2012/12/10 15:22 《現在地》
県境の集落十島(とおしま)から、富士川を左に自転車を漕ぎ出すと、ややして前方に巨大な発電所の鉄管路を乗せた小山が見えてきた。
あの山こそ「城山」と呼ばれる中世の山城跡であり、今はご覧の通り発電所が幅を利かせている。
城山の特徴的な三角頭は、富士川とその支流佐野川の両面を削られた結果だ。
麓に目を凝らせば、佐野川の河口を跨ぐ身延線の長い鉄橋も見えていた。
遠望をして既に発電所と鉄道という“後発”の姿は確認出来たが、古き旧道の気配だけは、まだ感じられなかった。
15:26 《現在地》
上の地点から3分後に身延線の跨道橋をくぐり、さらに1分後には十島の端村らしき城山の小集落を右に見た。
そしてあっという間にその家並みが途切れると、佐野川の上に目指していた1本の橋が架かっていた。
地形図とGPSを確認すると、この見るからに真新しい橋こそが、明治以来の旧道の現姿なのであった。
拍子抜けてしまうが、対岸には現役の発電所があり、そのおそらくは唯一の進入路なのだから、やむを得なかろう。
いずれ、この場所にはほんの少しも旧道らしさは見あたらず、特に高揚感などを覚えぬまま、誰にも見られず一人左折して橋の上へ。
ぴかぴかの橋の名は、「とおしまかれしたはし」。
一見してどんな漢字を充てるのか分かり難い、日本の橋の名前としては珍しいロングネームだった。
対岸側の銘板を見れば、その“答え”が分かると思うが、先に出て来たのはこのひらがな銘板と、もう一枚、新しすぎる竣工年。
なんと探索と同じ年のわずか7ヶ月前の竣工だった。
それまではどんな橋が架かっていたのか、誰か教えてはくれないだろうか?
おっと、あぶない!
水路絡みでなければ、うっかり入り込んでしまいそうな坑口が、川原にぽかんと口を開けていた。
当然のことだが、真新しいのはこの橋ばかりであり、対岸を占める発電所の施設は、“見慣れた”古さを持っていた。
背後の城山が秋の夕日を浴びて、静かな翳(かげ)りを見せている。
川原は既に暗かった。
富士川第一発電所の有効落差は約70mとされるが、それだけの高度を生む取水口は約18kmも遡った富士川自身であり、舟運に名を馳せた大河の雄大さが目に浮かぶ。
長さ20mほどの橋を渡る終えると、そこに“漢字”の銘板が有った。
本橋の名は「十島枯下橋」と書くのが正解だった。
何となく収まりの悪そうな名前だが、昔からの名であろうか?
道は橋を渡ると同時に発電所を囲む高いフェンスに突き当たり、右か左の選択を迫られるが、右は見える範囲で忽ち行き止まりなので左へ行く。
そして左へ折れた直後、フェンスに掲げられた1枚の看板が出迎えた。
この先 町道
通り抜けできません
ふ〜ん…、町道なんだねぇ。 ということは、私道じゃなくて公道なんだね〜。
冷たい素振りをしながら、微妙に情報を明かしてくれてありがとう〜。
それに、通り抜けできないとは書いているけど、「立入禁止」ではないんだね〜。
ちょっと、ワルイ自信が湧いてきたぞ。
狭いな〜。
発電所と佐野川の間に残された僅かなスペースだけが、町道に与えられている。
おかげさまで幅員は2m程度しかなく、軽トラ同士でも鉢合わせたら絶対に離合できない。
しかも敷地に沿ってカーブしているために、見通しも良くないのである。
もう少し、公道にも土地を譲って欲しいなり…。
大企業に頭を垂れる、憐れな県道の図が浮かんだ。
重要なポイントは、この道が昭和51年まで間違いなく主要地方道であったという事実である。
私が産声を上げる前年まで、これが…。
しかも、肩身の狭い道の傍らでは、発電所が常時威圧的な“音”を上げていた。
本来は富士川の広大な河床を潤していたであろう膨大な水が、アルミを作る原動力を生み出すターヴィン回転の役目に駆り出され、その後も富士川へは返されず、大半が別のどこかにある第二発電所へと連れ去られている。
その過程の一時の奔騰が、フェンスの向こうに渦巻いていた。まさに檻の中の猛獣の態だった。
だが、現在も唯一国内でのアルミ生産を続けている「日本軽金属」の国際的な競争力を支えているのが、富士川流域に同社が専用する6箇所の発電所の存在であるという。
アルミの生産には膨大な電力を要するというが、この発電所の豪壮さは確かに目を瞠(みは)るものがあった。
もっと狭くなってる?!
うん、間違いない。
路面に残された轍を見れば、明らかだ。
これではもはや、四輪車はほとんど軽トラ専用の状態…。
昭和51年以降に道が狭められたのでない限り、
この区間は「自動車交通不能区間」だったのだろうか…。
だが、本当の“驚き”は、この後であった。
“地図にいた”もう一人の登場人物が、ここでやって来たのだ…。
幅1.8m程度の激狭スロープは、発電所敷地の外周を50mほどなぞった所で、ご覧の広場に出会って終る。
発電所の取り巻きはここまでで終わり、続いて別のもののお供をするのであるが、
それは…
JR身延線の線路。
そして、“彼”との出会いが、
この頼りない旧県道を、見覚えなき魔境 へと、導くのであった…。
→【近い!近いッス! な動画】
なんと、線路と道路を隔てるフェンスが呆気なく消失し、
まるで一つの道路の上下線のような近々しさで
両者が並走するという、衝撃的な場面が現れたのである!
そして、「こんな保線用通路みたいなところを通って良いのか?」という、
誰もが当然に抱く不安と疑問に答えを与える1枚の警告板。 曰く、
注 意
この先行き止まりです。
車両の乗り入れを
禁止します。
日本軽金属 土木課
…驚くべきことに、
この状態でもまだ「全面通行止」ではないらしい。
JR東海がユルいのか? 日本軽金属がユルいのか?
思うに、しょぼくとも天下の公道である「町道」のあらゆる通行を禁止するだけの根拠と権限を、
鉄道会社も民間企業も持っていないということだろう。「町が町道と言っている。以上。」のような…。
15:32 《現在地》
そして現れた。
地形図にも存在が予言されていた、踏切道。
その名も「佐野川踏切」である。
JR東海ユルいとか書いた直後だが、ちゃんとやるべき事はやっていた。
こんな場所なのに、ちゃんと警報機だけでなく遮断機もある。
つまり、踏切の中で最も上等な「第一種踏切」に他ならなかった。
大都会にあるのと、何も変わらない。
…しかし、この踏切で“待った”ことがある人は、いったいどれだけ居るのだろう。
列車は、一時間あたり一往復程度は運行しているが…。
そして踏切を渡り、線路と位置を入れ換えた道路の行く手は…
引き続き、保線用道路さながらの仲良し並走状態であった。
ここで列車が来たら、大迫力だろうな…。
ちょっと、怖い気も……。
驚きついでにもう一つ。
佐野川踏切の甲府側には、ぼろぼろの道路標識が残されていた。
“大型乗用自動車と大型貨物自動車の複合通行止め”である。
……
…
そりゃ、この道幅を見ればその通りだろうが…
ここは物理的に違反不可能じゃないかと思うが。
だって、この先(これから行く部分)の道幅が、これまで以上に…。
そして、一番重要なのは、この標識の存在が、「かつては大型車以外の車両は通行止めではなかった」ということを図らずも示しているということである。
この段階では、まだ良かった。
しかし、次の電柱の先からが、マジで酷かった。
いーの?これ。
いや。
確かに道路と線路は重なってはいない。
なんか縁石で平面的に仕切られてはいるけれどもさ…
どー見ても、近過ぎんだろ?
(昔は)大型車通行止めでしかなかったんだろ?
以前は、普通の乗用車などはここを通ることが禁止されていなかった。
ぶっちゃけ自転車の私でさえ、いまここで列車が走り込んできたら相当に怖いだろうし、
多分運転士さんも警笛を鳴らすと思うよ。この道路に人がいる“だけ”で危険人物と判断されそう。
もし車がここにいたら、どんな風景になるのか。滅茶滅茶危なっかしいに違いない。
(私も列車が来るのを少し待ったが、少し前に来たので当分来ないと踏んで、先へ進んでしまった。)
撮り鉄さんには常識のスポットだったのかも知れないけれど、
こんなに現役の線路と現役の公道が近接しており、しかも仕切りがない場所というのは初めて見た。
…これが昭和51年まで主要地方道だったというのだから、本当に恐るべし…。