和歌山県道213号 白浜久木線 第2回

公開日 2017.01.11
探索日 2016.01.09
所在地 和歌山県白浜町

小休止。前代未聞の「通告」を考察してみた。


2016/1/9 7:43 《現在地》

通 告!!
これから先の県道は幅員二メートル(山中橋区間)(砂防堰堤工事に伴う付け替え道路部分は除く)で関係者が昭和五六年度地権者の寄附によって路盤の整備を図り供用しておりますが、県道としての供用開始の告示はされていない為、県による維持管理補修等はされておらず関係者がそれらの作業を行ってきました。
それ以外の道路幅員は、関係者が昭和五七年度及び昭和五八年度、平成八年度に地権者から道路用地として買収し拡幅工事等を行い通行の便益に供したものであります。 従って通行中の落石事故等による賠償責任は負えません。 尚、山中橋附近の残土は、県並びに地権者、関係機関と協議の上、昭和五九年度に県営事業として採択され設けた残土処理場であります。
関係者

私は、衝撃を受けた! そして同時に、「おいしい」と思った!!

最奥の出合集落を過ぎてわずか100m、集落手前で見た“この予告”から数えれば、おおよそ300mと思われる地点。
そこに大きな看板が待ち受けているのを見つけたとき、はじめは、“いつものやつ”だと思っていた。県が設置した「通行止」の看板だと。
だが、文字が読めるくらいに近付いてみて、その異様さに気が付いた。

まず、冒頭の「通告!!」という書き出しが、尋常ではない。
私は日本中で「通行止め看板」を蒐集してきたが、この看板に対する驚きは滅多にない高レベル。百に一つどころか万に一つの逸品と思っている。
地図上では地味目な里山の不通県道程度の印象だったが、これで一気に侮れなくなった!

畳一枚分ほどもある看板にびっしりと納められた、約320文字からなる「通告文」の内容であるが、ひとことで言えば、免責である。
これこれこういう経緯の道だから、「通行中の落石事故等による賠償責任は負えません。」ということが結論になっている。
具体的には、主に次のような事柄が書かれている。
(以下の内容のうちの括弧内は、看板の文章から私が類推して補足したものであり、明示はされていない。)

  • これから先の県道は、“関係者”が昭和56(1981)年に、地権者の寄附によって幅2mの路盤の整備を行い、(町道として?)「供用」した。
  • しかし、県が県道としての「供用開始の告示」を行っていないので、県による道路の維持管理はされておらず、代わりに(道路管理者ではない)“関係者”が(自主的に?)維持管理をしている。
    (道路法では、都道府県道について、「 @路線の認定(起点、終点、経由地を決める) → A区域の決定(道路敷の位置と範囲を決める) → B供用の開始の告示 」という手順を踏んではじめて「供用=開通」となることが定められている。)
  • 幅2mの外の道路敷は、昭和57〜58年と平成8(1996)年に、“関係者”が地権者から買収して整備した。
(“関係者”は道路管理者ではないから)

“関係者”は、
通行中の落石事故等による賠償責任は負えません。


前回の最後に看板の文章を公開したところ、少なくない数の読者さまが内容についてコメントを下さった。中でも一番多かったのは、「結局、“関係者”が誰なのか分からない」というツッコミだったが、確かにその通りである。ただでさえ、事故からの責任逃れを企図するかのような免責の内容が目立っているからか、この“関係者”の姿勢に対する否定的なコメントもあった。

だが、私は別の印象を持っている。
まず、“関係者”はこの道の道路管理者ではない可能性が高い。道が町道や県道であるならば、町や県が管理者なので、そうではない“関係者”には、管理上の責任はそもそも生じない。
また、道が林道であるなどして、“関係者”が道路管理者であったとしても、事故が起きたときの管理責任を回避したいだけならば、頑丈な施錠ゲートを設置して一般車が立ち入れないようにしてしまえば済む話だ。そのためのもっともらしい理由など、いくらでも挙げられるだろう。
むしろ、利用者に事情を説明したうえで“関係者”という難しい立場への理解を求めるというのは、親切で誠実な態度だと思う。


それに、私が彼らの態度に好感を持った最大の理由は、別にある。

私がこの看板の文章から最も強く感じたメッセージは、免責云々ではないのだ。


それは――

“関係者”が、この道の整備をいかに強く望んでいるか!

――ということに尽きる!!
(おそらくこの“関係者”の正体は、県道の開通を推進する既成同盟会的な組織だと思う)


これまで県道の整備を目指して行ってきた“関係者”の努力を伝えることで、利用者にも整備を応援する立場に加わって欲しいという想いが、事情を詳細に開陳する看板から伝わってくる。
私は、このことに強い共感を覚えたのだ。
それにこれはもはや、「整備を望んでいる」という表現では、甘すぎるかも知れない。

ここの“関係者”は、
県道整備の責任を有する県に陳情するだけで終わらず、自ら地権者との交渉事にあたって土地を入手し、おそらく費用まで工面して、現状の道路を作り上げたようだ。
しかし、県としても県民の公平な利益を考える立場があるから、容易にそれを県道として受け入れることは出来ないだろう。これもまた真理だ。
そうして突き返された道を、“関係者”は諦めてしまうことなく、その後も営々と(40年近くも?)自ら負担して維持管理を代行し続けているようなのだ。

執念だ。
執念を感じる。
しかし我が国でも、明治や大正の頃までは、こういうのが、交通不便な地方に住む人々に求められる通常の態度だった。
自分たちが欲しい道は陳情し、いざ工事をするときにも費用と労役は自分たちが(大部分を)負担するという、受益者負担の強いスタイル。
対して今日の仕組みでは、国民は個々の道路の受益者であるなしを問わず、自動車を利用する程度に応じて国全体の道路整備を負担している。

でも、どうしても自分のところに道が欲しいなら、自ら作る事も不可能ではない。道路を作ることは禁止されていない。
それが裏山の作業道程度ではなく、隣町に通じる規模のものでもそうだということを、ここの“関係者”は教えてくれている。 賛否両論があるのかもしれないが、私はこの姿勢をかっこいいと思った。


……といったところで、いい加減先へ進むか。
真に重要なのは、「通告」の有無よりも、その道の実態についてなのだろうから。



何が有っても責任は持てない? “問題の区間”が始まる。


7:45 

「通告」の看板の先にも決して少なくない数の車両が出入りしているようで、路上の落ち葉も、轍にあたる部分だけは薄かった。
もっとも、晩秋の広葉樹林の道でもないのに、こんなに沢山の落ち葉が路上にあるという時点で、既に路上清掃という道路維持活動が行き届いていない気はしたが…。

また、すぐ近くの路傍に、ゴミの不法投棄を戒める小さな手書きの看板が設置されているのを見つけた。
こうした看板自体は珍しくないが、「コラコラ ゴミをすてるな バカナヤツ」という文言が、妙にユーモラスで微笑ましいと思った。
物々しい「通告!!」のそばにあるというギャップが、余計に面白い。

そして、看板の奥にあるカーブを一つ回り込むと、早くも次の展開が待っていた――



うおっ! 危ねえッ?!

カーブの先の道の真ん中に、鉄製のポールが突き立っていた。

現状だと、路上清掃が不行き届きであるおかげで、ポールを避けて進む轍が目立っている。
したがって、クルマで来てもうっかりポールに接触する事故は起こりづらいと思うが、もし清掃が行き届いていたらと思うと怖ろしい。
せめて、ポールに反射材を取り付けるくらいの優しさがあっても…(笑)。

なお、このポールの目的は、物理的に大型車の進入を封じるためであろうか。
某“酷道”にある有名な障害物を彷彿とさせる光景だった。




なお、このポール群によって狭められている道幅を実測してみたところ、約220cmであった。
したがって、軽自動車だけでなく、ほとんどの自動車が通過可能である。
しかし、実際に通過しようとすると、道路の中央にポールが立っている関係上、路肩に車体をはみ出させながら通行することになるため、かなりの圧迫感があると予想する。

おなじみのgoogleカー(googleストリートビュー)も、「通告」には怖じけず前進してきたものの、このポールを前に引き返したようである。
同撮影時も封鎖されていたわけではないので、何らかの予感から、「自重した」ものと思われる。

……この封鎖未満のポール群を通過することは、道路利用者としての覚悟を示すことである。
まあ私は自転車なので、気軽に入っても引き返す事が出来るが、自動車だったらそこまで気軽ではない。
そんな覚悟を強いる道を、私は愛する。そして、ぜひ最後まで見届けたいと思った。



ポール群の先へ進むと、ますます鬱蒼とした薄暗い森の中であった。
天気は良いのだが、まだこの谷の中には朝日が差し込んでいない。

路面は鋪装はされており、今のところ通行に支障はない。
しかし、2本の轍の外は何年も掃除されていないようで、大量の落ち葉や土などの障害物が堆積しているため、本来の道幅は3.5m程度あったように見えるものの、実質的には轍内部だけの幅2m程度の道になっていた。
これはまさに「通告」の内容から予想されたとおり、必要最小限度の維持管理のみが行われてきたという気配だ。

また、「通告」によると、道幅の両側は地権者のいる土地(つまり私有林)であるとのことだったが、沿道の随所にも、そのことを感じさせる不法投棄禁止の立て札が設置されていた。




道の右側にあるのは牛屋谷という小さな沢で、路面と水面の高低差は僅かである。
水量は少なく流れも穏やかに見えるが、増水時に付けた思われる爪痕が路肩に残っていた。

路肩の石垣とともに路面の一部が流出し、陥没している。
通行には支障がないものの、道路の欠損部分への転落を防ぐものが、ただ転がされたように見える木の棒2本(一応は蛍光テープ付き)であるというのは、牧歌的である。

……なんてことに驚いていた自分を(悪い意味で)ちっぽけに思える場面が、すぐ先に待っていた!! ↓↓↓



7:48 《現在地》

こ、この規模の路面欠壊は……

これは無理せず、封鎖していたほうが無難なんじゃないですかね……(←余計なお世話)

…いや、これが“廃道探索中”の出来事であったなら、そこまで驚きません。
路肩が崩れていたけど通行には支障がない場面で終わったでしょう。

でも、今のところこの道は封鎖されていないわけで、「立入禁止」でも「通行止」でもないのである。その点で、“廃道”を評価するのとは別の尺度で現状を評価する理由がある。

相変わらず、結構な数の車が奥へ進んでいる気配(轍)があるけれど…、度胸あるなぁ…。



道幅の半分が大胆に欠壊した地点から50m以内の至近距離に、再び同程度の路肩欠壊箇所があった!

これらの相次ぐ路肩欠壊だが、いずれも最近に生じた道路災害ではないと思う。
崩れた断面など、色々な点からそう判断する。少なくとも1年以上、おそらく5年くらいは崩れたまま、ほとんど放置されているのではないかと思う。
唯一見て取れた“対策”といえば、崩れた路面の縁に木の棒を並べただけ。

物理的に封鎖されているわけではない道でこれは、異例だ。
もしここが県道として県の通常の管理を受けている道だとしたら、間違いなく、復旧工事の完成まで封鎖されていたことだろう。
また、あの仰々しい「通告」を読んだとしても、物理的封鎖がないまま、このような道路状況に遭遇することまで予想できる利用者は、まずいないと思う。

相変わらず通行できるか出来ないかと問われれば出来るのだが、常識外(*`・∀・´*)の管理状態である。(私の言語で褒めてます)



「通告」から、わずか300mを入っただけで、もうこの有り様。

まだまだ先は長いのに、このあと、いったいどうなっちゃうの?!




万人に開かれた難所……4輪での進入は決してオススメ出来ません。


7:51 《現在地》

出合橋から600m(通告から500m)ほど進むと、前触れなく道に変化が起きた。

これまで谷底にあった道が、いきなり急勾配で山腹へよじ登り始めたのである。
それだけではない。法面の施工もより大掛かりで本格的なものに変わった。
道幅は変わっていないが、唐突な急勾配と、法面の施工から感じらとれる高規格感は、明らかに同時にスタートしていた。

これは、古い道から、新しい道へと、気付かぬうちに移動させられていたことを疑うべき状況だ。




そんな疑いを持った私は、自転車を降りて、路肩から下を覗き込んでみた。

すると、15mほど下の崖下にある暗い谷底に、平坦な敷地が続いているのが見えた。
そこに鋪装は見あたらず、確実に旧道跡だと判断するには材料不足だが、その可能性は高いように思う。
直前にあったはずの“分岐”に気付かなかったのは、旧道を盛土で埋める形で新道(=現道)が作られた為だろう。

なお、このような道路の付け替えが行われた理由は、「通告」の内容から予測が可能だ。それは、通告文中の「(山中橋区間)(砂防堰堤工事に伴う付け替え道路部分は除く)」という文言である。
この二つの括弧書きのうち、前半の「山中橋区間」が何を示しているかは今のところ不明だが、後半の「砂防堰堤工事に伴う付け替え道路部分」というのが、ここのことだと思う。

であるとすれば、次に現れるもべきものは――



7:54 《現在地》

砂防堰堤に他ならない!

急勾配区間のスタートから300mほどで、道は上り詰めたように平らとなった。そして、そこに予期したものが待ち受けていた。
目測で20m近い高さをもつ、巨大な砂防ダムである。

堤体に取り付けられた銘板の文字は、樹木が邪魔をして読み取りづらいが、辛うじて「左川砂防堰堤」「昭和60年度完成」の文字が判読出来た。



道は砂防堰堤を過ぎると、すぐに写真の切り通しを抜けて、それからやや下りになって谷底との比高を急速に減らしていった。
この一連の線形は、いかにも砂防堰堤の建設にともなう道路付け替えである。

先の「通告」によれば、この付け替え区間に限っては、“関係者”でなく、河川事業を行う県が、県道の付け替えとして先行整備したようである。
法面の施工などが前後の(“関係者”が整備した区間)より上等に見えるのも、偶然ではないはずだ。

これは私の想像だが、時系列的には始めに県道の認定があり、次に県による砂防ダム工事の計画と、それに伴う(未整備だった)県道の付け替えが公表されたのであろう。“関係者”はそれを県道全線の整備に繋がる好機と捉え、付け替え区間の前後を自ら整備し開通させたのが昭和56年で、遅れて昭和60年に砂防ダムが完成したという流れだと思う。




砂防ダムから200mほどで、道は再び谷底近くへ降り立った。
そしてよく見てみると、ここは下方の旧道敷らしい平場が道の下に呑み込まれて消える“合流”の場面であった。
ここまで、砂防ダム前後の合計500mほどが、昭和60年の付け替え区間とみて間違いないだろう。

となると、おそらくここからはまた、“関係者”の手に委ねられた区間だと思う。
楽しみであるような、怖ろしいような、何ともいえない気分がした。




付替区間が終わってからも鋪装が途切れることはなかったが、再び路上清掃の行き届かない、落葉の堆積に轍の部分だけが露出した道となった。
付け替え区間ではこうしたことがなかったように思うのだが、違いの原因は単純に地形的な落葉量の差なのか、それとも付け替え区間にだけ県による念入りな道路維持が行われているということなのか。もし後者だとしたら、ルールとしてはそれが正しいのであろうが、“関係者”は嘆いていることだろう。

そんなこんなで進んでいくと、なにやらまた前方に明らかな異常が…。




ええっ エーーッ ?!


お、おいおい……

路肩欠壊の次は、法面崩壊が放置プレイ?!

道幅の半分以上が崩土によって呑み込まれているのに、
前にも先にも注意を促すポールもコーンも立ってない!!!

何より驚かされたのは、ここまで続いてきた路上の轍が、
この場面に至っても、なんら躊躇いを見せず、
崖側わずか3分の1ほど残された路面へ吸い込まれていた点だ!



さすがに躊躇おうよ、ここは!!

二輪は良いよ。 私も問題は無い。

でも四輪でこれは……!!

いったい誰が、ここに轍を刻み続けているのだろう…?
せいぜい軽乗用車か軽トラくらいしか通れないだろうから、木材の搬出も困難だろう。
隣町にもおそらく通じておらず、日常的に通行する需要があるようには思えないのだが…。

もしや、“関係者”たちなのだろうか?
道を維持するには、実際に通行し続けるのが最も手っ取り早い。
それは、廃道になる道の様々な過程を見続けてきた私の経験則ではあったが……。



度肝を抜かれた、法面崩壊を放置プレーでいなした現場。
そこを越えると本来の道幅が戻って来たが、もはや何もかもが怪しく思える。
この道には常識が通用しないことを、改めて思い知らされたからだ。

一通行人として全く他人事ではないのだが、それでも自転車という気軽な足の私にとって、相変わらず物見遊山の観覧気分は抜けていない。
まさに道路を楽しんでいる状況で、オブローダーとしての至福のひとときである。良いネタに出会ったと思った。
真剣になれといわれても、アトラクションが楽しすぎるのだから仕方ない。
とはいえ、ぜったいにマイカーでは来たくない。そこは真剣にならせてもらう。笑いでは済まなくなるおそれがある。

ところで、この写真の場所の法面が面白い形をしていた。
二段のコンクリート擁壁らしい形をしているが、よく観察してみると、これは自然の造形物だった。
なぜこんな形になったのか不思議である。節理だろうか。



また… なのかよ…



ここも崩れっぱなしのままで、絶賛交通解放中!

どうやらこの道、本当に通行中の災害には無頓着であるようだ。
とりあえず通れればOKという感じなのだろう。いろいろアグレッシブすぎる。
巨大な落石に「8」とスプレーされているが、撤去する予定はあるのだろうか……。


“関係者”の細腕普請をあざ笑うように、次々と現れる欠壊現場。
我々が普段何気なく通行している道路の維持が、どれだけ大変な仕事であるかを窺わせる状況だった。



8:05 《現在地》

現在地は出合橋から1.6km来ている。庄川越の峠までは残り2.1kmである。
相変わらず狭い一本道には目立つ轍が続いており、確固たる通行の意志が感じられた。
もしかしたら、地理院地図では破線になっていた区間も、案外にクルマで抜けられたりするのだろうか?
そういう例は確かにある。地理院地図とて絶対正確ではない。

ここのところ、次第に谷底との比高が増してきており、それは15mくらいになった。 そんななかで、うっかりすると見逃しそうな小さな平場を、谷底方向に発見した。平場と言っても道形ではないようだが、明らかに人為的な平坦さだ。

なんだろう?



(ほこら)だ!!

平場には、コンクリート造りの祠が安置されているのが見えた。
そして同時に目に飛び込んできたのは、牛屋谷の思いがけず凄まじくなった造形だった。
里山とは思えぬほどに険しい崖岸と、神秘を象る碧色の巨巌とが、地割れのような谷を擁して、流れる水を隠していた。

この景色を前に咄嗟に連想したのは、次のようなことだ。

道に何の案内もない、したがって部外者の私にとっては無名の存在に過ぎない小さな祠と、その面前にある平場の正体とは、天然の造形の神妙なることに因縁する、きわめて原始的な山岳信仰の聖場ではあるまいか。

俗物的な表現だが、私は目の前の景色にゾクゾクとして引き込まれた。



地形図にも、道路地図にも、おそらくは観光ガイドにも載っていないこの霊場。
正体は不明だが、帰宅後に調べた『角川日本地名大辞典 和歌山県』の庄川(しゃがわ)の項目に、気になる記述を見つけた。

庄川をさかのぼった牛屋谷の小滝に、旱魃の時、牛の生首をつけて雨乞をする民俗風習があり、嘉永5年の大旱魃の際にも行われた。
(中略)
大正2年6〜8月の旱魃には牛屋谷の滝に牛の生首を入れる雨乞が行われた。

今日ならば奇習と呼ばれそうなこの風習(そもそも、社会的に存続を許されない畏れさえ)が行われていた「牛屋谷の小滝」というのが、本当にこの場所を指しているかは不明である。
しかし、この場の醸す雰囲気からして、その可能性も高いのではないか。

いずれにせよ、この道が秘めた神秘の霊場であった。




しかし、路上の轍たちといったら、祠に立ち寄る気配も見せず、駐車する余地も無いまま、

峠の方向へ吸い込まれていく一方であった。


私も引き続き、後を追います!