「山さ行がねが」より、読者の皆さまへのお願い。 |
当サイトは長年にわたってグーグルアドセンスの広告収入をメインの活動費源としておりますが、近年の広告単価の大幅な減少により、レポート内に過剰に多くの広告が掲載される状況が慢性化しておりました。この点を反省し、2023年9月15日頃から広告の表示数を40%程度減らしました。 また、2023年12月中旬から、新たに公開するレポートについて、スマートフォンでも読みやすいデザインへと刷新しました。 当サイトは今後、アマゾンアソシエイトなど物販系アフィリエイトを収益の軸とする考えです。多くの読者様が日常的にAmazonなどのオンラインショッピングを利用されていると思いますが、その際に当サイトの 【リンク】 を経由して頂くことで、リンク先での購入代金の数%がサイトの収益となります。当サイトをご利用の読者様にはぜひ御協力いただきたく思います。さらに2024年には、私が探索で使用している各種のギアを紹介する物販コーナーも開設予定です。 |
11:34
隧道が現存していなかったことは残念である。
十日町市史にも記載されていなかったくらいの隧道だから、帰宅後に机上調査をしようとしても、おそらく多くは得られまい。
いまこの現地にいるうちに、なんとかもう少し実態に迫れないだろうか。
この機会を逃したら、もう二度とこの隧道に迫る機会はなくなってしまう可能性だってある。
浅河原交差点の角に、食堂がある。
しかも今はちょうど昼営業が始まっている時間帯らしい。
この土地で長く営業している雰囲気があるので、お店の人が隧道をご存知なのではないだろうか。
ちょうど腹も減っているし、行ってみよう!!
わるにゃん → 雪中行軍 → 車をかっ飛ばして 20分後……
11:54 《現在地》
こっ!! これはーーーッ!!!
(この先は、お食事処 和泉軒 本店さまの許可を得て撮影しました)
焼肉定食(1030円)を注文後、店内を見回すと、壁に私好みのセピア色の古写真が、何枚も掲げられているではないか!
このお店、間違いなく大当たりである。
まず目に飛び込んできたのは、壮麗なる吊橋の写真。
説明書きなどはないが、これが十日町橋の最初の橋の姿であることは、すぐに分かった。
この店内に掲げられる橋の写真として十日町橋を措いて何があろうというのはもちろんだが、以前読んだ新潟日報事業社の『十日町・中魚沼 (写真集ふるさとの百年)』に、この特徴的なトラス補剛吊橋を見たことがあった。
そして、今回これを書くにあたって改めて『十日町市史 通史編5 近・現代二』に目を通したが、まさしくこの写真の橋は、ちょうど今から100年前の大正13(1924)年に完成した初代・十日町橋である。それまでは十日町周辺の信濃川には橋がなく、下流の魚沼橋(現・小千谷市)から上流の宮野原橋(現・津南町=長野県境)まで40km以上も空いていた。そこで新潟県の一大事業として、2年あまりの難工事の末完成したのが、長さ185mの補剛吊橋と405mの連続木橋からなる全長612mの十日町橋だった。
完成した十日町橋だが、木橋部分が毎年のように洪水の被害を受け、昭和10(1935)年にはバスが転落する死亡事故も起きている。昭和26(1951)年に老朽化した木橋部分をRC桁に架け替えたが、吊橋部分はそのまま使われ、昭和42(1967)年に今度は吊橋部分をブレートガーダーやPC桁に架け替えた。さらに昭和55(1980)年にも一部の桁をPC桁に置き換えたのが、現在の十日町橋である。
したがって今の橋も大正時代の初代橋と全く同じ位置に架かっている。桁は全て作り替えられているが、段階的な架け替えだけで対処してきているので、現在使われている橋の竣工年がいつなのか悩ましい。道路管理者は、昭和42(1967)年としているようだ。
そして、トンネルの中から前述の十日町橋を撮影した、この写真。
これは、千手隧道だ。
現在も千手トンネルという名前のトンネルがすぐ近くにある。
もとは、十日町橋とセットで整備された全長約245mの隧道だった。(竣工年はおそらく十日町橋と同じく大正13年)
その後、昭和26(1951)年と昭和53(1978)年に大規模改修が行われ、現在の千手トンネルは昭和53年竣工とされている。
和泉軒 本店は、初代十日町橋北詰角地、すなわち現在の地点に、架橋間もなく創業した。
「大正14(1925)年8月」の記載があるこの写真が、創業当初の建物だ。
橋は見えないアングルだが、背後が信濃川の河原である。
当時周辺に他の人家はなく、新しく整備されたばかりの道路沿いにぽつねんと建っていた。
「開業拾周年記年」写真。
よく見ると母屋が同じであることが分かるが、大規模に建て増しされており、盛況ぶりが窺える。
大きな看板には「支那廣東料理 洋食喫茶 和泉軒本店」とあり、左右には「支那そば」と出ている。
店前に停まっているのは、フォードだろうか。
明治44(1911)年と昭和28(1953)年の地形図を比較すると、十日町橋の完成前後で周辺の道路網が一変していることが分かる。
架橋以前の松之山街道(十日町から松之山を経て直江津に通じる街道で、明治大正期は県道だった)は、十日町を出ると間もなく信濃川を城之古渡し(たてのこしわたし)で横断して浅河原に出たが、架橋後は橋の北詰に丁字路が出来て、左折すると松之山・直江津方面、右折すると千手・柏崎方面となったので、この丁字路は中魚沼郡有数の交通の要衝となった。
和泉軒本店創業者は大いなる先見の明をもって、百年栄える土地に開店したのである。
さて、十日町橋と和泉軒本店の歴史に関わる貴重な古写真を4枚見てもらったが、
本レポートと最も関係の深い最後の1枚が、ある。
刮目せよ!! (↓)
十日町橋の北詰親柱の位置から、和泉軒本店の建物と背後に聳える段丘崖を写した、撮影年不詳のこの写真。(吊橋時代なので、昭和42年以前なのは確定)
この写真の段丘崖をよく見て欲しいのだが、
チェンジ後の画像に示した位置に、電光形に折れた道形がある。
実はこの道は、“隧道”が掘られる以前に使われていた“旧道”だという。
この話をして下さったのは、私の質問攻めに快く答えて下さった、ことし44才という店のマスター。
私よりも若いが、幼きよりこの地に育った先達である。
この写真の“旧道”は、マスターが物心ついた時にはもう跡だけの存在であったという。
察しの良い方ならもうお気づきだろう。
レポートの最初の方でその存在に気付いた、崖の中の仄かな道形の正体が、これであった。
この道は相当に古くから存在したが、ある時に崩壊し、代わりに建設されたのが、途中に短い隧道がある2代目の道だったという。
それこそが、高橋少年が昭和53(1978)年に探検し、私が今回探索した道である。
以下、和泉軒本店マスターよりお伺いした話を箇条書きにしてまとめる。
和泉軒本店 店主の証言集 (1)
とりあえずここまでで一旦区切る。
昭和53年に隧道を探検したと語る高橋少年に続いて、平成元年にこの地で隧道への登り口が閉ざされる場面を目の当たりにしていた幼き日のマスターも、この崖に穿たれた隧道への探検心に取り憑かれ、禁じられた穴との逢瀬を、秘かに楽しんでいたのである。 おお、少年たちよ…… おお…。
特に明り窓のくだりなどは、実際に潜った人間でなければ知り得ない情報であり、全く真に迫っていてウラヤマシイ。
こうして、平成初期までは確かに廃隧道&廃道状態で現存していた穴と道だが、その最期というのは、以下の通りであったようだ。
和泉軒本店 店主の証言集 (2)
新潟県中越地震後に崖全体が法枠工に覆われ、その際に隧道は埋め戻されたとのことだった。
貴重な証言集のフィナーレは、マスターのご母堂の子供時代(60〜70年くらい前)の話となる。
和泉軒本店 店主の証言集 (3)
隧道がいつ誕生したかは、残念ながらはっきりとしたことが分からなかった。
隧道以前にあったという初代の道は、大正13年の十日町橋建設を契機に、橋への連絡を考えて整備された可能性が高いだろうから、それが崩れて隧道が作られたのなら、2代目の道は昭和以降なのは確かだろう。そして、60〜70年前に小学校への通学路として坂道が使われていたとの証言もあったが、当時既に隧道があったかのかについて、はっきりとした確認は取れなかった。
あともう一つ残念なお知らせとして、隧道を撮影した写真は、所蔵していないとのことだった。
果たして、隧道はいつ、いかなる人の手によって、建設されたのであろう。
それが公道であり、また道路法の施行以降であれば、道路台帳が自治体によって整備されていたはずで、そこに記載されたことがあったと思うが、既に廃止から時間が経過しているとみられ、町村合併もあったから、古い台帳の現存は期待が薄かろう。
せめて、隧道が描かれた地図だけでもと思ったが、歴代の5万分の1地形図に描かれていないことは確認済。
ただ、十日町情報館には、いわゆる住宅地図のような詳細度を持っていると期待される「十日町市住宅明細図1969」などの地図資料の所蔵が確認できているので、今後訪館して内容を確認できたら追記したい。
和泉軒本店さま、ごちそうさまでした! とても美味しかったです。料理も、写真も、人情も。
そして、あと一歩、隧道の真影に届かなかった今回の探索であるが、探索を通じ、おそらく近隣の多くの元少年がこの隧道を探検しているという気配を感じた。引き続き、体験談や写真の発見に期待したい。マジでヘアピンカーブの先端に隧道があったのか、気になるなぁ……。