現在地点は、海抜約600mの無名の峠。
奥羽山脈は和賀山塊のただ中である。
林道と殆ど変わりのない作りの村道安ヶ沢線を、起点から9kmほど登ってきた地点だ。
そして、これより先は、いよいよ「県代行区間」といって、村の代わりに岩手県が岩手県の予算で施工した道である。
この道は和賀山塊の中核部へと進入する数少ない車道の一つであり、数十年後には秋田県へと抜ける予定だったが、工事が中止されてから既に5年余りを経過している。
なお、この探索の翌年、平成17年には正式に工事の中止が決定され、将来的にも延伸の可能性はゼロに限りなく近い。
中止されるまでの21年間に及ぶ工事で建設された区間を、これからご覧頂こう。
これまで走ってきた区間と、県代行区間とでは、明らかに道の作りに違いがあった。
ここまでの区間は、村がもともとの林道を独自予算で改良した部分であり、いかにも林道のような道だったが、県代行区間の道は、さながら鋪装を待つだけの新設県道のようである。
道幅も6mほどあり、普通車なら悠々とすれ違い出来る。
また、勾配もゆったりとしており、カーブもおおらかだ。
この道の姿は、まさしく秋田県側の行き止まり付近で見た異常な高規格ぶりと符合するものがある。
砂埃を上げて豪快に下っていくと、予想外の景色が現れた。
そこには、地形図にも記載のない小さなトンネルがあった。
私は、興奮した。
それには、袖岩トンネルという名前が付けられていた。
それ自体は何の面白みもないトンネルだが、全く予備知識を持たずに来たこともあり、また地形図にも記載がなかっただけに、このトンネルの出現は驚いた。
幅や高さを見る限り、完全な2車線の高規格道路を造ろうとはしていなかったことがうかがえる。
ある意味、岩手県は秋田県よりも現実的なビジョンを持っていたと言えるかも知れない(秋田県側には2車線幅の橋が沢山ある)。
また、意外だったのは、このトンネルの竣功が想像以上に古かったと言うことだ。
その竣功は昭和60年である。(県代行工事開始の5年後だ)
わずか50m足らずのトンネルは、当然照明設備もない。
また、トンネル内はコンクリートで鋪装されている。
起点側の入口から数メートル入った地点に、鉄パイプ製の封鎖ゲートが設置されているが、現在は解放されたままになっている。
県代行区間は、僅か3.4kmしか完成せずに工事が打ち切られてしまっている。
完成したその殆どの区間は、和賀川の谷底へと下っていく坂道である。
海抜600mのピークから、和賀川の谷を跨ぐ海抜500mまで下る。
トンネル内部も含め、ほぼ一定の角度で、ぐいぐいと下っていく。
悲しいのは、いま下った分は、遠からず登り治さねばならないと言うことが明らかだと言うことだ。
秋田県側の終点を既に見てきているだけに、さすがに「もしかしたら…」などと夢を見るほど楽天的ではいられない。
袖岩トンネルを振り返る。
この道が目指した壮大なシナリオを知らない者が見れれば、まさに無駄の極致であろう。
仮に、行き止まりの道を無駄だと断じるなら、この道の無駄はこの程度では止まらない。
さらに巨大な無駄が、このすぐ先に他にもある。
これは秋田県側でも見られた光景だが、コンクリートでガチガチに固められた法面が、ボロボロと風化しはじめている。
この道は工事中止決定と前後して村に全ての管理が委ねられているが、案の定、その保守の手は回っていないようだ。
このまま放置され続ければ、遠くない未来、秋田県側と同様に、致命的な崩落によって道としての命運を絶たれるかも知れない。
秋田県側は入口付近で発生した大崩落のために、奥産道として建設された大半の区間がいまも不通のままになっている。
むしろ、崩落のために車が入れないから余計な保守に予算を充てる必要が無く、敢えてそのままにしているという事もあるのかも知れない。
現時点では、こちら沢内側では、終点まで車ではいることも可能である。
大いなる無駄な景色は、ほぼ人跡未踏と思われる和賀川の谷筋に沿って、遠くまで続いていた。
いま谷底に見えている二本の橋は、それぞれ左から平成3年と平成5年に完成したものだ。
そして、右の橋のすぐ先で、工事は中断されている。
私は、この道の完成を熱望した沢内村の心境が分かる気がする。
実は、この道が通り抜けようとした峠の僅か数キロ南にも、沢内と秋田県側とを結ぶ車道がある。
昭和40年代に完成した真昼岳林道である。
真昼岳林道は、いまも併用林道として管理されている道で、一応一般車も通れるが、オフローダーでなければ好んで通ろうと思わないような山岳道路で、一年の半分以上は不通となっている。
単純に地図だけを見ると、既に沢内と秋田県を結ぶ峠道があるのに、なぜさらにすぐ傍にもう一本の道を欲したのかと不思議に思うかもしれないが、沢内村も秋田県の関連する市町村も、真昼岳林道の開通を経験して、昭和40年代まで主流だった考え方「道が繋がってさえいれば発展する」が、間違いだったことに気が付いたのだろう。
そして、「今度こそは使える道を!」そう意気込んで、一般のドライバーでも敬遠しないようなまともな峠越えを、大袈裟に言えば、同じ秋田岩手間の奥羽山脈越えとしての“第二の仙岩峠”を、作ろうとしたのではないだろうか。
それ故に、両県はそれぞれに、こんな立派な道を作っていたのだ。
一つになる日を、夢見ながら。
先ほど遠くに見えていた桟橋も、下り坂ではあっという間に近付いてくる。
いざ近付いてみれば、それは大きなカーブでテラス状に斜面から飛び出した、変わった橋であった。
まだ、新道の香りが抜けきっていないような真っ赤な欄干が、寂しい。
橋の名は、和賀岳一号橋。
橋には和賀岳よりももっと近い山が沢山あるが、敢えて名の知れた山の名前を付けたのか。
和賀岳は、当地から北北東へ8kmほどの位置に聳える、言うまでもなく和賀山塊の盟峰である。
和賀岳を含む一帯を和賀山塊と呼ぶが、この和賀山塊は、近年世界遺産に指定され名声を博した白神山地以上に純粋な自然が残る山域として、周辺市町村などによる宣伝が進められつつある。
白神山地の幻と消えた「青秋林道」の名は広く知られているが、和賀山塊の縦断を狙ったこの安ヶ沢線や横沢バチ沢線の名前は、全くと言っていいほど知られていない。
和賀岳一号橋から袖岩トンネルを振り返る。
左側の切れ込んだ谷が和賀川で、この源流に聳えるのが、和賀岳である。
渓流釣りや沢登りの手練れ達が、現在のこの道の数少ないお得意さんである。
法面を固めた上で、さらに少し離して桟橋を架ける手法は、雪崩や落石からフリーになる上、地形の改変が少なくなると言うことで、近代的な高規格道路では良く採用されている。
そして、すぐにもう一本の橋が見えてくる。
あそこが谷底で、和賀川を渡った先ではいよいよ県境へ向けて最後の登りが始まるのであるが、完成している区間は、残り僅かとなってきた。
和賀岳一号橋は平成3年に完成した橋だが、それから300mほど進んだ先にある、この橋は、平成5年末の竣功である。
いずれも規模の大きな橋であり、この辺りの工事をしていた時期には、かなり順調に工事が進んでいた事を伺わせる。
しかし、この橋の名前はやや意外である。
というのも、「一号橋」があったのだから、次に現れるのは当然… となるところなのだが、現れた橋の名前は「和賀岳橋」。
目くじらを立てるようなことではないが、小さな矛盾を感じる。
また、一号橋は桟橋だったが、今度は間違いなく和賀川を跨いでいるのだから、「和賀川橋」とするのが筋な気もするが、余計なお世話だろうな。
一つ言えることは、これらの橋を名付けた人間にとって和賀岳が、どうしてもその名を借りたい大切なものだったということだろう。
案外、完成していたらこの道、
その名前は「和賀岳スカイライン」とかになっていたのかも…。
橋を渡ると、なんだか急に秋らしさを感じた。
それだけ山奥に来たというわけだろうが、その理由は単純で、たくさんのススキの穂が揺れているのと、赤トンボの群れに遭遇したからだ。
いま、上り坂が始まる。
峠という終わりを迎えられなかった、上り坂だ。
橋から100mほど進んだところが少し広くなっており、道端にはご覧のような通行止め標識や朽ちたバリケードなどが、散乱していた。
県の資料に因れば、完成後に村に引き渡され解放されているのはこの地点まで(峠から3130m)で、ここから先の280mについては、正式にはいまも未完成の区間という扱いのようだ。
いよいよ終わりを覚悟しつつ、緩やかな登りを進む。
緊張の一瞬である。
和賀川を渡り、今度はその右岸に移った道は、それまでに比べると道幅も狭くなり、なんとなくまだ未完成な雰囲気もある。
平成12年に「環境影響調査委員会」によって“待った”の声が掛かった後に、環境への影響を可能な限り削減する案として、設計道路幅(4m)の半分を桟橋上に設け、少しでも地山の切り取りを減らそうという案が出されたりもしている。
しかし、一度この地から途絶えた槌音は、二度と蘇らなかった。
登りの角度が増し、いよいよ本格的に峠を攻めるような姿勢を見せた矢先、前方の草むらの向こうに緑の林が見えてきた。
普通なら、ああ森の中にはいるのかと思うだけだろうが、今回ばかりは、予感がした。
ジ・エンド
別段どうということのない様な森を前にして、砂利道は、その道形ごと完全に尽き果てる。
とても分かり易い、終わり方である。
安ヶ沢の起点からは、ここまで約12.5km。
要した時間は、ゆっくり走って1時間45分。
上りも下りもある変化に富んだ長い山道であったが、もう引き返すより他にはない。
この先の県代行区間における未着工延長は、きっかり3000m。
この行き止まりのすぐ先で分かれる和賀川支流の砥沢に沿って、これが尽きるまで上り、やがて県境の長大トンネルに入る。
そして、トンネルの中央付近が代行区間の終点である県境となる予定だった。
また、秋田県側の未着工区間はさらに短くて、僅か1116mに過ぎない。
素人目に見る限りでは、この先の地形的は比較的穏やかな山林地帯であり、もう20年ほど障害なく工事が進んでいれば、おそらく道路地図は塗り変わっていたことだろう。
終点の先には、踏み跡ひとつ見つけられなかったので、潔く撤退を始める。
なお、この山域を越えて太田町川口鉱山へ抜ける峠は、明治以前にも山師や交易人たちの通う道として存在していた。
だが、現在その道筋を特定することは出来なくなっているそうだ。
古き道は廃れ、新しき道は実らず、遂にこの地から、人の往来はなくなったのだ。
橋の上にも、ささやかな自然が回復しつつある。