奥多摩古道 (氷川〜除ヶ野) 前編

公開日 2013.03.02
探索日 2013.02.25
東京都奥多摩町


東京都の奥座敷、奥多摩町の中心が氷川(ひかわ)である。
多摩川と日原(にっぱら)川の合流地点に開けたさほど広大でもない緩斜面に町役場、小学校、JR青梅線の終着駅である奥多摩駅、国道411号などの都市機能が集中的に立地している。

そして氷川から日原川に沿って1kmほど北上した山腹に、除ヶ野(よげの)集落がある。
取り立てて何がある場所でもないが、古くから人の住う土地であったことは、この意味ありげな地名にも現れている所だ。

現在、除ヶ野から氷川へは、日原川に架かる北氷川橋渡って行くのが普通であるが、このルートは安寺沢林道が除ヶ野まで開通した昭和50年代から使われるようになったという。これは除ヶ野集落で聞いた話である。

そして古い地形図を見ると、除ヶ野から氷川まで順当に日原川左岸の山腹を緩やかに下って行く道が描かれている。
その表記は「破線」であり、小径の域を出ないものであったと察せられる。
そして再び現在の地形図に戻ると、相も変わらず「破線」が描かれているのである(赤く着色した)。

これが今回採り上げる「奥多摩古道」である。
この名前も特に定まったものではないが、奥多摩地域にある古道の一つという事で、このように呼ぶ事にした。



なお、「今も昔もこの道は破線で描かれている」としたが、より縮尺の大きな地図を見ると、道は断絶している。
次の地図(「プロアトラスSV7」縮尺5000分1)を見ていただきたい。


「奥多摩古道」は、氷川小学校の北側の一角で、途切れている。

そしてその周辺を見ると、様々な形と大きさの建物が密集している。
それは例えば「栃久保」<辺りに見える住宅地とは明らかに異なる様相を示しており、大いに不自然である。

いったいこの場所には、何があるのか?

知っている人は知っている。

人口5600人の山間の町が誇る、お土産物にはならぬ“特産品”が、ここで生み出されている。
かつて国鉄青梅線の御岳以西の区間を作ったのも、この場所を占める者である。
さらに奥多摩駅の貨物取扱高は、その“特産品”が鉄道で輸送されていた当時において、青梅線全体の8割を占めるほどに膨大であった。

それは、何者か?


↓答え↓




奥多摩工業 氷川工場
OKUTAMA KOGYO CO.,LTD.  HIKAWA plant

こいつはすごい!!

山の斜面を活かした石灰石プラントは、工場ファン垂涎の現代版“九龍城”とったい様相である。

だが、工場ファンならずとも気になる、その内部はと言えば…



部外者立入厳禁!

ショボン…



南氷川橋から眺める、氷川工場全景。

工場は、日原川左岸から山腹のかなり高い位置まで占有している。

古道はその敷地に完全に呑み込まれ、林立する諸施設のために途絶して久しいのだろう。


…そう、思われたのだが……。




よもや、こんな所に道が…!


2013/2/25 9:25 《現在地》

スタートは、私にとって既に見慣れた奥多摩駅。
ここから自転車で出発する。

まずは駅前の通りを東へ進み、国道411号との交差点に出る。
その交差点は一見すると普通の十字路だが、実は五叉路になっていて、その5本目の目立たない道へ入る。
ここからは初体験の道である。




道は最初から狭く、車1台分の幅でしかない。
しかも、かなりの急坂である。
だが、この町にとっては大切な道に違いなく、左は奥多摩町立氷川図書館が、そして行く手には氷川小学校が待ち受ける。

そしてこれは後から知ったことだが、現在の多摩川沿いの道(国道411号)が明治時代に切り開かれるまでは、この坂道が「青梅街道」であった。
青梅街道は正面の山を越えて、この氷川へ下ってきたということであるが。



五叉路から60mほどで、JR青梅線を踏みきりで渡る。
古道である経緯から見れば歴とした「青梅街道踏切」だが、現在の名前は「学校通踏切」である。
JR青梅線では最も終点寄りにある踏切だから、東京都で最も西にある踏切ともいえる。

そして踏切の先は丁字路になっていた。
この日はそこで水道工事をしていて、立ち止まって撮影する暇がなかったので、ちょっと遠い写真で説明する。

この丁字路を右折するのが青梅街道(古道)であり、左折するのが除ヶ野への古道である。
今回は左折した。

そして左折直後にも丁字路があるが、そこを直進すれば氷川小学校の正門へ至る。
従って、除ヶ野への正解は右折である。



9:30 《現在地》

踏切までの道よりもさらに急な上り坂が、まっすぐ山の裾へ伸びていく。
相変わらず道は狭く、両側には小振りながらもマンションが建ち並ぶ。
町の中心部に相応しい密集ぶりであり、氷川における土地利用のシビアさと、ここも東京都なんだという漠然とした印象を持った。

だが、そんな平凡な風景の終わりは、すぐ近くに迫っていた。

三度の丁字路である。
右へ行く道の方が幅広だが、これは浄水場への道である。
除ヶ野への道は、ここを左折する。

そしてこの地点に至って、除ヶ野への進路に不安を感じさせる、最初の標示物が現れたのである。
曰わく、「車両通行止」。

歩行までは、禁止されていないニャン。



狭くなった!

一応まだ、車道としての体裁を保っているが、ちょっと普通の感覚ではここを運転しようとは思わないだろう。
ハンドル操作をほんの少し誤れば、転落…というか、隣家の“屋根”に乗り上げてしまう。

この景色は、以前探索した早川町の新倉集落にそっくりである。
いきなり東京から辺境へ舞台が移った感じだぞ。




そして道はそのまま、プール授業を覗く特等席氷川小学校のプールサイドへ雪崩れ込んだ。
今どきは下手な工場よりも立入に対する警備が厳重な小学校施設だけに、鉄条網付きのフェンスは、路肩からの転落防止以上の意図を明らかに感じさせるものであった。
そして小学校の敷地を掠めた道は、いよいよ部外者が迷い込む事の無さそうな、確信犯領域へと入り込んでいくのである。

なお、氷川小学校は住宅地と氷川工場を隔てる位置にあるのだが、特に校庭まで騒音が聞こえるとか、煙が流れてくるとか、そういう環境の悪さは感じられない。
それ以前に、あの巨大な工場の姿が、ここからはまったく見えなかった。




確信犯領域。

道幅はいくぶん回復し、舗装された路面には二筋の轍がしっかりと刻まれていた。

ちなみに、(舗装路に深い轍がある=落葉清掃がされていない=交通量僅少) ということである。

実は地図は誤りで、このまま工場が現れることなく、除ヶ野へ行けるのではないか?

そんな事さえ考え始めた頃、それはやっぱり、現れた。



9:33 《現在地》

明らかに構内っぽい、不穏な空気が…。

50mほど先には、工場の尖塔が聳え立っていた。
そしてその方向から1本のやや広い道が現れ、古道を横断してから右後方へ伸びていた。
だが、この右後方への道は、「鉱山施設」の看板とともに立入禁止とされていた。

幸い、それは除ヶ野への進路ではないので無視できるが、
この先は、ち ょ っ と、 ま ず い ん じ ゃ…。



ここから見下ろす氷川の風景。

なかなかの絶景であったが、心中はあまり穏やかでない。

今にも無情なる「立入禁止」が現れ、私の野望を打ち砕きそうな気配を感じていたのだ…。




万事休すと思った、この分岐。

古道はここを、凌いだ。

左の構内へ通じる道は、少し先に厳重なゲートがあって、封鎖されていたのだが、

右の砂利道は、まだ「立入禁止」とは言われていないし書かれてもいない。

粘った!



ガッシャン、ガッシャン、言ってる傍に、へーろへろの砂利道が!


これは…


これはッ……


なんか私の中に新しい性癖が…うねうねと……。




え? え? えーっ?!

これはマズイんじゃ…。


今に作業員が現れて「コラーッ!」ってどやされるんじゃ……。

私は愚かにも「立入禁止」の看板を、どっかで見逃してきただけなんじゃないの?!?!




ガッシャン ガッシャン 
ブシュー ブシューー

(注)ここは町道(公道)です。