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  [No.4539] 廃橋 投稿者:路傍の石   投稿日:2010/03/05(Fri) 12:24:26

良い感じですねえ。旧長崎橋。現役の写真が見られそうです。
http://tonamino.jp/syogawa/hasi/hasi.htm


  [No.4540] Re: 廃橋 投稿者:Bee   投稿日:2010/03/05(Fri) 15:24:32

コメントの方で「利賀大橋って言うバス停云々」書かせて頂いたんですが
ちょっと検索してたら、こんなブログ見つけました。

そこに道があるから
-そこに道があるから富山県が誇る?日本屈指の酷道471号、472号-
http://blog.goo.ne.jp/shiro-sb
利賀大橋
 http://blog.goo.ne.jp/shiro-sb/e/13498d6a7c2426901fd8b7950ecc0aa4
利賀大橋 再び
 http://blog.goo.ne.jp/shiro-sb/e/d520abcac93dd36ea665c724a1ac8c44

現在「利賀大橋」って言うのは名前も無いようですが、1キロほど上流の
長崎大橋とは別物と捉えた方がいいんでしょうかね。
路傍の石さんの探されたのを見てると、長崎大橋の下流100M程に旧橋
との書込みがあるんで、もっと廃橋があるのか距離誤記なのか良く分から
ないんですが。

それはそうと長崎大橋のもう少し上流に「庄川橋梁」つうのを架け、
全長6キロ強の利賀トンネル(工事中)でもって、利賀ダムから利賀行政
センターまで結ぼうとしてるんですね。
これが繋がると利便性は大分良くなるのかな。
寂しい気もしますけど、又、廃道が発生しそうではありますねぇ。


  [No.4543] Re: 廃橋 投稿者:abroader   投稿日:2010/03/05(Fri) 21:52:45

位置とデザイン的に、旧長崎橋=利賀大橋のような気がしますが...
そういえば Y! 地図で拡大してみたら利賀大橋がつながっててワロタ

しかし以前の内ヶ戸歩危、六厩川橋に続き... オブいぜ庄川水系


  [No.4546] Re: 廃橋 投稿者:路傍の石   投稿日:2010/03/06(Sat) 16:56:29

abroaderさんお気遣いありがとうございます。しかし事実は…(涙)。
Beeさんのお調べの通り、これは利賀大橋で確定です。私の見事な早トチリですね。内ヶ戸歩危のレポを読んだ時の参考とした「庄川橋名一覧」さんで、「小牧ダム」の上が「長崎大橋」なのを見て、「長崎大橋」の旧橋?と思い、ググったところ、それらしき画像を見つけて、早合点してしまいました(汗)。
「礪波市庄川町、南砺市利賀村仙野原|確固たる主体性を育む〜富山県人の教科書〜」http://red.ap.teacup.com/takaokanishi/701.html
を見れば、疑う余地は少ないようです。利賀大橋がなくなった理由も書かれています。また、利賀村史にも利賀大橋(仙野原大橋)との記載があるようです。ただ、nagajis氏のHPでは、利賀大橋は小牧堰堤に架橋、とあります。
利賀大橋(仙野原大橋)との位置関係は、というと、この位置関係を著した図画が発掘されました。昭和6年に加越能鉄道の前身、加越鉄道株式会社から発行された、「新名所庄川峡
と加越鉄道」です。
http://www2.famille.ne.jp/~masa-tee/ensen_flash/0507kaetu/0507kaetu.html
利賀大橋と長崎橋の二つが架橋され、庄川の右岸を大牧温泉に至る道で結ばれている様子が描かれています。ただし、この図の利賀大橋は、上記の「富山県人の教科書」さんで見られる橋ではなく、nagajis氏のHPによるところの、昭和9年に災害で流失した木橋ってことになります。年代的には。ちなみにこのガイドマップには、かのコンベヤー、藤橋、水力発電鉄道も、描かれています。また、このコンベヤーと木材運搬の林鉄の写真が「庄川筋における流木問題について」という書物に掲載されているようです。長文失礼いたしました。


  [No.4547] Re: 廃橋 投稿者:B   投稿日:2010/03/06(Sat) 18:00:45

なんかあっちこっちで勘違いも入った混乱あるんですね。
最初に書かれていたところの古い長崎大橋の写真というのは、どうみても例の廃橋、利賀大橋の支柱と同じですね。ディテールが同じですし、背景も水位が異なるのを除けばそっくりです。
って事はやはり長崎大橋の旧橋、残骸も残されているのかもしれません。


  [No.4548] Re: 廃橋 投稿者:ヨッキれん   投稿日:2010/03/06(Sat) 18:08:55
Re: 廃橋 (画像サイズ: 560×420 70kB)

> って事はやはり長崎大橋の旧橋、残骸も残されているのかもしれません。

横やり失礼します。
仰るとおり、長崎大橋の旧橋も、主塔が現存します。現在の長崎大橋から見れば分かります。
利賀大橋と長崎大橋は、兄弟でした。

このお話は、遠からず「その」レポートの時に書かせていただきます。


  [No.4576] Re: 廃橋 投稿者:Geo2000   《URL》   投稿日:2010/03/11(Thu) 16:56:24
Re: 廃橋 (画像サイズ: 1014×612 118kB)

> 仰るとおり、長崎大橋の旧橋も、主塔が現存します。現在の長崎大橋から見れば分かります。

Googleストリートビューで,わずかですが両橋の主塔が見れます。

5年ほど前,長崎,北原地区で1週間ほど調査業務をしていましたが,この時に利用した5,000分の1国土基本図では,長崎橋(大はついていません)が書かれており,156号線の線形も異なり,スノーシェッドも描かれていません。

一部のみ添付,長崎大橋,国道の一部は手書きです。


  [No.4716] Re: 廃橋 投稿者:Bee   投稿日:2010/04/02(Fri) 09:26:46

> このお話は、遠からず「その」レポートの時に書かせていただきます。
利賀大橋レポ、乙です。
いやぁいい雰囲気のアーチ部分だなぁ、スリムな橋にもなんか萌えるなぁ。
主塔基礎部にある片持ち梁みたいなのは、古い写真の時から見えているんで「なんだろう?」な気分です。
もちろんヨッキれんのことですから、必ずや下に回って間近に確認されることと期待して・・・(^。^)y-.。o○


  [No.4721] Re: 廃橋 投稿者:路傍の石   投稿日:2010/04/02(Fri) 23:27:31

> いやぁいい雰囲気のアーチ部分だなぁ、スリムな橋にもなんか萌えるなぁ。

こんなのいかがです?実は、ハズレ(No.4714)のアンサーに貼ろうとしたら、失敗してしまって。
今年の2月に撮影されたという、真冬の主塔とアーチ部2連の横像です。
http://images.google.co.jp/imglanding?q=%E5%BA%84%E5%B7%9D%E5%B3% ..... ;start=276


  [No.4733] Re: 廃橋 投稿者:Bee   投稿日:2010/04/05(Mon) 19:17:52

> 今年の2月に撮影されたという、真冬の主塔とアーチ部2連の横像です。
やった!確かに利賀大橋だ。
真横じゃん。落葉後だから良く見えちゃってること。
主索のアンカー部分のコンクリートも判りますね。
まるで服を脱がされたみたいな www


  [No.4723] 富山縣庄川峡利賀大橋竣工 投稿者:ひで   投稿日:2010/04/03(Sat) 00:44:24

またネット上で拾ってきました。
今度は道路関係の資料。

木橋(木製の吊橋?)だったのが鐵骨のモダンな吊橋になったとあります。

掲載誌名:道路の改良 1937年 19巻−05号 151頁

「富山縣庄川峡利賀大橋竣工

富山縣下奇勝庄川峡小牧堰堤上流に昨十一年八月起工以來施工中であつた利賀大橋は完成した。新橋は昭和九年の災害でつぶれた木橋の町村道復奮工事として工費五萬円を投じた堂々偉容を誇る鐵骨新設計の吊橋で長さ百間、幅十二尺のモダン橋である。碧流や蒼空や翠巒に輝き映えて春夏秋の行樂シーズンに杖曳く旅人の嘆稱の的とならう。利賀村と井波町杉谷を結ぶ産業線としても意義深い。」


  [No.4726] 撤去時期のナゾ 投稿者:こなつ   投稿日:2010/04/03(Sat) 12:03:34

 「国土変遷アーカイブ」鳥瞰のかぎりですが、1977(昭和52)年7月と翌年7月のあいだに、桁など中央支間の主要構造が消えたように見えますよね。
CB773X-C6-16 ←1977
CB782X-C4-1 ←1978
 福祉保養センター蔵「悶絶死パネル」ぐらいの構造でも、たぶん1977年版程度の影は出そうに思えます。その後およそ1年の間に、航路安全などの理由で撤去したのでしょうか。大橋さん証言の「昭和55年頃」ですが、航空写真にはっきり写らないほどの木片と主索などが残っていた、と考えればおよその辻褄があうかもしれません。
 なぞとして残るのは火災の時期、桁の消失(撤去?)時期、主索など撤去時期だと思います。図書館で北日本新聞をひっくり返していただけば、ある程度分かりそうな気もします。富山県民のみなさん、頼りにしてます。


  [No.4802] アレレ? 投稿者:路傍の石   投稿日:2010/04/16(Fri) 15:04:04

>  なぞとして残るのは火災の時期、桁の消失(撤去?)時期、主索など撤去時期だと思います。図書館で北日本新聞をひっくり返していただけば、ある程度分かりそうな気もします。富山県民のみなさん、頼りにしてます。

土木学会図書館のHPを見ていまして。
JSCE橋梁史年表の検索で「利賀」をググりました。
それによると、
「利賀大橋」(最近)は、1948年(昭和23年)6月開通。幅員3m全長178.8m。1965年代に火災廃橋、
とあります。その前代が1937年(昭和12年)開通。問題はそのスケール。幅員3,6m全長181,8m。僅かにデカイ。そしてその前が1934年(昭和9年)流出の木橋で、その前(大正期)は吊り橋、その前は木造刎橋だったとあります。その寿命の短さ。いかに険しい谷に架橋されていたかを示す数字ではないでしょうか。どの情報が正しいんでしょうねえ。昭和40年代に焼失していたとすれば、それから10年以上も残骸を放置した?その下を連絡船が行き来していた、なんて到底信じられないんですが。なぞがなぞを呼ぶような…。


  [No.4803] Re: アレレ? 投稿者:おーた   投稿日:2010/04/16(Fri) 23:31:20

朽ち果てた利賀大橋を見たときに木曽にある桃介橋を思い出しました。いまは綺麗に復元されていますが、以前は朽ち果てた姿をさらしていました。国道19号線が橋の下を潜っており、当時はなんで撤去しないのか?と通るたびに思ったものです。


  [No.4804] Re: アレレ? 投稿者:こなつ   投稿日:2010/04/16(Fri) 23:52:22

> JSCE橋梁史年表の検索で「利賀」をググりました。
こんな史料があるんですね。ご教示ありがとうございます。

> 「利賀大橋」(最近)は、1948年(昭和23年)6月開通。幅員3m全長178.8m。1965年代に火災廃橋、
「1965年代」ってことは、どこかにある原史料に
「昭和40年代」と書かれていたとは考えられないでしょうか。


  [No.4806] Re: アレレ? 投稿者:路傍の石   投稿日:2010/04/17(Sat) 17:07:18

> > 「利賀大橋」(最近)は、1948年(昭和23年)6月開通。幅員3m全長178.8m。1965年代に火災廃橋、
> 「1965年代」ってことは、どこかにある原史料に
> 「昭和40年代」と書かれていたとは考えられないでしょうか。

そうでしょう。それが一番臭いでしょうね。だとすれば西暦的に1965〜1974までに火災廃橋ということになりますよね?それでも、私達読者の情報では、1979年に哀れな姿をさらしていた…そいうことですから、少なくとも5年は、あの姿で撤去されずにいたことになりません?その下を連絡船が日に何往復もしていて。まあ、探索の期間が狭まった、ということで。ちなみに、1970年頃、利賀村って武蔵野市と姉妹都市になって、武蔵野市の小学生が毎年だったかな?利賀村を訪問しているようです。当時の道路事情から察するに、牛岳車道ルートでしょうから、総数的にかなりの武蔵野市民の目に触れていると思うんですがねえ。


  [No.6388] Re: アレレ? 投稿者:路傍の石   投稿日:2011/11/04(Fri) 00:08:19


  [No.6400] いいえ、お宝です。 投稿者:Woo   投稿日:2011/11/07(Mon) 22:37:03

> 今更ながら、変なもの発見。
> http://library.jsce.or.jp/Image_DB/koshashin/ishii/02/index.htm

「変なもの」どころか結構なお宝を見せてもらいました。
木材輸送のかつての賑わいを見ると、庄川の水路自体が由緒ある「廃道」なのだと言えましょうか。(連絡船があるので「現役」?)
利賀旧橋(No.9画像)には萌えました。キャプションからすると、旧橋の時点で「利賀大橋」と称していたのかもしれませんね。
ご紹介いただいたページの「親ページ(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/koshashin/ishii/)」→「アルバム3」→「No.50画像」も秀逸ですな。


  [No.6401] Re: いいえ、お宝です。 投稿者:路傍の石   投稿日:2011/11/08(Tue) 00:01:18

(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/koshashin/ishii/)」→「アルバム3」→「No.50画像」も秀逸ですな。

このカットは、確か、戦前絵葉書にも度々登場しますよ。色つけた、カラー版も存在します。換言すれば、ここが出所だったのか…ですね。


  [No.6404] まさに、お宝です。 投稿者:こなつ   投稿日:2011/11/08(Tue) 11:05:04

> 「変なもの」どころか結構なお宝を見せてもらいました。
まったく同感。おどろきました。1930/11/27撮影とは。小牧発電所の運開6日め、しかも流木争議の真っ最中です。「流材を唯一の業とする沿岸民数千の失業問題」となり、このあと流材会社がイヤがらせに丸太をジャンジャン流し、翌年1月には二万七千石用水取入口あたり(No.36-38)で、双方600名の流血の乱闘となるわけです(url)。35ミリは事実上1925年発売のライカI型しかない、新聞にも写真の少ない時期の貴重な映像史料です。

> 利賀旧橋(No.9画像)には萌えました。キャプションからすると、旧橋の時点で「利賀大橋」と称していたのかもしれませんね。
小橋も「利賀小橋」(No.58, 60)ですね。石井頴一郎氏のキャプションは支流名などかなり詳細で、全般に地図などを見ながら書いたと推測させます。いつ書いたかが問題ですね。庄川水力発電が架けた初代吊り橋のなまえが、二代目「仙納原大橋」か、初代「利賀大橋」かは謎です。


  [No.6411] Re: まさに、お宝です。 投稿者:Woo   投稿日:2011/11/10(Thu) 19:53:21

路傍の石さん、こなつさんコメントありがとうございました。

> まったく同感。おどろきました。1930/11/27撮影とは。小牧発電所の運開6日め、しかも流木争議の真っ最中です。

単に「活況を呈する流材の様子」と思っていましたが、そんなに緊迫した背景があったわけですね。

それから気楽に「利賀旧橋」と申してしまいましたが、路傍の石さん、ひでさんのコメントをよく見ますと、この画像の橋は、1930(昭5)年竣工、34(昭9)年には流出した旧々(廃)橋で、この後に37(昭12)年と、48(昭23)年の2代の架橋があったということになりましょうか。48年橋はヨッキさんのレポートでほぼ全貌が分かりましたが、2代前の旧橋(37年)は、意外にも素性(スペック、架橋場所、廃止の経緯等)が不明確です。「利賀大橋」、「仙納原大橋」、「長崎大橋」と名称候補も錯綜してます。さすが利賀、奥が深い。
ヨッキさんも、
> このお話は、遠からず「その」レポートの時に書かせていただきます。
とのことで期待大です。

いやぁ、本当っに「山行が」って楽しいですね!


  [No.6419] Re: まさに、お宝です。 投稿者:路傍の石   投稿日:2011/11/13(Sun) 23:50:44

不思議なんですよね。今、無残な姿をさらしている利賀大橋の、まともな姿を捉えているのが、とやまデジタル映像ライブラリー(http://www4.tkc.pref.toyama.jp/video/video_detail.phtml?record_id ..... ay=allplay)ぐらいですから。大牧温泉か、庄川峡ネタの絵葉書に、写っていても何ら不思議ではないんですが。1930年の利賀大橋が、短命だった割にあれだけ画像が残っているのに…。


  [No.6440] Re: まさに、お宝です。 投稿者:路傍の石   投稿日:2011/11/19(Sat) 11:58:42

酷い…かな?どっぶりと濁流に呑まれた庄川町の藤掛橋の、写真を見かけました。利賀大橋が突風で壊れた。んな馬鹿な!と思ったのですが、利賀大橋が破壊されたその翌年、庄川を襲った大洪水。小牧ダムが必死に放水する(その画像もあるようです)その一方で下流は…という写真かと思われます。通りで昭和12完成の利賀大橋が高く架け直されているはずだと思った次第です。http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/966/73/N000/000/002/11881 ..... 127727.JPG


  [No.6442] Re: まさに、お宝です。 投稿者:abroader   投稿日:2011/11/20(Sun) 05:44:47

> 不思議なんですよね。今、無残な姿をさらしている利賀大橋の、まともな姿を捉えているのが、とやまデジタル映像ライブラリー(http://www4.tkc.pref.toyama.jp/video/video_detail.phtml?record_id ..... ay=allplay)ぐらいですから。大牧温泉か、庄川峡ネタの絵葉書に、写っていても何ら不思議ではないんですが。1930年の利賀大橋が、短命だった割にあれだけ画像が残っているのに…。

以前別スレで利賀大橋の絵はがきを指摘した気がするのですが、念のためもう一度

http://www.pocketbooks-japan.com/images/products/f5001-9999/f8449.jpg


  [No.6409] まさに、お宝です。(url) 投稿者:こなつ   《URL》   投稿日:2011/11/10(Thu) 10:12:11

前便urlを貼り忘れたようです(翌年1月の大坂毎日の記事です)。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00 ..... &POS=1


  [No.4552] Re: 廃橋 投稿者:閑人   投稿日:2010/03/08(Mon) 20:47:14

Google地図では、利賀大橋までの道が実線でありました(利賀大橋はありませんでした)。


  [No.4766] 全焼の理由についての考察 投稿者:ヨッキれん   投稿日:2010/04/10(Sat) 19:01:24

利賀大橋が全焼に至った理由について、複数の読者さまから、全焼するなんて不自然だ。誰かが油を撒いて放火したのではないかというような疑問がコメントされています。

しかし思うに、吊り橋部の木材にはクレオソートやコールタールのようなものが塗布されていたのではないでしょうか。だとすると、ただの木材以上に激しく燃焼したのではないかと想像しています。

今でも地方の農道などの木橋では、コールタールが使われていますよね。


  [No.4769] Re: 全焼の理由についての考察 投稿者:のら猫   《URL》   投稿日:2010/04/11(Sun) 05:08:43

> しかし思うに、吊り橋部の木材にはクレオソートやコールタールのようなものが塗布されていたのではないでしょうか。だとすると、ただの木材以上に激しく燃焼したのではないかと想像しています。

はい、良く燃えますよ
似たような条件のものとして、鉄道の枕木がありますが(といっても若い方はPC枕木しか見たこと無いのかな)、学生時代通っていた銭湯が廃棄処分された木枕木を燃料にしていたくらいです


  [No.4773] Re: 全焼の理由についての考察 投稿者:通りすがり   投稿日:2010/04/11(Sun) 12:51:58

富山は雪の質が湿っぽいためか、昔から外部に露出する木材には
コールタールよく塗りますね。実際農作業小屋とか母屋の木材が
黒いのはほぼコールタールだったと思います(除く平成の建築)。

なので10数年前に小矢部市で籾殻の燃えカスから出火した火事は
散居村を延々4キロくらい渡り歩くように数件燃えましたし。
コールタールを「こったん」なんて呼んでました(コレ他地域もそう呼ぶのかな?)。

昭和50年代までの冬は壮観でしたよ、もともと瓦がほとんどの家で黒で
外の壁が漆喰の白、露出部の木材は黒、で、雪は白。
杉の葉っぱなんかも黒っぽく見えるので小高い山の上から見ると
ホントに白と黒の世界でした。
すいません、感傷に浸りながら横道に逸れてしまいましたw