上 )
  ・小田宅子 『東路日記』 (天保12(1841)年)

などなど、当時書かれた様々な旅行記に、巣山を通行した記録が登場しており、参考になる。
後ほどいくつか引用したいとも思うが、これには問題もあって、当たり前だが、どこにも私が探索した旧道は登場しない!!

江戸時代の記録だからね……仕方ないね。
でも、私が求める記録は、この時代のものではない。明治以降に記録が欲しいんだ!




3.明治・大正期の記録を探す


『愛知県下三河国八名郡地誌略』表紙

国会図書館デジタルライブラリーを頼りに、明治・大正期の文献を探したところ、まずはこの1冊が目についた。
明治14(1881)年に書かれた、『愛知県下三河国八名郡地誌略』だ。
これは先ほど見た歴代地形図では@より古い時期のものであり、“古道”時代の話だが、近代をどのように迎えたのかを知る手掛かりになるはずだ。

巣山村は、大野村の東方にあり、細川村四十四曲坂〔或は巣山坂と云う〕の嶮路を経て遠江の秋葉山に達する駅次なり、此道を秋葉街道と云う
『愛知県下三河国八名郡地誌略』より

記述量は僅かだが、巣山が依然として秋葉街道の駅次(宿場)であったと分かる。
そして、やはり細川と巣山の間は「四十四曲坂」という険路であったことが出ていて、全体の記述量に占める割合を考えても、その存在が特筆すべきものであったと伺えるのだ。
なお、今回のレポートのタイトルに括弧書きで入れた「巣山坂」は、この文献から採ったものだった。地名が入っていて分かり易いと思ったので。ただし、今のところこの文献以外で見たことはない。




『八名郡誌』表紙

続いては、だいぶ時代を下って、大正15(1926)年に編まれた『八名郡誌』を見てみよう。
先ほどの歴代地形図でいえば、AとBの間であり、巣山坂には今回探索した旧道が既にお目見えしているはず。
この道路改良に関する記録が載っている可能性があるし、むしろ、載っていろ!!


『八名郡誌』より「愛知県八名郡地図」

(→)
まずは、同書に掲載されていた「八名郡地図」を見てみると、この道がちゃんと描かれていた(矢印の位置)。大雑把な表現なので、線形はまるであてにならないが、とりあえずこの当時「県道」には認定されていなかったことが描かれ方から分かる。

続いて本文を見よう。
この時代の郡誌にしては、道路に関する記述に多くのページが割かれており、期待ができそうだった。


本郡は細長くて之を縦に貫く道路という程の道路はなく僅かに宝飯設楽の二郡より遠州に通る横断道路数条あったのみであるその第一は本坂街道(一名姫街道)……
『八名郡誌』より

という書き出しで、細長い郡内を東西に貫く横断道路の列挙が、南から始まるのである。そしてこの最後に、郡の最北部を横断する我らが秋葉街道が登場するのだ!

第六は、秋葉街道であってこれは当国鳳来寺薬師と遠州秋葉山三尺坊とをつなぐ信心道者の通路で大野・細川・巣山を経て遠州へでるものであるが巣山と細川との間には名を聞いただけでもおぢ気のたつ四十四曲坂がある
『八名郡誌』より

ちょっ! 途中ですが、ちょっといいですかねぇ。 「名を聞いただけで怖じ気がたつ」って、ちょっと盛りすぎだろ!!(笑) いくらなんでもさ、名前を聞いただけで怖じけるって、どんな地名だよ、「四十四曲坂」。

――四十四曲坂がある。馬もろくろく通えぬ難道であったが笠著て草鞋はいた道者の通行はなかなかに繁く、巣山には之が為に旅籠屋が檐(のき)を列べてあったものだが明治維新後鳳来寺・秋葉寺共に衰微した為に巣山は大いにさびれた。しかし今もなお昔の名残りが僅かに見られる。昔巣山の宿屋の盛んなことは大野などの企て及ぶ所でなかった。この道が今の県道大野二俣線の前身である。
『八名郡誌』より

おおおっ! 最後にしれっと重要そうな情報が!
先ほどの「郡地図」では県道のようには描かれていなかった秋葉街道だが、本文にははっきりと、「県道大野二俣線の前身である」と書かれている。
本書が出版された大正15(1926)年といえば、旧道路法が施行された6年後であり、旧法時代に早々と県道の座を射止めていたとなれば、なるほど確かに、当時とても重要視されていた道だというのが伝わってくるな!

『八名郡誌』の道路に関する記述はまだ続く。
次は、道路制度の変遷に伴って郡内の主要道路がどう改廃されたかが解説されている。
我らが秋葉街道に関する記述は、明治9(1876)年の太政官達で道路が国道・県道・里道(各一等・二等・三等)に分かたれたという一般情報の後に、次のように出てくる。

この時郡内の一等里道は、秋葉街道・浜松街道・奥山街道・宇利街道・中山街道・多米街道・新城街道等であったようだが、二等三等は更に分からぬ。
『八名郡誌』より

このように、秋葉街道は一等里道の筆頭に列記されている。
なおこのとき、郡内でより上級の道は、本坂街道と別所街道が三等県道になったが、郡内に国道はなかった。

そして実際の整備も、県道から始められた。
まずは明治14年から22年にかけて、別所街道の全線が馬車が通行できるよう整備され、続いて明治28年に宇利街道が車道化、31年に初めて里道から県道へ昇格したという。本坂街道も大正4年に県境のトンネルが開通し面目を一新した。これらがこの時代の主な改良工事として挙げられているもので、秋葉街道に関する記述はない。

そして大正9(1920)年4月1日、太政官達による道路制度は終わりを告げ、本格的な道路法(旧道路法)が施行されたのであるが、この時点で県道に認定されたのは従来の県道+1本の4路線で、秋葉街道は入らなかった。だが、県道に次ぐポストとして新設された「郡道」に、先ほど列記した一等里道の多くを引き継いだ16路線の1本として認定されている。
その路線名が、郡道大野渋川線だ。

この起点と終点は、現在の八昇峠を通る一般県道505号渋川鳳来線と、順序は逆だが位置はほぼ一致している。すなわちここに、鳳来寺山と秋葉山を結ぶ信仰の道から離れた、小さく県境を跨ぐだけのローカル路線と化した現県道の原形を見ることが出来る。

そして郡道には、郡費による改築を優先的に受ける機会が巡ってきた。
我らが郡道大野渋川線の改築工事は、大正10年度と11年度にわたって、大々的に行われた行われた記録が残っており、内訳は……

路線名総工費延長幅員
大野渋川線6800円00銭521.4間(948m)13尺(3.9m)
大野渋川線21569円50銭2637.2間(4795m)12尺(3.6m)
『八名郡誌』より

……となっていて、わずか2年の間に、5.7kmほどの区間を幅3.6m以上へ改築したことが分かる。
この路線の郡内延長は、おそらく10km程度であったはずで、その半分以上が一挙に「車道化」したとすれば、その本気度も伺えよう。
(しかも大正10年11年度ともに、他の郡道を圧倒する工事規模であった)

ただし、先の歴代地形図調査では、A大正6(1917)年の時点で、既に巣山坂の道は古道から旧道へと切り替わっていた。
したがって、この大正10年と11年度の工事は、巣山坂を対象としていたものではない可能性がある。
しかし、個別の箇所名は不明ながら、明治41年度から大正11年度まで毎年郡内町村の道路工事に郡費補助が行われていた記録があり(上記工事もそれに含まれる)、この中で巣山坂の改良が行われたものと考えている。
旧道路法によって郡道が制度化される以前から、郡費を以て補助する里道(郡費支弁里道)という制度を独自に敷く郡が多くあり、八名郡もそれをしていた形跡があるのだ。

このように郡内の道路整備に大きな役割を果した郡道だったが、その終焉は意外に早くやってきた。
大正12(1923)年4月1日をもって全国の郡制が廃止され、郡の名称は明治11年以前のように単なる地名的なものへと逆戻りしたのである。
郡費という概念も消滅し、旧道路法とともに誕生した郡道も、全線廃止の憂き目を見た。
この際、旧郡道の処遇が問題となり、県道に昇格するものと、町村道に降格するものに分けられたのだが……

大正12年4月1日をもって、我らが郡道大野渋川線は――

県道大野二俣線に昇格!!

この二俣というのは、現在の浜松市天竜区二俣町のことである。現県道の終点である浜松市北区引佐町渋川からは20km以上も離れている。渋川から先の県道がどのようなルートで認定されていたのかを知りたかったが、渋川側を管轄する引佐郡の『引佐郡誌』は大正11(1922)年に刊行されたもので、県道昇格以前(郡道時代)の記述しかなかった。

しかし、確かに大正11年当時、郡道渋川大野線は静岡県側にも認定されていて、郡内延長1.03里(約4km)全幅2間(3.6m)という、車道らしい道であったことが判明した。
渋川〜二俣間についてはいくつかのルートが考えられたが、最短距離にあたるのは、右図に青線で示した、渋川から都田川沿いを下って宮口に出て二俣へ至るルートであり、当時の渋川〜宮口間には郡道渋川都田停車場線と郡道伊平宮口線の認定があったことから、これらをまとめたルートが翌年に県道大野二俣線へ昇格したと想定している。
これを現在の道路に当てはめると、1本の国道と2本の県道をリレーするコースである。

実に実りの多かった『八名郡誌』の記述は、郡制が廃止されたここまでである。
同書によって判明したことをまとめると、巣山坂は大正9年以前には里道三等秋葉街道、同年から大正12年までは郡道大野渋川線、大正12年以降は県道大野二俣線として、利用されていた。
巣山坂の改良は、明治41年度から大正11年度までの期間内に郡費を以て行われたものと考えられるが、明確な記述はなかった。




『秋風帖』表紙

あと一歩足りない感じだが、ここでより実地的な体験を述べた強力な助っ人の登場である。
民俗学の大家・柳田国男が残した名著の一つ『秋風帖(峠好きにはよく知られた「峠に關する二三の考察」を収録している本だ)に、その名も「巣山越え」という一編が収録されている。

同書の初版は昭和7(1932)年刊行だが、「巣山越え」を含む大半の初出は、大正9年11月から東京朝日新聞に連載された一連の紀行記事である。
したがって、その内容は大正9(1920)年の事情を述べていると考えていい。

彼は、浜松から岡崎を経由して多治見へ至るこの旅の序盤で、かつての秋葉道・鳳来寺道をなぞるように、熊村(くま、くんま、現在の浜松市天竜区熊)から県境を越えて巣山へ入り、巣山坂を下って大野に抜けている。巣山から大野までの記述を抜粋しながら拾ってみよう。

遠江と三河とを繋ぐこの峠を、秋葉路と謂うかはた鳳来寺路と呼んで居るかは、来て見るまで自分に推測が出来なかった。が兎も角も二州の二大尊の間に、通路を求めるとすれば即ちこれで、しかも夙(つと)に信仰以前から存在したらしい山路である。
(中略)
もう一つ曲れば巣山の村である。広々とよく稔った田が有るために、平地に出たような感じがするが四十八曲りの険を降るに及んで、初めて二階の上であったことを覚えるのだ。(中略)今の道はとにかく毎年の秋葉参りが付けたと言ってよい。こんな山村でも宿屋が二軒あった。(中略)一晩に三百人もの泊りが有って、家の者は土問に夏の涼台を持込み、その上に寝ることも珍らしくは無かったが、もう夢のようだと土地の人が言っている。
四十八曲りは巣山の方からは殆ど平路である。荷馬車を通すと言って、これをSの字を押潰したような七曲り位に改修して、元の通路はところどころ毀(こわ)れたが、それでも婆様までが新道は通らず、前の前の百何十曲りかを真直に、姥が瀧(たき)となって下って行く。下ってしまえば細川の村だ。
『秋風帖』より

「姥が瀧となって下って行く」wwwww っ婆さんが滝みたいに下る道を想像して笑ってしまった。当地の婆さん元気すぎだろ!

というのはさておき、重要情報目白押しである。
まず、この旅行が行われた大正9(1920)年の時点で、既に巣山坂の付け替えが行われていたことがはっきりした。
その描写からいっても、今回探索した旧道を柳田国男も歩いたに違いない。
そして、それ以前の古道も1本ではなく2本あったようだ。前の道を「四十八曲り」、前の前の道を「百何十曲り・姥が瀧」と表現している。
巣山に一晩で300人もの泊まりがあったというほど往来の多かった峠道ならば、徒歩交通の時代、上りと下り、あるいは女坂と男坂のような形で、自然と道が多重化されていた可能性もあるだろう。



4.昭和の記録は多くない?

明治・大正期までの流れはだいたい分かったから、次は昭和史。
巣山坂が自動車道としてさらなる改良を受け、現在の姿となった核心の経緯を語りたいところなのだが、これが非常に情報不足でして、ほとんど分かっていないのが現状だ。
この道、どうにも江戸時代が全盛期で、明治・大正まではその栄華の名残で語られもしたが、現代に入るといよいよ、より整備された多くの道の影に隠れて、整備はされても、あまり語られない地味な存在になってしまったようである。

そんなわけで、様々な資料から断片的情報を集めることになった。
まずは、昭和29(1954)年に刊行された雑誌『地質調査所月報』に見つけた、次の記述。


『地質調査所月報 第5巻第12号』より
  愛知県七郷村巣山に見出された蝋石鉱床

5万分の1地質図幅三河大野の調査に関連して、愛知県八名郡七郷村巣山の北北東に蝋石が賦存するのに気付いた。(中略) 巣山は国鉄飯田線の三河大野駅の東方数kmにあり(第1図参照)、この間に2つの自動車道があるが、常設の交通機関はない。道路のうち、細川を経由するものは巣山の西に急坂があってやや不良であるので、貨物自動車の通行ニは阿寺を迂回する道路の方が良い。(以下略)
『地質調査所月報 第5巻第12号』(1954年)より

右は一緒に掲載されていた地図である。
この地質調査が行われた昭和28(1953)年3月当時、大野と巣山の間には2本の自動車道があり、細川経由(=巣山坂)は「やや不良」であったことが書かれている。

県道昇格から30年余りが経過した、冒頭の歴代地形図ではBにあたるこの時代、巣山坂は自動車が通行可能な状況であった、つまり現状の通り、拡幅や橋梁のコンクリート化といった改良が既に済んでいたことが伺える。
だが、この道より阿寺経由の迂回ルート(現在の県道442号鳳来佐久間線)の方が道路状況が良好だったことや、いずれの道にも路線バスのような常設交通機関がなかったことも書かれている。

巣山坂の自動車道化改良が昭和前半期に行われたことがより濃厚になったが、そのことに直接言及した資料は未発見である。


なお、県道大野二俣線の誕生を促した旧道路法は、昭和27(1952)年に改正され現行の道路法となり、これを契機に、新しい認定基準を参照した都道府県の認定が全国的に進められた。だがこの認定には多くの都道府県でタイムラグがあり、昭和30年頃までは旧法時代の県道をそのまま引き継いでいる県は少なくなかったようだ。
会計検査院のサイトに掲載されている、昭和33年度の「公共事業に対する国庫負担金等の経理当を得ないもの」に、次のような記述を発見した。


会計検査院サイトより

金額など細かい内容はさておき、私が言及したいのは、昭和33(1958)年時点でも県道大野二俣線が愛知県によって認定されていたという単純な事実である。
これがいつ現行の県道渋川鳳来線になったかについては、一次資料を見てはいないが、ウィキペディアの「静岡県道298号・愛知県道505号渋川鳳来線」に、昭和47(1972)年5月4日認定と書かれていた。

大野二俣線という、全長40km前後はあったと思われる長大な県道が、全長17kmほどの県境部だけの短い路線へ縮小されたのは、当時既に広域的な越県道路としての利用実態が乏しくなっていたからだろうか。かつて年間数万人は往来していたと思われる三遠二大社寺間の参詣道の栄光を、現在の短い県道から想像することはほとんど不可能である。

また、この県道の縮小化が行われる前の昭和30年代後半という時期には、巣山坂が現行の八昇峠ルートへ大規模に換線されたことも判明している。
このことは、C昭和41(1966)年地形図(→)の表記や、現地調査で見た【新橋】の銘板にある竣工年が昭和39年であったことなどから、明らかだ。

これは巣山坂の近代史上における二度目の大規模換線であり、時期的にも多くの記録が残っていそうだが、残念ながらそれらは未発見だ。
単純に考えれば、県道大野二俣線の改築事業として、愛知県が主導して進めたものであるのだろう。

長年利用してきた巣山坂を放棄する大規模な換線が、この時期に行われた経緯は謎に包まれている。またその新道に八昇峠という、なぜか地形図には載らなかった印象深い地名が付けられたことも印象的で、その発祥も気になるところだ。なんとなく、大物政治家が関わっていそうな匂いもするが…。
これらについて、何か判明したら追記したい。

■追記■  県道の改修記念碑が存在した

岡崎市にお住まいの道星遊之介氏より、右の「県道改修記念之碑」の画像を頂いた。

碑の所在地はここ。私がレポート第1回で折り返した新旧道分岐地点(新橋)から、1.4kmほど県道を大野方向へ進んだ、細川バス停そばにある細川会館(公民館)敷地である。
私は探索中ここを通らなかったので、存在を全く把握していなかったし、驚いた。
豊橋市にお住まいの空(くう)ちゃん氏からも同じ碑の画像をお送り頂きました。お二人ともありがとうございました!

碑の表面は、達筆な文字で、「県道改修記念之碑」とだけ大きく刻まれている。
裏面にも碑文があり、内容は以下の通りだ。

県道六郎沢鳳来線
細川巣山地内改良工事
総工費 壱億貳千万円余(国費及県費)
    内承認工事(地元負担)910米
延長 6218米
   (細川日影橋〜巣山中央交点)
幅員 5米〜5.5米
着工 昭和28年10月
竣工 昭和39年3月


キタキタキタキター!

まずこの碑は、八昇峠の開通を記念したものである。このことは、一番最後に書かれている竣工年から明らかだ。
「新橋」の銘板にあった昭和39年の年こそが、八昇峠ルート全体の開通年であったのだ。
これは意外な内容ではないが、確定情報としては初めて明かされた。

着工年が、昭和28年と古いことには驚いた。
私がものの10分ほどで駆け下ってしまった峠道だが、11年の歳月を要した難工事の賜物だった。
この古さは、巣山坂の旧道が、早い段階で自動車道の限界を露呈していたことを窺わせるものだ。
そして、その抜本的対策としての大規模新道開削が、戦後の混乱の中にあって着実に立案され、着工に漕ぎ着けている事実からは、計画を推進した人々の高い組織力や実行力が伺えるようにも思う。

3行目の総工費欄には括弧書きで「国費及び県費」とあるので、県道として当然な県費だけでなく、国庫補助の適用も受けているのだ。補助率は不明だが、国を動かすほどの政治力が働いたのか。
ただ残念なことに、この碑のどこにも関わった人の名はみられない。
それが道路の無記名性に通じる、ある種美徳のなせる技だったとしても、手掛かりはここで途絶えてしまった。

もう一つ、この碑文から得られた重要な新情報がある。
1行目でさらっと出てくる県道名「県道六郎沢鳳来線」は、これまでの情報になかったものだ!
これまで把握していた路線名の変遷は、

  1. 明治9年〜大正9年  里道三等 秋葉街道
  2. 大正9年〜大正12年  郡道 大野渋川線
  3. 大正12年〜昭和47年  県道 大野二俣線
  4. 昭和47年〜現在  県道 渋川鳳来線

上記の4世代だったが、3.と4.の間に、県道 六郎沢鳳来線の時代があったことが判明したわけだ。

それでは、この路線はいつ認定され、どことどこを結んでいたのか。
路線名を手掛かりに調べてみると、「我が道を行く」にて公開されている昭和42年度の静岡県一般県道のデータに、路線名を見つけることが出来た。
しかし、昭和48年度版からは、現行の渋川鳳来線が代わりに登場している。

前掲した会計監査院の情報により、昭和33年度にはまだ旧道路法時代を受け継いだ県道大野二俣線が認定されていたことが分かる。この頃、八昇峠の新道工事が盛んに行われていた。八昇峠が開通した昭和39年3月の時点では、路線名は県道六郎沢鳳来線となっていた。だが、これも長くは続かず、前掲したウィキの情報にあるとおり、昭和47年に再び改訂され、現行の県道渋川鳳来線が登場している。

  1. 明治9年〜大正9年  里道三等 秋葉街道
  2. 大正9年〜大正12年  郡道 大野渋川線
  3. 大正12年〜(昭和33〜39年のどこか)  県道 大野二俣線
  4. (昭和33〜39年のどこか)〜昭和47年  県道 六郎沢鳳来線
  5. 昭和47年〜現在  県道 渋川鳳来線

まとめると、路線名の変遷は、上記の赤字のように修正されることになる。10年刻みほどの矢継ぎ早な変更が2度、行われていたのである。

さらに追記したいことがある。
この路線名の変更は、単なる路線名の変更ということ以上の情報を示唆しているように思えてならない。
なぜなら、六郎沢という地名は、従来私が想定していた県道大野二俣線の経路上にはなかった。

六郎沢を地図上で探すと、ここに見つかった。静岡県浜松市天竜区神沢に六郎沢集落があった。現在の県道渋川鳳来線の起点である浜松市北区引佐町渋川からは、東へ山を一つ越えたところである。

このことから私は、県道渋川鳳来線の前身である、大正12年認定の県道大野二俣線もやはり、この六郎沢を径路としていた可能性を強く疑った。それは従来想定していた宮口経由ではない、右図のようなルートである。
そして、伊豆半島北部の道路研究氏(Twitter:@s9vVAUZYchdQehdからご提供頂いた情報によって、これは確信となった。

ご教示頂いた静岡県報によると、大正12年4月1日に県道『二俣大野線』(愛知県側資料と路線名が逆であるが、本稿では「大野二俣線」に統一した)が認定されており、その経由地として、「上阿多古村」の名が記載されていたのである。

これで従来確定情報がなく推測に頼っていた県道大野二俣線のルートが確定したが、この新たに判明した県道ルート上では、昭和28年に大きなニュースがあった。
この県道の二俣〜上阿多古〜六郎沢間は、昭和28(1953)年5月18日になんと、国道へ昇格している!
チェンジ後の画像を見て欲しいが、昭和28年に初めて指定された当時の二級国道国道152号は、現在の国道152号と大きく異なり、熊を経由するルートで浜松と飯田の間を結んでいたのである。
昭和33〜39年のどこかで、この国道との重複区間を県道から除外する目的もあって、大野二俣線を六郎沢鳳来線へ改訂したと考えると辻褄が合う。

だが、昭和45年に国道152号のルートは突如変更されて、現行のような天竜川沿いになった。
このとき、国道の旧ルートは、県道天竜東栄線(主要地方道)へ降格されている。
そして2年後の昭和47年に県道六郎沢鳳来線(一般県道)は県道渋川鳳来線(一般県道)に短縮され、除外された区間は新たに県道六郎沢引佐線(主要地方道)として認定された。

このような、国道と県道が絡み合う複雑なルート変遷の末に、一時は隣県の国道(151号と152号)を短絡する“重要そうなポスト”にあった道が、次第に山間部の集落を結ぶローカルな立場に追いやられたようだ。だが、八昇峠における大規模な新道工事は、この道が“重要そうなポスト”にあった時代のものであることは間違いない。

やはり道路は、地域愛がしのぎを削る、生き馬の目を抜く競争社会を生きている……!

しかし、渋川鳳来線は必ずしも競争の敗者ではないだろう。
なにせ平成の時代に入ってから、新東名高速と中央自動車道を結ぶという偉大な使命を持つ自動車専用道路(そして国道474号でもある)「三遠南信自動車道」が、巣山の直下をトンネルで抜いて三遠国境を連絡しているのだ。この地に刻まれた峠の地の利が、存分に活かされている。
もっとも、その利用者の誰一人、頭上にある巣山や巣山坂や八昇峠を想像し得ない点に、大いなる慎ましさがあるが……。


2019/6/23 追記


さて、ここにもう一つ、巣山坂の昭和史を彩るトピックがある。
それはあの旧道の特徴である、幅の広さ(特にカーブ部)やコンクリート橋(木橋もあったが…)など、大型車の走行を想定していると思われる道路構造と深い関わりを持ったトピックだ。

かつてあの旧道を、二俣と大野を結ぶ国鉄バスが運行していた可能性がある。

国鉄バスは、その名の通り国鉄によるバス事業であるが、営業できる路線は国鉄の鉄道路線と関わりのあるものに限られていた。
具体的には、鉄道予定線の先行、鉄道線の代行、鉄道線の培養、鉄道線の短絡といった目的を持った路線でのみ営業できた。

右図が、国鉄バス遠三(えんみ)線と呼ばれていた、その運行径路だ。
国鉄二俣線(現天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線)の遠江二俣駅(現天竜二俣駅)と、国鉄飯田線の三河大野駅の間、おおよそ40kmを結んでいた。
この起点と終点は、県道大野二俣線そのもので、径路も県道をそのままなぞっていた可能性が高い。←これは否定された。

国鉄は二俣大野間に鉄道の敷設計画を持っており、これは「鉄道予定線の先行」の目的を有するバス路線だった。
大正11(1922)年4月11日に公布・施行された鉄道敷設法の別表として、国が建設すべき「建設予定線」が掲げられたが、そこに次の内容があった。右の地図に照らしながら地名を見て欲しい。

第63号
静岡県掛川ヨリ二俣、愛知県大野、静岡県浦川、愛知県武節ヲ経テ岐阜県大井ニ至ル鉄道 及大野付近ヨリ分岐シテ愛知県長篠ニ至ル鉄道 並ニ浦川付近ヨリ分岐シテ静岡県佐久間ニ至ル鉄道
『鉄道敷設法 別表』(1922年)より

冒頭に二俣〜大野間が登場している。
最終的には現在の岐阜県恵那市までを結ぼうとする全長150kmに及ぶ長大な計画線で、遠江と美濃を結ぶことから遠美(えんび)線と呼ばれた。
二俣線の掛川〜天竜二俣間や、飯田線の本長篠〜浦川間、岐阜県側の明知線(現明知鉄道明知線)全線などが、この長大な路線の一部をなすが、全線開業にはほど遠い状態で国鉄解体に至り、計画は破棄されている。
二俣〜大野間に関しても、具体的な鉄道建設に向けた測量が行われた記録は未見であり、あくまでも計画段階に留まったようだが、遠い将来の鉄道開業を見据えて、国鉄バス遠三線は運行されていたのだろう。

あんみつ坊主の国鉄バス資料室内「天竜線・西天竜線」に、この路線に関する多くの情報が掲載されており、現役時代の貴重な写真や、経由地が分かる乗車券の画像等を見ることが出来た。
掲載されていた昭和60(1985)年当時の時刻表によると――

遠江二俣駅前を朝9:08に出発したバスは、渋川へ10:14に着く、そこから県境の峠を越えて愛知県に入り、巣山には10:37に着いた。次の停車地は七滝口10:44で、八昇峠ではなく、阿寺川沿いのルートで山を下っていた。終点の三河大野へは11:04に着き、飯田線上り三河大野発11:07に連絡していた。
反対方向は、三河大野発9:00で、やはり阿寺川ルートで巣山へ上り、二俣着は10:59であった。
県境を跨いで二俣〜大野間を走りきるのはこの1往復だけで、大野〜巣山間の区間運転が合わせて6本あった。しかし八昇峠経由は2本(1往復)だけで、阿寺川ルートが主力であったことが分かる。八昇峠の麓にある細川地区などは、現在の方がまだバスの本数に恵まれている。(国鉄バス以外の運行があったかは不明)

以上は、巣山坂の旧道ではなく八昇峠開通以降の内容だが、ウィキペディア「三河大野駅」の記事に、昭和30(1955)年に国鉄バス遠三線が開通したとあるから、旧道時代にも何往復かは巣山坂経由のバスがあったのではないか。
そうであって欲しいな。
え? 怪しい? 
確かに、全部のバスが阿寺経由であったという可能性も否定できないが……。

■追記■  国鉄バスは巣山坂旧道を通らなかった

不毛企画の「1985・夏 国鉄バスネットワークの記録 中部地方自動車局」に、国鉄バス西天竜線(遠三線を含む)の改廃の経過が詳しく述べられていることを、読者さまに教えていただいた。

同サイトによると、遠三線の宮口〜三河大野間の開業は確かに昭和30(1955)年であるようだ。
だが、巣山〜大野間の径路は、右図の通り、阿寺ルートであった。
そして昭和32(1957)年に大野〜細川間が開業し、この区間の往復運転が開始されたが、巣山坂がある細川〜巣山間の延伸開業は、昭和41(1966)年まで待たねばならなかったという。

昭和41年には既に、巣山坂の旧道に代わって八昇峠が開通しており、旧道を国鉄バスが通行したことはないと結論づけられる。
やはり、阿寺ルートに較べて整備状況が不良であったために、バスの通行には耐えなかったのだろう。
少し残念な気もするが、これが答えだった。


2019/6/23 追記

なお、国鉄バス遠三線は、国鉄民営化後にJRバスへ引き継がれたが、平成14(2002)年9月についに廃止され、現在は新城市によるコミュニティバスの運行が行われている。




5.平成、巣山坂旧道は市道として

巣山坂旧道の廃道と化した現状は現地レポートでお伝えしたとおりであるが、第3回で公開した、橋台に書かれたチョークの文字を写した写真(→)に対する、慧眼ある読者さまのコメントによって、この道が現在の行政によってどのような管理を受けているかの一端を知ることが出来た。

橋台に書かれた「L=1700 W=4.0」は、橋梁点検時にコンクリートにひび割れを見つけた際に記入したものだと思います。(ひび割れ幅4mm、長さ1.7mの意味)
H26年以降に各管内全ての橋の点検を行っており、ここで危険と判定されたものは通行止となります。
→(PDF)
読者様コメント31980

リンクされたPDFは、平成31(2019)年3月に新城市建設部土木課が公開した新城橋梁個別施設計画で、その内容は、市が管理者になっている市内にある橋長2m以上の橋(合計695橋)の全数点検結果と、対策の一覧である。
平成24年(2012)年12月に発生した中央自動車道笹子トンネル天井板落下事故を受けて、平成26年7月に、全ての道路管理者は近接目視による道路施設の定期点検を5年に1度行うことが義務付けられた。(これは先日紹介したミニレポート:東名千福橋の内容とも関係する)


で、この話の流れから予想が付いたと思うが、ここに旧道の橋たちが登場していたのである。


新城橋梁個別施設計画(2019年)より(一部作者加工)

1号橋

2号橋

3号橋

4号橋

5号橋

6号橋(落橋)

7号橋

私が現地で確認した旧道上の橋は7本。
このうち、1本目から5本目までの橋が、資料には掲載されていた。

残念ながら架設年は記載がなかったが、ここが現在も市道巣山線に認定されていることや、各橋の橋長と幅員を知ることが出来たのは大きな収穫だ。それに、橋の名前も判明した。まあ、予想通りの番号だけネームだったが、公式ということに価値がある。麓側から番号が振られているのも興味深い。橋の長さは、1〜5号まで全て長さ3mて統一されていたらしい。なのに幅はずいぶんと差があった。中でも狭い5号橋は、明らかに“木材での拡幅”を無視した数字である。あんなものは橋の一部じゃないと判断されたんだろうな(苦笑)。幅2.4mでは、大型車だとギリギリだろうから、拡幅したくなる気持ちが分かるな。そして、落橋している6号橋と、長さが2mに満たなさそうな7号橋は、掲載されていなかった。


新城橋梁個別施設計画(2019年)より

新城市の職員が、平成29年という最近に現地を訪れて各橋を近接目視で点検していたのである。
そして、1〜4号橋までには「判定区分II」を、5号橋には「判定区分IV」を下している。

右図の通り、「判定区分IV」はワーストで、緊急処置を要するものとされている。その結果が、現状のバリケードによる封鎖だったのだろう。逆にいえば、1〜4号橋はまだまだ市道として現役を張れると判断されているわけで、頼もしい限り。

なお、検査対象の695橋のうち、「判定区分IV」を受けたのは本橋だけであった。
次は平成34年…じゃなくて令和4年にも検査が行われる予定なので、新城市役所の職員さま、廃道探索おつかれさまです!!
現在も旧道が市道に認定されていることは、5号橋のバリケードを見た時点で予想できたが、途中に橋があるせいで、5年に1度の目視検査を行うことが義務づけられるとは、平成27年からの現行制度の弱小道路管理者に対する厳しさよ。当然行政コストは増大するわけで、今後はより現実的な意味からも、こうした利用実態に乏しい市町村道の認定解除が増えるのではないかと心配になった。(むしろそうあるべきなのかもしれないが…)


平成時代の巣山坂に関して収集した情報は、以上である。



余稿. 巣山坂は何十何坂?

最後に、今回の長い机上調査を行う中で気になった、しかし余り重要ではなさそうなことについて、オマケの項を設けたい。


文献タイトル著者名通行年 or 【出版年】巣山坂に関する記述の引用 (下線は筆者による)
甲午春旅高山彦九郎安永3(1774)年是より下りすゝ山と言在所也、坂有きわめて難所也、かめわりかしの木坂四十四まかり、石ひろい坂爰に石地蔵有、坂を下りほそ川村
西遊日記司馬江漢天明8(1788)年巣山へ一里、カウレ峠、また座頭転、四十四曲坂を下り、三河、遠州堺の峠一里半、五十丁一里にして大難所なり
道中日記三井清野文化14(1817)年それより巣山まで一里半、この所恐い名物あり、それより四十七曲がりなどというて、山坂すさまじく、大野という所の茶屋に参り
愛知県下三河国八名郡地誌略伊勢留吉
本田清七
【明治14(1881)年】巣山村は、大野村の東方にあり、細川村四十四曲坂〔或は巣山坂と云う〕の嶮路を経て遠江の秋葉山に達する駅次なり、此道を秋葉街道と云う
秋風帖柳田国男大正9(1920)年巣山の村である。広々とよく稔った田が有るために、平地に出たような感じがするが四十八曲りの険を降るに及んで、初めて二階の上であったことを覚えるのだ 
(中略) 荷馬車を通すと言って、これをSの字を押潰したような七曲り位に改修して、元の通路はところどころ毀れたが、それでも婆様までが新道は通らず、前の前の百何十曲りかを真直に、姥が瀧となって下って行く。下ってしまえば細川の村だ。
八名郡誌愛知県八名郡【大正15(1926)年】巣山と細川との間には名を聞いただけでもおぢ気のたつ四十四曲坂がある

「44曲がり」が多いが、「47曲がり」や「48曲がり」もあるのは、どうして?

このことを、カーブの数が時期によって違っていたことを反映しているのだ! ……と、真に受けるのはおそらく正しくあるまい。
(柳田国男の文だけは、道路改良によってカーブが減ったことを表わす意図で書かれていると思うが)

いわゆる九十九折りという言葉に象徴されるように、曲がりの数の多いことを表現したのが、この●●曲りという名のもとであろう。
岡山と鳥取の境にある四十曲峠、長野県千曲市と麻績村の境の四十八曲峠、愛媛と高知の境の九十九曲峠、あるいは秋田県や宮崎県などの各地にある七曲峠もこうした命名だったように思われるし、峠でなくても岩手県の北上川に四十四田ダムがある。
地名が固定化される大きな原因となる地図がひろく普及していない時代には、こうした地名は、呼び手による名前の変化が起こりやすかったものと思われる。
この地に関しては、採っている文献の多さを重視すれば、「四十四曲がり」が元来のものっぽいが果たして。


■追記■  巣山坂古道の詳しい地図を発見

旧鳳来町が平成15(2003)年に刊行した『鳳来町誌 交通史編』に、巣山坂の新情報を発見した。
同書はこの道を鳳来寺秋葉道と名付けたうえで詳細に解説しており、細川から巣山までの区間については、次のように述べている。
一緒に掲載されていた地図(→)を見ながら読んで欲しい。


『鳳来町誌 交通史編』より
人家がつきると巣山坂にかかる。始めは沢沿いに緩上りだが、沢と離れる地点(沢の奥には不動の祠があり今も祀られている。)から急坂になる。
巣山坂は大正12年、車馬が通れる幅に改修されたが、傾斜を緩めるためにつづら折りとなり、四十四曲がりと呼ばれた。昭和34年、さらに緩やかな新道が建設され、秋葉道も四十四曲がりの道も使われなくなり、とくに秋葉道は判別も困難な道になってしまった。痕跡と野仏と山道と、わずかな聞き取りによったのが次の図である。
『鳳来町誌 交通史編』より

現地調査と聞き取り調査によって得られたというこの記述だが、私がこれまで調べたこととは少し矛盾する部分がある。
たとえば、巣山坂が車馬が通れる幅へ改修された(=「旧道」開通)年を大正12年と書いているが、大正6年の地形図に既に描かれていることと矛盾しており、大正12年は県道の認定を受けた年である。
また、昭和34年に「新道」が開通したとあり、これは八昇峠のことであろうが、細川にある「県道改修記念之碑」に「昭和39年3月竣工」とあることと矛盾する。

しかし、図上には「秋葉道」と別の「脇道」も描かれていて、この2本が隣り合う尾根を利用して巣山を目指すという古道の全貌は、私の現地調査で断片的にしか判明しなかったものであって、重要な新情報である。
私が歩いていない秋葉道区間について、街道好きの人のチャレンジ報告をお待ちしている。まだ見ていない祠もあるようだ。


2019/6/23 追記


小さな峠の小さな探索、確かにその通りだったが、机上調査を進める最中は、どこまでも裾野が広がっていくのを感じて興奮した。
高名な紀行者たちの旅日記や、柳田国男が出て来た辺りでまず興奮、その後の鉄道敷設法との絡みが最高潮だった。
信仰が交通の主流ではなくなった近代以降、時代は間違いなく、この道に逆風を与えてきたはず。
そんな逆境の中、遠ざかろうとする過去の栄光をつなぎ止めようとする郷土人たちの愛着が、何度も繰り返された改良という形で、顕れたのではなかったか。
長く愛された道に相応しい鷹揚な美しさが、廃道となったいまも、巣山坂には濃厚に漂っていた。