山梨県道10富士川身延線 城山旧道 前編

公開日 2013.08.06
探索日 2012.12.10
山梨県南巨摩郡南部町

【位置図(マピオン)】

山梨県道10号の富士川身延線を紹介するのは、今回のレポートが最初だと思う。
身延町と同じ山梨県南巨摩郡内に富士川町というのがあるが、なんとも紛らわしい事にこの県道が身延町と結んでいるのは、お隣の静岡県に平成20年まで存在した富士川町(現:富士市)の方である。したがって静岡県道としても同番号・同名の路線が存在している。そして主要地方道に指定されている。

両県分を合せた本県道の全長は35km以上あるが、その経路は「富士川沿い」というひと言で片付けられるくらい単純で、特に山梨県内では富士川の左岸が定位置のようになっている(一部右岸を通っている)。
富士川沿いの幹線道路というと国道52号が有名だが、山梨県内での両者の関係は、さながら富士川という鏡面の表裏である。


そして県道10号で最初に採り上げたいと思ったのが、この旧道である。

現行地形図では破線で描かれている(右図で赤く着色した部分)約800mの道は、図中にある「城山トンネル」の旧道ではないかと予想した。
それほど長い区間でもなければ、大きな橋やトンネルが期待されるような場所でもないが、JR身延線と絡み合うように描かれている事や、発電所の敷地を通行しているように見えるなど、何となく気になる要素があった。
いわば、ただの道ではない予感があった。

県道10号の認定は(少なくとも山梨県内において)昭和33年と古いのだが、お馴染み「道路トンネル大鑑」巻末の隧道リストに城山トンネルの名前は無い。
現地や古地形図などで確認したところ、城山トンネルの開通は昭和51年と意外に最近の事だったようなのだ。



そして今回は、探索前にこれらの古地形図を見た。

この昭和27年と明治29年の2枚の地形図に共通しているのは、「車道」と見なされる道路の線が、前掲した現行地形図の「徒歩道(破線)」と同じ位置に描かれていることだ。
これにより、確かに「旧道」であった事が分かる。

対して2枚の地形図の違いといえば、昭和の版には鉄道と発電所という二つの巨大施設が、道路と絡まり合うように狭隘な土地を割拠している事である。

これらの施設について調べると、鉄道が開通したのは大正7年であり、当初は私鉄の富士身延鉄道として開業、昭和16年に国鉄身延線となった。
発電所のほうは、昭和16年に日本軽金属(株)が富士川第一発電所として稼動を開始していた。


それでは現地の模様を見て見よう。


きっと、驚くと思うよ…。



発電所を目印に、いざ「旧道」へ入ってみれば…


2012/12/10 15:22 《現在地》

県境の集落十島(とおしま)から、富士川を左に自転車を漕ぎ出すと、ややして前方に巨大な発電所の鉄管路を乗せた小山が見えてきた。
あの山こそ「城山」と呼ばれる中世の山城跡であり、今はご覧の通り発電所が幅を利かせている。

城山の特徴的な三角頭は、富士川とその支流佐野川の両面を削られた結果だ。
麓に目を凝らせば、佐野川の河口を跨ぐ身延線の長い鉄橋も見えていた。

遠望をして既に発電所と鉄道という“後発”の姿は確認出来たが、古き旧道の気配だけは、まだ感じられなかった。




15:26 《現在地》

上の地点から3分後に身延線の跨道橋をくぐり、さらに1分後には十島の端村らしき城山の小集落を右に見た。
そしてあっという間にその家並みが途切れると、佐野川の上に目指していた1本の橋が架かっていた。

地形図とGPSを確認すると、この見るからに真新しい橋こそが、明治以来の旧道の現姿なのであった。

拍子抜けてしまうが、対岸には現役の発電所があり、そのおそらくは唯一の進入路なのだから、やむを得なかろう。

いずれ、この場所にはほんの少しも旧道らしさは見あたらず、特に高揚感などを覚えぬまま、誰にも見られず一人左折して橋の上へ。




ぴかぴかの橋の名は、「とおしまかれしたはし」。

一見してどんな漢字を充てるのか分かり難い、日本の橋の名前としては珍しいロングネームだった。
対岸側の銘板を見れば、その“答え”が分かると思うが、先に出て来たのはこのひらがな銘板と、もう一枚、新しすぎる竣工年。

なんと探索と同じ年のわずか7ヶ月前の竣工だった。
それまではどんな橋が架かっていたのか、誰か教えてはくれないだろうか?




おっと、あぶない!

水路絡みでなければ、うっかり入り込んでしまいそうな坑口が、川原にぽかんと口を開けていた。
当然のことだが、真新しいのはこの橋ばかりであり、対岸を占める発電所の施設は、“見慣れた”古さを持っていた。
背後の城山が秋の夕日を浴びて、静かな翳(かげ)りを見せている。
川原は既に暗かった。

富士川第一発電所の有効落差は約70mとされるが、それだけの高度を生む取水口は約18kmも遡った富士川自身であり、舟運に名を馳せた大河の雄大さが目に浮かぶ。



長さ20mほどの橋を渡る終えると、そこに“漢字”の銘板が有った。
本橋の名は「十島枯下橋」と書くのが正解だった。
何となく収まりの悪そうな名前だが、昔からの名であろうか?

道は橋を渡ると同時に発電所を囲む高いフェンスに突き当たり、右か左の選択を迫られるが、右は見える範囲で忽ち行き止まりなので左へ行く。
そして左へ折れた直後、フェンスに掲げられた1枚の看板が出迎えた。




この先 町道
通り抜けできません

ふ〜ん…、町道なんだねぇ。 ということは、私道じゃなくて公道なんだね〜。
冷たい素振りをしながら、微妙に情報を明かしてくれてありがとう〜。
それに、通り抜けできないとは書いているけど、「立入禁止」ではないんだね〜。

ちょっと、ワルイ自信が湧いてきたぞ。




狭いな〜。

発電所と佐野川の間に残された僅かなスペースだけが、町道に与えられている。
おかげさまで幅員は2m程度しかなく、軽トラ同士でも鉢合わせたら絶対に離合できない。
しかも敷地に沿ってカーブしているために、見通しも良くないのである。
もう少し、公道にも土地を譲って欲しいなり…。

大企業に頭を垂れる、憐れな県道の図が浮かんだ。

重要なポイントは、この道が昭和51年まで間違いなく主要地方道であったという事実である。
私が産声を上げる前年まで、これが…。




しかも、肩身の狭い道の傍らでは、発電所が常時威圧的な“音”を上げていた。

本来は富士川の広大な河床を潤していたであろう膨大な水が、アルミを作る原動力を生み出すターヴィン回転の役目に駆り出され、その後も富士川へは返されず、大半が別のどこかにある第二発電所へと連れ去られている。
その過程の一時の奔騰が、フェンスの向こうに渦巻いていた。まさに檻の中の猛獣の態だった。

だが、現在も唯一国内でのアルミ生産を続けている「日本軽金属」の国際的な競争力を支えているのが、富士川流域に同社が専用する6箇所の発電所の存在であるという。
アルミの生産には膨大な電力を要するというが、この発電所の豪壮さは確かに目を瞠(みは)るものがあった。




もっと狭くなってる?!

うん、間違いない。

路面に残された轍を見れば、明らかだ。

これではもはや、四輪車はほとんど軽トラ専用の状態…。

昭和51年以降に道が狭められたのでない限り、
この区間は「自動車交通不能区間」だったのだろうか…。





だが、本当の“驚き”は、この後であった。


“地図にいた”もう一人の登場人物が、ここでやって来たのだ…。



幅1.8m程度の激狭スロープは、発電所敷地の外周を50mほどなぞった所で、ご覧の広場に出会って終る。

発電所の取り巻きはここまでで終わり、続いて別のもののお供をするのであるが、


それは…



JR身延線の線路。


そして、“彼”との出会いが、

この頼りない旧県道を、見覚えなき魔境 へと、導くのであった…。

【近い!近いッス! な動画】




なんと、線路と道路を隔てるフェンスが呆気なく消失し、
まるで一つの道路の上下線のような近々しさで
両者が並走するという、衝撃的な場面が現れたのである!

そして、「こんな保線用通路みたいなところを通って良いのか?」という、
誰もが当然に抱く不安と疑問に答えを与える1枚の警告板。 曰く、


注 意 
この先行き止まりです。
車両の乗り入れを
禁止します。
日本軽金属 土木課


…驚くべきことに、

この状態でもまだ「全面通行止」ではないらしい。

JR東海がユルいのか? 日本軽金属がユルいのか?

思うに、しょぼくとも天下の公道である「町道」のあらゆる通行を禁止するだけの根拠と権限を、
鉄道会社も民間企業も持っていないということだろう。「町が町道と言っている。以上。」のような…。




15:32 《現在地》

そして現れた。

地形図にも存在が予言されていた、踏切道。

その名も「佐野川踏切」である。
JR東海ユルいとか書いた直後だが、ちゃんとやるべき事はやっていた。

こんな場所なのに、ちゃんと警報機だけでなく遮断機もある。
つまり、踏切の中で最も上等な「第一種踏切」に他ならなかった。
大都会にあるのと、何も変わらない。

…しかし、この踏切で“待った”ことがある人は、いったいどれだけ居るのだろう。
列車は、一時間あたり一往復程度は運行しているが…。




そして踏切を渡り、線路と位置を入れ換えた道路の行く手は…

引き続き、保線用道路さながらの仲良し並走状態であった。


ここで列車が来たら、大迫力だろうな…。

ちょっと、怖い気も……。



驚きついでにもう一つ。

佐野川踏切の甲府側には、ぼろぼろの道路標識が残されていた。

“大型乗用自動車と大型貨物自動車の複合通行止め”である。

……

そりゃ、この道幅を見ればその通りだろうが…

ここは物理的に違反不可能じゃないかと思うが。
だって、この先(これから行く部分)の道幅が、これまで以上に…。

そして、一番重要なのは、この標識の存在が、「かつては大型車以外の車両は通行止めではなかった」ということを図らずも示しているということである。




この段階では、まだ良かった。

しかし、次の電柱の先からが、マジで酷かった。





いーの?これ。


いや。

確かに道路と線路は重なってはいない。

なんか縁石で平面的に仕切られてはいるけれどもさ…



どー見ても、近過ぎんだろ?


(昔は)大型車通行止めでしかなかったんだろ?

以前は、普通の乗用車などはここを通ることが禁止されていなかった。

ぶっちゃけ自転車の私でさえ、いまここで列車が走り込んできたら相当に怖いだろうし、
多分運転士さんも警笛を鳴らすと思うよ。この道路に人がいる“だけ”で危険人物と判断されそう。
もし車がここにいたら、どんな風景になるのか。滅茶滅茶危なっかしいに違いない。

(私も列車が来るのを少し待ったが、少し前に来たので当分来ないと踏んで、先へ進んでしまった。)




撮り鉄さんには常識のスポットだったのかも知れないけれど、

こんなに現役の線路と現役の公道が近接しており、しかも仕切りがない場所というのは初めて見た。


…これが昭和51年まで主要地方道だったというのだから、本当に恐るべし…。