ギョッとして、GPSで現在地を確認したらば…
↑ここだった!
完全に、工場内だった!!
2013/2/25 9:33
だが、
道は地を伝い、ゆるぎなく、続いていた。
おそらくは明治の地形図に描かれた、その形のまま。
空をファクトリーに塞がれても、お構いなしか。
道はかくも、尊いか。
道幅おおよそ1間半。
両側には、軽レールを用いたごくごく簡単な柵がある。
その外は、何疑いもなく工場であった。
奥多摩工業氷川工場。わが国最大級の規模を誇る、石灰石工場、
その腹中であった。
周りの景色に目を奪われっぱなしだが、
この音を表現できないことが、もの凄くもどかしい。
ガシャンゴションガシャンゴションプシャーガシャンゴションガシャンザザザァ〜ゴションガシャンゴションプシャーガシャンピーピーピーゴションガシャンゴションガシャン…
間断なく乾いた音が聞こえてくる。
もちろん、音の出所は一つではなく、全方位から様々な音が、混ざり合いながら聞こえてくるのである。
四方のみでなく、上下からも聞こえてくる。
道は音の嵐から逃れんとするかのように、一般道路としては稀に見る急坂で上っていく。
先ほどからマークを画像に表示している部分には全て、「これより先、鉱山施設に付き立入らぬよう、お願い致します」と書かれた看板が取り付けられている。
その設置場所は、建物の閉ざされた扉である場合と、通路への分岐である場合があったが、どちらにせよ工場施設の入口である。
しかし、このように一々注意書きを掲出していることは、私がいる道自体は一般道路である事の暗示である。
少なくとも現在、この道は奥多摩工業の通路として専ら利用されている。
だが、この道の方が遙かに長い歴史を持っているからこそ、そこに工場が容易く封鎖できない、何らかの理由が生じているのだろうと推測される。
公道であるのも関わらず、明らかに一般の利用者には全く関係のない、理解する事さえ困難な掲出物も存在する。
「 注 意
硑の押込み作業は必ず一と山残し励行のこと
製造課 」
「硑」は「瓶(びん)」の異体字だが、鉱山用語貯留ビン(鉱石を一時的に溜めておくタンク)などで用いられる。としては「ずり」と読む。砕石を意味する「ズリ」である。
そこまでは何とか理解できるが、その先は全く意味不明である。
だ が、 そ こ が い い !
そこがいいんだよ!!!
読者さまからの情報提供により、「ひと山残し」の意味も判明した。
「ひと山残し」とは、ブル・ドーザーの排土板(ブレード)で一度に土砂を全部落とすのではなく、路肩に残した山を新たに排土板で押し出した山で落とすことで、常に路肩に一山を残し、ブル・ドーザーが路肩の際まで近づくのを防ぐ施工法
であるとのことだ。
(引用元URL:http://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen_pg/SAI_DET.aspx?joho_no=100972)
自分でも、未体験の風景に異常なテンションの上昇を感じる。
果して次のブラインドカーブをすり抜けたら、
そこにはどんな景色が登場するのだろうか。
こんなに楽しみなのは、廃道でもなかなかない。
9:36 《現在地》
うぉおおおおおお!!
突き抜けるような青空。赤錆の工場。
ひび割れの道。
軽く <感> 極まってます。
誰も見ていないのをいいことに、ちょっと固まる。
そしてここで、思い出したように動画を撮る。
少しだけいま来た道を引き返しつ。
カメラのマイク性能のせいか音の迫力はいまいちながら、映像の雰囲気はばっちり出ているはず。
現在地の標高はおおよそ380mで、奥多摩駅がある辺りからは4〜50m高い。
氷川工場はこの高低差の全帯域に広がっていることになり、さらに上もある。
だが、それでもほとんど上端に近付いていることは感じられる。
道はここで砂利道に変わった。
それでもなお、一筋の道にだけは「立入禁止」が現れなかった。
この辺りが、最も高い位置にある施設なのか。
いよいよ工場の貫通と、その先の森が見え始めた感じがする。
だがここで私は、ある“野望”を意識し始めた。
今まで決してその所在を掴むことが出来なかった、ある「交通施設」が、
このすぐ近くに存在するはずなのだった。少なくとも地図の上では。
それが何かと言えば、これだ(↑)
曳索鉄道だ。
ここから5kmほど離れた日原の採掘場から、この氷川工場に石灰石を運搬している専用鉄道。
ほとんどは地下にあるのだが、その氷川側終端の駅施設が、現在地から目と鼻の先の地上に存在するはずなのである。
この曳索鉄道は現役であるが、昭和28年に完成する以前は、索道がその任に当っていた。
私はその索道跡を探索したこともある。(レポート…未完)
はじめはその接近に戦戦恐恐たる気持ちを抱いていた工場であったが、
道が意識的に確かに守られている事を実感した今となっては、
その終わりが近付いているということに、寂しさを感じるまでになっていた。
この工場はただ闇雲に排他的なのではなく、人の道が通っている…そんな気持ちになった。
そこで今一度振り返り、仕上げの動画を撮影した。
この誰でも歩く事が出来る(←重要)特異な道路の景色は、記録に残しておきたい。
4、5号石灰焼成炉集塵機。
それがこの工場の最も高い位置にある施設の名前らしい。
探索時は静まりかえっていたが、動き出したら、どんな音を立てるのだろう。
工場の横断が、いま終った。
ここから先は、もはや見慣れた山の道であろう。
ここまでとてもゆっくり歩いても、横断に要した時間は約7分。
距離は150m程度であったろうが、この間はずっと激しい上り坂になっており、
現在地は奥多摩駅から60mほども高い山腹であった。
今さらに、奥多摩町が設置した「通行止」の看板が現れたが、
それは本日解放されており、しかもおそらくはこれまでの区間ではなく、
この先の山岳区間に対して掲示するものなのだと思う。
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9:40 《現在地》
さて、当初の懸案だった工場の横断は済んだが、ここで少し「脱線」したい。
先ほども述べた、この間近にあるはずの曳索鉄道の駅を、ぜひこの目で確かめたいのである。
これはずっと気になっていたし、皆様の中にもそういう人がいると思う。
だが案の定、工場内にある全ての脇道は「立入禁止」になっており、最も接近していた辺りだと直線距離で30mも離れていない「駅」であっても近付く事はおろか、その存在を垣間見る事さえ出来なかった。
それでもなお合法的に目指そうとするならば、もはやそれは工場の外縁に沿って山野を跋渉するよりないという判断をした。
なぜかこの周辺の山には幾重もの石垣が存在しており、古くは集落でもあったのか正体は不明だが、おかげさまで比較的トラバースは容易であった。
見たことのないエリアが、眼前に展開してくる。
これが正真正銘の、氷川工場の最上段の風景である。
私がいる場所は原野だ。
しかし、巨大な工場なのに構内は驚くほど人が少ない。
ほとんどの工程がオートメーション化されているらしく、例えば私がこの巨大な水槽に近付いた(といっても20m以上は離れている)ときにも、誰もいないのに突然もの凄い勢いで注水が始まり驚いた。
まさか私に対する威嚇ではなく、時間が来れば自動的に注水が始まる仕組みだったのだろう。
そしてこの注水は、私がここを離れる事になる十分後くらいまで、絶え間なく続いた。
そして私は遂に、遂に見る事が出来た。
念願の場所を。
前面障害物が多く、地形的な制約もあって、曳索鉄道駅の全貌を確認する事は残念ながら出来ない。
だが、地形図に「特殊鉄道」の終端が描かれている地点には、確かに大規模な駅施設が存在する事が確認された。
さらには、そこを無人のまま走り抜ける運鉱車両の姿を、この目で捉える事が出来たのである!!
地形図を見ると、工場内の地表に線路が敷かれているのは駅の範囲だけで、
駅を出ると直ちにトンネルに入っている。しかし現地でトンネルの在処を目撃する事は適わなかった。
これ以上視座を拡げるには、どうしても工場の敷地に立ち入る事になってしまう。
無人の構内を、10秒に1両程度の間隔で単車の運鉱車両が流れるように移動していた。
この一見古色に満ちた仕事場もまた、ほとんどがオートメーション化されているようである。
日原鉱場より運ばれてきた鉱石は、氷川工場の最上段に位置するこのターミナルでラインに乗せられ、
工程ごとに徐々に下方へと向かいながら、最後は工場の最下段近くにあるダンプトラックの出入口から出荷される。
以前は工場からの出荷も鉄道(青梅線)が担っており、上下両口にそれぞれ形式の異なる鉄道が通じていたのであった。
“ 曳索鉄道ってなんだ? なぜ運行列車が単車で動けるの!? ”
その秘密は口で説明するより、この少し後に出会う景色でご理解いただけるだろう。
氷川工場を私なりに許された範囲で満喫し、本来の目的地である除ヶ野へ通じる、ありふれた山道へ分け入る。
ここまで来ると道幅もいよいよ狭まり、もはや四輪車が走る余地はない。
昔ながらの歩き道か、せいぜいバイク、自転車、ネゴ(猫車)、犬・猫の通る道である。
最初のうちは背後から重低音に近いモーター音が追い掛けてきたが、それも間もなく樹幹に遮られ、さらにカーブを過ぎると土に阻まれ、百年前の静けさに戻っていった。
平凡だけど、つまらないなんて、これっぽっちも思ってないよ。
私のあるべき場所へ帰ってきた安心と、これまで辿ってきた異形の道が確かに一連の古道だったという事を感じており、高揚感が持続した。
工場が追い掛けてキター!!
後にしてきたと思った工場が、正確にはそこから伸びる曳索鉄道が、眼前の谷に姿を見せた。
これもまた、地形図には描かれているのだが、
実際にどのような場所であるかは、これまで確かめていなかった。
この場所で、曳索鉄道とはどのようなものであるか を飽きるまで眺める事が出来る。
これが、奥多摩工業氷川曳索鉄道だ!
曳索鉄道は別名エンドレスともいい、循環する曳索(ワイヤ)を原動機で牽引し、それに接続された車両をまとめて運行させるという、
大量・無人輸送に特化した鉄道の方式である。
規模の大小を問わなければ、かつては日本各地の鉱山で目にすることが出来たものだが、
トラック・レス・マイニング(運鉱に鉄道を利用しない鉱山)の増大や、鉱山そのものの減少などから、
昭和28年以来ずっと現役で活躍を続ける氷川曳索鉄道は貴重な存在になっている。
しかしこの路線は全長95%以上がトンネルであることから、動いている姿を目にする機会が少なかった。
10:07 《現在地》
この沢の名前は分からないが、曳索鉄道がトンネルとトンネルの間に橋を設けて一瞬だけ地上に表れているすぐ上流で、それよりも遙かに小さな橋を設けて古道も渡っていた。
橋は一応鉄製であり、自転車でも問題無く走行することが出来る。
こういう施設を見ても、またわずかながら踏み跡があることからも、この道は廃道ではない。
現に除ヶ野集落から徒歩で奥多摩駅へ出るには、迂回の激しい現代の車道を通るよりも、この道が便利であろう。
公共交通機関を持たない同集落にとって、飼い犬や住民自身の散歩に用いる以上の価値が、この古道(そして町道)にはあるようだ。
曳索鉄道鉄橋の側景を林間に望む。
鉄橋は鋼鉄製のやや華奢な上路式ワーレントラスであり、おそらく昭和28年当時からの古橋であろう。
仕組みは分かっていても、人なくして車両が動いているのが、やはり不思議な感じである。
当たり前だが、曳索鉄道の軌道内に立入るのは自殺行為に他ならない。
目も心も持たぬ彼らに、線路上の障害物との接触を避ける力が備わっているとは思えないからだ。
ここで再び地中へ潜った曳索鉄道が次に地表へ現れる地点は、1.5kmも先のやはり無人の山野である。
そこへ辿り着くよりも遙かに先に、古道は終点の除ヶ野に到達してしまう。
いよいよ工業地の成分が森によって遮断され、玉石の見慣れた石垣とともに、濃密な生活臭を感じさせる小祠が表れた。
もはやこうして念押しされるまでもなく、ここが由緒ある古道だということは理解されている。
そのことを最も強く発信していたのは、古道に似つかわしくない現代的な工場に他ならなかった。
いよいよ明るい土地が見えてきた。
建物の赤い屋根と一緒に。
この山上の南向き斜面は、住まいと耕地を定めるにあつらえ向きであったろう。
街道(青梅街道)との距離も、昔人の健脚を思えば、ぜんぜん許容範囲である。
なお、ここで少しばかり成果を焦った私。
小さな分岐でミスルートをしており、その結果…
除ヶ野の一軒目のお宅の軒先をくぐることとなった。
しかし、同じ東京であっても、この辺りでは一声かければ(返事がない場合を含めて)軒下も通れる田舎システムである(と、私は自分に都合良く解釈している)。
軒下を通らずとも、直前の分岐を右に行っていれば、お宅の裏を通って出てくる事が出来た。
だが現に通行する人の多くは、軒下へミスリードされている感じがする。
この集落側のガードレールの配置や、「通行止」の看板の位置が、それを助長している。
まあ、そんなことは大きな問題ではなく、私は無事に古道を通じて除ヶ野へ辿りついた。
この小さな探索は、思いがけない変化に富んだ景色と、深い印象を残した。
…今も目をつぶれば、古道へ覆い被さる鉄の城の音が聞こえる。