山梨県道37号南アルプス公園線 新倉旧道 後編

公開日 2013.10.31
探索日 2011.01.02
山梨県南巨摩郡早川町


後編で紹介するのは、明川トンネルの旧県道である。

明川トンネルの開通が平成7年と、前編で紹介した小之島トンネルより5年遅いが、小之島トンネルの旧道が現在も利用されているのに対し、この明川トンネルの旧道区間は既に地形図から抹消されている。
だが、明らかに「道を消したんだな」と分かる2列並行した「崖」の描き方に強烈な名残を留めており、オブローダーならば見逃し難い。

ここは僅か400mの廃道に過ぎないが、二度と開くことのないバリケードに封殺された一昔前の“南ア街道”を、とくとご覧頂こう。

新倉以奥の人口数百人の生活道路だった道だ。




バリケードの秘密 古き岳人の脅威!


2011/1/2 10:09

キター!!

眼前に現れたあからさまなバリケードに、興奮。

直前の道路がそれなりに立派なだけに、その全幅を余さず塞ぐバリケードも巨大にならざるを得ない。
しかしその塞ぎ方は全くスマートでなく、言葉は悪いが、スラム的。
廃道の外にまで、廃道の中身が漏れてきてしまっているみたいだった。
普通にガードレールで塞げば済むことなのに、徹底して塞ごうとした結果がこれらしい。

…そんなに荒れ荒れなのかと、私は余計に興味を持ってしまうンだナ。




封鎖地点のすぐ手前は桟橋になっており、その下を「早川第三発電所1号水槽余水路」というものが通っていた。

時系列的にこの時は「ふーん」だけであったが、翌朝この水路を上から見下ろして「スゲー!」するのであった。
このレポートこの写真である。




←いきなりごちゃごちゃした図で申し訳ないが、前回紹介した「放水路隧道」が潜っていた2号余水路と、今回登場した1号余水路の関係を図にまとめてみた。

ただ道路を辿るだけならば、ここまで把握しても特にメリットは無いが、狭隘で急峻な地形を上手く回避し、或いは反対に利用して、道路や発電所といったインフラがひしめき合っている様子を表現したかった。
そして左岸道路や旧県道など、大方の役目を終えたものは容赦なく地図から抹消されていくという現実も。

この複雑な配置を電力会社の内部資料などに拠らず、外部から見て取れる表示物だけで解明出来たことが、大いに自己満足的であった(笑)。
電気の話はこのくらいに、本題の廃道へ参ろう。




こいつは非道い。

返す返すも、塞ぎ方に品がない。

廃道なるものに過分な要求であるかもしれないが、
何十年も我々の隣で頑張ってきた仲間にこの仕打ちというのが、やるせない。

とまれ、この私の評は決して誰かを非難したいというものでもない。
少なくとも私はこんな場面を待っていたし、ワクワクしてしかたがないのである。

良かろう。私が味わいましょう。




うわわわわ…。

初めて覗くバリケードの向こう側は、思った通りの廃れっぷり。
平成7年の旧道化後すぐに塞がれ、そのまま15年以上の月日を放置されていた…としても、結構酷い…。

この攻撃的な様子と、バリケードの意外な高さを前に、私は自転車による走破を、早々断念してしまった。
どうせそんなに長くない区間なので、身軽な徒歩でこの廃道を往復してから、自転車を回収し現道を走った方が、先の分からない廃道に無理やり自転車を持ち込むよりも短時間で攻略出来ると思ったのだ。

ということで、自転車を乗り越えさせる必要は無くなったこのバリケードである。
右端のぺらぺらな感じの部分を少しめくって、その隙間から身一つで乗り込もうとしたのであるが…

その時私に衝撃が走った!!




なんじゃこりゃあああ!

バリケードの脇を塞いでいた金属板は、ただのブリキの板きれではなかった!

何かの案内板だぞこれっ! 酷い使い方をされているッ(涙涙)。


とりあえず、元に戻せることを確認してから、引っぺがす。
そして、その衝撃的な「内容」を、白日の下に!




バリケードの一部として転用されていた案内板は、「赤石岳登山案内図」という、初めて目にするものだった。
どこか別の場所から移されてきた物であれば価値も半減だが、右端の「現在地」の赤い印は、確かに此の場所(新倉)を指していた。
そして案内図の目的地は、題の通り「赤石岳」。それは本邦第7位標高3120mを有する高峰で、南アルプスの別名である赤石山脈の名前の元となった主峰である。

私が度肝を抜かれたのは、現在地と目的地の間を隔てる圧倒的な遠さと高低差である。
この案内図が案内しているルートを現在の地図でなぞってみると、平面距離でおおよそ25km(片道である)もある。
さらに高低差は一層凄まじく、標高500m(現在地)→2000m(伝付峠)→1400m(二軒小屋)→3120m(赤石岳)といった具合で、片道でも海岸線から富士山へ登る以上のアップダウンがあるのだ。
いかに健脚の人間でも、片道3日くらいかかるのではないか。



赤石岳は静岡県と長野県の県境に聳えているから、山梨県早川町の現在地からだと、伝付峠でまず静岡県に入り、それから住民不在の大井川源流部を横断し、改めて長野県境を目指すという、全く以て肉体イジメが趣味でなければ耐え難いようなハードコースである。
この案内板が何時頃までここに掲示されていたかは定かでないが、これが赤石岳登山の一般的なルートであったとしたら、古き岳人の健脚には感服する。

しかし改めて地図を見て見ると、これでも静岡県側の最奥集落である井川から登るよりは近いようだ。
長野県の小渋温泉辺りから登るのが行程的には一番ラクそうに見えるが、東京からならば新倉から登るのが良いのかどうか…。
いやはや、私は登山家でなくて本当に良かったなぁ…。


…これは甘かった。
実は明治時代の初め頃、山梨県と長野県は協議をして、新倉から小渋温泉がある大鹿村まで、「伊那街道」なる新道を作ろうとした事があり、実際に工事が行われた記録もある。
伝付峠はこの伊那街道の通り道であり、静岡長野県境は三伏峠(海抜2600m)であったという。
この新道は現在ゆるゆると机上調査中であり、その結果次第で、いずれ登山以外の目的を持ってこの山域に入山する日が来るかも知れない。
おそらく強力な協力者を要請した上でも、なお私の命を何度か差し出すハメになりそうだが……。



バリケードがこの位置に存在する理由は、バリケードの前で旧県道から分岐する、この道(田代川林道)があるせいだ。
伝付峠や赤石岳方面へと通じている道である。
なお、橋は明川橋といい、銘板によると同橋の竣工は昭和41年8月、管理者は東京電力となっていた。
前編で見つけた旧橋の橋台は、この橋に置き換えられたものであろう。




明川橋から下流を眺めると、現県道の「明川下橋」と、前編で潜った放水路隧道が見えた。
こうして遠景で眺めても、やっぱり土被りが皆無の放水路隧道は不自然な見え方で、吹いた。




で、これが反対側、上流の眺め。

岸壁にへばり付いているガードレールは、もちろん旧県道にして廃道のもの。
見渡す限りずっと続いている。
途切れず続いているので、大きな災害は起きていないようであるが、まだ油断は出来ない。

そしてその中ほどには、明らかに建設された年代が前後と違っていそうな鉄とコンクリートの合成桟橋が見えていた。
もちろん、廃橋である。

ちなみに、このアングルだとギリギリ見えないが、少し横にずれると、上流側にも現道を見通す事が出来た。
それは今回の旧道の終点となる「明川上橋」の、特に面白みもない姿であった。



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ビューティ・アイシクル 明川トンネル廃旧道


10:14 

自転車を置き去りにして、徒歩でバリケードを越えた。

路面は鋪装されているのだが、一面に大量の落ち葉が堆積し、さらにそれが土に変わりつつあるので、ぬかるみまではしないが、フカフカの感触である。
今はまだそれほどの植生はないものの、やがてはこの土を苗床にして木々が根付くのであろう。

バリケードを背にして、前進を開始。




いいね いいね!!

廃止される前日までの道路風景が、そのまま廃れの世界に呑み込まれている。
各種の道路標識(徐行と落石注意)やカーブミラーが、立って私を出迎えてくれた。

特に徐行の標識の存在は、この道が本当に落石の多発地帯であり、路上に岩石片が散乱していることが多いから注意しろの意図と思われ、本格的な険悪さを十分予感させるものであった。

(道路交通法における「徐行」とは、いつでも停止出来る速度で運転する事を言う。目安は時速10km程度。また、この徐行標識と補助標識のセットは「徐行区間内」を意味しており、これを解除する徐行標識が現れるまで徐行を続けろということになる。しかし、解除の補助標識を付けた徐行の標識は見つからなかった。)




実はここは桟橋の上。

路上にいても分かりづらいが、ガードレールが前後の区間に較べて少し高く、頑丈なものになっている。
しかし、先にこの眺めを見ていなければ、やはり桟橋だと気付かずに通り過ぎていた可能性が高いかもしれない。
親柱や銘板など、この橋の素性を知る手掛かりも路上にはまるでなく、私もただ通りすぎるより無かった。

なお、桟橋の上は水捌けがよほど悪いようで水が溜まっていたが、それが氷結していて、独特の雰囲気を醸し出していた。
さらに気温が下がれば一面のスケートリンクになるかも知れないが、この日は私の体重で氷が割れるくらいの氷結度であった。
崖から垂れ下がる大小の氷柱が美しいと思ったが、実はこの道の氷の祭典は、こんなもんで終わらなかったのである。
ここを過ぎると、いよいよ法面の高さが極まってきて…!





うひょおぉお!




すげぇえぇ!

法面が氷瀑になってる!




路上に直接注ぐような氷瀑の奇景絶景もさることながら、ここで私の目を最も惹いたのは、こんな場所に道路を敷いて無事に車を通すための、他ではあまり見られない道路構造上の工夫であった。

先ほど「路上に直接注ぐような」と書いたとおり、実際には路上が滝壺になっているわけではない。
そんなことをしたら忽ち路盤は破壊されてしまい、少しの出水でも通行不能になってしまうだろうし、寒冷期は路面が全て凍り付いて危険極まりないであろう。

ではどのように対処したかと言えば、これが何とも無理やりなのだが、道と滝である法面の間の僅かなスペースにコンクリートの衝立のような壁を設け、これにより流水の方向を道に沿う方向に転換。
その後、桟橋の下を通して排水していたようである。




極めて狭い崖下の土地に道路を通すため、桟橋と絡めたこのアイデアはなかなか良かったとは思うのだが、常に流れ続ける水を相手にするだけに、維持には相当こまめなメンテナンスが必要であったろう。

それが無くなった現在では、前述した通り、一帯の路面は巨大な水溜まりや泥濘と化してしまっており、平成まで使われていた道とはとても思われないような厳しい頽廃に晒されていた。

そもそも現役当時だって、風が少し強まれば路上に大量の水飛沫が舞ったであろうし、それが今日のように氷結した日には……。




挙げ句の果て、滝の水に混じってときおりこんな巨大岩石まで降り注ぐというのでは、やはり全面的な廃止もやむを得ない、世にも恐ろしいクリティカル・ロードであったに違いない。

そして今、この水浸しのボロボロになった路面の奥に、区間の終点となる現県道の明川上橋が見えてきた。

だが、最後の最後までこの道は、“谷底にあることの宿命”から逃れる事は出来なかった。
再び大規模な氷瀑が出現し、奇跡的とも思える景観を生んでいたのである。






      ↑

← 役目を終えた道路を彩る、光り輝く氷の造形。

道路を展望台に見立て、そこからの素晴らしい風景に息を呑むのは珍しくないが、道路そのものが美術館となっているのは珍しい。





しばし言葉を忘れて見入った。
なお、右の写真で氷付けになっているのは懐かしい電電公社時代の標識で、この道に長距離電話のケーブルが埋設されていることに関する注意書きであった。




氷瀑地帯を振り返って撮影。

このアングルだと、珍しい水避け擁壁の造形がよく分かると思う。

今までも小規模なものは見たことがあったが、これほど大規模かつ堂々と道路の一部として
存在するのは初めて見た。これは何か特定の名称がある道路構造物なのだろうか?
敢えて私が名付けるならば、ロックシェッドやスノーシェッドに倣って、ウォーターシェッド としたい。




最後もこんな水溜まり。

ちなみにここも桟橋になっている(ガードレールに特徴あり)のだが、この区間にある桟橋はどれも法面側に隙間が無く、それもあってか水捌けが壊滅的に悪い。
長靴装備でない場合は、足が濡れることを覚悟しないと突破出来ないくらいの水位であった。

もう引き返しても良いと思ったが、礼儀として、現道合流地点まで行った。




10:25 《現在地》

バリケードを過ぎてから10分を要して、約400mの廃道を踏破した。

派手な氷結に目を楽しませて貰ったが、まだ路盤そのものは対して崩れていないので、歩行自体の難度は高くなかったし、自転車同伴での走破も可能であったと思う。




なお、明川上橋袂の新旧道合流地点は、直ちに次なる旧道の入口となっていた。

ここは平成21年という最近に開通したばかりの新青崖トンネルに対応する旧道であり、既に一部区間が廃止されている。
そのレポートも後日用意出来ればと思っている。




明川上橋から見る新旧道分岐地点(交差地点)。
観光道路でもある現道に直に接しているからか、こちら側はやっつけなバリケード封鎖ではなく、普通にガードレールで塞ぎ、さらにデリニエータで視線誘導をしている。

この直後に私は水浸しの旧道を引き返し、自転車を回収して青崖へ進んだのであったが、このレポートはここまで。
最後に、明川上橋から眺める旧道の凄絶な立地状態をご覧頂こう。




無茶しおる!!(←褒め言葉)


やっぱり、早川すげーわ…。