昨年1月末に発表した道路レポート「奥産道 太田沢内線」を覚えている読者はどれくらいおられるだろうか?
もちろん、今からこちらをクリックしてご覧頂いても構わない。
今回のレポートは、その続編と言えるものである。
もっと言えば、前回のレポートと今回のレポートで紹介する道は、いずれ一本の道となる予定であったものだ。
前回紹介したのは、未開通の峠を挟んで太田町側(秋田県側)の区間であったが、今回は反対の沢内村(岩手県側)を紹介したい。
前回レポートの時点ではまだ僅かに工事続行の希望はあったが、その後正式に工事は中止が決定されており、未来永劫これらの道が一つになる希望はない。
工事の中止が決まったこともあり、一年前には分からなかった様々なことが判明してきたので、典型的な未成道路のまとめとして、このレポートを書こうと思う。
この道は、今日、奥羽山脈の中でももっとも秘境度が高く、良く自然が保たれていると言われる和賀山塊を縦断しようとした。
古い資料や地元の看板などには「奥産道」(奥地産業開発道路)として示されており、確かにこの「奥産道」という言葉は色々な場所で聞くが、その実態はいまいち分からないというようなことを、前回のレポートでも書いている。
そして、残念ながらいま以て奥産道のことはよく分かっていない。(引き続き情報募集中です!)
おそらく奥産道というのは古い言葉であり、最近の新しい事業には使われていないのではないかと思われる。
いま、手元に岩手県県土整備部道路環境課が平成17年に公表した、「道路改修県代行事業 沢内村道安ヶ沢線」(以下、単に「資料」と略す)というPDFの資料がある。
これを読むと、奥産道という言葉は一度も出てこないが、少なくとも昭和55年以降の岩手県側の区間は、県代行事業というなの名目で工事されていたのだという事が分かる。
そして、この資料は平成17年に事業が中止されたという内容で結ばれている。
途中のあらましも書かれているので、部分的に拾ってみよう。
資料によると、県代行事業として建設が予定されていたのは、両県に跨る全線の中の一部分、右の図中で「県代行区間」と示した部分である。
この「県代行事業」というのは、簡単に言えば、技術的もしくは予算的に地方行政単独では難しいような道路事業に関して、県が予算や工事を代行する仕組みであり、いくつかの条件を満たせば採択されることになる。
例えばこの旧・沢内村は豪雪地帯特別措置法による「特別豪雪地帯」に指定されており、これを根拠とした「特豪代行事業」を沢内村は県に対して要求する権利を持っていた。
この先は私の推論も入るが、おそらくこの制度が生まれてくる以前から、旧・太田町と協議して峰越の新道を建設する計画があり、それこそが「奥産道」として名前が残る工事だったのではないだろうか。
資料に因れば、沢内村がもともとあった村道安ヶ沢線の改築を始めたのが昭和50年、そして55年からは「特豪代行事業」によって県による代行事業が始められている。
つまり、工事の最初の5年間は村が独自に道路の改築を行っていたことになる。
その目的は当初から、峰越をして秋田県側の町道横沢バチ沢線と繋ぐ事だったのではないだろうか。
秋田県側の道がどのような制度によって建設されたのかは定かではないが、資料に因れば秋田県側の改良工事が始められたのは昭和48年のことであるから、太田町と沢内村とが合議して一本の道を作ろうとしていたのは間違いがないことであろう。
県の代行事業に採択された安ヶ沢線だが、しばらくは順調に工事が進められたようである。
詳しい道路の状況はレポート本編で見ていただくが、工事が中断される平成12年までに3410mの代行区間が完成しており、県境までの残りはちょうど3kmとなっていた。
秋田県側も平成10年に中断されるまでの間に8789mも完成しており、未着手区間は僅か1116mと記録されている。
県境部分には1km規模のトンネルを掘削する予定だったようだが、両県側の道はわずか4kmほどまで接近していたことになる。
安ヶ沢線の工事が中断されることになった理由は、環境保護という時代の流れによるものと説明される。
それは、平成9年に発足した「村道安ヶ沢線環境影響調査委員会」の活動に因るところが大きく、平成12年にはその提言を受けて、県は事業の「休止」を決定した。
翌年以降、引き続いて環境影響調査が行われると共に、昭和55年に試算された事業の費用対効果についても平成12年と17年に改めて試算されている。
また、この事業について最も大きな決定力を有していた沢内村の方針も変化した。
平成10年の集中豪雨で町内の幹線道路に大きな被害を受けたことを契機に、整備するべき道は山間部ではなく、町内に別の幹線道路を設けるべきという流れになったのだ。
また、秋田県側の意向も重視されたが、秋田県も事業の再開の目処は立っていないとの回答であった。
こうして、平成17年に正式に安ヶ沢線の県代行事業は「中止」されたのである。
殆ど人跡未踏と言っても良い和賀山塊の奥地へと、取り巻く世論を尻目に伸び続けた“県の作った村道”安ヶ沢線。
遂に力尽きた終着地の姿を、皆様にご覧頂こう。
04/10/07
10:29
平成17年11月に和賀郡の1町1村が合併し、西和賀町となった。
私が当地を訪れたのは、平成15年の10月で当時はもちろん沢内村だった。
村道安ヶ沢線の入口は、南北にとても長い沢内村の中でもやや北寄りの安ヶ沢集落にあった。
近年まで村唯一の幹線道路だった主要地方道盛岡横手線(県道1号線)には、ここ数年になってやっと実用性を手にした主要地方道大曲花巻線(県道12号線)が重複しており、この安ヶ沢の少し北で分かれる。
もし、安ヶ沢線が秋田県まで通じていれば、この地は東西と南北の幹線道路が直行する要衝となっていた可能性もあるが、周囲を山に囲まれた村のことであり、それでも交通量はたかが知れていただろう。
安ヶ沢に始まる村道安ヶ沢線だが、入口には「和賀岳入口」の文字が掠れかけた木製の標柱が立っている。
和賀岳は言うまでもなく和賀山塊の主峰をなす山で、安ヶ沢線の途中から分かれる赤沢沿いの林道を遡り、その終点からさらに10km以上も藪山以上登山道未満の隘路を辿れば山頂に立てるようではあるが、けっして一般的な山ではないし、日帰りなど全く不可能に近い奥山である。
一方、安ヶ沢線が20年来狙っていた峰越えは遂に果たせなかったが、出入りする工事車両の喧噪も過去のものとなった入口は、そのような「野望」のあったことなど全く感じさせない。
右の地図の通り、県代行区間として整備されたのは入口から約9kmも進んだ地点より奥である。
それまでの区間は、もともと林道などとして存在した道を、村が独自に改修したものらしい。
村がこの道に懸けた“本気”の度合いを感じさせる9kmという道のりの長さである。
緑多き安ヶ沢集落を横切りつつ、道は山間へと進んでいく。
500mも行かないうちに家並みは途切れ、意外なほど広々とした耕地が広がる。
山間の村という印象の強い沢内だが、その中央を流れる和賀川や支流横川は谷間に肥沃な土地を広くもたらし、かつての沢内地方は盛岡藩の“隠し田”などと呼ばれていた。
山奥にこれだけ広い耕地が潜んでいるとは、確かに部外者には気が付きにくいことである。
これから挑もうとする奥羽山脈の山並みが、目の前に悠然と広がっている。
起点から1kmそこらで、鋪装が途切れると同時に、道は鬱蒼とした杉林へと吸い込まれていく。
山道が始まる。
ちょうどここには鉄製のバリケードが置かれているが、この日は解放されていた。
見たところ、どこにでもありそうな林道の姿だ。
道幅も、路面の状況も、古びた標識(旧式の「CAUTION」と書かれた警戒標識だ!)も、路肩の所々に残る白い距離ポストも、昭和40年代以降に大量生産された林道のありがちな姿である。
ただ、もともとの自然環境が素晴らしいせいか、天気の良いせいか、気持ちのよい道である。
このまま森の中を進むのかと思いきや、3km少々進んだところで、突然開拓地のような広々とした場所へ出た。
辺りには、まだ植えられたばかりのような杉の木が生えており、なぜかこの辺りだけ簡易な鋪装がされている。
山脈の見せる、くっきりとした空との境界線は、いかにも透き通った山の空気を感じさて素晴らしい。
チャリを漕ぐ足に力がみなぎった。
さらに進むと、少し前から聞こえ始めていた大きな滝の様な音の正体がはっきりした。
それは、今までに見たことの無いほどに巨大な砂防ダムの落ち口から、さながらナイアガラの如くに吹き落ちる赤川だった。
特に予備知識無しで入山していたので、この光景には少なからず驚いた。
これは赤沢ダムで、隠れた紅葉の名所だそうだ。
なお、この赤沢ダムにて、本流の和賀川と支流の赤沢とが分かれる。
村道安ヶ沢線ははじめ赤沢に沿うが、すぐに思い出したかのように和賀川の方へと進路を改める。
赤沢を離れてから和賀川に再び出会うまでの区間は、一つの峠越えの道となっている。
そして、この無名の峠のてっぺんが、「県代行工事」の起点である。
10:57
穏やかなイメージの砂防ダムの常識を覆す、もの凄い迫力。
遙か谷の上にあるこの道まで、水しぶきが舞い上がってきそうなほどで、谷間に轟く音の大きさも凄い。
繊細な凹凸を描きながら、豪快な飛沫に消えていく滝は、幾ら見ていても飽きないなと思った。
なんだか飲み込まれそうな誘惑がある。
湖畔の道は、沢内村による改良の賜物なのか、比較的頑丈に施工されている。
しかし小刻みなカーブが連続しており、未舗装であることも含め、一般のドライバーが快適に走れる道となるには、まだかなり足りない改良状況だ。
赤沢ダム越しに、この道が越えようとして果たせなかった風鞍(海抜1023m…右奥の高い山)の峰を遠望する。
その手前に見えるV字の谷が本流の和賀川であるが、一旦道は本流から離れる。
ダム湖を過ぎて、赤沢沿いの上り基調の砂利道をしばし走ると、赤沢林道が右に分岐する。
この道は和賀岳登山道の起点となる道だが、殆ど登山する人もいないから、通行止めになっているときが多い行き止まりの林道だ。
本線は直進で、ここから本格的な登りが始まる。
九十九折りを交えた登りは3.3kmほど続くが、この間で200mほどの高度を稼ぐことになる。
チャリだと当然のように息が上がり、はたから見ると心地良さそうな汗、自分にしてみれば苦痛の溢れ出したような汗を吹き出すことになる。
相変わらず道は普通の林道の姿で、一体いつになったら奥産道らしい道が現れてくるのかと、もどかしく感じていた。
この探索は、太田町側の攻略の2週間後であったから、川口渓谷の奥まで続く未成道路の異様な佇まいが記憶に鮮明な時期であった。
この沢内側にも同じような興奮を期待してしまうのは、無理からぬ事であった。
喘ぎ喘ぎ登っていくと、やがて道は平坦に近付き、そして少しずつ下りが始まった。
そして、幾度目かの小さな切り通しを抜けたとき、突如眼前には胸の空くようなパノラマが広がった。
県境を占める一座、中ノ沢岳(海抜1061m)の全姿である。
この特徴ある山の形は、安ヶ沢集落で遙か遠くに望んでいた峰に間違いない。(10枚前の写真に注目!)
起点から約9kmの現在地点。
気が付けば私は、奥羽山脈の主稜線を間近に見る枝稜線を登り詰めていた。
そして、この名も無き峠は、昭和55年に起工した県代行工事の起点でもある。
これより下りに転じてやがて和賀川に出会い、渡り、遂に主稜線への登りに至るこの先の道は、21年間もの長期工事によって生み出された、行く当てのない袋小路の新設道路である。
突然広がった道幅と、乾ききった側溝が虚しい。
以下、次回!