和歌山県道213号 白浜久木線 第1回

公開日 2017.01.06
探索日 2016.01.09
所在地 和歌山県白浜町


【位置(マピオン)】

和歌山県道213号白浜久木線は、紀伊半島の南部、白浜温泉で有名な白浜町の山間部にある、全長約11kmの一般県道である。
同町内の庄川(しゃがわ)地区と久木(ひさぎ)地区を山越えで結んでおり、峠は庄川越という。
(峠の東側の日置川流域は平成18(2006)年まで日置川町に属していたが、合併によって白浜町の一部となった)

しかしこの庄川越の県道だが、市販されている道路地図帳を見ると、全線のうち県道の色が塗られているのは起点側の3kmほどだけで、全線の4分の3近い区間は、無着色の破線や細線で辛うじて描かれているだけである。いわゆる“不通県道”として表現されている。




右の画像は、最新の地理院地図である。
ここでは県道の全線がちゃんと県道の色(黄色)で塗り分けられている。
そして、その道の描かれ方をよく見てみると――

――起点の「庄川口」から3km地点の「出合」集落までは、「1車線の道路」の記号で描かれている。ここまでは市販の道路地図帳でも県道である。
その先は、「軽車道」の記号である細線がひょろひょろと伸びて、そのまま峠を越えて旧日置川町側まで達している。
だが、「出合」から約5km(峠から1.5km)の地点で記号は「徒歩道」に変わり、終点の「久木橋」手前まで約2kmが、地図上の道として最も脆弱な表現をされている。
最後は0.5kmほど「軽車道」の区間を通って、ゴールである。

地図に描かれた道は全体的に等高線に対し従順で、いかにも車道っぽく見えた。
オブローダーとしての勘が働く。
約2kmの「徒歩道」区間の存在が不安ではあるが、自転車で完抜出来たら、なかなかに楽しめそうだ。


そんなわけで探索に行ってみた。
探索日は、今からほぼ1年前の平成28(2016)年1月9日である。
進行方向は、起点から終点だ。



庄川をスタート……、立ち塞がる「通告」!!


2016/1/9 6:52 【現在地(マピオン)】

今回の探索、目標とする走破の距離が結構大きいうえに事前情報もほとんど無い状態だったので、時間に最も余裕を持てる朝一からの探索とした。

現在地は、夜明け直後の紀勢本線は紀伊富田(きいとんだ)駅だ。
いまは輪行袋に入った自転車と共に、普通列車を降りたところである。
これから自転車に乗り換えて県道213号の起点を目指す。

出発進行!




7:22 《現在地》

途中のコンビニで買い出しなどをして少し時間を使ったが、30分ほどで駅から約3km離れた県道の起点に近付いた。まずは青看が見えてきた。
今いる道は、押しも押されもせぬ紀伊半島の大幹線、国道42号である。

さて、不通県道の入口に立つ青看の内容は――、

まっしろ と思わず言いたくなる内容だ。
青看が立っていたり、そこに“ヘキサ”が表示されているだけ、上等ではあるのだが、やはり「県道のくせに行き先表示が無い」ことのインパクトは、無視できるものでは無かった。



青看に続いて表れた交差点。
この富田川に面した十字路が、県道213号の起点である。
交差点名は特に表示されていないが、そばにあるバス停の名前は「庄川口」であった。

これから県道213号は、富田川の支流である庄川(しゃがわ)に沿って、白浜町大字庄川(しゃがわ)に属するいくつかの集落を結びながら、最終的に源流部の尾根を越えて行くのである。
庄川地区に集落が誕生した時期は分からないが、決して新しい時代の道ではないと思える一連のパターンだ。

なお、写真にも写っている角の地蔵堂だが、中には二体のお地蔵さまが安置されていた。いずれも昭和40年代の新しいものだったが、「みちびき地蔵」と刻印されており、古くからある道祖神的なものの後裔を思わせた。




右折して100mばかり進むと、見馴れた県道標識(ヘキサ)が現れた。
表示内容にも、特に疑わしい点は無い。

不通県道の中には、沿道に一つもヘキサがない道さえ珍しくはないので、やはりこの県道は案外上等なように思える。
はたして、この上等な状態がどこまで続くのか。
昨今の、まず集落がある範囲は道を完備する!という全国でみられる整備方針に照らせば、3km先の出合集落までは大丈夫そうか。

ちなみに、この辺りの標高はわずか10mほどである。
そして地理院地図によれば、庄川越の標高は309m。つまり、約300mのアップである。数字的には、どこにでもある普通の峠だ。



庄川の河谷底は川の規模の割に広々としていて、道もほとんど上りを感じさせない。
庄川地区は下流から順に庄川口、五反切、芝、瓜生、葛原、出合などの小集落の集合であり、単体で庄川という集落があるわけではない。
集落と集落の間は田園で、集落自体も街村というよりは、散村的な雰囲気だ。

左右の写真は、何気なく撮影した沿道の風景である。長閑でしょ? (右の建物は、庄川ミニ会館という)



ここは、起点から1.5kmほど進んだ瓜生集落だ。
ここまで県道は2車線舗装路を維持している。先行きに問題を感じさせるものは、今のところ現れていない。
交通量は多くはないが、それは不通県道でなくてもよくあることだ。

この地点の少し先で、初めて庄川を渡った。
小さな橋は、「瓜生橋」といった。銘板によると、完成は昭和46(1971)年6月。
前後の道幅と同じ幅を持った橋の竣工年からは、この道がいつ頃今の姿になったのか(拡幅されたのか)を推定可能だったりする。




7:37 《現在地》

「久木方面通り抜け出来ません」

ここは起点から2.4kmの葛原集落入口で、庄川を渡る二度目の橋が目前にある。
そんな場面で、急に伝えてきた。

「久木方面通り抜け出来ません」 と、シンプルに。  …これは、始まったかな。

ところで、今度の橋は「葛原橋」といい、完成年は昭和57(1982)年7月であった。さっきの瓜生橋からここまで500mだが、おそらくこの500mの改良に11年を要したのだ。



「この先300m 通行止 和歌山県

少し前までは平穏だった県道に、怪しい気配が漂い始めた。
路面もなんとなく板に付いていない気がする。
道幅は2車線を維持し続けているが、センターラインは消えたのか描かれなかったのか、見あたらない。
未成道に通じる雰囲気だ。
「〜出来ません」青看の出現は、何かの堰が切られる合図だったようだ。

堰と言えば、傍らの庄川が、いつの間にかいっぱしの渓谷の顔を見せていた。
次のカーブの向こう側には低い屋根が見えているが、どうやら県道最奥の出合集落に着くようだ。




7:40 《現在地》

起点から2.9km、ここが出合集落である。
集落とは言っても、規模はとても小さい。狭い谷底に、家の数は5軒もなかったと思う。

そして、出合はその名の通り、郷地谷と牛屋谷が出合って庄川になる、川の合流地点である。
また、それぞれの谷に沿った道が分かれる出合でもある。
道は出合の20mほど手前で、突然1車線幅に狭まっていた。遂に改良の手が緩んだ。これが昔からの道幅なのだと思う。

ところで、この出合の交差点は少し変わっている。
こんな山の中では珍しい、デルタ(三角)型の交差点だ。
しかも、交差点内の三角地がまるまる一つの神社になっていた。
狭い敷地だが、立派な御神木がひときわ存在感を放っている。

頭を下げてから、右の道へ進んだ。



右の道は、すぐに郷地谷を渡る。
今までの橋とは全く違う、古ぼけた橋だ。

銘板によると、橋の名前は、「出合橋」。
竣工年は……、「昭和十一年八月架設」!

ここは集落の外れであるにも拘わらず、思いのほかに古かった!
もしかしたら、この先に連なる庄川越の峠道も同じくらい(或いはもっと?)古いという可能性が出て来た。 …萌えるッッ!




なお、手元の『スーパーマップルデジタルVer.16』(市販の道路地図帳の代表として)は、右図の通り、この分岐地点から先の県道は「破線」で表現されていて、とても自動車が通れる道にはみえなくなっている。
だが、実際には車も通れる橋があり、道が続いていた。

「出合橋」に立って先を見ると、左の最後の民家があり、道は右の牛屋谷の森へ入っていく。
その入口に、1枚の看板が立っていた。




「この道路は通り抜け出来ません。 和歌山県

道は続いているが、看板はその先行きを否定している。

でも、通行止めとは書いていないし、まだ大丈夫そう。


ん?  森の奥に、別の看板が見えるな。

↓↓↓



なんだか、妙な存在感がある……。


何が書いてあるんだ?


↓↓↓




通 告!!
これから先の県道は幅員二メートル(山中橋区間)(砂防堰堤工事に伴う付け替え道路部分は除く)で関係者が昭和五六年度地権者の寄附によって路盤の整備を図り供用しておりますが、県道としての供用開始の告示はされていない為、県による維持管理補修等はされておらず関係者がそれらの作業を行ってきました。
それ以外の道路幅員は、関係者が昭和五七年度及び昭和五八年度、平成八年度に地権者から道路用地として買収し拡幅工事等を行い通行の便益に供したものであります。 従って通行中の落石事故等による賠償責任は負えません。 尚、山中橋附近の残土は、県並びに地権者、関係機関と協議の上、昭和五九年度に県営事業として採択され設けた残土処理場であります。
関係者


つ、通告?!


これって、かなりやべぇ道なんじゃ……。