2015/9/14 15:17 《現在地》
見事な二次放物線のアーチを描き出した石造の坑門。
ただし、放物線云々というのは「廃道本」で読んだ記憶から導かれた言葉であり、肉眼でアーチ形の正確な区別をするのは不可能だ。
例えば、多心円アーチと呼ばれるものと、二次放物線アーチの区別は、正確な測量でもしなければ難しいといわれる。
一般的にアーチの高さ(ライズ)に対する幅(スパン)の比をライズスパン比といい、半円アーチで1/2となる。扁平になるほど数字が小さくなり、扁平アーチと総称する。アーチ橋と呼ばれるものは、ほぼ例外なく扁平アーチである。
逆にライズスパン比が1/2より大きな値を取るものは縦長なシルエットになり、尖頭アーチと総称される。
なお、アーチとして最も安定した構造は半円アーチで、そこから離れるにつれて徐々に構造としては不安定になっていく。
…といったところが、私の中の一般的なアーチに対する理解である。
補足として、鉄道用の暗渠にはそれなりの頻度で尖頭アーチが用いられるのであるが、これには理由があって、大正5(1916)年に国鉄が制定した「混凝土拱橋標準」という示方書に、半卵形アーチやビリケンアーチと呼ばれる尖頭な多心円アーチが制式されていたためである。しかし、本隧道は明治の作であることや、多心円アーチではなく放物線アーチとされていることなどから、両者に直接の関係は無いだろう。ただし、尖頭アーチに至った技術的根拠には重なる部分があるかも知れないが、不明。
数学的な興味と、技術的な興味と、単純な珍奇なものへの好奇心という、三重の魅力で私をしばし釘付けにした石造放物線アーチであるが、やがて我に返って、通常の探索を続行する。
まずは首を上に向けての坑門観察。
アーチ、スパンドレル、帯石、笠石などといった石造坑門の標準的な構成要素が見て取れたが、その全体を覆い隠してしまうほどに濃緑色のツタが勢力を強めていて、お洒落な洋館のような洒脱した雰囲気を醸し出していた。代官山ってカンジ(←無根拠)。
なお、こびり付いているツタは、季節によって紅葉し落葉もする種類なので、この雰囲気も夏に訪れた故の個性だろう。
悪い印象はない。というか、素直にかっこいいと思った。
ただし、ツタのせいで肝心の扁額が読めなくなっていたら残念だったのだが、どうやらそもそも扁額は無いようだ。
それでは、入洞。
隧道に数歩立ち入ると、そこはもう完全に外の世界とは違う隧道内という独特の風景となり、激藪との格闘は過去の出来事となる。
印象的なアーチの巻き立ても、奥深くまで続いているわけではなく、ほんの入口付近の5mほどだけであるから、これは全ての隧道にとって構造的な弱点となる坑口付近の坑道を保護することと、あとは幹線道路の隧道という格式としての巻き立てであり坑門工であったのだと理解した。
隧道の全長は目測で約50mで、現隧道の97mに較べれば半分程度である。
そしてその大半が吹き付けさえされていない純粋な素掘の壁で、しかも昭和38(1963)年の旧道化から半世紀を経ている割には、洞内の崩落は皆無である。
あまりの綺麗さに、向こう側は普通に(遊歩道か何かで)現道と繋がっているのでは無いかと思ったほどだが、そうではないことは、出口のシルエットの“廃隧道らしさ”が、教えていた。
紛れもない、完全廃隧道である。
奇抜なものだと思った放物線アーチだが、洞内から見るシルエットは案外に目に馴染むというか、違和感は少ないと感じた。
単純に少し見馴れてきたというのもあるだろうが、全体として縦方向に長いというシルエットが、トンネルとしてはオーソドックスだからだろう。
だが、それでも決定的に違っているのは、アーチの天端(てっぺんのこと)が、どう見ても円のカーブと重ならないと言うことだ。
単心円アーチであろうが多心円アーチであろうが、つまり鉄道用トンネルみたいな縦長の馬蹄形のもの(これも多くは単心円アーチと側壁の組合せ)であっても、広幅員の扁平なもの(多心円アーチ)であっても、天端部のカーブは円弧であるから、あきらかにそうでない二次放物線カーブを使っている個性が、この天端部に集約されている。
あとこれも一般的な隧道の断面ではあまり見られない特徴だと思うのだが、恐らく両側の側壁も地面に接するところまで微妙にオーバーハングの傾斜が付いており、最後まで垂直にはなっていないっぽい。
ということは、ある意味この隧道に“側壁”は存在せず、全体が単一の二次放物線に近似されている可能性がある。どんな方程式かは、ちょっと計算出来ないが。
…おっと! 気付けばまたあまり喜ばれそうもない、アーチの形の話になっていた。
洞央部に到達。
素掘の内壁も坑門工に近い放物線っぽい断面になってはいるが、単に楕円かも知れない。
また、道幅は巻き立てがない分だけ左右に広く、坑門の印象よりはだいぶ中が広い。
これなら、昭和30年代に流通していたような今よりも小さな乗用車同志ならば、すれ違いが出来るだろう。
もしかしたら、坑門は明治時代のままであっても、拡幅しやすい内部は後年(たとえば昭和初期)、自動車交通に足るよう拡幅された可能性がある。
写真でも向かって左側の壁が凹んでいるような感じを受けるが、これも待避所として拡幅された跡ではないのだろうか。
隧道の先が恐らく見通しの悪いカーブになっているので、ある程度は隧道内でもすれ違える幅がないと、たちまち大渋滞になってしまいそうな立地だ。
短い隧道なので、初めから見えていた出口に近付くのもあっという間である。
そして期待通り、この南口にも北口同様の放物線アーチの巻き立てが施工されていた。
しかも、素掘と巻き立てが切り替わる部分には、“隧道内坑門”とでも言うべきものが、堂々たる姿を見せていた。
後年の補修がどの程度なされたのか分からないが、本来は(薄暗くて)人目に付きづらいこの部分でさえ、蟻一匹紛れ込むスキマのない緻密な施工が施されていた。
まさに、作品と呼びたくなるような完成度である。
なお、その先の本物の坑口は、太陽の照る方向に脱出するので逆光が激しいが、断面の7割くらいが外から押し寄せた崩土に埋没していた。
不安なのは、その崩土の山で隠せていない緑の沢山あることだが…。
まあ最悪、隧道は収穫したし、完全に踏破しなくても良いのかな……?
ざっく、ざっくと、
崩土を踏み越え、
世界へ出てみれば…。
ゲロぶー!!!!!
こ、 これは…。
自転車持ってこなかったのは大正解だ!
つうか、マジで前進を躊躇うレベルだが……、
しかし距離はほんの50mくらいなはずなんだよな。
車の走る音も、ガンガン聞こえてくるし。
15:20 《現在地》
と、
とりあえず、これを見て落ち着こう。
そうしよう。 そうしよう。
… ふ う。
いい坑門だ。
崩土で地面が盛り上がっているせいで、坑門アーチの文字通り要である、要石(かなめいし/キーストーン)が触れられそうなほど近くにある。
伝統的に要石はアーチ環を構成する他の石材よりも大きなものが用意され、出っ張って作られる事が多いのだが、この隧道もそうなっている。トラディショナル!
また、アーチ環を組み上げる順序にも決まりがあって、天端に要石を嵌め込むのは一番最後である。(坑道全体で見れば前後の端から摘むので、洞央付近の天端が最後になる)
さらばだ。隧道。
お前の中だけは、幸せだった。
だが、一歩外へ出ればこの有り様である。
離れがたいが、引きこもっていても五幡は近付いてこない。
なお、北口以上に全体像を把握しにくい状況になってしまっているこの南口であるが、坑門工の作りや意匠は北口と変わらないようである。
やはり扁額は存在しない。
つまり、現場にはこの隧道の正式な名前である、本レポート表題となったものは、どこにも記されていない。
私自身、この隧道に本での見覚えはあったが、名前までは覚えていなかった。
ミ゛ーンミ゛ンミ゛ンミ゛ンミ゛ン
ミ゛ーンミ゛ンミ゛ンミ゛ンミ゛ン
ミ゛ーンミ゛ンミ゛ンミ゛ンミ゛ン
短いので大して涼しくもなかった隧道内だが、外の暑さはやばかった。
背丈よりも高い草が周囲に蔓延っているので、草いきれというやつなのか。海がそこにあるのに、風もねぇっ!
写真は、隧道からわずか10mほど離れた所から振り返って撮影したのだが、どこに写っているのか分かります?
咄嗟には見分けがたいレベルで“没し”ているのが分かると思う。
また、隧道が潜っていた岩場の高さも、よく分かるだろう。
ここに50mの隧道を穿つことは、この海岸沿いに道路を建設するためのには避けがたいことであったように思う。
予感として、これよりも古い世代の道があるとしたら、それはだいぶ離れた場所だろうなという気がした。
ゲロブーとか言っていても仕方ないので、毛虫を全部見ないモードに視覚セットし、“すぐそこ”のように聞こえてはいる車の走行音を目指し、見えない路面へ“漕ぎ”出した。
何も本当に見えないし、地面を歩いている感覚がない。
ふわふわの草山徒行だ。
マント群落の恐怖を遺憾なく発揮している。
なんだと?!
頭上に高木の木陰が生じたことと、法面からの崩土のため、幾らか藪がマシな一角に辿り着いたが、そこには貨物車のコンテナだけがポツンと置き去りになっていた。
なんなんだこれは。
根掘り葉掘りする気力は無く、スルーしたが…。
「あー、見えてきた〜。」
時間的には大して掛かってなどいないのだが、このクラスの激藪は、心に来る。
ましてや長い旅の途中で、それなりに先を急がなければならない今みたいな場面だと、こんな事をやっていて良いのかという自問自答が始まりがちなので、心が折れる前にさっさと目的地を見つけて励まされないとやってられないのだ。
見えたからには、もう大丈夫だ。
最後の、おそらくは今までで一番濃いであろうマント群落も、八箇峠仕込みの徒手空拳で正面突破した。
15:27 《現在地》
隧道を離れて4分後、無事に激藪を征して現国道との合流地点に辿り着いた。
こちらは先ほどの北口のように完全に洞門の壁で分断されているわけではなく、一応は現道の路面と洞門の側面を通じて繋がっているのだが、分岐部には二度と動かす気がなさそうなコンクリートブロックが鎮座していた。
立ち入りを規制する掲示物はないが、旧道は目に見えて森に還りつつあることと、国道が駐車禁止で実際に駐車する余地も無いため、道路管理者からも既に無視されているっぽい。
権威ある土木学会が「日本の近代土木遺産」としてとりまとめた全国2800件の土木遺産の中に、本隧道は3ランクあるうちの中位のBランクで採り上げられているのだが、このように訪問はそれなりに面倒で季節も選ぶ現状である。
喧騒の坩堝へ帰ってきた。
ここは黒崎隧道の南口である。
こちらも坑門と洞門が接着しており、本来の坑門はほとんど見えない。扁額も相変わらずだった。
こうして旧道探索は終わったが、まだすべきことがある。
自転車を、回収しに行かないと!
ということで、この直後に肩身の狭い想いをしながら黒崎トンネルを歩行した私は、毛虫の草むらに埋もれていた自転車を回収。
こうして私の小さな廃道探索は、国道を走り去る数人の目に映っただけでしめやかに完了し、次に移動を開始して2分後には次の探索の1枚目の写真の場面に到達していた。
このあとは机上調査編です。
チャンネルは、そのままで!
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「北陸道」とは、ざっくり言うと、わが国が「大化の改新」(西暦646年)後に初めて体系的に定めたとされる国内の大まかな地方区分と、そこへ至る交通路(官道)である「五畿七道」のうち、京を起点として日本海沿いに高志国(こしのくに)へ至る北陸の官道の名前および、その沿道の国々からなる地方区分名である。
おそらく「山行が」が過去に取り扱った道の中でも最古参に属するものであり、普段ターゲットにしている「近代以降」から見れば、10世紀を遙かに超える大昔である。だが、今回は無関係とはし難い。というか、そこから話した方が近代の道路である阿曽隧道を説明しやすいのだ。急がば回れというやつである。
なお、この話は、前回のレポートの机上調査編と関わりが深いので、既読だとより分かり易いと思う。
まずは古代から近世そして近代初期に至るまでの、木の芽山地を挟んだ敦賀〜武生間における、北陸道の大まかな変遷をご確認頂こう。
極めて長い期間の変遷であるから、ここに示せない(そして私の知らない)細かい換線もあるのだろうが、一般的に言われているのは左図のような変遷となる。
すなわち、北陸道は最初期において山中峠を越えていたが、平安時代の初期には、より近道となる木ノ芽峠が開削されると、換線が行われた。
その後長くこのルートが北陸道とされたが、近世直前に従来の京都起点ではなく、東海道を米原で分岐し、敦賀を経由せず近江国から栃ノ木峠を越えて越前国へ入る道が本道となった。この道は古代律令制度に由来する北陸道の系列ではあるが、一般には「北国街道」と呼ばれる。
ここまでが近世以前である。
近代、すなわち明治政府による道路制度は、他の諸制度と同様、古代律令制度に範をとる部分が多かった。
そのためか、明治6(1873)年にわが国で最初に公布された全国道路網の管理に関する法(厳密には太政官達といい法律ではない)である「河港道路修築規則」において、全国の道路を重要度に応じて「一等〜三等道路」に区分した際には、一等道路として「北陸道」の名前が採り上げられている。しかしそのルートが具体的に示されたわけではなく、あくまで近世までの「北国街道」をそう呼ぶと定めたまでである。
次いで明治9(1876)年に、わが国に初めて国道や県道といった道路呼称が誕生するとともに、一等道路「北陸道」は国道三等「北陸道」へ呼び変えられた。
さらに明治18(1885)年になると、またしても呼称を一変させる制度変更があり、国道を初めて路線番号で呼ぶようになる。と同時に、国道については初めて起点、経由地、終点などが指定されるようになり、国道三等「北陸道」は、東京を起点に福井県庁を終点とする「国道十八号線」となったのである。
このように近代初期に北陸道の呼称は色々変化したが、経由地に敦賀が復帰することは明治時代を通じてなかった。常に栃ノ木峠が国境改め県境であり続けたのである。
すなわち、今回採り上げた「黒崎」に穿たれた明治隧道は、決して国道としての「北陸道」に誕生したものでは無かった。
この隧道を最初に誕生させたのは、今は無き、敦賀県。
明治13(1880)年に大谷直郎という人物が記した「越前国敦賀郡地誌略」なる地誌に、この画像が掲載されているのを見つけた。
その名も「隧道」と名付けられた、いかにも時代を感じさせる絵図風のイラストだが、切り立った岬に穿たれた隧道や、遠くに見える砂浜の集落などは、まさしく今回探索した現場にそっくりである。
そして本文には以下のように書かれている。
又挙野ト阿曽ノ間ニ利椋峠アリ、其海ニ出ル所ノ山端ニ長三十間、幅一丈ノ隧道アリ、明治九年旧敦賀県ノ時之ガ工ヲ起シ、明年滋賀県ニ至リテ竣成ス
キター!! である。
隧道の名前はここにも書かれていないが、挙野と阿曽の間という情報も、今回の隧道に合致する。
利椋峠(りりょうとうげ?「とくらとうげ」と読むそうです)というのは初めて目にする名前だが、明治42(1909)年版地形図に(現行の地理院地図にも)描かれている山側の破線の道であろう。どうやらこれが古代からの北陸道であるようだ。
なお隧道の竣工年についてだが、「廃道本」や土木学会の「日本の近代土木遺産」は、明治9(1876)年竣工としているが、本書の記述を厳密に受け入れるならば、起工が明治9年で、竣工は翌明治10年ということになり、新情報かもしれない。
そして、本書に書かれた長さ30間(約54m)幅1丈(約3m)という記述は、「近代土木遺産」による阿曽隧道の長さ52.5m、幅3.6mという緒元に近い。
だがイラストの隧道には石造の坑門は描かれていない。
これは高い確率で、隧道が竣工した当初は、現在ある凝った石造の坑門は存在しなかったことを示している。
この敦賀県が起工した利椋峠の換線工事について、さらに調べてみると、大正4(1915)年に敦賀郡役所が発行した「敦賀郡誌」に、次の写真や記述を見つけた。
道路の修鑿は明治九年、東浦道を開鑿す、従来金崎七曲道より鞠山に出でしを、此時永厳寺裏より道を開き田結に出づ、又阿曽に隧道を穿ち利椋峠道を廃す。
この記事(写真)により、私は初めて一次資料的なもので「阿曽隧道」の名前を知る事が出来た。
また新情報として、阿曽隧道を含む道路の名前は、当時「東浦道」と呼ばれていて、敦賀県庁や敦賀郡役所が置かれていた敦賀町(市制施行は昭和11年)と、郡内東浦村の杉津辺りまで、海岸沿いに結ぶ道であったということだ。
この道が開鑿されるまで、東浦の海岸沿いにまともな道は存在せず、五幡、阿曽、杉津などの集落へ陸路で行くためには、ウツロギ峠や利椋峠などを迂回する必要があるため、専ら敦賀湾を船で往来することが多かったらしい。(先ほどのイラストでも、海上に小さな和船が描かれていた)
なお、左の白黒写真に写っているのは、紛れもなく阿曽隧道の現役当時の姿であるが、現在のほぼ同じアングルで撮影された写真と比較すると、植物の逆襲の凄まじさに鼻血が出る。
以上のような明治初期の動きを、先ほども使った地図の上で追いかけてみよう。
明治10(1877)年の時点で、敦賀と杉津を結ぶ海岸道路である「東浦道」が、敦賀県の手で整備されていた。
開通当時の道路としての格付けについて明記した資料は未発見だが、国道や県道ではなかったようなので、消去法的に里道だったということになろう。
また、ややこしいのだが、この頃の敦賀一帯は県域の改廃が頻繁であったので、それにも触れないわけにはいかない。
まず東浦道を整備した敦賀県は、明治9(1876)年になって廃止され、木ノ芽山地の南側(嶺南)が滋賀県、北部(嶺北)が石川県とされていた。
そしてこの同じ時期は、現在の国道8号のルートへと繋がる新道整備が、「東浦道」の他にも生まれていた。
嶺北、すなわち当時石川県に属していた南条郡内においても、越前海岸方面に通じる新たな道の整備が進められていたのである。
この道は「春日野道」といい、明治5年から7年にかけて民間人の手で整備された賃取道路(有料道路)だった。
しかしまだこの時点では、「東浦道」と「春日野道」は、隣の県にある全く別の存在であった。
その後、県所属問題には紆余曲折があったが、最終的に明治14(1881)年に至り、現在と同じ県域を持つ福井県が出現した。
そしてこのことにより、嶺南と嶺北を結ぶ道路整備の気運が、にわかに盛り上がりを見せたのである。しかも、従来その役割を担っていた木ノ芽峠は、険阻で車道の開鑿を阻んだため、別のルートが模索されることになった。
「敦賀郡誌」をさらに読み進めると、次の記述がある。
敦賀道の開鑿は丹後道の修鑿と共に明治十八年度より二十年度に亘る三ヶ年の継続事業として、工費二十万円を投じて遂行せり。即今の道路にして、武生町にて北陸道に岐れ、春日野・阿曽・金崎三隧道を穿ちて金崎に出で、金崎停車場にて官設鉄道に接続す。此より嶺南嶺北車馬の往来自由となり、木芽峠の嶮路は頓に頽廃したり。
これは清水国道や万世大路に代表されるような馬車道路が各地で盛んに整備されていた時期だ。
新生したばかりの福井県がまず最重視したのが、武生で北陸道から分岐し敦賀へと至る「敦賀道」の整備であった。これは明治初期から続く県庁移転問題や県所属問題で冷え切った嶺北嶺南の県民感情を一つにまとめる為の和睦の道であるとともに、明治15(1882)年に東海道線の支線として開業していた金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)を通じて中央へ結ばれる産業道路であった。
この「敦賀道」の当時の格付けは仮定県道で、指定当初は木ノ芽峠を経由していたのだが、そこに新たな車道を開鑿するのではなく、敦賀県が既に整備していた「東浦道」と、福井県へ管理が移管されていた「春日野道」を一体化し、これらを再整備するプランが選ばれた。これは多額の補助金を国から獲得した福井県の一大事業であった。
そして明治20(1887)年までに整備されたのが、今回の阿曽隧道のほか、春日野隧道と金崎隧道という3本の隧道を含む、おおよそ36kmの馬車道だった。
阿曽隧道の坑門工や拡幅は、このときに行われたのだと考えられる。
しかし凄いのは、わが国に自動車が導入されたのは明治30年以降なのに、明治20年前後に整備された隧道が、昭和38年に至るまで、ほぼそのままの坑門で自動車を迎え入れていたという事実である。
偶然なのか意図的なのかは分からないが、尖頭アーチによって天井を高くしていたことが、自動車に対する適用と長命に繋がったのだろう。
同じ時代に整備された栗子山隧道などが出来なかったことをやってのけている。
また、「近代土木遺産」によると、阿曽隧道以外の2本も、なんと放物線アーチの巻き立てを持っているという。
こいつらは、いったい……。
仮定県道「敦賀道」の完成は、もしかしたら敦賀の住民が数百年ものあいだ渇望していたかも知れない、“北陸道の敦賀奪還”に向けて、大きな大きな前進であったと思う。
近世以来の国道である北国街道ルートは、人口の少ない山岳部を経由していたが、近代に入って大陸渡航港としての存在感を強め、かつ県内で最初に鉄道駅が置かれた嶺南第一の都会たる敦賀を経由しないことの不自然さは、時代が進むにつれて益々鮮明になっていったことだろう。
そうした状況に対する国の答えとして、明治37(1904)年に至ってついに、「敦賀道」が国道の指定を受ける事になった。
ただしこの時点では北陸道こと国道十八号線は従来通りで、新設された「舞鶴鎮守府ト第九師団トヲ拘聯スル路線
」こと国道五十三号が、「敦賀道」上に指定されたのである。
ただし、わが国の交通政策は、「敦賀道」の完成した後くらいから本格的に鉄道優先が貫かれるようになり、道路の整備は後手に回るようになった。
「敦賀道」と競合する北陸本線は明治29(1896)年に敦賀〜福井間を開業し、これによる交通量の減少もあったと思われる。
明治時代が幕を閉じ、大正時代になると、わが国初の体系的な道路制度を規定する旧「道路法」が制定された。
大正8(1919)年のことである。
そしてこの制度の変化に伴い、国道、府県道、以下全ての道の改変がなされた。
大正9(1920)年、そうして定められた新たな北陸道は、遂に敦賀へと帰ってきたのである。
それは「東京市ヨリ石川県庁所在地ニ達スル路線(乙)
」という役目を持った、国道十二号線であった。
また、それまでの国道五十三号の敦賀〜舞鶴間は、「東京市ヨリ舞鶴鎮守府所在地ニ達スル路線(乙)
」の役目を持った、国道三十五号線となった。
この“大正”国道十二号線はその後も使命を全うし、昭和27(1952)年に現行道路法の下では一級国道8号の一部となった。昭和40(1965)年には一般国道8号と改称されて現在に至る。
阿曽隧道が役目を終えたのは、この途中の昭和38(1963)年のことであった。
少し遡った昭和33年には春日野隧道も武生有料道路(現国道)によって置き換えられ、金崎隧道も昭和34年に新金ヶ崎隧道に置き換えられていた。
時代は国道に新たな装いを強制したが、それでもまだ足らず、昭和52(1977)年に並行路線となる北陸自動車道の武生〜敦賀間が開通している。
さすがに足りたかと思いきや、平成16(2004)年には平安時代以来の車両通行不能な峠だった木ノ芽峠にさえ、国道476号のトンネルが開通した。
さらには、やがてはウツロギ峠にも風穴がぶち抜かれる可能性があるだろう。北陸新幹線もあるだろうなぁ。
というわけで、敦賀の北陸道奪還と、福井県統一の道という、県交通史上の大きなうねりの中で、夏草にも溺れない燦然たる輝きを放つ小さな阿曽隧道より、お伝えいたしました!
この路線は、思いのほかアッツイ!