山梨県道10富士川身延線 城山旧道 後編

公開日 2013.08.11
探索日 2012.12.10
山梨県南巨摩郡南部町


線路と大河の“スキマミチ”


2012/12/10 15:35 《現在地》

刮目すべきJRと町道の超絶近接区間は長く続かず、踏切から約80m、そのうちの最も接近している終盤40mほどを終えると、接近の度合いはそのままながら、両者の間に高低差が付き始める。

そして、その高低差が人の背丈の倍くらいまで膨らんだところで、正面の小高い岩山によってまるで篩(ふるい)でもかけられたかのように、進路がまちまちとなる。

そんな篩われた2本の道の姿が、私にはこう見えてしまった。

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もっとも、
左の道の冷遇は、それが「旧道になってしまったから」というのではなかった。

どちらの方が最初にあったのかといえば、道の方なのだ。
別に鉄道は道路の進路を奪ったわけではなく、大正7年(鉄道開通年)当時の両者の力関係を如実に現わしているに過ぎなかった。
そのことだけが救いのように思われる、道路にとっては厳しい風景であった。



線路に切り残された小山を辿る町道は、これまで同様の強烈な狭さのまま、西日を満面に浴びて光り輝く富士川の岸壁を進む。

廃道ではないものの、ほとんど車が通っている様子は無かった。
一連の旧道区間は約800mであり、現在地はそのほぼ中間地点に当っている。

…残りは、一体どんな道であるのか。

県道10号をこれまで一度も通った事が無い私には予期し得なかったから、余り残りのない時間内に無事走破出来るという事を、根拠もなく期待するより無かった。




この町道に入って初めて開けた富士川の広大な川原には、その広がりに負けない巨大さを持った構造物が横たわっていた。

それは巨大な水門であり堰であり、幅400mもある富士川の流路は、“富士川一発”(第一発電所)への取水を専らとする堰に集められ、良いように搾取されてから、残滓を下流へ解放しているに過ぎなかった。
堰以外の川幅はコンクリートの水叩きに覆われていて、氾濫のない平時は無闇に乾いているのみであった。

これは「十島堰」というらしい、暴力の風景であった。
しかし自然の真の強さと恐ろしさを信じる私は、“この程度”の人類の反撃を、殊更に批判する気も湧かなかった。



12:10 《現在地》

ぬおぉっ!

行き止まりか?!

車を転回しうるだけの広場を合図に、道は線香花火のようにぶつ切れた。

入口から500m弱を進んでいるから、残りは300m程度であろうが、地形図にはこれまで同様に破線で描かれている道が、一時私の目を欺いた。



そこからほんの僅かに戻った地点には、旁らの十島堰へ下る階段が分れていた。
しかし当然のようにこの通路は厳重に封鎖されていて、立入る術は無い。

なお、十島堰は無人運転との注意書きがあったから、普段ここまで訪れる人が少ないというのは、道の状態から感じたとおりが真相であろう。


さて、如何にすべし。




なんて言うことはなかった。
道は広場で終っていなかった。
広場を突っ切り、真っ直ぐ道形は通じていた。

いっとき目を欺かれたのは、強烈な斜陽を背にした私が、轍の跡絶えた森中の道形を、無意識に排除したかったからかも知れない。

この道の“見どころ”と呼べる一大風景は既にあった。
あの線路と道路の接近状態は十分私を驚かせ、この探索の“成果”として申し分無かった。
したがって、あのままゴールへ直行したとしても、私はこの道を忘れはしなかったであろう。ボツはない。

だが、それが蛇足であろうと無かろうと、これまでの道でさえ恵まれていたことをわざわざ思い知らされねば、この旧道の走破というは叶わぬらしい。

手厳しい。




成り行き上、終盤300mの廃道区間へと入り込んだ私は、油断すれば「車道」の続きと言うことを忘れてしまいそうな風景に包まれた。

依然として「町道」ではあるのだろうが、現状で車輪の付いた物が通じている様子は全くない。
山の形をなぞるようにしてカーブしていく道が平坦に付けられている事にのみ、車道の名残を感じていた。

そして、その真っ正面の進路上にコンクリートの高い壁が立ち塞がったときには、覚悟した。

今度こそ、鉄路に進路を塞がれる!




果して立ちはだかった、上部が鼠返しのように反り返る鉄路の擁壁。

高低差は見ての通りで、如何にしても自転車を掲げ上げることは出来ない。

未だ満面に日を浴びる鉄路と、私の居る場所を対比して“光と影”とは、いささか出来すぎである。

見通しの悪さのために、いっときは本当に「窮まった」と思ったこの場面、




逃れていた!

道は“壁”に突き当たる間際、直角に近い角度で左折して終点を逃れていた。

道は鉄路に先駆けて自ら与えられてた使命を全うせんと、なおも北進を続けるのであった。

私はその健気な姿に心打たれると同時に、よく見れば「車道」に相応しい道幅があることを頼もしく思った。

しばらく車を通していないことは疑いないが、紛れもなく(古い)車道の規模を有していた!




しかも片方は絶壁!

余りに直角に切れ落ちているために、1枚目の写真では水面までの遠近が分かりづらいかも知れない。
しからば画像にカーソルを合わせて2枚目を見て頂きたい。前半とは同じ道と思えぬような豹変ぶりであった。

しつこいようだが、昭和33年にこの道は主要地方道富士川身延線に指定されている。
そして昭和51年に現在の城山トンネルが開通するまで解除されていない。




山の襞(ひだ)を大小の切通しで繰り返し突き抜く鉄路に対し、その僅か5mの下方を通行する町道は、またしてもヨタヨタと左へそれ始めた。

勾配はごく僅かながら下りであり、河川勾配とは反している。
すなわち、十島堰を見下ろした広場辺りが最高所であったとみえ、“城山峠”とでも呼ぶべき川縁の小峠を越えて井出集落へと下って行く途に就いているようであった。

ここでかつての生活道路を思わせる痕跡に出会った。
それが地蔵や古碑であれば万人の評価も得られそうな所だが、中途で断ち切られたと思しき木製電柱の欠片であるのは、地味なこの道らしいと言える。
しかし念入りに染みこまされたクレオソート(防腐剤)の為だろう。天然木にはあるまじき耐久性でその“幹”を保っていた。
どれほど古いかは正直見当が付かない。




そして幾らも進まぬうちに、また鉄路の擁壁に寄り添うようになる。

鉄道の車窓から道の存在は知れないだろうが、その路上にポイ捨てや不法投棄の家電などが少しも見られないことは、いささか消極的な判断材料とは言え、鉄路のありがたさを感じさせた。
上が道路ならば、残念ながらこうはいかなかったのだろう。

そのような良好な自然環境の為か、ここには予想外に多くの“声”に満ちていた。
私の周囲では、その枝上となく地面となく、たくさんの野鳥が賑やかにさえずっていたのである。
これには絶壁の最中にありながら長閑さを押し付けられる心持ちがしたが、嫌ではなかった。





ここで振り返ると、道がどれほど厳しい“挟撃”に晒されているかが、よく分かる眺めであった。

ほとんど垂直に近い鉄路と道路の擁壁は、どちらも粒の大きな砕石の練積であり、似ていた。
しかしそれらが同時期に作られたものであるかまでは判断できなかった。

道はなおも下り続け、徐々に鉄路から離れて水面へと近付いた。




そして十島堰以来の久々に対岸を見晴らせるビュースポットを得たが、僅かな時間と距離で風光は大きく変化していた。

既に陽は早雪を戴く南アルプスの稜線へ落ち、対岸に相対する甲駿街道中最大の難所“西行峠”の急峻を、木の下闇に覆っていた。
難所を現代に克服させた国道52号の大蛇のようなロックシェッドには、無機質的な白い照明が灯り始めているが、行き交う車は疎らだ。

空が開けたせいか、先ほどまでのうるさいほどの鳥の声は遠ざかり、代わりに川面を叩く櫂の音でも聞こえてきそうな静けさだった。

夕暮れに不思議と不安を憶えなかったのは、この道が私を通りぬけさせてくれる積もりであることが、ここまでの展開から何となく肌に感じられていたからだろう。




振り返れば、そこには十島堰によって直線に区切られた水面と、やはり薄暗く変わった岸辺の森が、灰色の懸崖によって隔てられていた。
見えはしないが、私が辿ってきた道はあの森の中にうずくまっている。

なお、水面上には数え切れないほどの水鳥が羽根を休めていた。
どこまでも平穏な夕暮れであった。




大概の廃道は思いのほかに長く感じられるものだが、ここは珍しい例外として、広場から14分という概ね想定された時間のうちに現道のガードレールが現れた。

最後まで道幅は狭いままで、車がすれ違えるような場所も皆無であった。
おおよそ自動車交通には耐えられそうにないから、主要地方道とはいいながらも、トンネルが開通する近年まで未開通に等しい状態であったと想像する。




15:51 《現在地》

だが、勾配や道幅から見て、この旧道が車道であったことは間違いない。
立地的に考えても、並行する鉄道に貨客を奪われるまでは、富士川の舟運を補佐する陸路であったと考えられる。

大正7年に隣接する十島集落に十島駅が開業したことと引き替えに、長い歴史を誇った十島の川湊が役目を終えたのは、こうした道の盛衰と連動した動きであったと思う。

ところで、この写真の眺めだけであれば、まるで私の自転車が置かれている“段”が旧道のように見える。
しかしその先は何事もない山腹であり、道ではない。
オブローダーを欺くカムフラージュとしては、かなり精巧なものなので注意されたい。

それともう一つ疑問が湧かないだろうか?




さっきまで居た鉄路は、どこへ行ったのだろうか?

現道合流地点に立っていてはまるで分からなかったのだが、少し離れたら判然とした。

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JR身延線は、とても上手い具合に城山トンネルの上を通り過ぎていた。

線路直下の土被りはあまり大きくないだろうから、トンネルの天井に列車の地響きを聞くことが出来そうだ。

それにしても、山腹にあってとても目立っている鉄路に対して
旧道の方はほんの少しも見えないことが、妙に嬉しく思われた。
地図上の道を現地で見いだし、(自転)車と共に辿り得たという探索の成果が、一層心に沁みたからである。

(カーソルオン後の画像、水面すれすれに半水没の小坑口が見えるが、堰の一部だろう)



このあと、県道は再び元の穏やかさを取り戻し、奥に見える井出の集落へ進んでゆく。
しかし私はここで引き返し、少し遠くに置き去ってきた車へと戻る事にした。

直線の城山トンネルは写真を撮り忘れるほどに平凡なトンネルだったが、愛着があった。
旧道巡りの帰結として見知らぬ現道への愛着が深まることは、いつものことだが心地ち良い。


こうして、前半と後半で大きく景色の変わる小探索は、日暮れと共に終った。