今回紹介する廃道は、現役時代に自転車で通行したことがあるばかりか、レポートもしているという、「山行が」史上において希有なケースである。
オブローダーとしての活動歴が長くなれば、自然とこの手の廃道が出てくると思っていたが、サイト公開から17年目にしていよいよの登場だ。
“以前のレポート”とは、9年前の平成20(2008)年2月に探索および公開した「静岡県道416号静岡焼津線 大崩海岸」である。その第1回後半から第2回前半にかけて、今回紹介する区間を現道としてレポートしている。
その中では「陸と海の鬩(せめ)ぎ合いの合戦場」という表現や、「ギコギコ」という独特の擬音でもって、険しい地形条件と折り合いをつけながら頑張る古い道の姿を紹介した。
大崩という地名の通り、過去にも大きな崩壊を繰り返し、通行人に犠牲を強いることもあった険しい海岸の斜面が、数十年ぶりに道への反旗を翻したのは、私の探索から5年半後の2013年10月15日のことであった。
道の崩落を伝える第一報を当時の地元紙「静岡新聞」のネット版から拾ってみよう。
〔台風26号〕焼津・大崩の県道、全面通行止めに(10/16 12:33)
県は16日、焼津市浜当目の県道静岡焼津線(旧国道150号)で、 道路の沈下を確認したと発表した。台風26号で地盤が緩んだためとみられ、県は現場を中心に静岡市駿河区石部までの1・2キロを全面通行止めにした。復旧 のめどは立っていない。現場は大崩海岸沿いを走る県道で、同市の当目トンネルから北約200メートルの地点。県道路保全課によると、長さ50メートル、幅 6メートルにわたり約40センチの深さで沈んでいた。15日夜、焼津署からの通報で同課が確認した。
当目隧道の北約200m地点の道路が長さ50m、幅6mにわたって、約40cmの深さで沈下したことが確認されたことから、現場付近の1.2km(たけのこ岩トンネル北口〜当目隧道南口)が全面通行止めとなった。沈下の原因は、その後の調査で、台風26号の集中豪雨が引き起こした山崩れと断定された。(なお、この台風では伊豆大島で大きな土石流が発生し、多数の犠牲者が出た)
封鎖された県道では通行再開への努力が行われ、最終的には今年2017年3月10日、浜当目(はまとうめ)トンネルを含む新道の開通によって、静岡県道416号静岡焼津線は4年ぶりに全線が復旧した。
その影で、昭和9(1934)年の開通以来働いてきた道は、被災後一度も通行再開されることなく、そのまま「廃道」となったのだった。
2017/6/17 16:20 《現在地》
私がこの廃道を訪れたのは、新道の開通から3ヶ月後の2017年6月17日夕刻だ。
近くに車を停めて自転車に跨がった私は、9年前の探索とは逆方向に進んでいた。
この現在地は、「たけのこ岩トンネル」の南口(振り返って撮影)であり、この辺りまでは9年前の景色と大きく変わったところはなかったように思う。
海上にそそり立つ奇妙な「たけのこ岩」も、健在だった。
「たけのこ岩トンネル」を後に焼津方向へ進み始めると、最初のカーブに差し掛かる前に、早くも大きな変化が起きていることに気づいた。
9年前には影も形もなかったトンネルが、出来上がっていたのである。
あれが3ヶ月前に開通したばかりという浜当目トンネルなのだろう。
現代の電子化が進んだ「地理院地図」は、新しい道の開通当日には既に書き換えが済んでいる場合も珍しくない。このトンネルもそうである。
おかげで私は「どこまでが廃止区間なのか」という探索上の重要な情報を既に入手出来ていた。本当にありがたいテクノロジーの進歩である。
今回探索する廃道区間は、大体ここに見えている海岸線で全てである。
こうして遠目に眺めただけでも、一筋の道が海崖をダイナミックに横断していて、それが周囲の斜面に多くの手を加えていることが見て取れた。
そしてこういう土木力による克地形的風景こそ、私の知る大崩海岸の代表的景観であったのだ。
それだけに、この先の肝心の道がもう使われていないという現実を飲み込むのには抵抗があった。
しかし手元の地理院地図は、酷薄な現実を教えている。
この風景のトンネルよりも奥に見える海岸線の道は、全て廃道であるという現実を。
そして、実際の風景もまた…
これは、酷いことになっている…!
4年ものあいだ、県道が通行止めになっていたことは決して大げさな措置ではなかったのだと頷ける。
“道路の陥没”が起きたという話を聞いていたが、現状は明らかに陥没だけでは済んでいない。道は欠落している。
数年でここまで進んでしまうような崩壊は、初期に陥没が肉眼で確認できた時点で、もう手の施しようなどなかったのかもしれない。
80年間使ってきた海岸線の道路を放棄するという決断は、そう簡単なものではなかったと思うが、それだけの理由があったと見るべきだろう。
現代に起きた道路崩壊としては久々に見る規模の大きさ。そんなものを数百メートル先の進路上に見届ける私は、武者震いをしていた。
果たして、通り抜けは出来るのだろうか?
16:23 《現在地》
浜当目トンネル北口である。
9年前には影も形もなかった立派なトンネルが出来上がっていた。
ただし、9年前のここは特に印象的な場面ではなかったようで、残念ながら写真は撮っていなかった。
浜当目トンネルは、災害復旧のために急造されたトンネルらしく、黒御影の扁額以外には特に装飾要素を持たない坑門だった。
建造銘板の内容にも、特に不審な点はない。
全長905mのトンネルに対応する今回探索すべき旧道の長さは950mほどで、距離短縮効果はほとんどない。
ただ危険な陸上か、安全な地中かの違いである。
トンネルがあったら脇を見よ。
そんなオブローダーの第一格言どおりの立地で、誰が見ても明らかにそれと分かる旧道が分岐している。
全く見慣れた、見飽きたほどのシチュエーションだが、今回が私にとって少しだけ特別なのは、この旧道が現役だった時代に通行し、それをレポートしていたということである。
旧道へ進入開始。
入口から余裕で見えていた、封鎖ゲートに到着。
封鎖されていることは予想していたが、特筆すべきことのない簡素な封鎖である。
現代に発生した道路崩壊という物々しさは、ここまで漏洩してきていない印象だ。
金網のフェンスゲートが道幅いっぱいを塞いでおり、施錠もされている。
特に通行止めの理由や期間を記したものはなく、恒久的な封鎖(廃道)であることを伺わせる。
背後の現道は車通りが結構多いので、人目も気になるところである。
最大限スピーディにわるにゃんをし、自転車と共にゲートの奥へと進んだ。
上の写真の奥に見えるカーブミラーの近くに、こんなものがあるのを見つけた。
「チョー危険!」
道路管理者が設置する標示物に若者言葉といわれる「超」を用いた「超急カーブ」や「超危険」といった表現をとることは、2010年代になって全国的に広まった慣習であり、古いものではない。
2008年の探索時にはこれを見た覚えがないので、当時はなかった可能性もある。
しかし、漢字の「超」ならまだしも、カタカナの「チョー」となると完全にネタっぽい。こんな看板に突っ込んで命を散らすのはアホらしいと思わせる効果も期待できるのかも知れない。
…もっとも、この道の場合は全く別の意味で道そのものが「チョー危険」だったわけだが…。
最初のカーブを曲がると、もう現道の喧噪も視線も、まるで届かなくなった。
そして、廃道ならではの愉快な道路独り占めタイムが始まった。
過去の記憶を思い出しながら景色を見るが、9年前とさほど変わっているところはないように思う。
もっともそれも当然のことで、この道はまだ廃道としての年嵩を重ねていない。
この探索の3年半前の2013年10月15日までは毎日千台以上の車が通行し、全面通行止めになった後でも調査のため通行する車はあっただろう。
廃道らしい完全放置と呼べる状況が始まったのは、おそらく、新道をトンネルとして整備することが決定した2015年以降と思われる。
日常的な通行が途絶えて3年半を経過してもなお、路上に散らばる落石片は皆無だった。この辺りは地形図に「大山崩」という注記がなされている大崩海岸中の難所であったにもかかわらずだ。
現役の道との違いを強いてあげるとすれば、道路両側の雑草が少し視界の邪魔になっているくらいである。
このように路上を荒廃から守っているのは、法面を覆い尽くす巨大な落石防止ネットやフェンス、あるいはコンクリート擁壁など、多数の道路防護施設に他ならない。
これらはみな、昭和9年の記念すべき開通以来、この道を維持するためだけに積みあげられてきた血税の結晶でもある。
道は道幅だけがそこにあるのではなく、その周囲の影響範囲全体に生きていた期間分の労力が蓄積しているものなのである。
そうであるからこそ、長生きした道はますます強くなり、廃道には短命のものが多くなる。(ここは長命だったが)
こんなふうに廃道になってしまわない限り、なかなか落ち着いて読むことは出来ないが、道の随所には代々の防護施設の完成を記念した銘板が残っていた。
チェンジ後の写真はその数あるうちの一つで、「昭和49年国道150号線道路災害防除工事」と書かれている。やはりというべきか、国道だった時代(昭和28年〜平成16年)に整備された施設ばかりであった。
しかし、いかに労力を積み上げて作り上げた守りであっても、道が廃止されてしまえばそれで終わりとなる。他の場所に転用して活躍させるわけにはいかないのが道路整備の難しいところだ。
これらの重厚な守りは、これからも相当の長い期間にわたって、通行する人のない道の平穏を保ち続けるものと考えられる。
現役時代の探索時にこの区間で撮影した写真は思いのほかに少なかった。
遠くない将来に廃道になることを予見していたらもっと撮影していただろうが、当時はまるでそんな気配はなかったのである。
そんな多くない過去の写真から、だいたい近いアングルで撮影したものがあったので、対比してみたのが左の写真だ。
繰り返しになるが、日常的な通行が無くなって3年半を経過してなお、路面はとても綺麗であった。廃道としては熟成されていない状況で、その点では少し物足りない。
だが、廃道に拘らず道そのものを愛でるのならば、非常においしい状況だ。もとより景色のよいドライブコースとして人気の高かった区間である。それを独り占めにするのは贅沢極まりないのである。
そんなこの道が、今後数十年を経て、どのように熟成された“廃美”を醸すことになるのか、とても楽しみだ。たくさんの美しい廃道を見てきた私だが、この若い廃道のシチュエーションは非常に魅力的だと断言できる。
キター!ヘキサ!!
災害廃道ということで撤去されず残っていることを期待していたが、9年前も目にしていた県道の標識(ヘキサ)を無事発見!
それも、「はいどーもくん」(「廃道レガシイ」公式応援キャラ)を彷彿とさせる、一足早い廃道ならではの装い(夏服)を見せていたので、喜びは一入であった。
なお、この道が県道に認定されたのは平成16年と最近のことであるから、ヘキサもまだまだ新しいものだ。それだけに現道への移植も考えられたかもしれないが、現道はほとんど全部トンネルなので標識を設置するスペースがほとんどない。
いずれ、設置から僅かな年月で廃道へと追いやられてしまった哀れなヘキサであり、私は愛情込めて撫でた。
16:30 《現在地》
旧道の北口から400m進んだヘキサ地点には、現役だった9年前にひときわ「ギコギコ」感を演出していた鋼鉄製仮設ロックシェッドが存在していた。
だが今回、そのロックシェッドは跡形もなく撤去されていた。
かつてはロックシェッドのせいで見えなかった上部斜面に目をやると、夏草の斜面に数多の工事用仮設階段が埋もれていた。全ては、この道を守ろうとした努力の残骸である。
ところで、今回探索している旧道(廃道)は、グーグルストリートビューでも全線を体験可能である。
もちろん廃道化後の姿ではなく、現役当時の姿であるが。
(おそらく遠からず更新されて見れなくなると思うので、見れるうちに見た方がよい)
グーグルカーはここを2012年5月に撮影しており、それは私が目にしたものより4年ぶん破滅へ近づいた姿(破滅の17ヶ月前)ということになるが、何か不安になるようなものが写っているわけではない。
このことは、道路災害も他の災害と同じで、かなり唐突に起きるということを教えている。
なお、2012年5月時点で、ここにあった仮設ロックシェッドは既に撤去されていた。
唐沢桟道橋。
前回の探索でも存在を見過ごしていたわけではないが、レポートはしなかった。
しかし今回、廃道上の廃橋になったことから初めて取り上げる。
路肩を2mほど拡張することだけを仕事とする小規模の桟橋だが、黒御影石のう立派な銘板が取り付けられていた。
竣工年は昭和62年とある。
当時もこの道は国道150号であったが、国道指定を維持されたまま旧道になっていた時代だ。
昭和53年に国道150号のバイパスとして「新日本坂トンネル」が暫定2車線で開通したことで、既に交通の主流は向こうに移っていた。
それにもかかわらず、大崩海岸の道の改良も続けられていたのだろうか。
あるいは、同じ旧道時代の平成6年に完成している「たけのこ岩トンネル」のように、何らかの道路災害からの復旧を目的に架設された橋なのかも知れない。
そしてこの唐沢桟道橋の真価は、おそらくここからの進行方向の眺めにある。
見よ。
廃道と命運を共にするしかなかった“彼ら”の姿を。
これは当目隧道の南口と、その前の絶壁に建ち並んでいた休憩施設たちである。
前回のレポートでは触れなかったが、当目隧道南口の陸地などほとんどない急斜面には、
この道のかつて非常に往来が盛んだった時代の名残だろう数軒の家屋が建ち並んでいたのだ。
それらは9年前の探索時点でも半分くらいは廃墟然としていたが、営業を続けているお店もあった。
それだけに私は今回の道路陥没のニュースに触れたとき、密かに彼らの行く末を案じていたのだったが…。
…やはり、この立地は放棄されるより他に道はなかったようである。
これまでの険しくとも平和な展開からは一線を画する、濃密な廃の眺め。
そして、このことを合図にでもしたように――
足元の路面にも変化あり。
これまでは、繁茂していても両側の路肩周辺に納まっていたクズたちの大洪水!大反乱!
まるで、この先は通れないのだと、無言の圧力を掛けてくるかのよう。
さらによく見れば、そんなクズの道の先には、
道を塞ぐような、しかし捨てられたようでもある木製A型バリケードやら、
斜面に怪しく傾斜する電信柱やらが、見え始めているのであった。
全ては、末端であるということだけを、声高に叫んでいた。
あの日、先代の愛車が一呼吸で通り過ぎた場所は、全て変容を遂げていた。
16:33 《現在地》
長生きした道を一撃で廃道へと堕とした、
長くこの地の道と付き合ってきた管理者でさえも
現状復旧を諦めねばならなかった、それほどの道路崩壊が、
みえてきた。
旧道北口よりおおよそ500m地点、廃道の原因となった路盤陥没現場へ到着。
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